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2015-03-29 12:00

      

     真冬にひぐらしが鳴いた。ひぐらしのように聞こえたのであろうが、吐息の白さは零下を思わせる北向きの部屋の窓の外から確かに。

     

     目が覚めるとコップには薄氷が張っていた。ひぐらしの音は、なんであろう。耳を澄ませども音は小さくなるばかりで。大方、隣家の換気扇の回る音であろうと思うと急にしらけ、毛布に包まった。この厳冬にひぐらしが鳴いているという出来事は夢とも現とも知れず、昏い夜を滑っていった。

     音に過敏なフシがあって、僕は耳栓をつけて寝ている。それでも音は小さくなる程度なのでけたたましい音と共に国道を駆け抜けていくバイクの集団には幾度となく起こされてしまう。連中はいつ寝ているのだろうかなどと考えながらスタンドライトをつけては本を開いて過ぎゆくのを待ち、眠る。過ぎていくまでの間に本を読むことにしていると、不思議なもので活字が目に入ってくるだけで瞼が重くなっていく。その夜は低気圧が張り出して雪が降るという天気予報もあってか、町は小さな寝息をかき消されることもなく、絹地を広げたような静寂であった。

     その中で小さく、間も長くなる蜩の音を聴いていると永く時が留まったような気がした。ベットの背板に寄りかかり、しばらく経つとなんとなく感傷的な気分になって、学生の時分のひどく鬱屈した僕が帰ってきた。

     

     ――暗澹とした時間を過ごした。

     幼いころから美しいものに惹かれ、絵を書き始めた。

     



     生まれ育った町は電車のある駅まで2時間とかかる不便な町であった。街に出るともなれば瞬く間に周りにも伝わって、どこまで行くのやらと年寄りの噂になる。平成になってもそれほどの田舎であるので町というのが正しいのか村というのが正しいのかはわからないが確かに町なのである。そんな町にも良い所があって、四季を通して野山は草花の色彩にあふれていた。川に流れる水は人の暮らしと共にあって、米も野菜も忘れがたい味を引き出す。人が耕し、育てた作物を食べ、過ごせたことは幸せなことであろうと思う。

     四方を囲む野山はあるがままに有り、青々と茂る木々は緑青よりも深く、濃い一面の緑であった。すすきの風にそよぐ姿は柔らかく、山風は野をすり抜けて草の匂いに染まっていた。口の達者でなかった僕は鉛筆と紙とベニヤの端材を持って景色を観察しては写していた。来る日も書いていたけれど上手とは言えないスケッチを見て周りは「紙喰い虫」と揶揄していた。美術を理解していなかったが思ったままに書き続けた。そんな僕に友達は見つからずに中学校に入り、美術の授業で図書室にある画集から模写をするということを憶えた。毎日図書室に通ってあらかたを書いた所で美術の先生は僕の描いた模写を見て絵の基本を教えてくれた。僕は漠然とした自身を持って絵を描き、中学を卒業する頃には周りから絵が上手く書けると名が通ったことで自信をつけて僕は画壇に名を刻むのが当たり前と思っていたのであった。

     高校に入学する時分になると僕の町に新幹線の線路が通ることになった。生家は線路計画のお陰で新しい土地と家を買うに余りある金額を手に隣の街に引っ越すことになった。生まれ育った土地から離れて、暮らしていくことに思春期の僕は僅かながらに逡巡はあったものの進学先の高校が遠かったことから新たな生活を待ち望む希望がそれを追いやっていった。

     新居は駅から徒歩十分の立地に庭がついた一軒家で、進学先の高校にも電車に十五分程乗って歩くだけの好立地だった。前の家は計画を急ぐ思惑もあり、更地にされてしまったがそこから通っていたら片道四時間かかるところであった。自分の僥倖に思いを馳せながらもやはり後ろめたさがつきまとう。

     

     時に梅の花が咲いて薫り、人を鈍くさせる春先の風が強く吹きすさぶ日に父は僕を画塾に往くようにと日本画家の先生の処に連れて行った。なにしろ美術を学ぶには画塾に通わねばならぬと一方的に押し付けてきたので。我が家は慎ましく暮らす百姓であったのが成金となったので、文展に入選したという大層な老画家の元へと通うこととなったのである。

     「君、先生の処に伺うのは夕方だったかな。」

     母に投げかける父の言葉には先日までの訛りはなく、品性を感じさせるように出来る限りの標準語を日常に用いているのであった。

    「ええ、六時頃ならとご連絡をいただきました。なにかお包みしたほうがよろしいかしら。」

     ――と母もこの調子である。母は近頃まるで山の手の御令嬢であるかのような話し方をするようになった。心付けにいくら包もうかなどと考えていることなどを見れば程度が知れる成金であるが、画塾で絵を学ぶことが出来るという身分に僕がなったのだと思うと今までの自信がさらに拍車をかけて膨らみ、不安などは霧のごとく去っていった。



    ※これはフィクションです。
    それにしても文学部の学生でももっと上手く書くなぁ。


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