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  • 石原莞爾と東條英機:その38(1,909字)

    2024-03-04 06:009時間前
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    満州事変の直前まで、張学良は中国軍と手を結んで、満州鉄道の隣に新たな鉄道を建設し、これの実質無効化を計画していた。
    これが一つのきっかけとなって、日本軍はとうとう陰謀に打って出る。指揮をしたのは板垣征四郎で、作戦を立案したのは石原莞爾であった。

    ただこのとき、板垣と石原は、いかに蜜月の中であろうと、「満州の未来をどうするか」という事変の基本コンセプトについて、とことんまですり合わせたわけではなかった。それは、なにしろ作戦が成功するかも分からなかったから、そこまで先のことを話すのは「取らぬ狸の皮算用」で、あまりよろしくないというのがあったのだろう。

    しかし、ここでコンセプトを明確にすり合わせておかなかったことが、後々満州事変の「失敗」を招くことにもなる。コンセプトが不明確だったため、後から来た他の勢力に「コンセプトの乗っ取り」を許すのだ。

    そうして石原には、それを跳ね返すだけの膂力、また求心
  • 庭について:その67(1,739字)

    2024-03-01 06:00
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    今気づいたのだが、「桂離宮」と「千利休」は、字や意味は全く違うけれども、ともに同じ「りきゅう」である。「りきゅう」という語感は、庭と深い縁があるのかもしれない。

    「離宮」は「皇居の別に設けられた宮殿」という意味だ。つまり桂離宮は天皇の別邸だった。ただし「離宮」と呼ばれるようになったのは明治になってからで、できた当時は「別業」と呼ばれていた。別業とは別荘という意味である。桂にある天皇の別荘なので、「桂別業」というわけだ。

    桂離宮が建てられたのは17世紀の初頭、1615年頃、つまり江戸時代に入ってすぐの頃である。場所は、京都の西に流れる桂川の、やや上流の西岸沿いである。
    昔は、鴨川と桂川のあいだがいわゆる「都」で、川を渡るとそこは「郊外」とされた。桂離宮は、その桂川を渡った外側にあるので郊外である。

    桂離宮のある場所(京都市西京区桂)は、それ以前から貴族の別荘地として有名だった。郊外から京都の
  • 1994:その5(1,909字)

    2024-02-29 06:005
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    1994年の若者を象徴するものといえば、まずは「ルーズソックス」である。次に「渋谷」であり、「援助交際」だ。「テレクラ」ブームもあった。いわゆる「女子高生ブーム」だった。渋谷の街をルーズソックスの女子高生たちがポケベル片手に闊歩していた。

    1994年に17歳ということは1977年生まれである。小学生の頃にバブル社会だったが、中学になってそれが弾けた。そして高校生になる頃から、経済がおかしくなり始める。
    この世代は「ポスト団塊ジュニア」とも呼ばれる。団塊ジュニアの少し後に生まれた世代だ。1975年から1981年生まれくらいを指す。

    なぜこの世代の子供たちは「絶望」していたのか? それは、バブル崩壊で経済が落ち込んだということ以上に「学校が完全に崩壊していたこと」が大きい。
    日本の学校(教育)には、潮目が180度変わった巨大な転換点がある。それは「金属バット殺人事件」だ。

    1980年11月、受