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庭について:その21(1,717字)
2023-03-17 06:00110ptブリッジマンがストウ庭園の配置・構成を徐々に非科学的、自然的に整えていったところに、ケント・ウィリアムスが庭師として参加する。そこで彼は、これまでの経験を活かしてストウ庭園を「ピクチャレスク」に仕上げていくのだ。
ケントの考える「ピクチャレスク」とは、ローマで見たルネサンス期における古典主義絵画のようなもの。すなわち、生い茂った自然の中に古代の遺物がひっそりと佇んでいる、えもいわれぬ「エモい」風景だ。ケントは、そのエモさを人工的に再現しようと、なんと庭の中に「新しい遺跡」を次々と建てていった。
その中には、ギリシア・ローマ風の神殿やモニュメント、石像や橋などがあった。それらの石でできた建築物を、生い茂る草花の中にポツンポツンと独立して配置していくのだ。そうすることで、すぐに生い茂る自然に覆われ、適度に「古び」ていった。そのため、遺跡としての風合いを醸し出すようになるのだ。
そんなふうに、ケ -
お金にまつわる思考実験:その20(1,761字)
2023-03-16 06:00110pt大局的に見ると、世の中は概ね「便利」な方向へと流れている。江戸時代のように「あえて不便にする」という施策が採られることもあるが、それらは最終的には潰えてきた。便利さの前に敗れ去った。そうして、より便利な方へ流れてきた。それがこれまでの人類の歴史だった。
その歴史を踏まえると、これからもずっと(それこそ人類が絶滅するまで)人は便利さを希求するのではないかと予測する。それを踏まえた上で、今世の中の「不便さ」として立ちはだかっているものを考えると、一番に浮かび上がるのは「国家」である。あるいは、お金に関していえば各国の通貨だ。それが、現代の便利さを阻む最大の壁となっている。
例えば、国家があるおかげで「関税」が存在する。関税は、競争力のない自国の産業を守るために設けられる。そのため、国が守ろうとする産業は、競争力がないまま存続してしまう。そうして国民は、適切なサービスを得ることができない。もっと -
[Q&A]東日本大震災から12年が経過したことについて(2,536字)
2023-03-15 06:00110pt[質問]
東日本大震災から3月11日で12年が経過しましたが、ハックルさんは今、このできごとをどのように振り返られますか?
[回答]
震災が起きた当時は『もしドラ』がヒットの真最中で忙しくしており、当日も講演で香川県高松市に行っていました。震災が起きたまさにそのとき、講演中だったのです。
高松はもちろん揺れませんでしたが、講演をしたホテルの目の前が瀬戸内海で、控え室の窓からは海がよく見えました。その波のほとんどない瀬戸内海と遠くではありますがつながっている東北の太平洋岸で、街を建物ごと飲み込むような巨大な津波が起こっている。控え室のテレビは、くり返しその映像を流し続けていました。
それを見ながらぼくが思ったのは、こういってはなんですが、人生の儚さです。ぼくは普段からそのことをよく口にはしていましたが、それでもつい忙しい日常の中で忘れてしまい、人生や自分を特別視してしまいます。永遠に失われな -
令和日本経済の行方:その37(2,026字)
2023-03-14 06:00110pt「人型ロボット」というとまず思い浮かぶのがボストン・ダイナミクス社だ。
ボストン・ダイナミクスは1992年にロボットとAIの研究をしていたMITのマーク・レイバートによって創設された。
当初は主に軍需産業向けのソフトウェアの研究開発を行っていたが、2008年にYouTubeチャンネルをスタートし、そこで物理的な犬型及び人型ロボットの試作機を積極的に公開し始める。
すると、そのリアリスティックな動きと高度な性能が人々を驚かせ、一気に有名になる。ボストン・ダイナミクスは、まずネットで大きな知名度を得るのだ。
そこから数年後の2013年、Googleに買収される。当時のGoogleは業績が好調で、不確定な未来への投資としてさまざまな起業を買収しており、ボストン・ダイナミクスもその一つだった。
しかし2016年、これをソフトバンクグループに売る。というのも、この時期のGoogleは「拡大」から「選 -
マンガのはじまり:その22(1,473字)
2023-03-13 06:00110pt2一平がヨーロッパに移住したのは1929年(昭和4年)。そこから2年ほど在留し、1932年に帰国する。
その後、1936年に朝日新聞社を退き、仏教の研究に打ち込んだり、和歌や戯曲を書いたりするようになった。
この頃、かの子も川端康成の指導を仰ぎながら文学の道に突き進む。二人して芸術と格闘する時代に突入するのだ。
二人は、お金にこそ不自由することはなかったが、心は苦しかった。愛とは何か、また生きるとは何かということが分からず、もがき苦しんでいた。
長男の太郎はヨーロッパにとどまったままだったので、ずいぶんと疎遠になった。かの子は、小説を書きながら、一方では何人もの愛人たちと関係を持った。一平はそれらを全て許してはいたが、しかし自分の心の置き所というものがなかなか見つけられなかった。
それで一平は漫画の連載はほどほどに、仏教と文学にのめり込む。ところが1939年、その苦闘のパートナーであったかの -
高校生との対話(2,461字)
2023-03-10 06:00110pt先日高校生と対話する機会があったので、今回は連載をお休みし、そのことについて書いてみたい。
高校時代の友人の仲介で、鹿児島県の与論島にある与論高校へ講演に行ってきた。その後、有志の生徒と懇談会をした。
そこでぼくがした話は、「これからの時代の生き方」についてだ。特に、若いうちに恋愛、遊び、お金について、しっかり知識と経験を積んでおかなければならない――という話をした。
なぜかというと、日本人には恋愛、遊び、お金を苦手な人が多い。しかしこれらが苦手だと、40代以降に苦労するからだ。どう苦労するかというと、スキルがないまま恋愛し、心を回復不可能なくらいに傷つける。最悪自殺する。遊びも、のめり込みすぎて心身に不調をきたし、やがて死ぬ。お金の枯渇は、文字通り命にかかわる。
そこで、これから始まる10代後半、あるいは20代のうちに、しっかりと恋愛を経験し、遊びのスキルを積んで、お金の知識を得る。そう -
お金にまつわる思考実験:その19(1,763字)
2023-03-09 06:00110pt信用が担保されれば、取引は活性化する。そして取引が活性化すれば、経済は伸張し、人間ひとりひとりの生活レベルが向上する。
そのためコンピューター(とインターネット)は、人々の信用を担保するよう進化してきた。その結果、取引は見事に活性化し、経済は全世界的に一段と拡大したのだ。
しかし、その伸張はここに来て足踏みしている。なぜかというと、そのネットワークの規模が国家レベルにまで拡大したからだ。そうして、国家という既存の枠組みに突き当たった。そこに抵抗が生まれ、拡大のスピードが鈍化したのだ。
去年、いわゆるGAFAはどこも売上げを落とした。それは、コロナで業績が急拡大したことの反動が一番の理由だと考えられている。
しかしぼくは、もう一つの理由の方が、実は大きいと思っている。その「もう一つの理由」とは、GAFAの拡大が国家の壁に突き当たったということだ。つまり、国家に邪魔をされ、これ以上人々の信用を -
[Q&A]ネットはなぜ暗いニュースばかりなのか?(2.012字)
2023-03-08 06:00110pt[質問]
ネットを見ると暗いニュースばかりのように見えますが、一歩外に出るとそんなことはありません。友だちたちはあれこれと希望を語りますし、街を見渡しても、楽しそうに歩いている人たちがたくさんいます。この落差は一体どこから来るのでしょうか?
[回答]
難しい質問ですね。日本では今……というより昔から、ネットが日本人の心の本音の部分、すなわちそれは負の部分を吐き出してもいい場所として成立していることがあると思います。
令和5年になっても、日本人はいまだに本音と建前を使い分けています。表立っては言いたいことが言えず、そのことによる不満が内部に燻り続けているのです。
そのため、日本人は他国の人より内面に負の感情を溜め込みやすいところがあるのですが、ネットが開始初期からその吐き出し口になってしまった。そうして、現実とは別のネットの裏の顔を持つ人が増えてしまったのです。
そのことが、ネットを見ると暗 -
令和日本経済の行方:その36(1,648字)
2023-03-07 06:00110pt令和日本には新しい建築・移動・教育が求められている。それが開発されないことには、経済の伸張も覚束ないだろう。
そもそも日本は人口が減少し続けているので、閉塞感が著しい。人口減少は100年も経てばやがて収まるだろうが、それまでの時間をどのように乗り切っていくのか、重い課題が突きつけられている。
経済というのは、実は人々の心理に影響されるところが大きい。解放された気分であれば伸びるし、閉塞した気分であれば縮む。「景気がいい」とは、「人々が物を買いたい気持ちになっている」という意味でもある。だから「景気よくいこう」というのは、文字通り「元気を出そう」という意味なのだ。
そして、元気を出すという意味においても建築・移動・教育の新しい発明――イノベーションは重要だ。これらに限らず、近年人々がイノベーションを強く求めるようになったのは、イノベーションが人々を元気にした実例がいくつも生まれたからだろう。 -
マンガのはじまり:その21(1,741字)
2023-03-06 06:00110pt岡本一平は1929年5月(昭和4年)、『一平全集』を刊行する。これが予約だけで5万部も売れるほどの大ヒット。おかげで一挙にお金持ちになり、生活は一変する。一平43歳のときであった。
このすぐ後の同年12月にフランスに移住し、そこから約3年近く、ヨーロッパを周遊するのだ。しかもこのとき、一平は家族も連れていく。妻のかの子と息子の太郎に加え、かの子の愛人(しかも2人!)も連れていったので、計5人での移住となった。
このとき、一平は朝日新聞の記者でもあったから、フランスへは「特派員」という名目で行った。実際、1930年にロンドンで行われた海軍軍縮会議を取材するという目的もあった。
1929年は、ちょうど世界恐慌が起き、世界各国の経済が大混乱に陥っていた。そのため、どの国も戦争をするだけの余裕がなくなり、窮余の策として軍縮の調停を結ぶこととなったのだ。
恐慌は、もちろん日本にも襲いかかった。しかも
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