• このエントリーをはてなブックマークに追加

記事 22件
  • [Q&A]子供が嫌いという人の気持ちが理解できません(2,236字)

    2025-04-30 06:09  
    110pt
    [質問]
    野球のことに全く興味のない人に野球の話をする機会があったのですが、話が上滑りしてうまくいきませんでした。ハックルさんがある事柄を興味のない人にも面白がってもらえるように話すためにはどのような工夫をされますか?

    [回答]
    これは、ぼくは得意かも知れません。ぼくが興味のない人にも興味を持ってもらうために話す手段としては、まず自分のことを話すということがあります。いわゆる自己紹介ですね。世の中に自己紹介を嫌いな人はいません。ですから、自己紹介を兼ねて話すのです。

    例えばぼくは、11歳だった1979年の夏休み、友だち数人と遊ぶ約束をしていたので、その中の一人の家に行きました。そこで最初はみんなで遊んでいたのですが、たまたまついていたその家のリビングのテレビに高校野球が映し出されていて、何気なく見ているうちに釘付けになってしまいました。

    そうして他の遊んでいる友だちを放っておいて、ぼ

    記事を読む»

  • 本質的に生きる方法:その28(2,037字)

    2025-04-29 06:00  
    110pt
    1
    「新しい時代」がもう来ている。それは組織社会の終焉だ。企業の終わりである。代わりに個人時代の始まりだ。そして能力主義を超越した「超能力主義社会」になる。

    その超能力の主役は「非言語能力」だ。非認知能力といってもいい。なぜなら言語や認知は、コンピューターに取って代わられるからだ。

    これによって人間関係の在り方も変わる。近代革命以降は広く浅くだった。近代社会が深まるに連れ、人間関係はどんどん希薄になっていった。

    その究極の姿が今の都心を走る満員電車である。山手線のターミナル駅では毎日何万人もの知らない人と出会うが、彼らとの関係は驚くほど希薄である。皆ほとんどいないものとして素通りしていく。

    しかしこれからは「狭く深く」なる。これまでは、全く気の合わない会社の同僚やクラスメイトとも上手くつき合わなければならなかった。そのためのプロトコルが開発された。いわゆる「マナー」である。

    しかしこ

    記事を読む»

  • 石原莞爾と東條英機:その82(1,759字)

    2025-04-28 06:00  
    110pt
    ぼく自身はここまで書いてきて第二次大戦のことがようやく分かってきた。連載82回を重ねてようやく見えてくるものがある。これを現代人が理解するのはまず無理だ。到底不可能といっていいだろう。よっぽど近代史に純粋な興味のある人しか理解できない。思想的な思惑が挟まっては全く理解できなくなる。

    東條英機はこのときまで強運の連続だった。久留米でクビ寸前だったのが永田鉄山の死で鮮やかに蘇る。支那事変のときにたまたま満州に居合わせ、遠征軍を指揮して軍功を上げる。その後、政治的な思惑から事務次官に取り上げられ、拡大派の神輿として最後は敵と差し違えてクビになるという、ある意味では立派な政治的最期を(一旦は)遂げる。

    そうしてノモンハン事件、独ソ不可侵条約、第一次世界大戦の勃発という日本史を揺るがすできごとが三つも起こった1940年、閑職にいて、全ての責任を免れるのである。

    「東條は持っている」

    このとき

    記事を読む»

  • 野球道とは負けることと見つけたり:その24(1,756字)

    2025-04-25 06:00  
    110pt
    蔦文也は長い間勝てずにいたため練習後はさまざまな問題を起こすほど毎夜酔っ払っていたが、翌日の早朝には必ず起きて自転車で町内を巡るのが日課だった。町内を自転車で走る文也の姿を多くの人も認めている。

    それから徒歩で5分ほどの池高グラウンドに行って自分が整備する。文也はグラウンドを整備するのが好きだった。自分では「人がおらなんで自分がする以外ない」と嘯いていたが、なかなか他人に任せようとはしなかった。文也はグラウンドを愛でるように整備した。それはグラウンド整備が好きというよりも、野球にかかわる何もかもが好きだからという感じだった。

    それから生徒たちがやってきて練習を始める。文也は彼らにきつい練習を課しきつい態度で臨んだが、かといって細かい指示はほとんどしなかった。いつも独り言のように言いっぱなしで返事すら求めなかった。それはほとんど指導になっていなかった。コミュニケーションにさえなっていなか

    記事を読む»

  • 1994:その49(1,888字)

    2025-04-24 06:00  
    110pt
    ぼくは1993年のクリスマスに日本を飛び立ち、まずはニューヨークへ行った。そこでバハマ便にトランジットするためだ。

    その行きの便は、ぼく一人だった。秋元さんをはじめとする諸先輩方は、その前日のクリスマス・イブにすでにバハマに向けて旅立っていた。

    なぜぼくだけ遅れたかといえば、クリスマス・イブの日にどうしても外せない仕事があったからだ。ぼくはまだ駆け出しの放送作家見習いだったので、仕事を休んで旅行に行くことはできなかった。

    ニューヨークへの国際線はJFK空港に着いた。そしてバハマへの便はラガーディア空港から出ていた。だからぼくはJFKからラガーディアまで移動する必要があった。
    ただし乗り継ぎ時間はたっぷり12時間あったので、ぼくはラガーディアに行く前に、バスでマンハッタンの中心部まで行き、束の間のニューヨーク旅行を楽しんだ。

    といってもお金がなかったから、ただ街をフラフラと歩くだけだ

    記事を読む»

  • [Q&A]ハラスメントを避けるためにはどうすればいいか?(2,021字)

    2025-04-23 06:00  
    110pt
    [質問]
    悩みというほどの悩みではないですが妥協するときの基準点が悩ましいです。昔は完璧主義で限界まで突き進んでたんですがそれで何度か潰れ完璧主義の限界を知りました。そこからは妥協点を見出すように努力するようになったのですが、その際の見極めでいつも悩みます。ここらで妥協した方がいいのかなと思いつつもダラダラと続けて結局時間を無駄にしたということがしばしばです。岩崎さんは妥協点を見出す時の基準などありますか? ありましたらお教えいただけると幸いです。

    [回答]
    ぼくは不思議と昔から完璧主義ではありませんでした。それは体力が限界に達するとすぐに気力も限界に達し、それ以上何もできなくなるからです。

    例えば大学の卒業制作で、テーマ発表のときにぼくは学内で一位でした。ところが実際の制作ではビリで、なんとかギリギリ通りました。それで先生に「君はテーマは良かったのになんでこんな適当なものを作ってくる

    記事を読む»

  • 本質的に生きる方法:その27(1,683字)

    2025-04-22 06:00  
    110pt
    人間と道具の関係は計り知れないほど深い。「旧石器時代」という言葉があるように、人間はその最初期から道具を使っていたことが確認されている。人間はそもそも「道具を使う生き物」なのだ。

    なぜ道具を使うかといえば、それは「手」と深く関係している。人間の手が、そもそも道具を使うためにこれ以上ない形をしているのだ。
    いや、逆にいえば人間の手が道具的なのである。人間の意思によってさまざまな形で動かせる。こうした部位は実は他にほとんどない。

    人間が自分の意思で動かせるのは手足と首、そして顔ぐらいである。ときどき大胸筋を動かせる人もいるが、限られている。内臓を動かせる人はほとんどいない。

    そしてそんな限られた動かせる部位の中でも、取り分け指だけが制御精度が桁違いに高い。だから人間は、どうしたって指を中心とした生活になる。指を中心とした生き方になる。

    人間の手は何より者をつかむのに便利である。特に土を

    記事を読む»

  • 石原莞爾と東條英機:その81(1,954字)

    2025-04-21 06:00  
    110pt
    1938年12月、東條英機は多田駿を道連れにする形で陸軍次官をクビになり、陸軍航空総監に就任する。再びの閑職であったが、この頃は戦争における飛行機の重要性がにわかに高まっている時期でもあった。つまり未来の成長産業の長に、たまたまこのとき収まるのである。

    そして1939年になる。太平洋戦争開戦の約3年前だ。この年に、日本にとっては実にいろんなできごとが起こる。

    まずノモンハン事件である。「ノモンハン事件」とは、満州国とモンゴル人民共和国の国境線を巡って、日本軍とソ連軍がぶつかった事件だ。国の軍隊同士が戦ったが、両国が「これは戦争ではない」としたため「事件」と呼ばれる。ノモンハンとは、そのぶつかり合いのあった土地の名前である。

    ただし「ノモンハン事件」は満州国側(日本側)の名称で、ソ連側はこれを「ハルハ河戦役」と呼んでいる。ハルハ河を国境とするか否かで争ったからだ。そのため西洋諸国では、

    記事を読む»

  • 野球道とは負けることと見つけたり:その23(1,635字)

    2025-04-18 06:00  
    110pt
    1971年、蔦文也は48歳になっていた。池田高校の野球部監督に就任してからちょうど20年目である。このときまでに何度となく「甲子園まであと一勝」のところに迫りながら、出場を果たすことができていなかった。おかげで、周囲からは常に「蔦文也厳戒論」がささやかれていた。
    それに加えて酒席のトラブルも多かった。文也が酒を飲む理由は勝てないからというのが大きかった。とにかく負けると悔しいので、飲まずにいられない。憂さをはらすための酒だから、身体に良くないのは自明のことである。
    それでも文也の身体は頑健で、この頃までにはほとんど病気をしたことがなかった。二日酔いでグラウンドに行っても、ノックをしながら汗をかき、酔いを醒ますという感じだった。
    文也の毎日は規則正しかった。規則正しく酒を飲んだが、それで翌日に遅刻するということはなかった。誰よりも早くグラウンドにやってきて、文也自らが整備をした。
    それは部員

    記事を読む»

  • 1994:その48(1,694字)

    2025-04-17 06:00  
    110pt
    1
    そろそろこの連載も終盤に近づいてきた。
    1994年は今から31年前である。そのときぼくは26歳だった。26歳になる年だった。その年に何が起きたのか、振り返ってみたい。
    ぼくは1991年に大学を卒業して社会に出た。秋元康さんの会社で最初の1年はADをしていたが、1992年度つまり1992年の4月から放送作家見習いに転籍して働き始めた。
    放送作家見習いは会社員ではないから文字通りの丁稚奉公だ。会社に寝泊まりしてみんなの手伝いなどをしながら、ご飯を奢ってもらったり細かな仕事をもらったりして食いつないでいた。
    当時はとにかく金がなかったが、それだけに歯を食いしばって頑張っていた。1992年も1993年もなかなか芽は出なかったが、それでも石にかじりついて飛躍のチャンスをうかがっていた。
    そんなぼくに転機が訪れたのは1993年の暮れである。つまり放送作家見習いを始めてから1年と9ヶ月が経過したときだ。

    記事を読む»