今週、心を痛めずにはいられないニュースがあった。


これについて、思うことを述べたい。

父親は、離婚した後の初めての面会の日に娘を殺した後自殺したそうだが、この事件について言いたいことがある。
この件、誤解している人も多い。というのは、「面会したことが殺害の原因になっている」と思っている人が多いのだ。

しかし実態は、その逆である。父親は、娘と会えない(面会時間があまりにも短い)ことに絶望して殺したのだ。

面会日というのは月1回である。普通は、だいたい3時間と決まっている。
そしてこのたった3時間の面会が決まるのさえ、家庭裁判所の調停など紆余曲折があって大変なのだ。

まず母親が会わせようとしないし、裁判所での気まずい話し合いの末に命令で仕方なく会わせるとなった後も、さんざん嫌みやを言われたり嫌がらせをされたりする。
そういう大変な苦労の末、会えるのがたったの3時間。そしてその3時間自体は楽しいかもしれないが、別れるときがまた地獄なのだ。「これからまた1ヶ月も会えない」と考えると、死んでしまいたいほどの絶望に襲われるのである。

これが「また明日会える」となったり「会いたいときにいつでも会える」となったりすると、そうした絶望はない。欧米は母親が子どもを独占することはないからこの手のトラブルは起きにくいのだが、日本はなぜか杓子定規に父親が子どもと会うことを制限するので、こうしたトラブルはけっして少なくない。

父親の絶望はもう一つある。それは「母親が自分の悪口を子どもに吹き込む」ということである。あるいは、それについて直接的、間接的に脅されることだ。

父親は、1ヶ月のうち会えるのがたった3時間。一方母親は、その3時間以外はいつでも自由に会える。だから、言葉は悪いが「洗脳」は簡単なのだ。子どもに父親の悪口をあることないこと吹き込むだけで、彼らはすぐに、そして簡単に父親のことが嫌いになる。

母親は、それを父親への武器にできる。具体的に言葉にしなくても、「変なことをしたらあなたの悪口を子どもに吹き込むからね」と雰囲気で脅すこともできる。
そうなると、父親にはもう手出ししようがない。あとは絶望しかない。子どもと会えないだけならまだしも、愛する子どもに嫌われたり、あるいは憎まれたりするということは、想像をはるかに凌駕した艱難辛苦なのだ。こうなると、もうそれへの対抗手段は「子どもを殺す以外ない」となってしまうのである。

日本の離婚した父親は、法律的には誰も助けてくれない。そして世間も助けてくれない。八方塞がりなのである。つまり絶望である。「追い詰められる」とはこのことだ。

「窮鼠猫を噛む」の諺通り、本当に追い詰められた人間には「攻撃」しか手段が残されていない。もはや話し合いの余地はないと、暴力に訴えるしかなくなるのだ。

皮肉なことに、彼らにとって一番の弱みは「子どもを愛している」ということだ。これが子どもを愛していなかったら、この手の苦しみは味わう必要がない。子どもを愛しているからこそ、かえって苦しみが募るのである。

また、結婚時に暴力を振るったり浮気をしたりといった明確な非のあった父親の場合は、まだ救いがある。なぜなら「自業自得」と自分を納得させられるからだ。
しかしそうした明確な非がない場合は最悪である。恨みと苛立ち、そして絶望が募っていく。「どうして自分はこんな目に遭わなければならないのか」と他者への攻撃心が際限なく増幅していくのだ。

そういう父親を、やはりどう考えても作るべきではない。それは本人のためにも、そして彼の子どもをはじめとする周囲のためにも、そうするべきではない。
そういう父親を作らないためには、法律も、世間の考えも変えていくべきだ。

具体的には、父親には一年365日、いつでも会える権利を確保すべきである。そしてたとえ離婚しても、父親を白眼視しないという世間の目を、もっと醸成していくことも必要だ。

ほとんどの夫婦の離婚は、夫婦双方に理由がある。あるいは、もし父親に重大な非があったとしても、子どもに暴力を振るった場合以外は、子どもと自由に会う権利を彼から奪うべきではない。

ぼくは、これで本当に苦しめられた。具体的には、二度の自殺未遂に追い込まれた。
ぼくは、もうぼくのような父親を作りたくない。また、この事件のような父親を作りたくない。

これを読んでくれた人たちには、ぜひこのことを考えてほしい。これを読んで反論を抱く方ももちろんいるだろうが、そうしたことは予想しつつも、多くの人に「離婚した父親の実際の状況や気持ち」を知っていただくことはだいじだと考え、議論のきっかけにしてほしくこの記事を書きました。