今日は、屋久島の南側にあるモッチョム岳という山に登る予定だった。
モッチョム岳は、なんでも「屋久島三大岩壁」の一つで、標高が一番高いわけではないのだが、屋久島を象徴する山らしい。

ぼくは、18年前に来た時にこの山に登った。それは、ロケハンの題材となった本「エコロジーって何だろう?」の中の印象的な場面として、モッチョム岳が登場するからだ。主人公の女の子が、この山に登るのである。
それで、ぼくも登らないわけにはいかなかった。せっかくロケハンに来たのに、モッチョム岳を登らずに帰ったのでは怒られると思ったのだ。18年前に登ったのは、そういう仕事の「義務感」からだった。

さて、しかし18年前の時は、そうしていざ登ってみると、なかなか楽しかった。登り降りで6時間ほどかかったのだけれど、それはちょうど良い「瞑想」の時間となったのだ。
ぼくは、散歩を趣味としているくらいだから、普段から積極的に歩いてはいるけれども、しかしそれは、時間にすると1日約30分くらいなので、はっきりいって運動不足であることは否めない。そんなぼくにとって、6時間も歩き続ける――それも山道を登り降りするというのは、はっきりいってとても苦しかった。

しかしそれは、耐えられない苦しさ――というほどでもなかった。これ以上長かったらさすがにノックダウンしてしまったかもしれないないが、6時間くらいだと、なんとか持ちこたえることができたのである。きちんと踏破できたのだ。

そのためそこで、非常に気持ちのいい達成感と爽快感を、得ることができるのである。
また、歩いている最中は適度に苦しいので、自然と、深い物思いにとらわれる。そこで、苦しさによって普段心にまとっている鎧のようなものがぽろぽろとはがれ落ちていくので、その奥に隠れていた深層の物思いといったものにも、出会うことができたのだ。
いうならば、質のいい「瞑想状態」を、そこで得ることができたのだ。おかげで、登り降りした後には、ちょっとした修行を通過した僧のような心境さえ得られた。

それが、得がたい体験だったのである。ぼくが18年前の屋久島滞在を印象的に覚えているのも、このモッチョム岳に登ったことによって、深い瞑想状態を得られたことが大きかったかもしれない。
当時、ぼくは最初の奥さんとつき合っていて、彼女とは結婚も考えていた。また、放送作家としての仕事がようやく軌道に乗り始めたところで、これからやりたいことの夢や希望があれこれとふくらんでいる時期だった。

つまり、人生の大きな転機に差し掛かっていて、いろいろと考えることが多かったのだ。それらの考えが、モッチョム岳に登り、そこで瞑想状態を得たことによって、かなり整理されたのである。
そのことが、屋久島紀行において最も印象的だったというのみならず、おそらく、ぼくの人生のその後の行方のようなものも、大きく左右したのではないか――今なら、そう振り返ることもできるのである。