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「死ぬほどの体験」というのは、人を確実に変える。目の曇りを取り除かせ、世の中の実相を見られるようになる。
ぼくは、昔から「死ぬほどの体験をした人のドキュメンタリー」を見るのが好きだ。そういう人は、やはりどこか違う。
例えば、小児癌患者のドキュメンタリーなどは特に印象に残っているのだが、そこでは子供がどんどん透明な存在になっていく。虚飾が剥ぎ取られて、人間の芯がむき出しになっていくのだ。
人間の芯は透明である。それは、人間が本質的には「筒」のようなものだからだ。
人間は、本質的には「声の増幅機関」であり、メガホンに近いと言えよう。入ってきた声を、少し大きな音に変換してアウトプットするだけの存在だ。
だから、芯がない。芯がないのが人間の芯なのだが、それがすなわち透明という意味だ。
死ぬほどの体験をした人間は、どんどん透明になっていく。つまり、メガホンの通りが良くなるのだ。おかげで、向こう側が透
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僕も大学生の頃にエリ・ヴィーゼルの「夜」や、キューブラー・ロスの著作をくりかえし読んでいました。
岩崎夏海(著者)
>>1
大学は、小説を「体験」するには最適な時代かもしれないですね。赤川次郎が昔、「小説を読むことは体験以上で、たとえば小説で読んだときはあんなにドキドキしたのに、実際に体験してみたら大したことがなかった、というのがよくある」ということをエッセイに書いていました。ぼくは、これははっきりとは書かれていませんでしたが、おそらくセックスのことだと思います。それはさておき、小説が現実以上の体験になるというのは頷けることで、「所詮は小説」などという人は、単に小説の読み方が分かっていないだけでしょうね。