ハックルベリーに会いに行く
野球道とは負けることと見つけたり:その8(1,735字)
蔦文也は1923年の生まれだが、よくよく考えるとぼくの母方の祖母が1923年の生まれであった。祖母の苦労はなんとなく知っているので、蔦文也の苦労もまた実感できるようになった。
戦争は1941年に始まり1945年に終わった。この4年間は、文也にとって18歳から22歳という最も多感な時期だった。しかも特攻隊員だったのだ。これ以上の「地獄」はなかなかないだろう。
1945年8月15日、文也は特攻隊員として玉音放送を聞く。最後は奈良の大和海軍航空隊「神風特別攻撃隊千早隊」に所属していた。先述のように、終戦するとすぐに同志社に復学している。
それから1年後の1846年9月、文也は晴れて同志社大学を卒業。ただし、終戦直後で世の中は混乱して、経済は逼迫しており、先行きは全く見通せなかった。
それでも、世の中は明るい空気に満ちていた。それは、戦争の4年間があまりにも暗かったからだ。それに比べれば、混乱
コメント
コメントを書くなんかすごくいいですね。面白そうです
>>1
ありがとうございます!