石原莞爾は武藤章ら対中国強硬派の満州組からは敬遠されるようになっていたが、二・二六事件での活躍もあって、中央部ではまだ高い影響力を保持していた。

そんなとき、広田内閣が瓦解し、新しい総理大臣として元陸軍の宇垣一成が天皇から指名された。これに対して、石原が妨害工作へと動くのである。
後に石原は、この妨害工作を「自分の人生の中でも一番の失敗」あるいは「最大の後悔」として挙げている。理由は、宇垣内閣が流産したことで陸軍の力がますます強まり、結果的に暴走を許して、対中国の戦争が始まってしまったからだ。これは石原の構想とは真逆だった。

石原は中国との戦争は何が何でも避けたかった。そして、軍縮に積極的な宇垣なら、これをなし遂げられたかも知れなかった。だから石原は、中国で戦争を起こさないためには、本来なら宇垣を積極的に支援しなければならなかったのだ。

しかし石原は逆のことをした。陸軍のいつもの政治工作で