ハックルベリーに会いに行く
蔦文也は1952年から1971年まで、甲子園に出られなかった。年齢でいうと29歳から48歳である。丸々20年間、ずっと苦しんでいた。そうして50歳を目前に、とうとう念願が叶ったのだ。
その間に時代もうつろった。1952年というと、朝鮮戦争特需でちょうど高度経済成長が始まった頃である。この頃は人口も経済も伸びて、日本には活気があった。徳島池田町も大いに盛り上がっていたことだろう。
その盛り上がる波に乗って、池田高校も町から大きな支援を受けた。この支援なしに、蔦文也の20年間はなかった。
直裁に言うと、蔦文也は日本の最も裕福な20年間に、その裕福さを満喫した田舎で高校野球の監督をしていた。当時は都会よりむしろ田舎の方が裕福だったし高度経済成長の主役だった。日本の典型的な田舎である池田町も、よっぽど賑わっていたことだろう。
文也は、生まれ育った時代環境は劣悪だったが、監督をしていた時代は環境に恵
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