
野球道とは負けることと見つけたり:その23(1,635字)
1971年、蔦文也は48歳になっていた。池田高校の野球部監督に就任してからちょうど20年目である。このときまでに何度となく「甲子園まであと一勝」のところに迫りながら、出場を果たすことができていなかった。おかげで、周囲からは常に「蔦文也厳戒論」がささやかれていた。
それに加えて酒席のトラブルも多かった。文也が酒を飲む理由は勝てないからというのが大きかった。とにかく負けると悔しいので、飲まずにいられない。憂さをはらすための酒だから、身体に良くないのは自明のことである。
それでも文也の身体は頑健で、この頃までにはほとんど病気をしたことがなかった。二日酔いでグラウンドに行っても、ノックをしながら汗をかき、酔いを醒ますという感じだった。
文也の毎日は規則正しかった。規則正しく酒を飲んだが、それで翌日に遅刻するということはなかった。誰よりも早くグラウンドにやってきて、文也自らが整備をした。
それは部員
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