蔦文也は池田町の出身ではあるが、実は徳島市内で生まれ育った。今の徳島大学の近くである。なぜかというと父親が徳島市内で教師をしていたからだ。文也が子供の頃は、後に文也が進学することになる徳島商業で教えていた。

文也の父方の祖父母が池田町に住んでいた。蔦家は江戸時代から三代続いた刻み煙草の問屋だった。祖谷地方で採れる煙草を集積し、徳島市まで運ぶ仕事をしていた。祖谷の煙草は吸い口がいいと、徳島県下では人気だった。おかげで蔦家はずいぶん栄え、この頃には大きな屋敷を構えていた。

徳島市内と池田町は徳島線で一本で行ける。徳島線は吉野川沿いを走っていて、つまり徳島市と池田町は同じ吉野川流域なのだ。そのため精神的なつながりも深かった。

池田町は徳島市内から真西にあり、直線距離で70キロくらいだ。徳島駅――阿波池田駅間の線路は1914年(大正3年)に開通している。文也が1923年(大正12年)の生まれ