徳島球場で行われた南四国大会の準決勝で、池田高校は土佐高校に2-1という息詰まる投手戦の末競り勝っている。打ったヒットは6本、打たせたヒットはわずか3本だった。

そういう投手戦を演じたから、決勝戦も投手戦で勝つつもりだった。実は池田高校は、この頃はまだ当時の高校野球ではオーソドックスな「守って勝つ」というチームだった。池田が「打って勝つ」チームに変貌したのはこれより8年後の1979年に、夏の甲子園の決勝で簑島に敗れ、準優勝に終わってからである。

このとき監督の蔦文也は、池田に細かい野球はつくづく似合わないと痛感させられた。池田というより、自分には無理だった。そもそもバントのサインが苦手なのだ。失敗したらどうしようかという弱気の虫によって、表情に出てしまうからである。それによって相手に簡単に見破られてしまうからだ。

そのため1971年当時の池田は「バントのサインが相手にモロバレ」という