1969年、蔦文也にひょうたんから駒のように徳島商業監督就任の話が舞い込んでくる。ちょうどこの頃、池田高校は商業科の廃止が決まって、選手の弱体化が避けられそうにない状況だった。また、3年計画で育てようとした69年入学組の選手たちが言うことを聞かず、手を焼いていた。

しかも、この頃文也の酒量は増えるばかりで、学校の内外には批判が渦巻いていた。以前は水面下で囁かれていた更迭論が、この頃ははっきりと表にも出てくるようになっていた。

この1969年は、文也にとって人生最悪の年だったといえるかもしれない。特攻隊で死にそうになったときや、プロ野球を僅か一年で放逐されたときよりも、心の荒み方がひどかったからだ。

このとき文也はもう45歳で、甲子園に出られないまま池高の監督を放り出されると、もう後がなかった。その後はアル中まっしぐらで、野垂れ死ぬことが目に見えていた。
だから、文也の心はこのとき揺れ