最近、「クリエイターとは何だろう?」ということを再び考えている。
「クリエイター」とは、何かを作れる人のことだ。
では、どうしたら何かを作れるのか?
例えば、小説はどうしたら書けるか?

そこで思うのは、小説を書くにはある種の「勘違い」が必要だということ。
だから、クリエイターには勘違いした人が多い。というか、そういう人しかクリエイターにはなれない。
では、クリエイターになるために必要な勘違いとは何か?
今回は、そのことについて書いてみたい。


クリエイターに必要な「勘違い」とは、「私はこの世界を理解した」という思い込みのことである。
例えば、「ニートが異世界に転生した小説」を書こうとした場合、作家には「私はニートを完璧に理解している」あるいは「私ほど異世界に詳しい人間はいない」といった勘違いが必要だ。これがないと書けない。
ところで、これがなぜ「勘違い」なのか? 本当に理解して書くのはいけないのか?――といった疑問については後述する。

「勘違い」とは、言い方を変えれば「分かった気になる」ということだ。その世界を理解しているという自信を抱くことである。
なぜそれが必要かといえば、その世界のことを「分かった気」にならないと筆が動かないからだ。「小説を書きたいけど書けない人」というのは、大体この壁に阻まれている。「自分はニートのことを書く資格がない」とか「自分は異世界のことが書けるほど詳しくない」という自信のなさが、小説を書くことを阻害しているのだ。

小説を書ける人にはこれがない。彼らがしばしば傲慢に、あるいは自信過剰に見えるのはこのためだ。小説を書きたいけれど書けない人にとって、そういう自信家は「恥知らず」と軽蔑の対象となる。しかしその通り、小説は恥知らずでなければ書けない。恥を知っていることが、逆にクリエイターにとっては致命傷となるのだ。

それでも、こんなふうに考える人がいる。
「いや、だから本当にニートや異世界のことを理解してから書けばいいではないか。ちゃんとその知識を恥ずかしくないレベルで習得したなら書いてもいい」
ただ、こういう人はそもそも「理解」ということの本質が分かっていない。

これは、何かの道にちょっとでも習熟した人なら分かると思うが、「理解」あるいは「分かったつもり」というのは、実は長くは続かない。たとえ一旦は分かったつもりになっても、またすぐに分からなくなるものなのである。

例えば、野球選手のイチローは何度かバッティングに開眼している。彼は何度も「バッティングのことが分かった!」という気になっている。
しかしながら、その感覚はやがて消えていく。そして、その分かったつもりが単なる勘違いであったということを後になって知る。

しかし、イチローが面白いのはそうした勘違いしているときにこそヒットを量産しているということだ。そして、それが勘違いだと気づいてフォームを修正しているときには、短いながらも不調に陥る。イチローの野球人生は、そういうふうに何度か軌道修正を余儀なくされてきた。

このように、「理解」あるいは「分かる」というのは、ある種の勘違いであると、たとえイチローほどではなくとも、何かの道にちょっとでも習熟した人なら分かる。それは束の間の夢のようなものだ。

ただイチローは、その後も再びバッティングのことが分かった気になっている。それを何度もくり返している。
なぜかといえば、彼はそれが束の間の夢だとは分かりつつも、同時にそれを信じることができているからだ。分かったつもりが幻であると知った上で、なお分かったつもりになれているのである。
その意味で、イチローは非常に厚かましい人間である。恥知らずといっていい。
そういう厚かましい人間だからこそ、ヒットを年間263本も打ったり、日米通算で4000本も打ったりすることができるのである。

つまり、クリエイターとして継続的に活動している人というのは、何かのことが分かった気になるのはある種の勘違いであると知りながら、その上でそういう気になっている。そこまで恥知らずなのだ。
逆に、一度はクリエイターになったもののそれを継続できない人というのは、この種の恥知らずさがない。それが勘違いだと分かったとき、二度とそういう気持ちを抱くことができない。

小説家でいえば、ニートのことも異世界のことも、人は本質的に理解できないと知りながら、なおそれを理解したと素直に思い込めるほどの厚顔さがなければ、書き続けられはしない。
そういうふうに、勘違いすること、あるいは厚顔であることが、クリエイターになるためには、あるいはクリエイターでいつづけるためには、欠かせない条件となっているのだ。