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  • 春一番 日本一の認知の歪み祭り! 「小児性愛」という病――それは愛ではない(その2)

    2020-02-21 01:00
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    ※この記事は、およそ14分(課金コンテンツ含めると20分)で読めます※

     ――さて、続きです。
     始めて来られた方は、前回記事をお読みいただくことを強く推奨します。
    (以降も本稿で「前回」と書く時、「風流間唯人の女災対策的読書」ではなくあくまで(その1)の方を指します)
     前回は本書の著者、斉藤師匠の「認知の歪み」を見ていただき、師匠がフェミニズムに帰依しているがため、子供たちが救われないことになっていると示しました。
     今回は「表現の自由クラスタ」との関係性を見ていきましょう。
     同じくリベラルである師匠と表現の自由クラスタ、まさに両者はあわせ鏡のような関係にあるのです。

    ・斉藤師匠の認知の歪み2

     前回にも書いたように、本書では漫画なども徹底して「児童ポルノ」と呼称しています。
     第4章「児童ポルノ――加害の引き金になるもの」では「ネットにアクセスすれば容易に児童ポルノを見られる(大意・105p)」と強調されますが、これもエロ漫画などの二次元メディアを指しているのではないでしょうか。

     児童ポルノの被害に遭う子どもと聞いてまず思い浮ぶのは、タレント活動をしていて肌の露出度が高い衣装を着せられ、性的なことを連想させるようなポーズを取らされる子どもたちではないでしょうか。
    (107p)

     とも書かれ、(実写の)きわどいイメージDVDの類もまた、児ポだというのが斉藤師匠の考えです。
     いえ、こうしたものを、ぼくも好ましいとは思えませんし、できればなくすべきとは思いますが、これをポルノというのはどうなんでしょう。また、これを法で禁ずるとなると「子供の水着は表に出すことはNG」になっちゃうし、やっぱり宗教とか、法律とは別口のルールって必要だなあ、と。
     いえ、問題はそこではないのです。
     師匠は真顔で以下のようなことを言います。

     これまで私が直接的、間接的に関わってきた子どもへの性加害者らはほぼ全員、児童ポルノから何らかの影響を受けています。まず、これまでクリニックに通院した者117人のうち112人に児童ポルノ動画や画像を見てマスターベーションをした経験があります。児童ポルノに触れたことがないという加害者のほうが、稀なのです。
    (114-115p)

     そして先述したように、当院のデータでは加害経験がある者の100%近くがなんらかの児童ポルノを見ているという事実があります。
    (119p)

     この後も、何か海外の刑務所の「接触犯罪」を犯した者の高確率が児ポを見ていた、とかいうデータを採り挙げて大仰に驚いてみせる箇所もあります(124p-)。何で犯罪者を母数にするんだ、そんなこと!
     これには表現の自由クラスタもお得意の、「性犯罪者は全員パンを食べたことがある」というネタを持ち出さざるを得ないんじゃないでしょうか。まさにつまらぬ詐術なのですが、しかしツッコミどころはそこに留まりません。
     師匠がエロ漫画やイメージDVDも児ポにカウントしているというのは、言い換えれば、本書で「児童ポルノ」が語られる時、そこで問題にされるのは「ペドフィリアに対する悪影響」というその側面のみである点なのです。
     ……いえ、「のみ」ってことはありません。一方では「(実写の)児ポは製造されること自体が被写体への加害であり、また、それを視聴することもまた、被写体への加害である、よって存在を許されない」といった視点にもちゃんと言及があります。だからこそ「児ポの単純所持もまかりならんのだ」というのが師匠の主張であり、そこは頷けます。
     しかししかる後、師匠はこんなことを書くのです。

    現実とファンタジーの区別はついている。児童ポルノを見ても、実際の子どもに手をかけるなんてことはない」というのは、典型的な認知の歪みのひとつです。自身が子どもに加害行為をしてなくても、それに加担している事実に蓋をしています。
    (118p。アンダーライン原文ママ。以下も同)

     ここには斉藤師匠一流の「認知の歪み」がいくつもいくつも見られます。
     まず、「(実写の)児ポは観るだけで加害だ」はまさに正論です。
     しかし、だからと言って、「観た者が実行に及ぶ」かは別問題です。
    「視聴そのものが加害」という論点と「実行に及ぶやも」という憶測が、ここでは雑にごっちゃになっているのです。
     そしてまた、ここではエロ漫画など虚構の表現と実写の表現の区別がなされていません。「ファンタジー」というなら、虚構の表現が前提になっているようにも読めるのですが、判然としません。
     虚構の表現がここに含まれているとするならば、仮に「児ポの影響で実行に及ぶ可能性が高い」が真だとしても、「観ることが加害だ」は真ではない。そこを師匠は分けないまま論じているのです。
     はっきり言えば師匠は虚構の表現をも禁止したい、しかしその口実が見つからないため、要所要所で両者を混同して語ることで、いっしょくたに否定している……と、ぼくにはそんなふうに読めてしまうのです。
     確かに、漫画やアニメをちゃんと実写の児ポと分け、議論している部分もあります。

     いずれも現在の法律では、「現実の子どもが被害に遭っているわけではないから問題ない」とされてしまいますが、やはり大なり小なり見る者の認知に影響を与える可能性が高いといわざるをえません。
    (122p)

     正直、反論に窮しての苦し紛れ、という感じではないでしょうか。
     しかし同時に、こんな記述も。

     そして児童ポルノを通して彼らは「子どもは性的な存在である」というメッセージを受け取り、認知をゆがめていきます。
    (120p)

     はい、お疲れー。
     ペド的欲望など、本来ないものなのに、悪者がぼくたちに植えつけていることが判明しましたー。
     専ら、「児ポ(虚構含む)には悪影響がある、ペドフィリアの犯罪のトリガー足り得る、だから好ましくないのだ」というのが師匠の主張です。
     それが本当に本当なのか、ぼくにはそれを判断できるだけの知見がないので、まず、そこは「正しい」と考えることにしましょう。
    「ポルノを見て性的に興奮をする」ことは事実だし、もしそうでないならそもそも誰もポルノなど買わない。そして、それがトリガーで性犯罪に及ぶというのは、まあ、(ほとんどの人間は理性で制御しているとは言え)わからないではない。
     繰り返すように、ペドフィリアには「認知の歪み」を持つ者が多いのは事実。だからそれがポルノで強化されることは大いにあり得ます。
     そうした「トリガー」論においては、エロ漫画など虚構メディアと実写メディアの差はないのかもしれない。しかしそこを強調する師匠の筆致は、結果、実写メディアがそれ自体、犯罪性、加害性を持を持つことを、どこか軽視してしまう結果になっているのです。
     臨床の場にいる師匠にしてみれば、虚構であろうとも子供を対象にした性表現は危険だと感じるのでしょう。それはわかります。しかしだから規制せよでは包丁による殺人が起きたから包丁の販売を禁ずる、アル中で死んだヤツがいるからビールの販売を禁ずるというのといっしょで、頷けません。アル中の方でビールに近づかないようにしていただかないと、多くの人に迷惑が及びます。
     いえ、そんなリクツをこねる前に、そもそもロリコン物のエロ漫画が出てきたのがこの四十年のことである以上、ちょっと調べればそれがどれだけペド犯罪に影響を及ぼしていないかは、自明になるはずなのですが、そんなデータは示されません(ペド犯罪の増加率については、この十年ほどの、「微増」と思える程度のデータが示されるのですが、街中の萌えキャラの、ネット上の萌え系のエロ画像の増加は「微増」どころではないでしょう)。
    「エロ漫画はペドにとってはトリガーになり得る」は真だとしても、ほとんどの人間はエロ漫画を見て性犯罪に手を出していないと、もう結論は出ているのです。
     しかし、師匠は(一番大事であろう)そうした数字を挙げることがありません。
     それは、何故か?
     理由は、前回にも述べた師匠のフェミニズムへの帰依ぶりを鑑みた時、明らかになります。
    「この世の男尊女卑はメディアの影響であり、そうした価値観はジェンダーフリー、即ち自分たちの強制リセットで正されなければならぬ、そうした世直しの一環としてのみ、ペド犯罪問題もある」というのが、師匠の世界観だからです。

    ・表現の自由クラスタの認知の歪み

     本書の第3章ではまたしてもペド犯罪者がロリ系エロ漫画を読んで、転落人生を歩む様を描写した後、こんな主張がなされます。

     小児性愛障害については、治療を受けなければ被害者が出ます。本来なら、治療をしないという選択肢はないと私たちは考えています。
    (101p)

     いかが思われたでしょう、みなさん。
    「ペドフィリアは病気である」。それは事実です。
     アメリカ精神医学会の精神疾患のリストにも載っています。
    「病気なら、治療すべき」。
     これも正論です。だから、師匠の言っていることは何ら間違いはないのです。
     ただ、上の師匠の言葉は、「治療を受けなければ被害者が出ます」と言っている以上、恐らく、犯行に及ばない小児愛者をも含んだものだと思われます。
     一方で、日本ではペド犯罪者に再犯防止プログラムを受けさせる(強制する)制度がないそうで、ぼくも犯罪者には治療プログラムを受けさせる制度は作るべきではないだろうか、とは思いますが。
     しかし、表現の自由クラスタはこれに、強く反対することでしょう。
     犯罪者はともかく、ペドの全員が子供に手を出すわけではない、だから、治療などしなくてもいいじゃん、というのが恐らく彼らの言い分ではないでしょうか。
     白饅頭の文章が参考になります。
     彼の『矛盾社会序説』には「ペドフィリアは「治療」すべきなのか?」と題された節があります。ここではドイツの薬物療法(化学的去勢)について述べ、ペドフィリアとチャイルド・マレスター(子供を虐待する者)は別だ、との主張が語られます。そして、お約束の「ホモもかつては治療や刑罰の対象であった」との主張も。
     ここでは(否、表現の自由クラスタの主張においては100%常に)ペドはホモと全く同様の、間違った社会通念により偏見と差別を受ける、清浄でセンシティブなマイノリティとしてのみ描写されます。

     多くの小児性愛者は自らの性的な欲求が他者を傷つけかねないことを自覚しており、悩み、苦しんでいる。
    (74p)

     などとも書いていますが、もちろん、嘘です
     先にも書いたように、ペド犯罪者は自分と子供との関係を「純愛だ」などと称しているのですから。
     それとも、それはあくまで子供に手を出すような者だから?
     そうした行為に及ばないペドはもっと理性的なのではないか?
     残念ですが、それも可能性は低いでしょう。表現の自由クラスタはペドをマイノリティとして描写する時、決して「児童ポルノ」について語ろうとしませんが、真性のペドで実写の児童ポルノを収集していない者はやはり、少数派でしょう。
    「実践派」ではなく児ポだけ観て満足するタイプのペドも数多くいるようですし、そりゃ、そうした連中は手を出さないだけマシとはいえます。しかしそうした人たちは当ブログでも度々指摘して来たとおり、往々にして「(実写の)児ポを観ることに道徳的問題はない」と主張する傾向にあるのです*1
     もちろん、「じゃあ何%までがそんな価値観の持ち主だ?」と問われても、数字など出しようがありませんが(しかし、それは白饅頭も同様でしょう)、それでも「かなり普遍的に」とはいえるかと思います。やはり人間、自分の欲望は肯定してしまうものなのです。

    *1 例を挙げるなら鈴折@sin_Lv98氏。詳しくは「2017年度女災流行語大賞」の第二位を参照。
    また、もう一人挙げるならば@emanyon氏。これは「オタク界隈にはびこる「ロリコン」の闇を歴史的に紐解いていく」を参照。この人については「胸を張って名言」しているわけではなく、本音を吐露しかけて四苦八苦している感じですが……。

     もう一人、表現の自由クラスタのスターにご登場いただきましょう。少し前まで「一般的なフェミ」そのものであったのに近年、急激に表現の自由クラスタへとすり寄って来た*2柴田英里師匠。彼女は近年、「どうしてそこまで……」と言いたくなるほどに、ペドフィリアの擁護に熱心です。

    小児性愛はおぞましい思考なんですか?仮にあなたがそう思っているにしても、それをわざわざぶちまけるのって下品で失礼なことにはあたらないのですか? https://t.co/aPW0x9ylTh

    ― 柴田英里 (@erishibata) January 27, 2020

     いやあ、明日にもNAMBLA幹部に昇格できそうな、キレッキレのペド擁護ですねw
    「小児性愛はおぞましい思考」に決まっているし、仮に師匠がそう思っていないにしても、その価値観の表明をわざわざ「下品で失礼」だなどと言うとは、まさに表現の自由クラスタの手先にふさわしい発言ですw
     フェミニストが幼児虐待の擁護に熱心なのは言うまでもないことですが*3、それにしても彼女のペド愛は何に端を発しているのでしょう?
     以下は、上のツイートの続きです。

    だいたい、異性愛再生産と小児性愛どちらが「まとも」かだって怪しいものです。個人的な趣味判断から言えば、前者の方が醜いと思っていますが、私はわざわざ前者に該当する人を罵って回るようなことはしませんよ(数も多いのでやりあったら負けますし)。

    ― 柴田英里 (@erishibata) January 28, 2020

     また、こんな発言も。

    そもそも小児性愛は「幼児殺したい」という嗜好でもありませんし、実際に一番幼児を殺したり虐待しているのは「実母」ですよね。だけど、「全ての母親は幼児殺害・虐待予備軍」などとは言わないでしょう。その慎みを、小児性愛者にも向けるべきでは? https://t.co/tfTrZmBvfW

    ― 柴田英里 (@erishibata) January 28, 2020


     もうおわかりですね。
     家族制と異性愛をこの世で一番悪しきものだと信じて疑わないフェミニズムは、最初っから、ペドフィリアの味方でしかなかったのです。
     しかし「異性愛再生産」の方が「小児性愛」よりも非道いとは言いも言ったりです。
    「異性愛再生産」なんて言われてもよくわかりませんが、このワードは「異性愛強制」とでも読み替えてよいでしょう。斉藤師匠が「悪者が日本人をペドにしているのだ」と頑なに信じ切っているのと同様に、柴田師匠はドウォーキン同様、「悪者が日本人を異性愛者にしているのだ」と頑なに信じ切っているのです。
    「小児性愛」が何故「おぞましい」かとなると、「実行しようとすると、必然的に子供へと強制することになる」からです。
     しかし「異性愛も全て強制なのだ」と信じる柴田師匠はどっちもどっちだ、と考えているのです。一億歩譲って仮にそこまでが正しいとしても、よっぽど異性愛の方がマシだと思うのですが。
     そして、考えればわかるように、これは「小児性愛」を「社会の強制だ」として、その考えを演繹させるうちに、「可愛い女性を愛でること」、即ち「異性愛」そのものを否定せずにはおれなくなった斉藤師匠と、実は「ごく一般的なセクシュアリティの否定」という点で、「完全に一致」しているのです。
     端的には柴田師匠は「ペドは異性愛者と違うからエラい」と言っているだけに過ぎず、方や斉藤師匠は「ペドは異性愛者と同じだからけしからぬ」と言っているだけに過ぎないのですから。
     これは丁度、オタクの理解者のように振る舞うリベラルが、一体オタクをどのような形で「兵器利用」しようとしているかを占う上でも、大変貴重な発言ですね。

    *2「2015年までの柴田英里、わりとフェミニストみたいなことを言っていた/実際のストーカー事件に「少女漫画の罪」とも
    もちろん、この件を暴露されて以降、柴田師匠の株が下がったという話は聞きません。
    *3 日本でも少年愛者の少年への加害をとがめた者がフェミニストから恫喝を受けることは(当ブログ読者には)有名ですが、海外のフェミニストも大人と子供との性交を肯定する傾向があります。これは一つには、彼女らがホモを正義と信じ切っているからであり、また彼女らの中にはレズのロリコンが一定層存在しているからです(だから恐らくですが、彼女ら的には異性愛者のロリコンはNGなんじゃないでしょうか)。

     近年、それこそホモが病気じゃないことになったりで、何か、人権が何やらかんやらなので、セクシャルマイノリティを病気扱いするな、といった主張がかまびすしかったりします。
     そんな流れに乗り、表現の自由クラスタはペドフィリアを担ぎ上げ、丁度LGBTの運動が同性愛を精神医学の項目から外した、即ち「政治的に働きかけて病気じゃないことにした」のと同様の運動を展開することを目的としているのではないでしょうか。
     柴田師匠、白饅頭の幼稚で軽率な発言は、彼らがそうした社会運動のダシとしてペドを取り込むことを本格的に考えだしたことの兆候なのではないでしょうか。
     いえ、そんなの偶然で、彼ら彼女らにそこまでの結束も深謀遠慮もないのかもしれませんが、どうにも近年、彼ら彼女らは異様にペドを「弾」として使いたがっているように、ぼくには思われる。
     本当にオタク文化の表現の自由を守りたいのであれば、まず萌えオタがペドとは違うことを、強調するのが得策であろうに。
     事実、斉藤師匠は恐らく、萌えオタとペドの区別がついていない。この種の人たちはその辺を混同したがる傾向がありますが、しかし同時に萌え表現がより以上に普及していくことで、この感覚は淘汰されるはずなのです。
     そこを、何故か彼らはわざわざ危険な弾を拾いに行っている。
     それとも、斉藤師匠的な論者が淘汰されてしまっては、彼らは商売のタネがなくなる。既にそうなりつつあることを肌で感じ取って、「次の弾」を血眼で探しているのか……?
     正直、ぼくには「ペドに治療を強制すること」の正否はわかりません。また、ペドが病気か否かといった議論にも、何ら興味はありません。しかしそこまで彼らが「主体的に、ペドフィリアであること」を選び取ることをよしとするのであれば、「それにより差別される」リスクをも背負うのが当然、と考えるのが筋ではないでしょうか。
     しかし、ペドをただ、「弱者兵器」として運用しようとするだけの表現の自由クラスタにとって、ペドは「弱者属性の塊」にしか見えていないのでしょう。
     つまり、比喩的に言えば彼らはノアの方舟の乗船リストからオタクを消し、代わりにペドを迎え入れようとしつつあるのではないか、というのがぼくの疑問です。
     いえ、今まで述べて来たとおり、まず果たして彼らの方舟がどれだけ頼りになるのか、否、彼らの信じる洪水が本当に来るのかが、極めて疑わしいとぼくは考えますが。
     まあ、何にせよ、彼らの舟には乗らない方が……というのが今回の結論であります。
     次節ではもうちょっとだけ、その辺りに突っ込んで論考を試みましょう。

    ・オタク界のトップの認知の歪み

    ※さて、ここから最後の節なのですが、これ以降はnoteで課金の上、お楽しみください。まあ、概ねの主張はここで終わっていますが……。
  • 【反フェミはこれ一本でおk】風流間唯人の女災対策的読書・第4回「インセル・ミソジニー批判論序説」『青識亜論の「論点整理」』【ゆっくり解説】

    2020-02-15 20:49
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    https://youtu.be/gCXUQV2f9R8




     すんません、前回記事の続きはまた来週。
     ちょっと腹に据えかねてまた動画を作ってしまいました。

     みんなの味方、オタクの味方、正義の味方であらせられる青識亜論のブログ記事を紹介します!
     何というか、本当に、今回はほとほと参って、いつも以上にこちらも攻撃的なことを書いてしまっていますが、もう、それもしょうがない、という感じ。

     正直、youtuberとして収入を得る、などは夢のまた夢の状況ですが、登録していただく、高評価ボタンを押していただく、コメントをつけていただくことで再生数が上がるようです。
     また、当動画で『女災』に興味を持っていただけたら、kindleでお買い求めいただければ幸いです。
     どうぞよろしくお願いいたします。
  • 春一番 日本一の認知の歪み祭り! 「小児性愛」という病――それは愛ではない

    2020-02-07 19:032

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    ※この記事は、およそ17分で読めます※

     どうも、『#KuToo』についての動画は見ていただいたでしょうか。
     この本、著者である石川優実師匠の文章の占める割が大変低く、ありがちな、編集者主導の企画本(内容よりは著者の知名度などで売ろうとする本)という印象の強いものでした。しかし実のところその文章すらも、元は師匠のブログ記事で、それを改訂したものなのですが、文中で頻出する「性役割」「性差異」といったフレーズ、ブログの方を検索した限りでは見つけることができませんでした。要するに、本に仕立て上げる過程でつけ足されたわけです。
     石川師匠は傀儡で、編集者に操られている存在だということがよくわかりますね。
     言ってみれば、「パンプスが窮屈だ」というそれ自体は素朴な気持ちが、「何か、人間のネガティブな精神エネルギーに反応し、それを取り込む悪者」に利用された――という図式です。
     さて、今回ご紹介するのはソーシャルワーカーの斉藤章佳師匠による、ペドフィリアについての著作。最初に書いておくと、本書もまた、というのがぶっちゃけ本稿の結論でありますが――。

    ・ペドフィリアの認知の歪み

     本書の存在、確かぼくはツイッターで知ったように思います。
     表現の自由クラスタが、ヘイト本とか何とか悪口を書いていたように記憶していますが、当ブログを永らくお読みいただいている方は周知かと思いますが、ぼくは基本、ペドフィリアに対して同情的ではありません。一つに、表現の自由クラスタの本丸が明らかにオタクではなくペドフィリアを守ることにあるからだし――というのはまた、いつもの憎まれ口ですが、しかし彼らがペドフィリアを運動に取り込もうとしているのは、間違いないのではないでしょうか。これについては次回詳述します――もう一つに、ペドフィリアは「認知の歪み」を抱え、「子供とセックスしてもいいのだ、子供との間にも純愛が成り立つのだ」と主張する傾向があるからです。
     それは本書でも、繰り返し語られます。本当、ページを開く度に「認知の歪み」という言葉が目に飛び込んでくるくらい。
     ちょっと、尼の「内容紹介」から引用してみましょう。

    「そりゃセックスもしましたよ。恋人同士ですもん。それを周りの人たちが、ぶち壊したんです。
    私がロリコンで、Yちゃんは被害者だといって引き離したんです。私はそんな人達によって犯罪者にさせられました。おかしいのはどっちだっていいたいです…」
    これは、12歳の少女に性加害をした49歳の男性のケースです。
    女子児童の側には、交際しているという認識はありません。怒ると声を荒げる男が怖くて、言われるがままになっていたのだとわかっています。
    (中略)
    しかし、彼が見ていたのは、「子どもから求めていた」「子どもはよろこんでいた」という光景。事実とは、正反対です。
    クリニックで子どもの性加害経験者からヒアリングしていると、これは性加害をする者なら誰もが持っている、特有の思考の歪みだと実感します。

     以上は本書の15pにある記述の抜粋(少々内容の変更がありますが……)です。これについて、ぼくは全く反対するところがありません。
     ただし、敢えて言えば12歳ともなるとそこそこ大人ですし、「合意の上で関係を持つ」ことは不可能ではないでしょう(ただしイケメンに限る)。相手は子供なのだから、「合意でもダメ」と考えるべきではありますが、こうしたケースの場合、必ずしも加害者が脅して……というものばかりではないと思います。
     また、本書では「児童ポルノ」の被害は自撮りによるものが多いと言及されており、しかし、高校生くらいが「被害者」の場合、性交可能年齢であることを考えると、やはり絶対的な被害者と決め込んでいいのか、被害者側の意識を全く不問にするのもどうかと思います。つまり、この辺はぼくの意見も表現の自由クラスタに近しい、ということになりますが。
     ただ、もちろん、だから斉藤師匠の主張が間違いだ、というわけではありません。以前にも書きましたが、欧米では少年愛者協会NAMBLAを始めとして、「子供とのセックスを合法化せよ!」という運動をする組織がいくつもあるのです。
     これは結局、フェミニズムを含むリベラル思想の行き着く先であり、事実、フェミニストの中には自分たちと少女との、少年愛者と少年とのセックスを肯定する連中がいます。フェミニストの先兵であったジョン・マネー(今ではインチキがバレたが、一時期、ジェンダーフリーの論拠となる実験をしたとして、カリスマとされていた人)も子供とのセックスを肯定していました。
     フェミニズムがそうであるように、結局リベラルとは「自分の自由のために他人の自由を侵害する人」でしかないのですね。
     また、実のところ本書で多くページが割かれているのは実際の臨床、子供に性被害を及ぼしたペド犯罪者たちのカウンセリング(そのような言葉は使われていませんが、ここはわかりやすい言葉を使うことにします)の様子に関して。それについてはぼくも知識がありませんし、まあ、「なるほどなるほど」と素直に読んでおりました。
     が!!
     ――いえ、ビックリマークを二つつけるほどのことではないのですが、後半に至るに、本書はおかしな方向に暴走を始めるのです――いえ、それもまた想定の範囲内だったのですが――。

    ・斉藤師匠の認知の歪み

     本書が本格的におかしくなるのは、第8章からです。本章のタイトルは「支配感情――救われたい男たち」。この段階で既にヤバい匂いがぷんぷんしますが、節タイトルを見ていくと「ジェンダーギャップ・ニッポン!」「“女尊男卑”だとする認知の歪み」「「未熟=かわいい」という価値観」。おいおい、また「認知の歪み」かよw
     結局、ペドフィリアの「認知の歪み」を舌鋒鋭く斬りまくっていた斉藤師匠もまた、「フェミニズムは正しい」という重篤な「認知の歪み」を抱えていた、という腰砕けなオチ。
     ペドフィリア関連については貴重な記述の多いのですが、肝心の理念の部分は凡百のフェミ本と変わらないのです。
     本章の一番最初では

    すべての性暴力は、根底に男尊女卑的な思考パターンがあります。
    (236p)

     とぶち上げます。
     しかし、具体的にその「男尊女卑的な思考パターン」というものが何なのか、今一判然としません。師匠はカウンセリング中のペド犯罪者たちに対して「日本は男尊女卑社会だ」と訴えても、ぽかんとしているのみであることに嘆いてみせます。しかしこれは、今のネット世論がそうであるように、一般的な人々にもそうした言説が受け容れられなくなりつつある、ということでしかないと思うのですが。
     いえ、だからこそ、師匠はペド犯罪者も一般人も変わることがない、というリクツをぶつのですが、それは単にフェミニズムに洗脳された師匠が「認知の歪み」を抱えているだけのハナシでしょう。これは幼い子供を誘導して性的関係へと持ち込みつつ、「二人の間には純愛があったのだ」と信じ込むペドフィリアたちと美しいまでに見事な線対称をなしています
     そう、師匠の「認知の歪み」が、せっかくのペドフィリアに対する重要な指摘を、台なしにしてしまっているのです。
     これは、学問の世界がフェミニズムに牛耳られているがための弊害としか言いようがありません。社会学がいかに狂った学問かは近年、知られるようになってきましたが、こうした近隣ジャンルにまで、フェミニズムは甚大な「精神汚染」を広げているのです。

     師匠は典型的なメディア影響論者で、「日本の男たちはテレビから男尊女卑の考えを学んだ(249p・大意)」などと言っているのですが、ぼくはテレビが男尊女卑的な考えを流しているところを、ただの一度も見たことがありません。テレビはメインの視聴者層を女性であるとターゲティングしていますし、また、日本女性は世界でもトップのテレビのお得意さんでもあり(視聴時間が世界中でぶっちぎりトップだそうです)、少なくとも日本のテレビは女性に快い情報以外は流しません。時々名前を出すアメリカの男性解放論の名著『正しいオトコのやり方』には「テレビはフェミニストのサーカスとなった」との一文がありましたが、これは日本においても同様でしょう。
     何しろ本書は前書きの時点で以下のような具合です。
     子どもへの性加害、つまり小児性愛障害は、社会のなかで学習された行動です。大げさかもしれませんが、いまの日本社会が「ペドフィリア」を生み出し続けているといっても過言ではありません。
    (7p)

     また、以下のような記述も。
     子どもへの性加害は、社会のなかで学習された行動だとお話ししました。だからこそ、治療教育を通して学習し直すことでやめ続けることができるという考えに基づいています。
    (195p)

     はて、今の日本でペドフィリアを肯定するようなムードが(ツイッターや『薔薇族』を除いて)あるか……?
     第6章「再犯防止」においては、ペド犯罪者に対するカウンセリングの現実が述べられているのですが、そこでではペド犯罪者が他の受刑者に自分のしたことを知られることを恐れ、なかなかカウンセリングができないこと、またグループカウンセリングは様々な罪を犯した受刑者が共に罪を告白しあうものだが、ペド犯罪者は他の受刑者から差別を受けるため、仲間同士だけで集まるようにした、などと書かれている場もあるのだから、師匠の主張は完全に矛盾しているのです(欧米でもペド犯罪者は他の受刑者からいじめを受けることが多いそうです。そんなの、人類普遍に決まってるんですね)。
     そうした現実を、身をもって体験していながら、日本の社会はペドを肯定しているのだと繰り返す師匠。はて、どういう了見なのだろう……? と思いつつ読み進めていると、先にも挙げた「「未熟=かわいい」という価値観」の節で、以下のような記述にぶち当たるのです。
     もう一点、ほとんどの男性が子どもを性対象とする男性と実は地続きではないかと思わされることがあります。それは、未熟で自分たちより劣っている女性をよしとする文化です。
    (253p)

     ここで師匠は秋元康が作詞したHKT48の「アインシュタインよりディアナ・アグロン」の歌詞を得意げに引用します(曲名、歌手名などはどういうわけかぼかしています)。



     いや、PC的には過激な歌詞ではあるけれども(そう、まさに今時公言できない、仮に政治家が公言したらたちどころに地位を失うような発言を、まさに女の子だからこそまだしも許される発言を挑発的にさせた、というのがこの歌詞の本質であり、そこに「それ見ろ!」とダボハゼのように飛びついている斉藤師匠はどうかとしか思えません)、こういうのは女の子自身の本音なんじゃないでしょうか。アイドルについては全く知らんのですが、秋元はこうした女の子の自己愛を前面に押し出した作詞家ではなかったでしょうかね。
     女性アイドルが歌っていますが、これは明らかに男性側が固執している価値観です。
    (254p)

     あっ、はい。
     この論調は、言うまでもなく本書の全編を貫くものになっています。
     これが、露出が際どい、幼い少女を性的に消費しているからけしからぬというのであれば一応は理解できるのですが(HKTは恐らくハイティーンくらいでしょうから、ペドとは関係がないと思いますが、その辺はオマケしてあげるとして)、そうではなく「バカで可愛い」と感じることがけしからぬ、ということなのだから、こうなると、弱い者を可愛いと感じることそのものが全否定されるべきと考えているという他ありません。人間が子供を(一応、性的な文脈ではなく)可愛いと感じることは普遍的であるはずですが、それも師匠には許してもらえないというリクツになります。
     師匠は
     子どもへの性加害をする者とそうでない者が地続きにある社会、それによって子どもへの性加害行為が後押しされる社会を、私は「をペドフィリア傾向社会」と呼ぶことにしています。
    (259p)

     などと絶叫します。しかしぼくには、フェミニズムの歪んだ野望を達成するために、師匠が関係ないものを地続きであると強弁しているようにしか見えないのですが。

    ・フェミニズムの認知の歪み

     フェミニズムの誤謬の中で最大のものは、師匠の振る舞いを見てもわかるように、女性の主体的判断を決して認めようとしないところにあります。
     時々例に出しますが、『レディース・コミックの女性学』という本があります。バブル期、レディースコミックが巨大な市場を形成し、フェミニストたちは大いに困りました。何しろ、ポルノは男が女を搾取するために作り上げた絶対悪であったはずなのに、女性作家たちが男性向けのポルノと全く構造を同じくする漫画を嬉々として描き、それを女性の読者が貪るように読んでいるのですから。
     そこで若手のフェミ学者が上の本を出したのですが、それが「レディコミ誌の編集長が男であった」というだけのことを論拠に、「男が女に自分の価値観を押しつけ、描かせているのだ、そうに決まっているのだ!!」と泣きじゃくる、というもの。もちろん、レディコミ誌の編集部にそこまで独裁体制が敷かれているのかについては、一切の言及がありません。
     斉藤師匠の(そしてその他のあらゆるフェミニストの)言も、これと全く同じです。
     上のような歌を歌っているHKTの女の子たちは当然、全員秋元の毒電波に操られているのです。おそらく、こうしたアイドルのファンには相当数の女性が含まれていることでしょうが、彼女らも当然、毒電波で操られているのです。
     レディースコミック(や、萌え系の漫画)を描く女流漫画家もアイドルも、全ては男に操られている被害者であり、その選択は、決して認められてはならないものなのです。
     ジェンダーというものは全て男が女へと押しつけたというのが、彼ら彼女らの妄念です。大変残念なことに、その押しつけた証拠というものが今まで一度も発見されたことがなく、そして一兆歩譲ってそれが事実としても「ぼくたち個々の男」はその押しつけをした覚えはない。しかしお前らは男らしさで得をしているのだから責任があるのだ、というのがフェミニズムです。どんな得があるのか。言うまでもなく男は女よりも遥かに多く自殺に、病死に、殺人事件の被害者に、過労死に、ホームレスに追い込まれることができるという、「絶対の優遇」があるのです。

     上に挙げた「ジェンダーギャップ・ニッポン!」では聞き飽きたジェンダーギャップ指数が話題になります。世界経済フォーラムによって18年に発表された「ジェンダー・ギャップ指数」において、日本が149ヶ国中110位であったとの話題ですが、この指数がとてもまともに相手にするに足りないものであることは、ネットではかなり知られてきていますよね。例えばスウェーデンなど北欧は女性の社会進出が進んでいて素晴らしく、(18年の)「ジェンダー・ギャップ指数」は世界第三位なのですが、何と、白人国家の中で一番のレイプ大国で、そちらでも第三位を獲得しているというクソさ*1。レイプ発生率は日本の七十倍近い、という指摘もあります。こうなると「性犯罪などどうでもいい、女性の社会進出だけがジェンダーフリーの基準なのだ」というのが斉藤師匠の考えである、とする他はないでしょう。師匠、他にも痴漢に対する著作があるなど、性犯罪の専門家なのですけれどもね。
     こうした「妄念と認知の歪みの極致」であり、「この世の全てへの憎悪と呪いの思想」がフェミニズムであり、それが「性犯罪者から子供を救おう」という純粋な理想に燃えていた(であろうと、信じたい)斉藤師匠にも悪影響を及ぼし、その高邁な理念を無残に歪めてしまったのです。
     師匠の主張を推し進めれば、女性を「可愛い」と思うこと、「可愛い女性」を好ましいとすることを、即ち普遍的な男性、そして女性のセクシュアリティを、ジェンダー観を「ジェンダーフリー」によって完全にリセットする他ない。
    「ジェンダーフリー」後の社会ではもちろん、性犯罪はゼロである。
     しかし、その社会では恋愛も結婚も萌えも全てが消え果ている。
     いつも言っている通りです。
     フェミニズムの主張は「地球環境を守るためには人類を絶滅させるしかない」との90年代のアニメの悪役がよく唱えていた、純理論的には極めて正しいが絶対に唱和できない主張と全く同じなのです。

    *1「「北欧ゴリ押し」ウォッチ フェミニスト国家なのにレイプ大国になったスウェーデン その1」などが参考になります。

     本書においてペド犯罪者はトラウマを抱え、自己評価の低い者が多く、そのため自分より弱い者を性の対象にするのだとの指摘が繰り返されます。ぼくはそうした観念的な言説を、子供への欲情という下半身的即物的な現象と過度に結びつけるのはどうかと思いますが(ペドが弱い者に欲情しているのであれば、幼女ではなく怪我をした女性、障害を持つ女性、綾波レイでも代替できるはずではないか?)、しかしある程度は正しいはずです。
     男には、力が求められるのだから。
     経済力のない男と結婚しようという女がいないことは、もうわかりきっているのだから。
    「女の子はバカでいい」は明らかに女の子自身にも共有されている価値観です。頭脳明晰なブスとバカな美少女と、彼女らがどちらになりたがるのかを考えた時、それは言うまでもないのです。
     それを(何の根拠もなく)男が仕組んだことだから、全責任は男に、何ら力がなかろうとも、男に生まれた者にはその責任があるのだ、と言い続けてきたのがフェミニズムです。
     もし、仮にペド犯罪者に対する治療法があるとしたら、「そんな自己評価の低い男性に自尊心を取り戻させる」方向に進むしかないはずです。自己評価が低い者にまで「威張るな」というのは逆効果でしかないでしょう。しかし、フェミ信者である師匠はそこを逆走し続けるのです。これでは問題は永久に解決しないでしょう。
     ――いえ。しかし天才であらせられる斉藤師匠は、ここに実に巧妙な抜け道を見つけ出しました。
     本書の最後には、フロクとして元・ペド犯罪者との対談が掲載されています。そこでその元ペドさんは「小児性愛は先天的なものでは」との考えを語りつつも、大学生時代、「成人男性が思春期前の少年を性的虐待するコミック*2」を読んだことが決定打になった、としています(この人は、男の子を好むタイプです)。斉藤師匠はすかさず「いわゆる児童ポルノですね。」と合いの手を入れ、「つまり小児性愛障害は、社会のなかで学習された行動だと。」と語り、元ペドさんに頷かせています(264p-)。
     実はぼくもかつて、元・ペド犯罪者が、フェミニズムを語るところを見たことがあります。しかし、これはものすごくまずい。
     男性がフェミニズムを学ぶということは、選民意識にまみれた、他の男性への見下しを学ぶということでしかないのですから。
     だって師匠のロジックは一般の、その辺にいる善良な男性も「お前もペド犯罪者と連帯責任だ!」と噛みついてるのといっしょなんだから、むしろ元ペドは「俺は一般の男どもよりマシ」との勘違いしきった自尊心を得ることになる。彼らは「過ちを犯したが、生まれ変わり、愚民どもには理解できぬ真理に到達した自分」という物語を紡ぎ上げることになるでしょう(上の元ペドさんにはそうした傲慢な勘違いは、全然感じないのですが)。
     治療効果は期待できないし、悪影響は甚大、と考える他はありません。
     本書ではカウンセリングでペド犯罪者にフェミを注入するという記述があります。女性スタッフと対等に接する様子を彼らに見せることで、男女平等意識を学び取ってもらうのだそうです(250p)。
     何だそりゃ。
     その一方で「ペドは(大人の)女が怖いのだ」というのだから、もう滅茶苦茶。まあ、師匠の中では辻褄があっているんだろうなあ、という感じはひしひしとするのですが。
     こうした倒錯した「治療法」は師匠がフェミニズムの偏向にどっぷりと浸かっているがために生まれたものですが、大変残念なことにこれは、問題のピントをボケさせることにしかならないのです。

    *2 ただ、この記述は少々不自然という気もします。というのもこの元ペドさんは現在、五十代後半だそうで、大学生の頃は八十年代後半のはず。その頃、いわゆる「ショタ」系のエロ漫画というのはゼロではありませんが、ほとんどありませんでした。BLの中にそうした描写があったのかと思いますが、BL雑誌自体が非常に少なかったし、今、BLと聞いて想像するような「萌え絵」でも「エロ」でもありませんでした。仮に嘘ではないなら、下手すっとこれ、『風と木の詩』みたいのじゃないかなあ……。

     ――さて、結構なページを費やしてしまいましたが、「認知の歪み」はまだまだ続きます。
     今回は斉藤師匠の「認知の歪み」はどこから由来するものかを考え、それが全てフェミニズムからの直輸入であることを明らかにしました。
     ぼくたちは子供たちを守るために、一刻も早くフェミニズムの危険性を世間に周知させねばなりません。
     次回はもうちょっと斉藤師匠の言説に耳を傾け、「表現の自由クラスタ」との比較検討を行ってみましょう。いや、そこでやはり表現の自由クラスタの「認知の歪み」がフェミニズムからの直輸入であることが明らかになり、ぼくたちは子供たちを守るために、一刻も早くフェミニズムの危険性を世間に周知させねばならないという結論が出ることはもう、わかっているのですが……。