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    • 2023/06/09
      まなざし村という言葉を使いたがる人たちをまなざしてみる(再)

    上野千鶴子師匠が山梨市での講演会を中止にされそうになった件(再)

    2023-06-03 19:35
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     半月前にうpしたものですが、乳首を無修正にしていたため、消されました。
     修正の上、再うpします。
     それと、『WiLL Online』様の記事もよろしく!!


     さて、相変わらず上野師匠についての再録です。
     書かれたのは2014年3月22日。十年近く前ですね(ここしばらく、初出の年度を記すの、忘れてましたが)。
     ともあれ時事ネタなどはわかりにくくなっている面もありますが、重要なのはフェミニストたちが「エロティックないい女」という勘違いしきった自己像を抱いていたこと、そして子供の性を搾取し続けていたこと。
     そこをご確認いただければ幸いに存じます。

     *     *     *

     もう、下手をすると二十年くらい前の話でしょうか。
     まだフジテレビが元気だった時代の24時間テレビ。フジ系列の地方局を巻き込んで、賑やかな放送が行われておりました。
     どっかのド田舎の局アナが、一生に一度の晴れ舞台とばかりに学ランセーラー服のコスプレ姿ではしゃいでいるのを、総合司会のビートたけしが困った顔で眺めていた様子を思い出します。で、そのセーラー服の女子アナが一くさり自局の紹介だか何だかをやった後、たけしさんがこうボケたのです。

     ――いやあ、さすがはAV界の百恵ちゃん、すごいお色気ですねぇ!

     爆笑でした。
     いや、こう文字に起こしても面白さは伝わらないでしょうが、この一言にはその女子アナの「いい歳してセーラー服を着ていることの、妙な猥雑さ」「地方局の田舎臭さ」が的確に表現されていたわけです。

     さて、そんなこととは何の関係もなく(またこういう掴みかよ)。
     またまた上野千鶴子師匠が話題になっています。
     山梨市が介護に関する講演会の講師として上野師匠を招いたことが物議を醸し、一旦は中止を決定したものの、師匠側の猛抗議で予定通り開催となった、といった事件があったのです。
     こうしたことは世間では結構重大な事件と捉えられるらしく、『朝日新聞』や『毎日』、『東京新聞』の全国版でも経緯が伝えられました。
     さて、講演会の中止については、師匠が『朝日新聞』の人生相談で性に悩む男子中学生に対して「熟女にやらせて、と頼めばいい」などと回答したこと、『セクシィ・ギャルの大研究』、『スカートの下の劇場』などの著書が問題だとして、市民からの抗議が10件ほど寄せられたのがきっかけだとのこと。
     結果、師匠は講演を行う代わりに「介護以外の話をしない」という条件を呑み、また「講演料を市に寄付する」旨を表明したそうです。
     まあ、正直この件そのものに、ぼくは実のところあまり興味もなければ、ジャッジするだけの見識もありません。
    「介護の話しかしない」と約束させた時点で両者がうまい落としどころを見つけた、win-winだという考え方もできますが、恐らく誰も納得しないリクツでしょう。
    「講演料が師匠の懐に入らずにすんだ、大勝利」とする向きもありますが、想像するに師匠、講演なんて年に何十回もやって五兆や六兆のカネは稼いでいるはず(羨ましい限りです)。その一回分を寄付するだけで「男を上げる」ことができたのですから、むしろ純粋な「ケンカ」として見れば上野師匠の大勝利でしょう。
     何よりぼくとしては、近年、反論から逃げ回っているだけの師匠に久々にでっかいケンカをさせ、「ケンカ師・上野、いまだ衰えず」といったイメージを形成させたことが、何だかムカつきます。
     また、そもそもこうしたやり方はどうしたって師匠側に「被害者」との称号を与える結果となります。類似のことは何度か述べていますが、フェミニズムとは実生活では「女性ジェンダー」を演じることが敵わなかった女性がガクモンの力で「女性ジェンダー」を獲得する一種の「援助交際」であり、男性が考えなしにつっこんでいってもドクさべたち同様に「加害者」の役割を期せずして演じさせられてしまう可能性が高いのです。
     師匠は2008年にも、つくばみらい市における男女共同参画講演会が直前に中止されてしまった件を「バックラッシュ」だとしてしつこく採り上げていました。並の一般人では師匠の影響力に敵わない以上、こうした反対運動は結局、利敵行為になる可能性が高いと思われます。

     ――では、どうしろと?

     そうですね、地味でも、上野師匠についての洞察を深めていくことこそが、まずはなされるべきなのではないでしょうか。
     当エントリでしばし、師匠の言動を追ってみることとしましょう。

     まず、今回一番問題になったのは『朝日新聞』での人生相談です。これは近年の事件で、ネットでも話題になったため、クレーマー側も上野師匠に打撃を与えられると踏んだのでしょう。
     これに対して、師匠は自らのサイト*で反論しています。

    「熟女にお願いしなさい」という回答のどこが問題なのでしょうか。「依頼」であって「強制」ではありませんし、「相手のいやがることはぜったいにしないこと」それに「避妊の準備も忘れずに」と書いてあります。淫行条例に違反するという指摘もありましたが、中学生に性交を禁じる法律はありません。成人が児童(18歳未満だそうです)に「みだらな行為」をすることは禁止されていますが、中学生が大人に「お願い」するのを禁じることはできないでしょう。15歳といえば昔なら元服の年齢。妻を娶ることもできました。

    「お願い」まではOKでも、熟女側が承諾して行為に及んだらアウトやん!
     フェミニストというのはこういう、普通なら苦し紛れにでも言わないような言い逃れを真顔でおっしゃる方ばかりで、どうにも唖然とします。まあ、ホモが小学生をレイプしていてもスルーし、それを称揚するキ○○イを大絶賛するのがフェミニストですんで、今さらこんなことで驚く方がアホなんですけどね。
     ただ、ぶっちゃけると、本件でどちらに分があるかどうかは、ぼくにはわかりません。一番悪いのは市長のどっちつかずの態度でしょう。問題だと思えば抗議などなくとも中止すればいいのだし、上野師匠に文句を言われようと動じなければよいのです。
     が、上野師匠もやはり具体的な個人、それも中学生に上のような忠告をしてしまったことはいささか軽率だったでしょう。

    *山梨市講演会中止について ちづこのブログNo.64 | WAN:Women's Action Network

     さて、問題の人生相談を見てみると、以下のような記述があることに気づきます。

    経験豊富な熟女に、土下座してでもよいから、やらせてください、とお願いしてみてください。(中略)わたしの友人はこれで10回に1回はOKだったと言っています。


     当ブログをずっと読んでくださっている方(何人いらっしゃるかは知りませんが)は何か思い出すのではないでしょうか。もう随分前、旧ブログでぼくは二十年以上前の別冊宝島における師匠の発言を引用したことがあります。

    ・女の子を誘うことはゲームだと割り切って、とにかく十本だけ電話をかけまくってみてください。十本電話をすれば、必ず一人は応じてくれます。私が保証します(笑)。


     あれあれ、言っていることが何だか似てますね。
     詳しくはリンク先の記事をお読みいただきたいのですが、二十年前、バブルの頃の師匠はむしろ、こういうキャラだったのです。
     当時は恋愛マニュアル誌というものが何誌も出され、世の男たちはいかにかして女性をデートに誘うかで頭がいっぱいでした。いや、本当にそうだったのかどうかはよくわかりませんが、とにかくメディア側はそうした前提を共有し、「女は男を選り取り見取り」「男は女にモテようと土下座せんばかりの勢い」といったイメージを垂れ流しておりました。男たちが女に疲れ果て、女が必死の形相で婚活にかまけている今からは、隔世の感があります。
     師匠が世に出たきっかけは本件でも問題とされた『セクシィ・ギャルの大研究』(1982)なのですが、(上のリンク先の繰り返しになりますが)その内容は肌も露わなセクシィ・ギャルの広告写真をいっぱい並べ立てて男の目を惹き、しかる後、「こんなの女性差別だ!」と言い立てるというだけの、他愛のないものであったと記憶します。誰だったか失念しましたが、本書を「女子大生の卒論レベル」と評していた人がいました。要するに「当時のフェミニズムで流行っていた“性の政治学”みたいなロジックを、当時の“ナウい”文化であった広告の世界に当てはめて一丁上がりの、お手軽な論考」といったことですね。
    スカートの下の劇場』(1989)も同様で、女性の下着の図版をやたらと満載し、男は見る主体であり女は見られる存在であり云々とわざわざ言うほどでもないことを並べ立て、しかる後、「こんなの女性差別だ!」と言い立てるというだけの、他愛のないものであったと記憶します(両者とも、大昔に読んだきりなのですが……)。
     師匠の発言を読み進めると、ご自身の著作をこう評されています。

    『セクシィギャルの大研究』『スカートの下の劇場』をきちんと読んでみてください。いずれも実証研究にもとづいた、そうは見えないけれど学術書です。『セクシィギャルの大研究』はCM写真の記号論的研究、『スカートの下の劇場』は下着の歴史研究です。


     そう、まさに「学術書」の皮を被った、下着なり女体なりを扱った書籍を出版することこそが師匠の目的でした。
     いえ、ぼくはこれらを「学術書ではない」と糾弾しようとしているのではありません。ぼくがこれら80年代後半の、師匠の絶頂期の著作を見ていて感じるのは、徹底した師匠の被愛妄想なのです。
     ……いえ、それもちょっと違いますね。「被愛妄想」はさすがに師匠に失礼でしょう。これら内容の薄い本が爆発的に売れていた(あとがきにそうありました)のですからこの時、確実に師匠は「オヤジたちから愛されていた」のです。
     この時期は、師匠の「オヤジへの愛」がこうした形で成就していた、師匠にとっての黄金期であった、ということを、ぼくは指摘したいのです。
     クレーマーたちは見落としていたようですが、師匠の「ケシカラン著作」の一つに『女遊び』(1988)というものがあります。全体的には、絶頂期の師匠があちこちで書き散らした雑文を取り留めもなくまとめた雑文集、といった感じなのですが、しかしそれでも「編集上のテーマ」は明確です。
     上に挙げた表紙をご覧いただければわかる通り、本書には女性器をモチーフにしたフェミニズムアート()が表紙を始め本文中にもふんだんに掲載されています。似たことをなさっている「ろくでなし子」さんというフェミニズムアーティストがいらっしゃいますが、こうしてみるとフェミアートというのが大変に画一的伝統芸能的であり、これではオタク界に大勢いる女性エロゲンガ-、女流エロ漫画家などには敵うべくもないことがよくわかりますね。
     書き下ろしであるまえがきは「おまんこがいっぱい」と題され、六歳の甥と「チンチンチンチン」といっしょに叫んでは大はしゃぎしていたこと、そしてこの男の子が十二歳にまで成長した頃には

     わたしがチンポのケ! と叫ぶと、コドモはオバに呼応してくれなくなって、それどころか恥ずかしがって顔をそむけた。オバはますますチンポのケ、と言いつのり、チンポのケを一本くれたらお年玉をはずむのになあ、とコドモをからかうが、コドモはもう一緒にはしゃいでくれない。


     などとセクハラを働いたことを自慢げに書き綴ります。
     ○ねばいいのに
     と思いつつ読み進めると、師匠は

     こんなふうに書いているとわたしは、他人が驚くからワキ毛を見せる、学会の黒木香みたいな気がしてくる。


     などとうわごとを書き並べ出します。
     考えると彼女の弟子である千田有紀師匠も『上野千鶴子に挑む』の中、彼女を繰り返しそのように形容していましたし、北原みのり師匠も『アンアンのセックスできれいになれた?』の中で黒木香さんを持ち上げていました。
     これはまた、藤本由香里師匠が自著で「娼婦になりたいなりたいなりたいなりたい」と繰り返していたことも、思い起こさせますね。
     黒木香さんって、フェミニストにとってそんなに萌えポイントを突く存在なんだろうか……と思ってしまいますが、単純にこの人たちの(この時期の)脳内に浮かび上がる「セクシーな大人の女」像が黒木香さんだったというだけのハナシなのでしょう。
     そしてこの醜悪なまえがきは

     おまんこ、と叫んでも誰も何の反応も示さなくなるまで、わたしはおまんこと言い続けるだろうし、女のワキ毛に衝撃力がなくなるまで、黒木香さんは腕をたかだかとあげつづけるだろう。


     などと言って結ばれています。
     よかったですね、誰もそんなことでは驚かない時代になりましたよ!
     あ、だから新ネタで弟子たちがホモのコドモへのレイプを推進しているのか(笑)
     何だかフェミニストの黒木さんへの片思いぶりが痛々しくも感じますし、上野師匠がいまだ六十ヅラ下げて○ンコマン○と叫んで(誰からも相手にされなくなって)いるのに比べ、多分黒木さんは今頃手堅く事業でもやってるんじゃないかな……と思ったりもします。
     この「学会の黒木香」というフレーズ、何だか「AV界の百恵ちゃん」を想起させないでしょうか。
     フェミニストたちの「エロティックな、いい女」という自己像と、客観的に見た時の惨状とのあまりにも大きな乖離。
     例えばですが、思春期の少女が初めてのお化粧でメイクのやり方がわからず、化け物のような顔になってしまい……みたいなシークエンス、いかにも微笑ましいですが(こうしたシークエンス、少女漫画では多そうですが、処女性を重視する萌え系の作品ではあまり見られない気がします)、フェミニストいうのはついぞ男友だちも、そして一般的な女性の友だちもいないままここまで来てしまったがため、この歳になるまで自分が化け物メイクをしていることに気づけずにいる存在である、と言うことができそうです。
     それを見た時に感じるのは、それこそ「クチャーズ」ではありませんが、昭和のエロ本を今開いて見た時の、「あぁ、当時の人たちはこんなもので頑張っていたんだ」という感慨と、大変に近い。

    ■参考資料


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    フェミニストと同じくらい「エロティックないい女」の具体例

     いや、師匠たちの姿はぼくの目には当時から惨憺たるものであったけれど、師匠たちの言う「オヤジ世代」には何とか通用していたんだろうな、と考えるのが正しいでしょうか。
     先に、「フェミニズムとは援助交際である」と書きました。そう、少なくともこの時期のフェミニズムはエロを前面に出した本を書けば出版社のオヤジに出版してもらえるという、ボロい商売でした。
     いえ、師匠たちなりに苦心して原稿を書いていただろうことまでは否定しません。重要なのは、師匠が「学術書だ」と強調しているように、彼女らが「私があくまで学術的な意図で性に関する研究書を著したのに、いやらしいオヤジたちがそれを好奇の目で眺めて……」という「状況設定」を死守したがっていることなのです。レディースコミックを見ると「私はその気はないのに男が私を求めてきて……」といったおハナシばかりですが、要するにそれと同じことですね。
     これはまた、ちょうどフェミニズムバブルの一歩手前、80年代に内田春菊的な「セックスを描くことを売りにする女流漫画家」がこの世の春を謳歌していたこととも重なります。彼女らも常に「アタシはありのままのことを描いただけなのに、ウザいオヤジたちがアタシの描くセックスに好奇の目を向けてくるのよねー」的なムカつく態度を取りつつ、客観的に見れば彼女らが男に構ってもらいたいのがモロバレ……といったムザンな様相を呈していたものです。いえ、当時はそうした作家が神の如くに崇められていたのですから、彼女らをそのように感じていたのは、ひょっとしてぼくだけだったのかも知れませんが。
     しかしこの後宮台助教授が出現し、メディアは援交女子高生一色になり、フェミニズムは衰退を迎えます。上の著書群はそうなる前の、「師匠という花火の最後の一瞬の輝き」であることがわかります。

     最近、エロゲが斜陽だと言われます。
     ゼロ年代の前半くらいまではオタク文化の花形であったエロゲですが、何しろこれは制作費がかさむシロモノで、大手以外はおいそれと冒険できなくなってきたのです。最近は廉価版のものが増えてきました。お話的にも本当に短く、ヒロインもちょっと前までは最低でも三人は出てきたはずが、二人、下手をすると一人きりという何とも寂しいものが増えてきました。
     彼女らの状況もこれと同様です。
     バブル期、女性は絶頂期を迎え、「メディア」という名の「エロゲ」では多くのヒロインが登場、その中には「フェミニスト」という名の「ツンデレ」「ヤンデレ」キャラまでがキャスティングされていた。そこまでニッチなニーズにお応えする余裕が、メディアにあった。
     しかしもはやそうした胆力が、メディアにはありません。
     いや、まあ、不況になって以降、フェミニストは何のことはない、「行政」という新たなオトコを見つけてみんなの血税をジャブジャブ使って豪遊を続けているんですけどね。
     その意味で上野師匠から講演料をふんだくったクレーマーは取り敢えずよし、という気もしますが、それにしたって全体から見ればごく少額でしょう。
     女性センターなどのぶん取る予算をホームレス対策に投じれば、何名の尊い人命が救われるのかなあ……とも思ったりなんかもするのだけれども、今日も税金は無駄に使われ続けるのでありました。
     めでたしめでたし

  • 兵頭新児のレッドデータコンテンツ図鑑③『うる星やつら』高橋留美子――ヘテロセクシズムの作家

    2023-06-02 23:143

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     上野千鶴子師匠の再録がまだまだ控えているんですが、今回は新規記事です。
     それと、前々回の再録(「上野千鶴子師匠が山梨市での講演会を中止にされそうになった件」)が削除されてしまいました。恐らく、パイオツ画像を無修正でうpしてしまったためと思われます。
     ともあれ、明日上げ直しますので、未読の方はチェックをお願いします!
     それと、『WiLL Online』様で新しい記事が掲載されています。
     どうぞ、応援をよろしくお願いします!!

     

     *     *     *

     世代を超え、老若男女に絶大な人気を誇る覇権アニメ、『うる星やつら』。
     リメイク版第一期は終了しましたが、後半で「消・え・な・いルージュマジック」が放映され、腐女子界隈が騒然となったことは記憶に新しいかと思います。

     ――すまん、俺今、テキトー言ったわ。
     別に知らんけど、多分騒然とはなってないと思う。なってたぞというお友だちはコメント欄で教えてね。
     いえ、何のことはありません。同話にはラムちゃんの作った、「惹かれあうルージュ」というアイテムが登場します。ラムがそのルージュを引き、あたるの唇にも塗ると、お互いはキスをしてしまう――というわけで、しかし当然あたるは塗ることを拒否。面堂もラムとのキスを狙ってルージュを引いたものの、あろうことかラムにルージュを塗られたあたるとキスしてしまう、というお話。
     もちろんキスシーンはギャグとして描かれるわけですが、そのシーンに腐女子は大騒ぎ……したのかなあ。
     何とはなしにあんまり騒がなかったんじゃないかとぼくが思う理由は、高橋留美子という人物が徹底的にヘテロセクシズムの人だから、なのです。
     主にBLにおいて『ジャンプ』作品が餌食にされがちなのは、それが「ホモソーシャル」の世界だから。「男が男に惚れる」という状況が普通に描かれ、もちろんそこに性的要素は一切ないのだけれども、その純粋さに、腐女子は惹かれるのです。
     翻って『うる星』は徹底してニヒリズムの作品であり、ことに男性原理の否定そのものがテーマといっていい作品でした。以前にも書きましたが、80年代は今までの「正義」が完全に否定され、相対化された時代でした。だから本作においては敵に「男同士正々堂々と勝負だ!」と宣言された瞬間、主人公側が敵を集団で背後から不意打ちする――といったギャグが盛んに描かれました。
     そうした、少なくとも当初はかなりドライなギャグ作品であったものが、ラムちゃん人気から本作はラブコメへとシフト。中期からは必然的に「恋愛」が「正義」に変わる絶対の価値観として描かれるようになったわけです。そうした作品のパラダイムシフトは作者にとっては計算外だったでしょうが、男女関係の描かれ方、それ自体には当然、作者の価値観が大きく反映されているはずです。
     だから、あたると面堂の間には一切、精神的つながりが描かれない。これは全作を通して恐らく徹底されていたはずです。何故かとなれば、それは二人が恋敵だから、「そうでなければならない」というのが作者の論理だったからです。
     ここにセジウィックの「三角関係の物語の、その恋敵であるはずの男性同士にこそ心のつながりがある」とするホモソーシャル論は無残にも瓦解するのです。
     考えれば後期以降は希薄になるものの、ラムとランは「恋敵で親友」という描かれ方がなされており、やはりこれは高橋が当時としては驚くほど男性心理を熟知した作家と言われてはいたけれども、実際にはそこまで知識も関心もなかったからではと思えます(もっとも、ラムとしのぶの間に驚くほど精神的交流がないことを考えれば、高橋はシスターフッドの作家……というわけでもないでしょうが)。

     さて、そんな『うる星』の中期には、極めて印象的な新キャラが登場します。そう、藤波竜之介ですね。高橋自身がこのキャラこそが本作の長期連載を可能にしたと評した重要なキャラですが、実のところこの子って自分自身のジェンダー(或いは父子関係)にこだわるばかりで、恋愛には絡まないという、考えてみれば妙なポジションのキャラなんですね。
     しかし、登場初期にはしのぶと「フラグ」めいた描写があったことも、今回の再アニメ化で思い出すこととなりました。
     即ち本作の、高橋留美子の論理では「ホモは悪だが、レズは正義」なのです。
     いえ、正義/悪という概念そのものが、恐らく本作にはないことでしょうが、要するにホモは完全に概念外の、ただただおぞましい何かであるというのが本作の論理と言えます。だからこそ先の面堂とあたるのキスは、純然たるグロシーンとして、効果的なギャグとなる。
     一方、しのぶは竜之介に迫られた(と勘違いして)妙にドキドキしています。本作の当初はラム→あたる→しのぶ→面堂→ラムの四角関係(ラム→あたる→ラン→レイ→ラムとの四角関係もあったけれども、今一顕在しないままフェードアウトした感じです)が設定されていました。しかしこの時期はその路線が頭打ちとなりつつあり、新展開が求められ、恐らく当初はこの百合的な関係性も模索されていた。しかしあまり顕在化しないままに終わった感じです。しかしいずれにせよ、ここにはぼくが時々持ち出すラカンの「異性愛とは女に欲情することである」というテーゼがはっきりと立ち現れています。女の子という輝かしく晴れがましい存在へと、誰もが心を奪われる。それは女の子同士であっても変わらない。しかし男の子は自らの中にそうした輝かしく晴れがましい「エロス」を持っていない。よって男の子はいかなる犠牲を払おうと女の子という賞品をゲットしようとする。女の子は、それだけの価値があるのだから。
     逆に言えば、レズは「女の子に欲情すること」である以上、「ヘテロセクシャルの一種」とも言い得るわけです。
     それが高橋留美子の世界観であり、まあ、80年代の世界観でもあり、そしていまだ継続中の世界観でもあります。
     だから竜之介は「ついつい習慣で、男らしく振る舞ってしまう」ことに苦悩はしても、自分自身が女であることに、全く迷いはない。おそらく作者にとって、「男性ジェンダー」というのは全く想像の埒外であり、関心の外にあるものでしかなかったはずです。
    「俺は女だ!」が竜之介の口癖であるのは『俺は男だ』(という往年の青春ドラマ)のパロディであり、先に書いた作品のテーマが「男性性の否定」そのものであることを表していますが、同時に竜之介がジェンダーに揺らぐ存在では全くないことを、示しています。
     同時にだからこそ、あたるは平然と竜之介を口説きます。竜之介がいかに男の子っぽくあろうと、あたるにとっては単に美少女として認識され、そこに迷いはない。一方、かなり後期に、言わば竜之介のお相手として「渚」という「男の娘」が登場してきます。彼は登場した当初、完全に美少女として演出され、しかし途中で「男であった」と判明。その場にずっと同席していたあたるも面堂も、「なるほど、あの娘に食指が動かなかったのが不思議だったが、道理で」と納得します。
     そう、男の正体を現したとたん、渚はその描かれ方も妙に険しい表情で肉体も曲線が少なく描かれ出し、いかにも男然としてくる。そこに、「あんな可愛いなら男の子でもいい!」といった反応は微塵も見られない。その意味で上には「男の娘」と記述したものの、彼は恐らく「男の娘」ではない。そんな感覚(男を、恐れ多くももったいなくも女の子という晴れがましい存在に比肩し得るものとして描くことなど)は高橋留美子にとって想像の埒外だったのです。

     これはまた、80年代のオタクの「ジェンダー観」でもありました。
     いつも言うように、80年代は「女の時代」。フェミニズムバブルが起きるのは、かなり末期頃のことではありますが、それ以前から(何なら70年代から)「女が強い、女が強い」と繰り返されていたのです。
     オタク男子が当時描いていた、ある意味『うる星』エピゴーネンとも呼ぶべき漫画では「幼女」が何故か強く大活躍、次々と「男」をぶち殺していく。しかしその「幼女」はそのことに一切の屈託がなく、ある種のピュアさ、幼児性を保ったままでいる。「男」はそれこそ『うる星』の仏滅高校総番のような、人間とも思えない化け物めいた形で描かれる……以上はあくまで例えばですが、要するにそんな感じの作品が、当時は多かったのです。
     ここには「戦い」の無為さ(学生運動が敗北したことが象徴する、イデオロギー、正義の無価値化)と共に、徹底した「男性」そのものの無価値化が描かれていたのです。
     オタク文化の勃興期がこの頃であること自体、「男が弱くなった」ことと無関係ではありませんが、いつも言うように「弱い男の子」であるオタクは一般的な男性と比べても、男性アイデンティティを構築することが困難であった。そんなわけで自らの創作の中ですら男性としてのアイデンティティを表現することができなかったわけです。
     当時の「薄い本」では「触手やメカが美少女を襲う」というモチーフが流行したのもそれが理由だし、上に挙げた例はそこから「アダルト要素」を抜いたものなんですね。

     もっとも、『らんま』辺りになるとその辺もちょっと変わってきます。「男の子が女の子に変身して、お色気シーンが描かれる」というのがこちらのキモでした(編集者にお色気描写を迫られ、しかし抵抗があったがため「男の子のお色気シーン」を売りとする漫画が生まれた……と何かで読んだような気もしますが、記憶違いかも知れません)。
     もっとも、女らんまはバンバン脱ぐ完全なお色気要員として描かれるものの、そこで乱馬がだんだんジェンダーも女に寄ってくるといった描写は皆無。その意味で本作にジェンダーの揺らぎは微塵も見られないけれども、同時に「しかし、にもかかわらず、身体が女というだけでお色気が成り立ち得る」という状況は、上の説が正しいならば作者の思惑と離れたところから生まれた偶発的なものであり、描いていて高橋も結構、自分自身で驚きと発見を感じていたのではないか……といった想像もしたくなります。
     そうなると作者自身のジェンダー観にも変化が生まれるのか、それとも単に時代の流れか、本作では乱馬と良牙が「熱烈に」仲直りしているシーンを見たかすみとなびきが「友だち以上って感じ」と腐女子的な評し方をするシーンがあり、「あのヘテロセクシズムの作家が」と感慨を受けました。
     実は『劇場版セーラームーンR』でも美少女戦士たちがBL話に花を咲かせるシーンがあり、「もはや美少女戦士も高橋留美子もBLに萌える時代なのか」と感じ入ったものです。
    (これも端的には「ホモをレズがやっつける」という、ある意味『うる星』的な物語ではありました)
     この辺りはもう、今回の「高橋留美子論」から離れますが、ともあれBLの隆盛は、「女性のブス化」と密接に関わっています。
     言わば『うる星』の時代は男の子だけがジェンダーの揺らぎを覚えていた(女の子はずっと晴れがましい存在のままであった)のが、フェミニズムの成果で、女の子もジェンダーの揺らぎを覚えるようになった。萌えキャラが男の子のその緊急避難先であるのと同様に、女の子もBLへの撤退を余儀なくされた。
     それが、90年代であったのだと思います。

  • 女ぎらい――ニッポンのミソジニー(その3)(再)

    2023-05-26 19:57

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     さて、再録です。
     本書については既に二回記事にしているのですが、今回再録したものはそれらが書かれて数年後に、また別な角度からレビューしたもの。2016年の1月24日に書かれたものです。
     基本は表現の自由クラスタが上野師匠を担ぎ上げ、「上野師匠はポルノ擁護派だ」とのデマの限りを尽くしていたことに関する記録になっていますが、同時に師匠がポルノ全否定派であることの説明にもなっています。
     ともあれ、表現の自由クラスタとフェミとはがっちりと手と手を握りあっていたことを、ここで再度確認しておきましょう。

     *     *     *

    『女ぎらい――ニッポンのミソジニー』は、上野千鶴子師匠の比較的近年の著作です。
     比較的近年でありながら、そしてまた「ミソジニー」というナウい片仮名言葉を掲げながら、内容は旧態依然とした千年一日の、古拙で偏狭で低劣なフェミニズムが語られるだけの本なのですが。
     なのですが先日、togetterにおいていわゆる「表現の自由」を標榜するリベラル君たちが、よりにもよって本書を根拠に「上野千鶴子はオタクの味方だ」論をぶち上げておいでだった*1ので、久し振りに本書を読み返す機会を持ったのです。
     本書については出版当時にも、詳しく触れました*2
     しかし今回は、先のような事情から専ら上野師匠の「ポルノ観」を推し量る目的で、本書をレビューしてみましょう。

     さて、リベラル君たちは本書の80pを根拠に「上野師匠はポルノを否定してはいない」と断言しました。

    想像力は取り締まれない――それが多数派のフェミニストが暴力的なポルノの法的な取り締まりを求めることに、わたしが同調できない理由である。

    日本でもポルノ規制をめぐって、一部のフェミニストとコミックライターや作家とのあいだに「表現の自由」論争が起きたが、わたし自身は、フェミニストのなかでも「表現の自由」を擁護する少数派に属する。

     との箇所ですね(師匠が少数派ということはフェミニストの多数は敵ということになる気もしますが……)。
     師匠は近年、この種の発言を繰り返す傾向にあり、「うぐいすリボン」という「表現の自由クラスタ」の総本山とも言える組織の集まりでも、近しいことを言っていました*3

     ――なるほどなるほど、確かにそれは彼ら「リベラル君」たちの方が正しいのではないか。

     さて、どうでしょうか。
     ぼくは幾度も主張してきました。
     上野千鶴子師匠はポルノを全否定している、と。
     そしてその根拠として、ぼくもまたやはり、本書を挙げてきました。
     何しろ本書の57pで師匠ははっきりと

    売買春とはこの接近の過程(引用者註・男女のおつきあい)を、金銭を媒介に一挙に短縮する(つまりスキルのない者でも性交渉を持てる)という強姦の一種にほかならない。


     とおっしゃっているのですから。
     言うまでもないことですが、ポルノは「売買春記録物」です。
     つまり、上野千鶴子師匠はあらゆるポルノは強姦だと断言なさっているのです
     何しろ別の記事ではもっとすさまじく、

    たとえば、売春業が「強姦の商品化」だとすれば、キャバクラは「セクハラの商品化」である。

    やはり、風俗は完全になくすべきだという結論以外にない。


     とまでおっしゃっているのですから*4
     しかし、一体全体どうしたことか、先の引用を目の前に突きつけられても、表現の自由を人命よりも尊いと考えるリベラル君たちは、上野師匠は味方だと頑迷に主張し続けました。電鋸雛菊という御仁などは特にすさまじく、こちらを「ノロマ。愚図。印象論者。デマ野郎。ゴミ論者」などとただひたすら口汚く罵り続けました。そのヒステリックさ、幼児退行ぶり、自らに逆らう者への憎悪、過剰な攻撃性は、見ていて心配になるほどです。
     客観的事実を提示されてもそれを受け容れることが決してできず、自分たちのついた嘘を押し通そうとその嘘を指摘した者に殴りかかり、「『ヤツはデマを流しているのだ』とのデマ」をあちこちに垂れ流すというのはフェミニストやその信奉者の共通の、もう、本当に、唖然とする、呆れ返る、これまでに何十回となく繰り返されてきた振る舞いです。
     果たして、彼らの狂信性は一体、何に端を発するものなのでしょうか?

    *1 次の「火のないところにフェミが放火する案件」京都市営地下鉄戦(http://togetter.com/li/926415
    *2「女ぎらい――ニッポンのミソジニー(http://blog.goo.ne.jp/hyodoshinji/e/dc90697177363f41f96dc39e97bc0afb)」
    「女ぎらい――ニッポンのミソジニー(その2)(http://blog.goo.ne.jp/hyodoshinji/e/95f2f4056c4af4fa29d1bab7fea658bc)」
    また、上野師匠のオタク文化に対するスタンスについての、当時のぼくの見解は「チェリーボーイの味方・上野千鶴子の“恋愛講座”(http://blog.goo.ne.jp/hyodoshinji/e/96a9d5b36e737a4e69b17831efbdefc9)」
    *3 堺市立図書館BL小説廃棄要求事件を振り返る(http://www.jfsribbon.org/2012/10/bl.html
    *4「上野千鶴子氏 売春は強姦商品化でキャバはセクハラ商品化(http://www.excite.co.jp/News/society_g/20130609/Postseven_191042.html)」


     ぼくに先の箇所を突きつけられた時の、リベラル君たちの反応は以下のようなものでした。

     1.エロ漫画、エロアニメなど現実の女性の関わらない表現であれば、「売買春記録物」とならない。師匠がポルノを「全」否定している、というのは兵頭のデマだ。
     2.実写などでも「写真集」などは「売買春記録物」ではないものもあり得る。

     なるほど、先の『女ぎらい』出版当時のブログでもぼくは

    仮にですが、上野センセイのお考えが、「あらゆるポルノを女性差別として否定する、しかし非実在少女をモデルとしたエロ漫画、エロゲーだけは認める」というものであれば、筋が通っているとは思います。


     と注釈を入れはしました。
     しかし、では、「上野師匠はポルノを“全”否定はしていないのだな」とお感じになるでしょうか?
     少なくとも、映像を記録する技術が開発されて以降は、「売買春記録物」、即ちセックスをしている場面の記録が、ポルノのメインと言えるはずです。そこにいくつかの抜け穴があるから“全”否定などしていないのだ、と言われて、納得できるでしょうか。
    「写真集」で「売買春記録物」でないものもあるというのもまた、おかしなリクツです。師匠は「風俗」を全否定しているのですから、「風俗」の中に「本番」のないものもあるからいいのだといった抜け道を認めていないのは自明です。そんな師匠が「性交に至らない写真ならばOK」といった抜け道をお認めになるとは、とても思えません(しかし彼らは、上野師匠の言を無理やりにねじ曲げて、「彼女はぼくたちの味方なのだからこれこれのようにお考えに違いない」とただひたすら根拠のない妄想を繰り広げ続けるのです)。
     そもそも、では、一億歩譲って、師匠が彼らの言う通り「本番のない実写ポルノ」、「アニメなど二次元のポルノ」だけは認めておいでだとして、しかし「性交している実写ポルノはNG」だとする師匠を、彼らは首肯するのでしょうか。児童ポルノの単純所持が禁じられようとした時は、あれだけ「実写の禁止を容認すれば、今度はイラストなどの禁止もなされることは明白だ」と何でもかんでも反対していた人たちが、フェミニストの言うことになるととたんに寛容になるのは、不思議としか言いようがありません。
     彼らは「たっ君ママ」です。
     彼らはたっ君を溺愛するママであり、一方、近所のムカつく宮本のガキ*5を憎悪しています。彼らはたっ君がテストで10点取ったことを、宮本のガキの7点に比べ大変な好成績だとして、先生に合格点をつけることを強要します。ですが実のところ、クラスのみんなはもっと努力して平均点は80点を超えていたのです。
     だってそうですよね、一般の女性はポルノにそこまでの拒否感を示しはしない。ましてやオタク界には、自らものすごいエロ漫画を描いてくれる女子が大勢いる。つまり秀才揃いの「オタク学校」にはテストで100点を取る女子が大勢いるにもかかわらず、彼らはたっ君と宮本のガキにしか目が行かず、周囲の現実がどうしても呑み込めないのです。

    *5 彼らの「仮想敵」として決まって彼らの口から出て来るのが宮本潤子師匠です。正直この人がどれだけの影響力を持つのか、ぼくにはわからないのですが、彼らの村には上野師匠と宮本師匠以外の女子が一人もいないということが、大変よく理解できますね。

     本書を読めば読むほど、上野師匠が(あくまで、法的規制に賛同していないだけで)徹底的なポルノ否定派であることが伺い知れます。
     何しろ、本書を開くとまず一番最初のページ(7p)で、

    ミソジニーの男には、女好きが多い。「女ぎらい」なのに「女好き」とはふしぎに聞こえるかもしれない。それならミソジニーにはもっとわかりやすい訳語がある。「女性蔑視」である。女を性欲の道具としか見なさないから、どんな女にもハダカやミニスカなどという「女という記号」だけで反応できる。おどろくべき「パブロフの犬」ぶりだが、このメカニズムが男に備わっていなければ、セックス産業は成り立たない。


     などと書いているのですから、ぼくたちが女体に性的興味を覚える以上、ぼくたちは「ミソジニスト」の誹りを免れないのです。
     いえ、そればかりではありません。254pでは、男性が女性を「守りたい」と考えることすらもが女性を蔑視した、許されざる差別的な考えだと主張なさっているのだから驚きます。そんなの、男性に守られたがる女性が悪いんじゃないでしょうか(これについては先に挙げたぼくのレビューの一番最初のものを参照)。

     9pでは、吉行淳之介『驟雨』がやり玉に挙がり、

    おどろくほど通俗的なポルノの定石どおりに展開する。
    (13p)


     それはつまり、男が女を快楽に導くことで支配するという幻想であり、

    あまりこの種の幻想がまき散らかされているために、ほんとうに信じこむ人たちがいるのじゃないかと心配になる。吉行はそういう性幻想をまき散らかした戦犯のひとりである。
    (14p)


     と全否定を続けます。
     こういう人がエロを認めていると、どう考えれば思い至れるのでしょう。はっきり言うと、この『女ぎらい』は壮大な「ポルノ否定」の(いえ、「男性否定」であり「女性否定」の)書であり、彼女がポルノに寛容というのはオタク界のトップがオタクの味方であるというのと同じくらい、ムチャクチャなのです(比喩になっていないことをお詫びいたします)。
     先の80pの発言は「児童性虐待者のミソジニー」という、小児愛者を批判した章のものなのですが、この後師匠は

    それならいっそのこと、かれらが性関係から撤退し、性行為をマスターベーションに限定し、自己完結した性的欲望のファンタジーのもとにとどまってくれているほうが、ずっとよい。ヴァーチャルなシンボルで充足できる「二次元萌え」のオタクや、草食系男子のほうが、「やらせろ」と迫る野蛮な肉食系男子よりましだ。
    (中略)
    たとえ二次元平面のエロゲーや美少女アニメが、誘惑者としての女がすすんで男の欲望に従うあいもかわらぬ男につごうのよい男権主義的な性幻想を再生産している、としても。
    (86p)


     と言い出します。つまり、彼女は「ポルノを全否定」した上で、「オタクは二次元にしか興味がない」との仮定の上で、ようやく、ぼくたちのことを「まし」であると言ってくれているだけなのです。
     次のページでは実写ポルノについて、

    トラウマ的なポルノを演じることでもたらされる影響を無視することはできない。


     と、「仮想のストーリー」をも悪だと難じています。
    (繰り返すように本章自体が小児性愛者についての章であり、全体的にはチャイルドポルノが批判されているのですが、上の文章はその直後に「とりわけ子どもの場合には」とあるように、ポルノ全体を批判する文脈で書かれたものであることを、お断りしておきます)
     先の吉行淳之介批判もそうですが、上野師匠はラディカルフェミニストの一人であり、ラディカルフェミニズムは根本の部分で「我々の性意識は他者によって教え込まれたもの(なのであるから、それを覆さねばならない)」という考え方をしており、ポルノを絶対に許すはずがないのです。
     以前ツイッター上で、青識亜論師匠(「表現の自由」派の中の有力な人物)と話していて、面白いことを言われました。

    バトラーなどは、ポルノの自由を認めた上で、ポルノを構成する表徴を転倒させ、反差別の力にしてしまおうという豪快なロジックを使いましたが、上野女史もこうした流れを汲むのではないかと勝手に思っています。


     要するに、フェミニスト様にポルノを差し出し、ご自由に査定、改訂していただこうというわけです。一体何で、そんな人権保護法案みたいなメンドくさいことをしなきゃいけないんでしょう。
    (ちなみに先のバトラーのロジックは、フェミニストの口からよく聞くものです。上野師匠の弟子である千田有紀師匠もまるきり同じことを言っていて、その意味で彼の「上野女史もこうした流れを汲むのではないか」との想像は、恐らく当たっていると思われます)

     ここまでで、大体のことはわかったかと思います。
     彼らリベラル君たちの言い分は、彼らの運動を「ただひたすらに自民党と戦うことを目的としたもの」と規定した時、極めて論理的なものとして立ち現れます
     フェミニストたちがいかにポルノを否定していても構わない。彼女らが実際にあちこちにクレームをつけ、「表現の自由」を阻害しようと、いっこうに構わない。ただ自分たちはフェミニストとデートをして、そして自民党が悪だと言いたいだけだ。
     どうやら、彼らの言を演繹していくと、そのようなものになってしまうようです。
     事実、彼らは悪名高い「行動する女たちの会」を「法規制には反対の立場だ」というだけの理由で称揚しています*6。
     彼ら「表現の自由」クラスタは「国家大嫌い芸人」であり「フェミニスト大好き芸人」ではありますが、大変残念なことに「エロ大好き芸人」でもましてや「アニメ大好き芸人」でもなかったのです。

     漫画もアニメも消え果ててもいい。ただボクはフェミニストとデートをして、現政権の批判だけを続けたい。

     そうお思いの方はどうぞこれからも、足繁く彼らのライブに通い続けてください。

    *6 フェミニスト団体「行動する女たちの会」の悪質さと、オタク界のトップが彼女らを称揚する様は「『ポルノウォッチング』ウォッチング(http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar855897)」を参照。