• このエントリーをはてなブックマークに追加

  • 草食系男子と性暴力(再)

    2024-03-01 19:40
    9ba00afafa0a3161ce0f6e71afbb4f5627a3cec0

    『WiLL Online』様で書かせていただいた記事が、永らく人気第一位となっておりました。

     おかげさまで、本日、第二弾が発表されました。

     いずれも松本人志氏の性加害疑惑についての、パオロ・マッツァリーノ師匠のおかしな論法について。今回は師匠の資料読解力のなさ(ではないですね、資料をねじ曲げて平然としている卑劣さ)に加え、『文春』の問題、そして本件がはらむ想像以上のおぞましさについて指摘しています。
     それらと絡め、目下noteでは「性犯罪冤罪としてのフェミニズム」についての記事を、再録しています。いえ、「性犯罪冤罪としてのフェミニズム」なんて「犬としての犬」と言ってるも同然なんですが。

     今回のものは2011年1月20日という大昔に書かれたもので、今をときめく杉田俊介師匠の当時の仕事。
     と、そういうことで……。

         *     *     *     *


     さて、当ブログをご愛読の皆様には、上野千鶴子センセイの『女ぎらい』がまさしくフェミニズムの最後っ屁であることがおわかりいただけたかと思います(「女ぎらい――ニッポンのミソジニー」「女ぎらい――ニッポンのミソジニー(その2)」)。その古色蒼然とした筆致は今、パラパラとページをめくってみただけでも歴然としており、その老醜ぶりは例えるなら一億五千万年の眠りから目覚め、大阪城を破壊するなど大暴れしたものの近代兵器に寄ってたかって攻撃され、亡骸は剥製になって万博で晒し上げられた古代怪獣……といったところでしょうか。
     ところでこの奇書の最後の最後では、森岡正博教授が批判にさらされております。ここで上野センセイが批判なさっている森岡教授の主張は、まとめてしまえば以下のような感じです。

     男性には深い「自己否定」と「身体蔑視」の心理がある。しかしフェミニストはここを理解していない。

     驚きました。
     これはぼくが拙著でフェミニストたちの深い深い男性憎悪を指摘し、そして男性が自らを「三人称化」してしまう傾向があると指摘したことと、まるっきり重なります。*
     むろん、森岡教授は以前から『感じない男』などで上に近いことをおっしゃってはいたのですが(そしてその論旨自体にはぼくも同意できるのですが)、それでも彼はあまりにもフェミニズムに傾倒していて、正直、あまりいい印象を持っておりませんでした。拙著や当ブログで森岡教授をからかうような書き方をしてしまったのも、それが原因です。
     しかし森岡教授が上野センセイに牙を?いたとなれば、こちらとしても援護しないわけには参りません。ちょっと、上野センセイが批判している元の本を紐解いてみることにしましょう。

     *もっとも、この森岡教授の主張にたいする『女ぎらい』での反論は

     誤解しないでほしい。フェミニズムが否定しているのは「男性性」であって、個々の「男性存在」ではない。

     といった他愛のないものです。
     語るに落ちるとはこのことです。フェミニストたちは一貫して個々の「男性存在」に半狂乱の憎悪をぶつけ続け、裏腹に女性が「男性性」を獲得することを半狂乱で称揚してきたのですから。
     北原みのりさんが象徴的ですが、この人たちは本当に天然で、内省というものは皆無です。が、これはフェミニストだけの悪癖かと言えばそうではありません。
    「弱者の味方」をもって任ずる「進歩派」というのは、とかくこの種の個人的感情とマクロな視点を極めて曖昧に混同しがちな傾向があるように思います。

    「元の本」というのは、『フェミニズムはだれのもの? フリーターズフリー対談集』に収められた森岡教授と杉田俊介さんとの対談、「草食系男子と性暴力」です。
     これを読んで一番驚かされたことは、フェミニストたちの男性への尋常ではない憎悪について、かなりラディカルに批判がなされていることです。上野センセイが慌てて反論したのは、その点についてでした。

     また本書では同時に、

     二十、三十代になると女性が得をしてるのではないかとの意識があるのでは(大意)。

     などとも述べられています。
     以前、森岡教授を「若いやつのことを知りもせずに若いやつに説教するジジイ」みたいに書いてしまったこともありますが、それは取り消さなければならないでしょう。教授は、柔軟に時代の変化を感じ取る感性と知性の主だと思います。
     ただ、この対談では更に別な論文を巡っての議論がなされていまして、その一番最初の論文の中で森岡教授は「出産自体が(性交に強姦という暴力性が絡む可能性がある以上)暴力の結果の可能性がある」みたいなことをおっしゃっているのです。
     問題の論文「膣内射精性暴力論の射程:男性学から見たセクシュアリティと倫理」(http://www.lifestudies.org/jp/sexuality01.htm)にまで遡ってみましょう。
     森岡教授が先行する二人の学者の意見に対して論考する内容なのですが、この二人の学者さんがものすごくて、乱暴に要約してしまえば、

    沼崎一郎さん「膣内射精は暴力だ」
    宮地尚子さん「女性の主体性を重んじるため、あらゆる妊娠を後づけで犯罪化できる法律を作ればいいんじゃね?」

     といった主張を、この二人はしているのです。
     ムチャクチャです。
     特に宮地さんはハンパなく、彼女は「強制妊娠罪」という法律の制定を提唱しています。

    すなわち、女性が妊娠すると、「合意の有無をとわず男性は強制妊娠罪に問われることになる」(二三頁)。そのうえで、双方が妊娠を望む場合には女性がその旨の契約書を書いておき、強制妊娠罪が非犯罪化される。その措置がとられない場合には、男性は自動的に強制妊娠罪を問われるのである。さらには、強制妊娠罪の場合、女性が出産したら男性には「強制出産罪」が適用され、養育責任は男性が全面的に負う。女性が中絶したら、女性にではなく、男性に「堕胎罪」が適用される。

     欧米で時々なされるようになってきているという、「恋愛契約書」の概念に近いと言えば近いですが、まず前提として犯罪を成立させ、その上で「非犯罪化」(何という奇怪な日本語でしょう!)するという手順を踏まえようとは、何ともすさまじい話です。
    「女は後づけでいくらでも男を悪者にしてもいい」と言っているのと同じ。内田春菊大勝利です。
     こうして見ていくとやはり女性の主体を無視し続けているのは、彼ら彼女らフェミニストたちであることが大変よくわかります。
     結局、フェミニズムというイデオロギーはどこからどこまでも、「男が悪者」という大前提をまず掲げ、それを査定することだけが目的化しており、それに囚われている限り、こうした奇矯な結論しか導き出すことはできないわけです。

     これら極論に対し、森岡教授は「女性にとっても幸福な妊娠というものの存在を軽視していないか」と主張して、ある種、「ちょっとヤバい人」を「まあまあ」となだめる役回りになっているのですが、しかし読み進めると教授もやはり「あらゆる性関係は性暴力たり得る」とおっしゃっていて、結局は男性の加害者性、女性の被害者性にばかり目を向けた論考で終わってしまっているように、ぼくには読めました。
     ここでは幸福な性交があったとしても、事後に女性がその男性に悪感情を抱いたらどうする、との心配がなされるばかりで、その逆、「妊娠後、女性がもし浮気などして男性を裏切ったら」といった仮定は全く出てきません。
     そもそもが男性が女性と性交渉をもったらそれ以降の未来の全てについて責任を持たなければならない、という発想こそ病的としか言いようのないものなのですが、ここから感じられるのは彼らの「性暴力撲滅」への極めてエキセントリックな情熱です。もはや牛を殺したくて角を矯めてるのでは、とからかいたくなってしまう、その潔癖症的な感受性です。
     しかし、さんざんこき下ろしておいて何ですが、そうは言っても森岡教授がフェミニズムに懐疑精神を持っていらっしゃることはやはり大変素晴らしいことだと思います。
     勘繰ってしまえば、教授は世代的にフェミニズムの影響を濃厚に受けてきて、しかし疑問を感じて、その呪縛を解こうと試行錯誤なさっているところなのではないか、とも思えるのです。
     以前も少し申し上げた通り、昨今のネットでは「ウヨフェミ(=右翼フェミニズム)」などという「非実在フェミニズム」を持ち出すことで、いわゆる普通のフェミニズムへの攻撃をかわそうとする人々を、度々目にします。
     また、フェミニズムというフォーマットの上で男性を救おうという、何とも奇妙な試行錯誤をしている人々にも、最近よくお目にかかります。
     少なくとも森岡教授のスタンスは良心的であり、上のような人たちと混同するのは失礼なのですが、しかしやはり最後の最後で教授もフェミニズムを棄てられず、それでは彼らと同じ考えに陥ってしまいかねないのではないか、とぼくには思えます。
     フェミニズムを放置して男性を救おうという振る舞いは、極めてナンセンスなのですが、しかし考えれば「男性解放」運動の中でも、フェミニズムに親和的な流派は最初からおりました。九十年代にあった「メンズリブ」のプチブームでも専ら彼らが主役だったことを思えば、(大変残念ですが)それは殊更不思議がることではありません。
     しかし、やはりそれは無い物ねだり、モノがもうないことも知らされず長蛇の列に並び続ける旧ソの人、あるいは夏コミで午後から会場入りしてのいじのブースに並ぶ人みたいなものに、ぼくには思われます。いや、のいじさんのブースがいつ完売したかとか、ぼくは知りませんが。

     森岡教授は極めて心優しい人で、自分が「傷つける側の性」に生まれてしまったことに大変な嫌悪と憎悪を抱いていらっしゃるのだと思います。
     彼が『電波男』を誉めているのを見た時、不思議な感じがしたのですが、考えれば本田透さんもまた、そうしたナーヴァスさと優しさを持った人物でした。
     しかし、そうした「男性=加害者/女性=被害者」という短絡こそが実はフィクションであり、それが欺瞞であることは、痴漢冤罪事件などを見ればわかることです。
     そこを見破らなければ、ぼくたちに未来はない。『女災社会』の内容は、その一言に集約されます。
     偉い人が用意した行列に並んで、自分にまで行き渡るかどうか心許ない商品を買うことを選ぶか、マイナーサークルを回って、自分の足と目で新しい本を探すか。
     そろそろ選択の時であるように思います。

         *     *     *     *

     ――以上です。
     十年の刻を経て、「全男性を犯罪者とする」というフェミの悲願が成就しつつあること、またフェミの延命を図る卑劣な左派が「ウヨフェミ」などという「非実在フェミニズム」を捏造していたというこれまた近年まで続けられていたことが当時からなされていたことが見て取れます。
     そしてパオロ師匠を代表とする卑劣な左派は、いまだ思考停止して「フェミは正しいのだ!!」と絶叫を続けています。

  • 兵頭新児のレッドデータコンテンツ図鑑⑥ 東映まんが祭り 光速電神アルベガスvsビデオ戦士レザリオン 空中大激突

    2024-02-23 20:23
    4d36859473c0a4cacec9296c5e748460a69cc48f


     目下、『WiLL Online』様で書かせていただいた記事が、永らく人気第一位となっております。

     松本人志氏の性加害疑惑を糾弾したパオロ・マッツァリーノ師匠のデタラメさに対する批判なのですが、近く『文春』のおかしさについても指摘した第二弾を掲載予定です。
     時事ネタに留まらない、ポリコレのヤバさを暴く記事になるかと思いますので、どうぞ応援をよろしくお願いします。
     さて、それと関連して「性犯罪冤罪としてのフェミニズム」について考察した動画が上がっております。


     ぶっちゃけこのシリーズ、最近全然回転しなくなっているので、ご興味のある方は是非、ごらんください。
     さて、今回はそれと関係なく、サブカルのオタクへの加害。それが80年代のオタクコンテンツにおけるニヒリズムと大きく関わっていた……というお話です。
     と、そういうことで……。

         *     *     *     *

     が~んがんが~んがんがんがんが~んがんが~んがんがんがん♪
    「おっ、『ゲッターロボ』か、懐かしいな」
    「再放送じゃないっっ!」
    「でも、今の子は『ゲッター』知らんだろ。笑えるかな」
    「パロディじゃないッッ!!」


     ――というわけで久し振りにやって参りました、『レッドデータコンテンツ図鑑』。
     前回、次はタイムボカンシリーズと予告しましたが、ちょっと思いついたことがありまして……いずれも「価値相対化の時代である80年代に生まれた、ある意味あだ花」といった側面がある作品なので、語る内容はいずれにせよいっしょになっちゃうんですが。
     さて、数日前、ツイッター上に以下のような書き込みがなされました。

    長くなりそうなんで書くのやめてましたが、最近のオタクはウヨったりミソジニーだったりと評判が悪いので、若い人にはオタ創世記?の頃が分からなくなっているらしく、結論を最初に言うと「元々オタクはリベラル寄りであり知的であった」です↓
    例えば、円谷特撮で育った当時の子供にものすごい衝撃を与えたのはG・ルーカス『スターウォーズ』77年ですが(日本公開は78年)映画のあとすぐに出たムック本には、黒澤映画の影響(隠し砦~)やエロール・フリンの海賊映画、米国のスペースオペラの系譜(パルプ雑誌)などが↓
    作品の裏側にはあるんだよ、ということが縷々説明されていました。これらの解説文を書いていたのは、日本に海外SFを紹介してきた人たちで(野田元帥など)ウルトラシリーズとゴジラくらいしか知らなかった、当時のガキには「そんなもんが外国にゃあるんだホゲー」でした↓
    (中略)
    つまり雑駁に言えば「創作物を通じて意味を汲み取り、自分が生きている現実を考える姿勢」は、当時の漫画ファン・アニメファン・映画ファン・活字マニアにとって「それは当たり前」でした↓
    また、それらサブカルの紹介者もファンも言うまでもなく昔の日本はどんな国だったかはよく知っており、「住んでる世界が軍事独裁になればいい」というグロテスクな妄想は抱かないのが「普通」でした↓
    (以下略)

    https://twitter.com/Simizushi/status/1756990126482407911

     ――長い長いツイで、できれば略した部分も読んでみて欲しいのですが(よくある、自分の仮想敵としての「ネトウヨ」を妄想し、自己正当化を続ける、気持ちの悪い内容です)、要するにぼくがいつも言っているような、「愚かなサブカル君」を象徴するかのようなツイなわけです。
     読んでいくと円谷特撮に対し『スターウォーズ』を優位に見ているし、そもそも語るうちにホンネがまろび出て、当初は「オタク」だった主語が後半では「サブカル」へとすり替わっている辺りが微笑ましいですね。
    「サブカル君は左派的価値観を振りかざし、オタクにマウントを取るが、その傲慢さ、古色蒼然さが嫌われている」。
    「サブカル君はオタクの上位者を気取り、オタクを侮蔑しきっていたが、オタクがカネになると知るや擦り寄ってきた」。
    「サブカル君はオタクを自称するようになったが、実際には上位者であるという醜い勘違いしきった自意識を捨てていない」。
     今までぼくが繰り返してきたことが、このツイには非常にコンパクトに実証されています。
     それに対し、今までぼくはガイナックスの母体となったDAICONフィルムの自主映画『愛國戰隊大日本』を例に論じていました(これについては少し前に書いた「山田太郎と岡田斗司夫とぼくらのオタク主義」を読んでください)。本作は上の世代(ぼくが言うサブカル君)の政治イデオロギーを徹底的に笑い飛ばした作品でした。
     ただ……イデオロギーを笑い飛ばす時点でイデオロギーに対するそれなりの知識や感情があるわけで、下々の若きオタクたちは、ぶっちゃけそれすらもなかったわけです。
     では、何を笑っていたのか。

     はい、答えは「本作を笑っていた」でした。
     本作は1983年に放映された作品。
     世はガンダムブーム……がちょっと落ち着いてきた頃かな?
     ともかくリアルロボットが流行し、オタク世代、中高生のアニメファンが増えてきた頃です。
     そんな中、一昔前のスーパーロボットの復権を狙って作られたのが本作。
     三体のロボットが合体し、悪の軍団デリンジャーに戦いを挑む――という『ゲッターロボ』(74)を露骨に意識した作品でした。
     冒頭に書いた会話は当時のアニメ雑誌で若き日のゆうきまさみが描いていたもの。『ゲッター』そっくりだな、しかしもうちょっと何かプラスアルファがあってもいいんじゃないの、というこれ自体が本作への鋭い批評となっていました。
     もっとも独自性が全くなかったわけでもなく、主人公たちは青葉学園の生徒であり、学校の課題として作ったロボで敵に戦いを挑むという、近未来のテクノロジーの進歩を、そして『ガンダム』のニュータイプにも通ずるような若者たちが新たな技術を使いこなし、新たな時代を築くのだとの楽観性が、そこにはありました(何しろ次回作の『ビデオ戦士レザリオン』(84)ではコンピュータ少年がロボを「何か、作って」しまいます!)。
     当時は『3年B組金八先生』(79~)を考えてもわかるようにティーンエイジャーの多かった時代です。アニメの主人公がそうなるのも必然だし、また『ガンダム』(79)がそうであるように、この設定もオタク世代の視聴者を意識してのものだったと思えます。
     ところが……ゆうきまさみの評でもわかるように、本作は必ずしも「俺たちの作品」として迎えられたわけではありません。
     脚本(おそらくシリーズ構成めいたことも担当していたと想像できます)は上原正三。以前にも採り挙げたことのある、ぼくも尊敬する脚本家です。ウルトラシリーズから戦隊シリーズまで、そして本家『ゲッター』までも担当していた特撮、アニメ脚本の帝王なのですが、そして当時も宇宙刑事シリーズ(82~)を執筆し、何度目かの黄金期を迎えていたのですが……本作に関しては「外していた」と感じます。
     えぇとですね、主人公は円条寺大作。声は古川登志夫。
     同氏は80年代アニメを語るに外せない、『ガンダム』ではカイ・シデンを、『うる星やつら』(81)では諸星あたるを演じた、ある意味では当時の「ニヒリズム」を強く体現する声優なのですが……例えば本作ではこんなシーンがありました。
    「来るなら来い、デリンジャー! どんな卑劣な手を使おうとも、俺たちが必ず叩き潰してやる!!」
     勇ましく拳を固め、決意する大作――ところがカメラが引いていくと、その後ろ姿は尻を丸出しにしている。風呂上がりで、シャツだけ着てパンツを穿いていなかったのだ……すみません、記憶で書いているので厳密には差異もあるでしょうが、何かそんなんです。
    『超魔術合体ロボギンガイザー』(77)でも主人公が敵の前にギターを弾いて現れるという(つまり、ヒーローが前時代的なヒーローを演じ、それが笑えるという)ギャグをやっていましたし、そうしたセンスは別に80年代になって始まったものではないはずです。
     上原正三自身、以前にも書いたように『ゴレンジャー』(75)、『ジャッカー』(77)で先進的なギャグを書いておりました。
     が、上のギャグは申し訳ないけど「寒い」。
     先にも書いた次回作『レザリオン』は本作に比べシリアスな作風なのですが、たまに入るギャグが微妙でした(もっとも上原は後期からの執筆なので、下の全てが彼の手によるものかはわかりませんが……)。

    ・主人公・香取敬が寝坊なのを母ちゃんに叩き起こされるが、その時、怒った母ちゃんがゴジラと化す。
    ・敬を演じたのは古谷徹。「父ちゃん、俺はやるぜ!」、「敬、行きま~す」などと言う。「行きま~す」の後には「いけね、昔のクセが出ちまった」などと自己突っ込みが入る!
    ・敵に惑わされるレザリオン。味方の博士が周囲に解説し、「SF的に解釈するなら、異次元空間に取り込まれたのじゃ」などと言う!


     最初の母ちゃんがゴジラと化す、こういうのは当時、やたら多かったのです。ちょっと好例が思いつきませんが、例えば『マカロニほうれん荘』でキャラクターたちが次々変身していくような、そんなギャグを狙ったものだと思われます。
     が、それがやはり、申し訳ないけど寒い。
     古谷徹の声優ネタもそうで、(こういうのは同人誌など、オタクの間で確かに流行していたのだけれども)やり過ぎだろうと嘲笑されてしまいました。
     博士のセリフもそうで、いわゆる「メタ」的なギャグを狙ったわけでしょうが、シリアスな場面でいきなり発せられたため、「ポカーン(゚Д゚)」という感じでした。
     ちなみにこの三つ目のもの、「敵のジャーク星人が巨大ロボを操り、レザリオンを追い詰めていく様を、自ら琵琶法師の姿となって実況する」といったヘンな話で、同時期の『宇宙刑事』の敵が宇宙刑事を異空間に取り込むという演出を再現したものだと思えますが、正直、成功していません。
     一方、『アルベガス』の大作のケツ丸出しですが、シリアスな『レザリオン』に比べれば作風も明るく、大作自身二枚目半として描かれていたため、そこまで唐突感はないはずなのですが、それでも寒い。
    「ヒーローに道化を演じさせる」というのはこの時期の流行りでした。
     しかしそこには正義と悪との戦いの相対化、という状況がありました。タイムボカンシリーズではそのため正義の味方が徹底的に道化とされたわけです。
     また、島本和彦作品は実のところこの当時の作品の中では例外に属し、これらとは逆に、「現代においては正義が道化とならざるを得ない」切なさのようなものが、根底に流れていました。
     そこを上のシーンは「あくまで正義のために戦っている、肯定的に描かれるべき主人公」に、「何か、流行りだから」という理由でギャグを演じさせ、しかしならば必要であるはずの「切なさ」も、そこでは描かれていない。竹に木を継いだだけであるために、「寒い」という印象しか与えないのです。
     上にも書いたように『ゴレンジャー』では先進的ギャグを、また同時期に『宇宙刑事』で時代の先端を走っていた上原正三がことここでだけうまくいっていないのは何故か、わからないのですが、やはりそれは「アニメが若者文化」だから、なのでしょう。
     上原にしてみれば普通に肯定されるべき正義の味方を描き、ただ、その後ちょっとギャグをつけ加えれば受けてくれるのかなと思っていたが、そうではない。オタク文化はそれまでの正義を根本から否定していたのです。一方、『宇宙刑事』は、オタクの間でも評価されていました(その中で描かれた正義をどこまで受け入れていたは措くとしても)が、それはやはり上原が媚びることなく自分の信念をぶつけていたからでしょう。
     翻ってこれら作品はロートルなおっちゃんが一生懸命一生懸命若者に媚びようとして失敗、という感じなんですね。

     ――さて、ちょっとサブカル君のツイートに戻ってみましょう。
     サブカルチャーは本来、「下位文化」ですが、「下位文化」であるが故にそこでヒエラルキーを作ってしまいがちです。だから彼らは「権威主義」なんですね。
     しかし何も生み出せず、だからこそ権威に媚びへつらい続けるしかなかったサブカル君に対し、オタクは文化を生み出しました。
    『マクロス』(82)は当時まだ二十代だったオタク世代による作で、『ガンダム』の数年後にはそうしたものが生まれていたわけです。
     先のツイにも円谷だ何だとあるように、サブカルは「上の世代(の、左派的感覚)」を専ら称揚します。そして円谷作品も『ガンダム』もオタク文化の範疇に入りましょうが、上の世代の作ったものであり、オタク世代の純正作品ではない。
     『マクロス』以降、言うならオタクがオタクによるコンテンツを持つようになった辺りから、サブカルはオタクを批判し始めるんですね。「権威」がありませんから。
     つまり彼らは「上位者へのカウンター」という理念を掲げつつ実際には「上位者に平伏」しつつ「下位者を見下す」という残念な矛盾を、ずっとはらんできた。
     一方、『アルベガス』は「上の世代がオタクに向けて作ろうとして、上手くいかなかった作品」、つまり失敗した『ガンダム』であり、オタク文化になれなかった『ガンダム』なのです。
     何故なれなかったかというと――オタク文化には上に縷々書いた細かい細かい「文脈」、まあ「お約束」みたいなことがあったからで、そしてそれが生まれるには「正義の喪失」と言っても「価値相対主義」と言っても「ニヒリズム」と言っても「男性原理の失墜」と言ってもいいのですが、それなりの必然があった。
     オタクは「上位者の依って立つイデオロギー」を無為だと知り、それを拒絶した(ここも詳しくは「山田太郎と岡田斗司夫とぼくらのオタク主義」を読んでください)。この当時のオタク文化は先代文化の否定(パロディ)という形でこそ、現れました。
     そしてだからこそ皮肉にも、オタクはサブカル君が喉から手が出るほど欲っしていた「新たな表現」を、それも驚くべき高クオリティと呆れるべき量とをもって生み出すことができた。
     しかしそれは、まさにサブカル側のイデオロギーを嘲笑し、無化するニヒリズムが本質であった。
     もうちょっと経つとオタク文化は「萌え」として結実するのですが、それもまたイデオロギーの敗北からの、恋愛などの「個人主義」の肯定という面を持っていました。
     一方、サブカル君は、依って立つイデオロギーによって自分たちで何かを生み出し、既存の社会にモノを申すことを欲していた存在だったが、しかしイデオロギーが終焉を迎えてしまったがため、何も生み出すことができなかった。
     だからこそ、サブカル君にはオタクが(何しろオタク君には自分たちの政治の駒になってもらおうというのが、彼らの目論見でしたから)絶対に許せなかった。
     そして『アルベガス』から四〇年。サブカル君は、いまだ「お前らよりも俺の方が、俺の方が」とつぶやきつつけているのです。



  • ぼくと彼女の有意義な会話――北原みのりさんとの往復ツゥイート(再)

    2024-02-16 19:04
    33399e1a1813f6a3256eae1e677fa9b63e828b53

     目下、『WiLL Online』様で書かせていただいた記事が、人気第一位となっております。


     松本人志氏の性加害疑惑についてですが、とにもかくにも思い込みとデタラメなリクツで「松本はやったに決まっているのだ、決まっているのだ」と泣き叫び続けるパオロ・マッツァリーノ師匠の卑劣さには、センリツを覚えずにはおれません。
     そんなわけでしばらくは「性犯罪冤罪としてのフェミニズム」について書かれた記事を、再録していこうかと思います。
     今回のものは2010年11月6日という大昔に書かれたもので、北原みのり師匠とツイッター上でやり取りをしたものの記録です。
     何しろこの当時はtogetterの存在も知らなかったので、テキストをコピペしてくると言うアナログな(?)方法で記録がなされています。
     と、そういうことで……。

         *     *     *     *

     堺市立図書館のBL本問題でフェミニスト、そして彼女らに唱和する人たちのエキセントリックさが浮き彫りになりました。
     もし日本が近代国家であれば、公共の施設で女子小学生にエロ本を貸し出すなど、考えられない話なのですが、この国は迷信の支配する中世の社会なのですから、仕方がありません。
     中世社会において、人の生来の「身分」は絶対です。
     あらかじめ生まれ持った「性別」が「正義」の側に属していれば、その人物は「正義」なのです。
     いかなる状況下に置かれようが、いかなる振る舞いをしようが、その「正義」が揺らぐことは絶対にありません。
     仮に、もしもの、ifの話ですが、一般的に「正義の味方」であると信じられている存在が悪いことをやっていて、しかしその悪行が映像に記録されていたとしたらどうでしょう。人間の心理として、ぼくたちはその事実を認めるのが恐ろしく、映像を葬ってしまうのではないか。万一、その映像がyoutubeなどに流出でもしたら、まず流出させた犯人捜しの方に躍起になってしまうのではないか……あくまで想像ですが、そんなふうに思えます。


     さて、以前にも書きましたとおり、ついついツイッターで北原みのりさんをフォローして、ついついそのツィートに返信してしまい、彼女としばし、議論(……?)をしました。
     正直、フェミニストと話が通じるとは思ってはおりませんでしたし、むしろ彼女がこれだけこちらと向きあって話してくださるとは予想しておらず、それは大変にありがたいことでした。ご本人は「誠意を持って話したつもり」とおっしゃっておいでで、その言葉に嘘はないでしょう。
     反論を受けて事実関係を歪めた返答をして、相手をブロックして逃走――というその振る舞いは何だか東浩紀センセイを彷彿とさせますが、しかしそうは言ってもこれだけおつきあいいただけたのですから、上等だと思います。
     さて、しかし残念なことに、両者の対話(……?)は残念ながら既に、外からは見えなくなっているようです(すみません、ツィッターのシステムに疎くて適切な表現ができません)。
     それももったいないので、ここに拾い上げておきたいと思います。
     ちなみに言うまでもないことですが、ツィッターは最新の発言が上にきますが、ここでは当然、下に行くに従って新しい発言となっています。
     また、自分側の誤字や誤表記は最低限の修正を施しています。


    minorikitahara性犯罪の話をすると必ずと言っていいほど、”女に陥れられるかも”ということだけしか頭にないアホな男から、男も大変なんだ、とか言うコメントがくる。恥を知れって、思うよ。
    3:34 AM Nov 1st webから


    hyodoshinji@minorikitahara 「男も大変だ」と思います。「恥を知るべき」なのはあなたかと。
    6:23 AM Nov 1st webから minorikitahara宛


    minorikitahara痴漢冤罪という言葉が嫌いです。頭に痴漢をつけると、とたんに、女と男の闘いにはしゃぐ人が出てくるから。ただ、冤罪、でいいじゃない。そして、警察と闘ってくれよ、と思うわよ。
    6:20 AM Nov 2nd TwitBirdから


    hyodoshinji@minorikitahara 今まで「女と男の闘いにはしゃ」ぎ続けてきたのはあなた方かと。自分が不利になったとたんそれはあまりにも卑怯でしょう。
    4:45 PM Nov 2nd webから minorikitahara宛


    minorikitahara@hyodoshinjiえ!あなた方って、誰のことですか? あたしは、男女差別と戦ってきたけど、何が卑怯なんですか? 痴漢冤罪を男女の闘いにするのは不毛という意見の、どこが、卑怯か教えて。
    6:29 PM Nov 2nd TwitBirdから hyodoshinji宛


    hyodoshinji@minorikitahara 「痴漢」を男女の闘いにするのが卑怯でないのであれば、同時に「痴漢冤罪を男女の闘いにする」のも不毛でも卑怯でもありません。
    10:59 PM Nov 2nd webから minorikitahara宛


    minorikitahara痴漢冤罪といえば、あたしは、長崎満の顔が、忘れられません。痴漢冤罪被害者の会を立ち上げ、その後、電車の中で盗撮して捕まった男。 あたしは、長崎満と本を出し、講演会をしました。そのことをずっと悔やんでいて、一度目の裁判にも、二度目の裁判にも通いました。
    6:44 PM Nov 2nd TwitBirdから


    minorikitahara長崎満をサポートする発言を私は一度もしていないけれど、「痴漢えん罪」も「痴漢」も満員電車でおこるんだという「幻想」を産んでしまうような、そんな言説に力を貸してしまったんじゃないかと、そういう意味でずっと悔やんでいました。
    6:58 PM Nov 2nd webから


    minorikitahara初対面の時、彼から「痴漢えん罪被害者の会」の名刺をもらいました。カラーの顔写真入り。営業マンみたい、とうさんくさい顔をする私に彼は、「僕の母もフェミニストでしたよ。だから僕はフェミニストが好きなんです」とニコニコと話しかけてきて、気持ちが萎えたことを覚えてます。
    7:03 PM Nov 2nd webから


    minorikitaharaそれでも、私は彼と本を出し講演会を共にしました。痴漢えん罪被害者の声が大きくなると同時に、本当の被害者が声を出しにくくなってはまずいと思ったから、長崎満と同時にほえとかなきゃっ! と思ったからです。
    7:05 PM Nov 2nd webから


    minorikitaharaさらに、痴漢えん罪の映画や本の中に滲むミソジニーは許せないものがありました。痴漢えん罪被害者の中には被害者のことを「小娘」と称す者もいた。(引用者註・小泉知樹『彼女は嘘をついている』文藝春秋、2006のこと)メディアでも、男の社会的信用が失墜する重さばかりを取り上げ、知らぬ男に身体を利用される悔しさが無視されているように、あたしには見えました
    7:11 PM Nov 2nd webから


    hyodoshinji@minorikitahara ラジオでも近いことをおっしゃっていましたね。しかしぼくが同書を読んだ限り著者にミソジニーがあるとはどうしても思えませんでしたし、そもそも相手の女子高生を「小娘」と記述しているのは本文中二回だけでした。
    10:44 PM Nov 2nd webから minorikitahara宛


    minorikitahara被害者はどちらか、という話ではなく。性犯罪を本気で根絶するための道を、どのように探っていけるのか。という視線が、痴漢えん罪被害者たちを盛り上げる言説に、まったくもって感じられないことが不思議でした。だったら、痴漢えん罪とか言うな。ただえん罪と言え、と思いました。
    7:15 PM Nov 2nd webから


    hyodoshinji@minorikitaharaフェミニストは「根絶」という言葉を好んで使いますが、基本的に「根絶」は不可能です。しかし性犯罪は一件でも減らしたい。そのためには冤罪を誘うような捜査や裁判のあり方を変えていかねばならないのです。
    10:46 PM Nov 2nd webから minorikitahara宛


    minorikitaharaだらだらと書いていると、脳裏に焼き付いちまった長崎満の顔が迫ってきて息苦しいな。二度目に逮捕された時、長崎満は裁判所で、最後まで警察を批判していました。証拠がそろっていました。目撃者も何人もいました。それでも自分の罪には一切触れず、権力を批判する男。とても見苦しかったです。
    7:21 PM Nov 2nd webから


    minorikitahara女が嘘をついているというのなら、痴漢えん罪被害者も嘘をついている可能性だってある。女が男を陥れるというのなら、男が女を陥れることもある。だけど、そんなこと言い続け「嘘つきはどちら」という戦いは不毛すぎる。だからこそ、性犯罪を本気で憎み、根絶する姿勢を、大切にしたいの。
    7:23 PM Nov 2nd webから


    hyodoshinji@minorikitahara 違います。男も女も、人間は嘘をつく生き物なのです。それを不毛というならそもそも全てにをあきらめる他ないでしょう。
    10:48 PM Nov 2nd webから minorikitahara宛


    minorikitaharaで。ま、私は日々日々女たちにバイブを売り、男の性欲にあまりに寛大なこの国の男に、てめーらたいがいにしろよ、と吠え続ける所存なわけでございます。おしまい。
    7:25 PM Nov 2nd webから


    hyodoshinji@minorikitahara ちょっと前にあった図書館におけるBL本の騒動。あれを見ただけでも日本は男性の性欲よりも女性の性欲に何百倍も肝要な社会であることがわかりますねwおしまい。
    10:49 PM Nov 2nd webから minorikitahara宛


    minorikitahara@hyodoshinji 笑えます。お尻触ったのは二回だけ。だからたいしたことないよ!ってのと同じ理屈。あとミソジニーって感じる感性がないと感じられないものですよ。残念ながら。
    3:32 PM Nov 3rd TwitBirdから hyodoshinji宛


    hyodoshinji@minorikitahara ラジオであなたは「小娘という言葉をすごい使う」とおっしゃっておいででした。二回は「すごい」ではないかと。それとミソジニ。まさしくそうなんですよ。「感じる感性がないと感じられない」。つまり「言った者勝ち」なんですよね。まるでナントカ冤罪のように
    11:25 PM Nov 3rd webから minorikitahara宛


    minorikitahara@hyodoshinji 差別って、回数なんだね、あなたにとっては。感じない人にミソジニーはない。俺が感じなければ、それはないことと同じ。という人たちが、差別を見えなくし、その深刻を深めていくのよ。
    7:17 PM Nov 4th TwitBirdから hyodoshinji宛


    hyodoshinji@minorikitahara 「差別」が「回数」なのではないです。「回数」を水増しすることが「差別」なのです。「私が感じればそれはいかなることであろうと差別認定する」という人たちが差別を見えなくし、その深刻を深めていくのです。
    約24時間前 webから minorikitahara宛


    minorikitahara@hyodoshinji あー、差別じゃなくて、逆差別! ってやつに、ご興味があるんでしたね。噛み合わないですよ。あと、差別の水増ししたとは、考えてません。小娘、という言葉を複数使い方貶めた事実は事実ですから。
    約23時間前 TwitBirdから hyodoshinji宛


    hyodoshinji@minorikitahara なるほど、北原様的には一冊の本で二度「小娘」と記述があったことを「すごい(頻度)」と捉えたというわけですね。それはまあいいでしょう。
    約23時間前 webから minorikitahara宛


    hyodoshinji@minorikitahara 後、「逆差別」という表現にはあまり意味はないでしょう。「俺がミソジニーを感じなかったからミソジニーはないのだ」というのが傲慢なら、「私が感じたからあるのだ」というのもまた傲慢だ、というだけです。
    約23時間前 webから minorikitahara宛


    hyodoshinji@minorikitahara そして「あったのだ」というのであれば、そう主張する方が「どこをそう感じたのか」を表明すべきです。痴漢行為や大量破壊兵器と違って、証明は容易なのですし。
    約23時間前 webから minorikitahara宛


    minorikitahara@hyodoshinji まとめて返信。差別を訴えることにより、ある種の人々の既得権が奪われことを、「差別」とは名付けず考えたいと思います。私は傲慢な女だと自覚してますが、あなたが傲慢とは書いてません。痴漢えん罪キャンペーンのミソジニーについて、様々な媒体で表明してます。
    約20時間前 webから hyodoshinji宛


    hyodoshinji@minorikitahara 「差別を訴えることにより(以下略)」そんな考えは受け入れられないでしょう。差別者/被差別者というのは流動的多義的なものでその立場は入れ替わりうる。それをあなたは正当化しているだけです。被差別者なのだからといって何をしてもいいわけではありません。
    約20時間前 webから minorikitahara宛


    hyodoshinji@minorikitahara 「痴漢えん罪キャンペーンのミソジニーについて、様々な媒体で表明してます。」それらは全て、今回の発言と同じ瑕疵を持っていると考えます。
    約20時間前 webから minorikitahara宛


    このユーザー(北原みのり)があなた(兵頭新児)をブロックしたため、フォローすることができません


    minorikitahara@hyodoshinji それは残念。でも、あなたを納得させる必要はないかな。「差別は容易に証明できる」との発言に新鮮を感じつつ、強姦裁判の理不尽を訴えたツイートが、あなたのような人を刺激し痴漢えん罪の話になっていく流れが、感慨深い。十分誠実に対応したつもり。これにて失礼。
    約18時間前 webから hyodoshinji宛


    hyodoshinji@minorikitahara「強姦裁判の理不尽を訴えたツイートが、あなたのような人を刺激し痴漢えん罪の話になっていく流れが、感慨深い。」あなたが痴漢冤罪の話をしていたので返信したわけですが。そうした客観的事実があなたの中で歪曲されていく流れが、感慨深い。
    約16時間前 webから minorikitahara宛


    hyodoshinjiパターン青消滅使徒は完全に沈黙しました
    5分前 webから


     以上、両者の言葉が見事なまでに噛みあっていないことがわかりますw
     噛みあわないはずです、彼女の書き込みをまとめれば彼女は、


    ・性犯罪の根絶が最優先事項であり、それまでは男性が冤罪被害に遭うのはやむなし。
    ・女性は被差別者であり、その「地位」は揺らがない。同様に差別者である男性は何をされようと差別者。
    ・同様の理由から女性は任意に男性の言動を「ミソジニー」認定する権限を持つ。


     と考えているのだと判断せざるを得ません。
     彼女の最後の捨て台詞は、実はこちらをブロックしてからの発言なので、わざわざ彼女のページまで行かないと読めなかったんですが、どう好意的に解釈しても「客観的事実」をねじ曲げています(念押ししておきますが、「痴漢冤罪」騒ぎに物申していながら彼女は、平然と「事実関係」をねじ曲げられる人なのです)。

     また、痴漢冤罪の被害者たちを「ミソジニーに満ちていて許せない」と断言しておいて、「どこが満ちているのか説明しろ」と迫られると「『差別は容易に証明できる』との発言は新鮮」などと言って逃げるのはあまりにも卑劣でしょう。問題になっているのは一冊の本だというのに(それと、ぼくも冷静さをなくして指摘するのを忘れていますが、そもそも「小娘」呼ばわりされてる少女って、見る限りこの男性を故意に冤罪に陥れてるんですよね)。
     先日、ぼくはフェミニストたちについて、「『わたしたちは差別されてきたのだ』という感情があまりにも強くて、冷静な判断ができなくなっている」と形容しましたが、それはやや古い認識だったかも知れません。

    「痴漢冤罪という表記をやめ、冤罪に統一しろ」と絶叫する北原みのりさんから感じられるのは、焦りの感情です。そもそも、「痴漢冤罪」を「冤罪」に変えたところで何かがどうなるわけでもないのですから。
     彼女の中にあるのは、「いついかなる場合でも女性は被害者なり」との固定観念を「うちゅうのほうそく」だと妄信していた、しかしこの女災社会において「うちゅうのほうそくがみだれる!」ことに由来する(無意識裏の)焦りの感情であるように思えます。
     その意味で『女ぎらい』が異様に古くさかったのは(痴漢冤罪はおろか、草食系男子も婚活も、一切話題に上らない!!)、上野センセイは北原さん以上に逃走本能が発達しているからなのかも知れません。その意味において、いまだ上野センセイは衰えていないのかも……と今更ながらに認識を改めねばとすら思います。
     しかし、とは言え、それでは彼女らがその焦りの原因を意識に登らせて、考えを改めるか……となると、それは疑問です。
     ぼくたちの棲むこの社会は、中世の身分制社会なのですから。
     そもそも、フェミニズムが没落したのは上に挙げたグランドクロス現象によるところが大きいとは思います。
     しかし、とは言え、「うちゅうのほうそく」の乱れ、グランドクロス現象に一番大きな被害を受けたのはある意味フェミニストたちであり、一般ピープルたちは(下手をするとフェミニストたち以上に)「いついかなる場合でも女性は被害者なり」との法則性の中に安穏としています。
     だから一般ピープルのほとんどは今回の騒ぎをもし見物していても、「何か、男と女でもめてるな。女の味方をした方が得策だろうな」というバランス感覚を働かせるだけでしょう。
     それは丁度、痴漢冤罪の被害者を集団で暴行した、大学生たちのように。