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今年の秋は、ずっと「と学会」の本を採り挙げてきました。
それによってフェミニズムが完全なトンデモであること、そしてまたこのトンデモが(他のトンデモと同様に、しかしその度合いは類例のないくらいに深く)日本の中枢にまで入り込んでいること、これについてはインテリたちの見識すらも一切の役に立たないことが明らかにできました。
おかげで今年の後半はほぼ、と学会の本の再読に費やしてしまいました。まあ、こんなことでもなければ生涯二度と読まなかった本もあろうし、面白い体験ではあったのですが。そんなわけでつい先日も『トンデモ本 男の世界』を読んでおりました。既に記事は書いちゃった後なので読む必要もなかったのですが、これを読破すれば『年鑑』を除きと学会本がほぼコンプリできるので、せっかくだからという感じだったのですが……。
そこで本書のレビューを、と学会の中でも名文家である植木不等式氏がやっていることに気づきました。いえ、気づきましたも何も買った時に一度読んでいるわけで、そのこと自体は覚えていたのですが、以下のような極めて秀逸な下りがあったことは、すっかり失念していたのです。
本書の秘められた価値とは、ひょっとしたらそれが男性論としても読めることなのかもしれない。
(237p)
ここです。
いえ、ここだけを取り出すならば、そこまで驚くべきことではないかも知れません。上にも書いたように、このレビューは『トンデモ本 男の世界』に掲載されたモノ。「男性にまつわるトンデモ本を紹介する」ことが主旨の本です。言ってしまえばこの『男の世界』でレビューされた本はそのいずれもが「男性論としても読める」はずです。
しかしそれはひとまず置いて、続けましょう。
『うるさい日本の私』に対してです。
当ブログを読むような方ならばご存じの方も多そうな気がするのですが、本書は中島義道氏の代表作と言っていいでしょう。何しろ文庫版だけで何Verも出ているという、文筆家にしてみれば血涙迸らせて妬むべき存在(本稿のために最新版を買ったら、単行本一種、文庫版は何と三種も出ているとのこと。ぼくの中の中島氏へのシンパシーがこの瞬間、吹き飛びました)。
しかし本書、確かに売れるのも納得の面白さです。
著者は哲学者ですが、とにもかくにも騒音が大嫌い。「スピーカー音恐怖症」と自称するその嫌いぶりは正直病的ではないかとの印象も持つのですが――というかそもそも、本書の書き出しそのものが「私は病気である。」なのですが――彼にしてみればどこへ行ってもうるさいアナウンスで溢れている日本の方が狂っていると思われるのです。
彼は竿竹屋のスピーカーの音声などにも敵意を燃やすと同時に、デパートや駅の施設における「エレベータにお乗りの際はベルトに捕まって……」「白線の内側にお下がりください」などといった注意喚起のアナウンスを、お節介極まるモノとして深く憎悪しています。つまり彼の怒りには、何割か純粋な音量へのモノではない側面が含まれている気もするのですが……まあ、そこは置いて、ひとまずは純粋に音量に対する耐性が(それも極めて)低い人なのであると捉えておきましょう。
そして、彼は戦いを開始します。
メガホンで大声でがなり立てる行列の整列係に切れては「そんな大声を出さずとも整列させることはできる」と実際に列をさばいてみせる。竿竹屋などに文句をつけては逆切れされて追い回されたり、逆に「この一帯で得られたはずの利益分のカネは払うから来ないでくれ」と現金を差し出し、あっさり言うことを聞いてもらったり。
そうした著者の、苦闘の数々にページが割かれているのがまず、読み物として純粋に面白いのです。
さて、植木氏の評に立ち戻りましょう。
あくまで個人的感想で恐縮だが、自分の個人的被害感情に基づいて他者とバトる、という点では、一般的に男性よりも女性の方が高い能力を持っている気がする。「こんな女に誰がした」は、当該女性の物言いとしてしっくり来て、語弊を恐れずに言えば男性文化の中ではある種の色気すら感じさせてしまう。女性イコール弱者という、現在までも続く文化的ないし現実の社会的状況が、こういう物言いを受容させてしまっているのである。
(中略)
私自身はこれは、不幸な状況だと思う。 ジョン・レノンに『ウーマン・イズ・ザ・ニガー・オブ・ザ・ワールド』という日本語にしづらいタイトルの歌があるが、システムが女性を被差別的な状況に置く限り、「誰がした」という被害者感覚も続いてしまうであろう。本来あるべき姿とは、男女ともに、自己の現状の責任を他者に押しつけることなく、自ら引き受ける「自己責任」の社会である。私的にはそう思う。
(238p)
植木氏の評は誠に卓見という他なく、これ以上つけ加えることはありません。
いえ、
システムが女性を被差別的な状況に置く限り、「誰がした」という被害者感覚も続いてしまうであろう。
といった下りは賛成できませんが。女性が「誰がした」という被害者感覚を抱いたが故に、システムが女性を被差別的な状況に置かれていると一見、錯覚させるモノになっているというのが正しいのでは。
まあ、それはいつも言っていることですから、横に置いて置いてもう少し続けましょう。植木氏は「ナカジマちゃん」といういじめっ子を仮想し、男の子はナカジマちゃんにいじめられて親に泣きついても、厳しく当たられることが多かろう、と指摘します。
特に男性は、自己の被害感情を表に出すことを、文化的にあまり許容されてこなかった。
(中略)
それが許容されるのはたぶんナカジマちゃんが衆目一致するようなイジメっ子であるといったように被害が「公的」なものだと認知される場合においてである。
(238-239p)
全く素晴らしい!
全面的に賛成です。
ただ、とはいえ、「男も被害感情を露わにしていいのだ」といった物言い自体が、ある意味で既にメンズリブやら男性学やらいうフェミニストの使徒が繰り返し、すっかり汚染物質にまみれてしまってもいます。しかしながら彼ら彼女らにとって、男が被害感情を露わにすることを許されるのは、彼ら彼女らの考える政敵へとそれがぶつけられる時に限ってであることは、みなさんもよくご存じでしょう。
しかし、ぼくが植木氏の指摘が鋭いと思うのは、これがまさにそうした「男性学」やらの書を読んで発せられた感想などではなく、本書を読んでのものであったから、なのです。
兵頭新児大先生という天才の名著『ぼくたちの女災社会』では男は「三人称性」の、女は「一人称性」の主であると語られます。また同氏の天才的慧眼ではサブカルは「他者指向」でありオタクは「自己省察的」であるとされ、オタクをそれ故に女性的側面を有しながら、それに自覚的でもある存在であるとします。
『男性権力の神話』でも同様でしたね*1。男性はいまだ「ステージⅠ=生存欲を満たす段階」に留まっているが、女性は「ステージⅡ=自己実現欲を満たす段階」にいる、即ち「男性は彼ら自身の司令官になったことは一度もなかった」のだ、というのがそこでなされた指摘であり、それは男性が「一人称性」の主ではない、との意味なのです。
植木氏はまさにそれらと同じ主張、つまり「男も被害感情を露わにしていいのだ」ではなく、いや、それ以前の問題として、「男は被害感情を露わにできない性として初期設定されているのだ」との指摘をしているのです。
そして、そうした結論に、本書を読むことで至ったという経緯そのものがまさに、彼の慧眼ぶりを表しています。「ナカジマちゃんが衆目一致するようなイジメっ子であるといったように被害が「公的」なものだと認知される場合」という比喩が非常に重要で、これは「男は公的な怒りしか、発露してはいけない決まりである」との意味なのですね。
実際には中島氏は「拡声器音声を考える会」という市民グループに参加したり、「静音権確立をめざす市民の会」を名乗ったり(相手へのハッタリのための名刺を作っているだけですが)はしているのですが、基本、「個」として「騒音」という敵に立ち向かっている。そこが重要です。
彼は自らの苦痛を社会のマジョリティが理解してくれないことを理解し、以下のように言います。
現代日本で身長一五五センチメートルの若者は、この悩みを知っている。偏差値四〇の大学生はこの悩みを知っている。「醜い」としか言いようのない女性(たしかにいるものである)はこの悩みを知っている。身体障害者や精神障害者なら、その人権は手厚く保護される。彼らは人権侵害に対して声を大にして訴えることができる。だが、身長一五五センチメートルの若者が「チビ同盟」を結成してその苦しみを訴えることができようか?
(7p)
いや、まあ、チビもブスも今の世の中、表立って笑う人はいないであろうことに比べ、中島氏の苦悩はほとんどの人にとってさっぱりわからないことでしょうし、その意味では彼のマイノリティ性はチビやブス以上、とも言えると思うのですが。事実、彼の騒音に対する訴えはアナウンスなどの係に常に困惑を持って迎えられますし、彼がバス内のアナウンスを苦心惨憺して止めさせた時、その変化に乗客の誰もが無関心であったことに驚く下りもあります。
ともあれ、中島氏の怒りは世間が、「いったん認められたマイノリティ(それこそ女性であり、同性愛者であり……)に対しては極度にセンシティブなのに対し、認められていないマイノリティに対しては絶望的なまでに鈍感である」ことに向けられます。
ここは、ぼくが近年繰り返している主張と丸きり被りますね。
「弱者男性」へのフェミニスト、リベラルたちの陰惨無惨なもの言いに対しての、「サベツである、仮に韓国人相手ならどうなんだ?」といった言い方。これ自体はぼくもすることなので、そうした指摘自体がまかりならん、というわけではないのですが、限界はあるわけです。最近、KTBアニキが
勝部元気 Genki Katsube認証済みアカウント @KTB_genki
『弱者男性が日本を滅ぼす』という本を出したい。どこかに興味持ってくださる編集者さんいないかな。そこそこ注目されるような気がするんだけど。(https://twitter.com/KTB_genki/status/943365740589039617)
こんなステキなうわごとを発しておいででした。それに反発した方が「障害者」の男性も「弱者男性」だぞ、と言い立てたのですが、それはやっぱり無理筋でしょう。「障害者」はここでカテゴライズされるいわゆる「弱者男性」ではないのですから。
ここは中島氏の、あくまで自分自身の属性に依って立つやり方をこそ、ぼくたちは学ぶべきです。
更に読み進めると、彼は「優しさ」をこそ悪だと断じ、人ともっと対話をしていくことを訴えているのす。
本書の四章、五章(つまりラストの)の章タイトルはそれぞれ
「優しさ」という名の暴力
「察する」美学から「語る」美学へ
というものです。
ここで言う「優しさ」とは「優しさのあり方が、テンプレで決まっていること」と言い換えられましょう。そしてそれはまさに日本人が「察する」美学を愛するから。そりゃそうです、責任なんか取りたくないから、誰かにテンプレを、「女性は弱者だから持ち上げろ、男はぞんざいに扱え」といった「正義」を用意してほしいんです。
先ほどちょっと言いかけた、「お節介なアナウンス」への中島氏への憎悪の理由も、こうなれば明らかでしょう。「一応、俺言っておいたからね」で責任逃れをするようなやり方が、彼にとっては何よりも許せないのです。
つまり中島氏は「俺も弱者仲間に入れろ」と言っているのではなく、「世の中には多様な人間がいる。しかし、多様性論者は実際にはそうした真の多様性には絶対に目を向けない。そうした本当の意味での多様性に対応する方法はテンプレを用意しての対応をすることではなく、その場その場で個々と話していくことだけだ」とでもいった主張をしていると言えます。
しかしここで、また別な「方法論」を選んだ者もいます。
そう、「フェミニスト」、及び「男性差別クラスタ」、そして「秋山真人」です。
フェミニズムとは「個的な怒りを公的な怒りにすり替えるノウハウ」でした。「最初っから一人称だけで突っ走らせていただきますとの、すがすがしいまでにエゴに徹しきるためのレトリック」でした。
そして、その「方法論」に学んだのが男性差別クラスタと、秋山真人氏です。
詳しいことは以前の記事を読んでいただきたいのですが*2、秋山氏は「クラスのみんなに注目してほしくてユリ・ゲラーの真似をしているうちに超能力に開眼、目下はと学会などのエスパーを否定し、ヘイトスピーチを繰り返すレイシスト集団に対し、エスパーの人権を守るための戦いを繰り広げている」、ある種の人権活動家です。
以上はご本人の公式プロフィールとは違う部分もありますが、ぼくが彼の守護霊から聞き出した霊言を元にしたモノなので、絶対に間違いがありません。
そう、自分の情緒以外に根拠を持ち得ない「弱者性」をもって、世間からいくらか還元してもらう。秋山氏の方法論はフェミニズムに学んだモノであったのです。
中島氏のスタンスは、それと真逆です。だから彼はまず、「私個人」との立場を明確にして、いちいち相手にケンカをふっかけるという方法論を選び取ったのです。
読んでいけば、彼が公明正大な正義を謳って運動をしているのではないことは明らかで、文中では「相手を選んで戦っている」ことが強調されます。暴走族とやりあえば彼はわかりやすい英雄だが、それはしない。リスク回避という点で当たり前だし、何より彼は「正義のために」ではなく「俺のために」活動しているのですから。
ただし、ぼく自身は、例えば話を「男性問題」に転じた時、そうした方法論のみが望ましいのだ、と言っているわけでは全くありません。例えば「男性団体」を作り、NGOのような形で国家からいくらかのカネを巻き上げることに、ぼくはあまり興味がありませんが、それが絶対ダメだと言っているわけではないし、むしろ男性が共有すべきロジックという意味においての「テンプレ」を作ることは有効でしょうし、現に幾人かが既に成し遂げているし、大変重要なことでしょう。
ただ、中島氏が「先人の中のおっちょこちょい」を見て、それを選ばなかったことに価値がある、との指摘を、ここではしたいのです。
*1「男性権力の神話 《男性差別》の可視化と撤廃のための学問」
「男性権力の神話 《男性差別》の可視化と撤廃のための学問(その2)」
*2「トンデモ女性学の後始末」の「ファクト9 その憎悪には、根拠がない」を参照。
中島氏と騒音を出している主体(鉄道会社など)とのバトルは、中島氏のクレーマーぶりに眉を潜めなくもないのですが、企業側のお役所的対応にうんざりしている人間であれば、ある種の爽快感を感じさせます。
ただし、中島氏の「なおざりを嫌う」心理には大変共感するのですが、相手側の心情もわかります。相手側が彼に頑なな態度を取るケースが多いのは、もちろん一つには「商売の邪魔をするな」との心理が原因でしょう。これは商売上、大きな音を立てねばならない者と、それがイヤでたまらない者とのバトル。いつも言う、「近代的個人主義の社会では、こうした争いが絶え間なく起きるに決まっている(のに、自分の気に入らない相手は自民党の操る戦闘員だとのビジョンで動いているから左派はダメだ)」ということです。
そう、本書の価値の一つは「マイノリティに優しく」という惹句は大変もっともなモノだけれども、「でも共存できないマイノが出てきた時、どうするか考えてそれ言ってんの、お前?」との鋭い突っ込み足り得ている部分です。
しかしもう一つ、大きなことを忘れてはならない気がします。
中島氏の敵は必ずしも、完全に正当な必要性があって大きな音を立てているとは限りません。
論理的にアナウンスは必要ないと説いても、それどころか整列など静かにできるのだと実践による成果を見せられても、場合によってはキャッシュを懐にねじ込まれても、相手はやり方を改めません。お役所的と思うと同時、しかしその気持ちも大変よくわかるのです。
それは「仕事を否定されたくない」というものなのではないでしょうか。
例えば車内アナウンスなどは、想像するに会社の窓際みたいな人がやっているのでしょう(作るのは業者でしょうが、業者への発注係などはやはり、そうじゃないでしょうか)。そうなればことはいよいよ重大です。
言ってみれば世の中の仕事の大部分は、その仕事をしている人物以外にも代替可能であり、いえそれどころかそもそも「なくても別にいい」業種だって多いことでしょう。
しかし男にとって、仕事は一番のアイデンティティです。
何故か。男は「三人称的存在」だからです。お前の仕事が無意味であると突きつけることは、男にとっては死の宣告に等しい残忍無比な振る舞いでしょう。
つまり中島氏の行為は男女を逆転させて考えるなら、「ブスにお前のようなブスなどこの世に不要だと言っている」にも等しいのです。ブスであればブスであるほど、それは傷つくに違いありません。
バス内のアナウンスを苦心惨憺して止めさせた中島氏は、その変化に乗客の誰もが無関心であったことに驚きます。恐らくその時、アナウンス係は思っていたのではないでしょうか。「恐れていたことが起きた」。
そう、中島氏は非道にも、バスのアナウンス係に「お前の仕事は無駄だ、無駄飯食いだ」と最終通告を突きつけたのです。自分の苦情に対しての係の四角四面な対応に対し、彼は「紋切り型だ!」と激怒します。その気持ちもわかるのですが、恐らく相手は薄々以上のような展開を予測できているからこそ、腹を割って話そうとしないのではないでしょうか。
本書は「一人称的存在になさしめてくれ」という血の出るような叫びと「三人称的存在でいさせてくれ」という血の出るような叫びのバトルでした。
そう、本書は男性論の本だったのです。