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 目下、「ドクさべ」が話題になっております――と書いても、もうこの言葉、わからない方が多いかも知れません。ドクさべとは「ドクター差別」こと兼松氏の愛称です。
 この御仁はずっと「女性専用車輌」に反対するため、車輌に乗り込むという運動を続けていました。そのため電車に遅延が発生し、今回ニュースダネになったわけです。もっとも彼らはもう何年もずっと同じことをやり続けており、遅延自体は以前から起こっていたはずなのですが……。
 一時期、ぼくは彼についてよく書いていました。
 当ブログ、或いは旧ブログの彼について書いたエントリを挙げるならば、

「選ばれし者たち」の栄光
2011年女災10大ニュース(その2)
(【第2位】の箇所)

ドクター差別と詰られし者たち(その2)
2013女災10大ニュース(その2)
(【第3位】の箇所)
部長、その恋愛はセクハラです!(接触編)

 或いは、彼についての動画、そして彼との対話の記録として以下が挙げられます。

ドクター差別と詰られし者たち
大女尊男卑空中戦 兵頭新児対ドクター差別
女性専用車両に乗り込む尊い人たち

 ――しかしこうして見ると、ここ五年はいじっていないことに気づきます。
 正直彼のことはもういいや……と思っていたのですが、降って沸いたようなこの事態です。
 どうもぼくは話題のトピックには飛びつくのが遅れる、或いは話題になりすぎると自分の中で「もういいや」となってしまうのが常なのですが、翻って自分が過去に採り挙げたトピックについては忘れた頃に再燃し、こちらの仕事は評価されないのがお約束のようです(上の『部長、その恋愛はセクハラです!』は今をときめく牟田和恵師匠の著作です)。どうにも、思うようには行かないモノです。
 さて、しかし、とは言え、本件についてあまり書くことはありません。こうしたことはそのうち起こるのでは……ということはずっと言ってきたわけで、本件は予言、いや、当然起こりうることについての順当な推測の遅すぎる成就、以上のモノではありません。何のかんの言って、一番悪いのはこうなるとわかりきっていたのに策を講じなかった鉄道会社でしょう。
 とは言え、ぼくはドクさべについてずっと、評価できない旨を言ってきました。
 敢えて簡単にまとめるなら、
 1.目的が悪い
 2.手段が悪い
 ということになります。
「目的」は「女性専用車輌」の廃止そのものです。
 彼は「男性差別」の専門家と自称していますが、ぼくがいつも言う通り、この世に「男性差別」などありません。
「ハエ差別」がこの世にないのは、「ハエ」が人間ではないからです。男はまず、人間と認められていないのですから、男性差別など、あるはずもないのです。
 男が過労死しようと騒がれないものを、女が過労死すると大騒ぎする。
 過労死者の95%が男なので、「当たり前」と放置されているのですね。
 ホームレスの95%は男であることを、誰も疑問に感じない。
 男が痴漢冤罪で殺されようと、ただひたすら女を守れとのマスヒステリーだけが世を覆い続ける。
「男性差別」クラスタがどうして女性専用車輌「ごとき」にばかり執心するかとなると、この世で男性の生命、肉体、精神、尊厳、財産が圧倒的根本的絶対的究極的に軽んぜられているからだ、ということを、彼らが一般人と同様に一切、理解していないからなのです。
 後藤和智師匠は上のようなデータを挙げた拙著に対し、「表面的な統計だけで」「「男が被害者になっている」的な議論を展開していて」けしからぬと泣き叫んでおりましたが、それは師匠が「男は人間ではない」というこの社会のお約束を知っているからなのですね。
 そう、「男性差別」などないのに、彼が「ドクター差別」を名乗っている時点で、もうダメなのです。
 むしろ近年では「経済クラスタ」が「フェミが何を言おうと女は男を養わない、そこを疑問にすら思わない」という「その、一端」に切り込んで、フェミを叩き斬っているのにもかかわらず、「男性差別クラスタ」は歯牙にもかけず、ひたすらに女性専用車輌に乗り込み、男性全体のネガティブキャンペーンに勤しむばかりです。
「手段」についても同様です。
 上に「ネガティブキャンペーン」と書いたように、まず、何よりも一般女性の恫喝というやり方が、世間の反発を招くモノであるのは必至です。しかし彼は、そこについて一切頓着する気配がない。
 男女ジェンダーというモノ(これを、大枠で肯定する立場をとろうと、解体すべきだというスタンスに立とうと)を少しでも鑑みれば、彼の振るまいが「男=加害者/女=被害者」という世間が一番理解しやすい、一番最悪な図式に収斂していくことは、バカにでもわかることです。
 しかし彼はそこを考えない。頭に金玉を乗っけた珍奇な格好で「我こそは正義の体現者なり」と絶叫を続ける。このフリーキーさ、センスのずれっぷりは見ていていたたまれなのですが、彼にはそうした自覚はない。例えばマック赤坂のような「フリークス」的な人々の多くは恐らく、自分で自分を異形である、社会の道化師であると自覚して、それを演じているのではと思うのですが(つまりはドクさべの方こそが本当の意味での「フリークス」だということなのかも知れませんが)……。
 そうなるともう、彼の存在は「男の権利を主張する者など、こうした狂人なのだ」とのコンセンサスを、世間に根づかせるためだけにあると言っても過言ではありません。ことに今回はもめごとを起こし、「女性に危害を加える男」を演じてしまいました。
 性犯罪も外国に比べてため息が出るほどに少なく、女性が優遇されきっているこの社会で、フェミニスト――つまり、女性が虐げられているという「設定」がないと生きられない人たち――は今まで非常な苦心を強いられてきました。データを捏造し、男性を冤罪で陥れ、兵頭新児の発言を「二次創作」してデマを垂れ流すことだけが彼ら彼女らの仕事でした。そこへ、ドクさべは「本当の悪」の役割を、お優しくも演じてしまった。
 本当に、ありがたくて涙も出ません。
 こういうのを、「利敵行為」と呼ぶのです。

 そもそもぼくは、ドクさべを極めて優良なフェミニストの、ないし左派のパロデイであると考えます。彼自身の政治的なスタンスは、親米保守であるとのことなのですが。
 ぼくはいつも左派に否定的なことを書きますが、実のところ政治には何ら興味がない。ぶっちゃけるとぼくの左派嫌いの九割は、「デモ」というものの格好悪さに対する生理的嫌悪感に根差しています。前にも書いた通り、ああいうのは「自明な正義、大衆の支持」といったものが基板にあってこそ成り立つものなのです。
 左派というのは、(少なくとも今となっては)ものすごく偏狭な正義を盲信し、そんな自分たちのコンセンサスを大衆が共有してくれていると思い込んでいる(がため、あどけなくデモができてしまう)存在です。
「差別」という概念もそれと全く同様です。彼ら彼女らは「差別/平等」を「悪/正義」とほぼ同義の概念として扱ってきました。「差別!」と言いさえすれば相手をやっつけられるのだと思い込んできました。しかし「平等」なんて概念は(「正義」がそうであるように)そんな自明なモノではない。逆に言えば「差別」とはわかりやすい「ワルモノ」がいるのだという幼稚な空想を前提しないと、出て来ない概念なのです。しかし、正義は多様化し、彼ら彼女らの手には負えなくなってしまい、だからこそデモはおわコン化したのだと、SEALD'sがあそこまで身体を張って教えてくれました。
 いえ……もっと言えば、左派がいまだフェミニストとのデートに執心する理由は、男女の関係性こそ「常に男がワルモノ、女がイイモノ」という強い強い絶対性を持った、彼らにとっての最後の「持ちネタ」であるからとも言えるかも知れません。
 つまり、ドクさべは「一番真似ちゃいけない人たち」から、「一番真似ちゃいけない部分」を真似てしまった人、なのです。しかし、いまだ嘲笑されていることを理解できず、デモを続けているドクさべ。ぼくは彼と幾度か対話し、案の定、ハナシは全く通じなかったのですが、とにもかくにも彼は「デモで輝いているワタシ」に陶然となっていて、「デモをやらぬお前にこの問題を語る資格はない」と繰り返すばかりでした。これは紛い物の「当事者性」に酔うことで自分の正義を根拠づけられたような錯覚に陥り、何か、快感を得るという「市民運動」の陥りやすい罠ではないでしょうか。
 そう、あらゆる意味でドクさべは左派のパロディだったのです。事実、どうも彼(そして在特会)にああした運動のノウハウを教えたのは、左派の人物らしいとの話も聞きます。
 ぼくはずっと、デモ以前に思想を深化させるべきだ、と繰り返してきました。この業界には既存の勢力としてフェミニズムが横たわっています。その主張は完全に間違ってはいるモノの、蓄積や政治的権力だけは莫大にあるのだから、デモをやるヒマがあればそこを突くだけの理論を構築しなければならない。
 しかしドクさべはそうしたことに何ら関心がないし、そもそもフェミニズムについて何ら知識も持ちあわせていない。ドクターを自称する割に、頭の中には何も入っていないのです。実は彼に、この件についても問い質したことがあるのですが、そこで返ってきたのは「なまじフェミニズムなどを知ると影響を受けてしまう」という実に奇妙な言い訳。しかしこうしてみると、彼はフェミニズムを知らなかったからこそフェミニズムの二の轍を踏み、彼ら彼女らのパロディと化してしまったということがわかります。
 これは彼だけの特徴ではありません。「表現の自由クラスタ」がただ「ミサンドリー」と絶叫すればことが済むと思い込んでいること*1、フェミニズムについて何ら知識がないにもかかわらず「フェミニストは味方だ!!」と泣き叫び続けていることとこれは全く、パラレルです。そうそう、彼ら御用達の「真のフェミニスト」であらせられる「ネオリブ」も自分たちのやっていることを「思想ではなく運動だ」と称していますね。それは丁度、「思想がなく、単に暴れている」ドクさべと「完全に一致」しています。彼ら彼女らは「思想としては内実が一切ないから、身内に向けたパフォーマンスだけしかやることがない」のです。

*1「ミソジニーもけしからぬが、ならばミサンドリーもけしからぬぞ」という彼らの薄っぺらな主張は、「この世にミソジニーはないが、ミサンドリーは空気のように横溢している」、即ち「男性差別などない」状況を一切鑑みない物言いです。

 それでも、最後に、一つだけ、ドクさべのおかげで見えてきたことについて、ここに書いてハナシを終えることにしましょう。
 目下、『広がるミサンドリー』を丁度読み終えつつあります。とにもかくにも大変な大著である(と共に大変な悪文である)ため、読破に数年を要して、最初の方に何が書いてあったかはもう、ほとんど忘れちゃったという体たらくなのですが。
 で、まあ、以前にもちょっと書いた感想(まさにドクさべ同様、ドラマなどのフィクションを採り挙げては「男性差別だ!」と言っているだけの薄っぺらな内容)*2を覆す記述にはお目にかかれそうにないまま読み終えようとしているのですが、一つ、終章にもなって気になる記述がありました。

 男性に恥ずかしいと思わせる能力は、常に女の武器であった。
(371p)

 そう、そうなのです。
 男にとって女に笑われることは、大変な不名誉です。このことは闇の結社の陰謀で、フィクションの世界では男がプライドを傷つけられることに対して、「滑稽で嘲笑すべきこと」として描くことしか許されてはいませんが。
 今回、ドクさべが「男性たちに叱られてしゅんとしていた」ことに対する快哉が、フェミニストによって叫ばれていました。
 ここ、すごく不思議なんですね。
 ここからはまず、彼女らの「緩やかな家父長制」*3への欲情が見て取れるのですが、それ以前に男性心理からすると、明らかに不自然です。男は(特に性的な事柄では)男より女に言われた方が「しゅんとする」ものなのだから。
 そもそもドクさべは女性専用車輌に乗り込むことで、そうした経験を日常的にしている存在です。今更、男にいろいろ言われてしゅんとなるとは(まあ、ご当人に聞かないとわからないとは言え)どうにも思えません。
 以前、近いことを書いたことがあります*4
 彼が街頭演説で、「(女性専用車輌に乗り込んだため)私は女性にキモいと言われた、非道い!!」と訴えていたことがあります。いや、「自業自得だろ」としか言いようがないのですが、「女性に罵倒されて傷ついた」という訴え自体は胸に迫って、ちょっとだけ同情を覚えなくもありませんでした。
 フェミニストが男を性犯罪冤罪に陥れるのは、一種の「反復強迫」ではないか……とぼくは想像します。例えばですが、子供の頃の男の子にいじめられた経験をトラウマに持つ(というのも、彼女らの男性観がどうにも小学生的ですから)彼女らは、男を冤罪に陥れることで、「自分は性犯罪の被害者である、不幸な女だ」という物語を捏造し、被害を疑似体験する必要に迫られているのです。
 同様に、ドクさべは「女にいじめられた非モテである自分」を「反復強迫」的に追想するため、「女性の罵声を浴びに」、女性専用車輌に乗り込んでいる、被害を疑似体験しようとしている存在ではないか――というのがぼくの勘繰りです。
 いずれも巨大なる迷惑しか生まない存在ですが、可哀想ではあります。
 そう、本件がそうであったように、この社会における全てのトラブルは「あらゆる抑圧を一身に受け、暴れるしかなくなった男」が起こし、そして「左翼(フェミニスト)という、弱者(男)への憎悪という感情の実体化した存在」がそれを純粋なる悪であるとして断罪する聖なる儀式を執り行い、鎮める、というお約束になっています。ぼくたちの社会はそのような形で男性を残酷な女神への生け贄にすることでしか社会に満ちた怨嗟の念を「浄化」する機能を持たない、未開社会です。フェミニストはこの社会の憎悪や怨嗟を司る巫女であり、「食うために怨嗟や憎悪を捏造している」存在です。
 本件は残念ながら(極めて珍しく)女性の方に理のあるケースではありましたが――それでも事件は、女性が美味しく食べられるように「超訳」されてしまった。それがつまり上の、「女性に性的関心を抱いて逸脱してしまい、しかし他の正義の男性に取り抑えられる惨めなモテない男、正義の男性に守られた女性たち」という乙女ゲー的ストーリーです。
 そうそう、以前のハナシですが、ぼくが某フェミニストのあまりにも反社会的な発言を見兼ね、注意したところ、狂ったような嫌がらせを受けたことがありました。その時、そのフェミニストの信奉者である(言っては悪いけどちょっとトロそうな)女性はぼくに対して「先生のことが好きなの? 好きなの?」としつこく問い詰めてきて、非常なストレスを覚えました。そう、彼女らは事態を「美味しく食べるため」、そのように「超訳」せずにはおれない存在なのです。
 そうした構造については、しっかり認識しておく必要があります。
 さて、上にも書いたように次回の記事は『広がるミサンドリー』という著のレビューを予定しています。仮にですが、ドクさべについてググって当ブログに来た方。その中でも当記事に引っかかりを覚えるものの、納得できないと感じた方。
 恐らく次回の記事を見ていただければ、疑問のいくらかは解消されるのではと予想します。そんなわけなので、どうぞ、またご来場ください。

*2「夏休み男性学祭り(最終回)――『広がるミサンドリー』
*3「表現の自由クラスタ」が敵視するフェミニストを糾弾する時に多用する表現です。この指摘自体はぼく自身がずっと行ってきたことであり、全く正しいのですが、彼らの言からは「それが一般的な女性の本質であること」への認識が感じられず、極めて不自然です。言い換えれば彼らからは「フェミニストは、口先の主張とは裏腹に、ダブルスタンダードでそうした男性を求めていることこそが責められるべきである」といった視点が欠落している点が気になるのですね。
*4「部長、その恋愛はセクハラです!(接触編)」の前半部分。その様子は動画「ドクター差別と詰られし者たち」に記録されています。