未読の方はまず、そちらを読んでいただくことを強く推奨します。
さて、いよいよ最終章、九章の「結論」です(ホントに「結論」っていうタイトルです)。
が、読みだすや「ジェンダー両極化を覆さねばならない(大意)」などと言っていて(355p)、早速どんよりさせられます。
どうしてミソジニーの存在が、ミサンドリーを正当化するだろう?
(368p)ミソジニー(女性蔑視)とそれを作り出している男性中心的世界観に反対することは重要である。しかしミサンドリー(男性蔑視)とそれを作り出している女性中心的世界観に反対することも平等に重要である。
(376-377p)
著者たち、及び翻訳者の「わかってなさ」を象徴する名フレーズです。
この著者たちの「ミソジニー」に対する温度はわかりません。が、こうある以上、「ミソジニーがあるのだ」というフェミニズムの主張を、ある程度受け入れていると考える他はないでしょう。
フェミニストの欺瞞について批判しつつも、ジェンダーフリーなどのフェミの成果に対しては盲信を抱いている。「男性差別クラスタ」にたまにいる層であり、また「表現の自由クラスタ」ともそっくりです。
しかし本ブログの愛読者の方にはとっくにおわかりでしょう。
男女には絶対的究極的根源的な「愛され格差」がある。
基本的に、男性は「殺していい性」として設定されている。
過労死者の、ホームレスの95%が男性なのはそれ故です。
そんな中、「ミサンドリー」と言われても、困る。
ぼくたちの棲むこの宇宙それ自体が「巨大なミサンドリーそのもの」としか、言いようがないのですから。
「ミサンドリー」は神羅万象全てに宿っているが、「ミソジニー」は、そもそも、ない。
いや、全くないわけではないぞと言いたい方もいるかもしれないが、だとしてもそれはニホンオオカミや二ホンカワウソの分布図くらいに局所的なものです。
しかしそういった認識が本書の著者たちや翻訳者にあるかとなると、疑問と言わざるを得ない。
もっともよい着眼点もあります。ミサンドリーの理解されにくい点として、
ミサンドリーが最も露骨な形態をとって現れたときも、事実として、男性蔑視はしばしば女性蔑視にすり替えて解釈されてしまう。
(358p。アンダーライン部は原典では傍点)
としていることです。
その例として、著者たちはまた一つ、「絶対悪としての男性が被害者としての女性に加害する」映画を例に挙げます。この映画、『イン・ザ・カンパニー・オブ・メン』の主人公であるチャドはマッチョで、女性ばかりかあらゆる男性をも憎み蔑ろにしている、にもかかわらずこれはミソジニーを告発する映画として解釈され、場合によってはミソジニーそのものと解釈されると著者たちは言います。
しかし何としたこと、著者たちはこの慧眼の直前で、こんなことを言っています。
男性も女性もしばしばミサンドリーを問題として見ることができないのは、性差別がミソジニーの点からに限って定義されているからだ。
(中略)
あらゆるミソジニーの痕跡の何十年もの執拗な追跡のあとでは、ミサンドリーがミソジニーの重要なカウンター概念であることが受け入れられるのはとても難しくなり得る。
(357-358p)
まさしく「わかってないなあ」です。
確かに、フェミニズムはミサンドリーの限りを尽くしてきました。上の映画もその影響を、受けていないわけがありません。
しかしもし今ここでフェミニストを全員殲滅すれば――それでは足りないかもしれません、歴史を改変し、フェミニズムという思想の出現を完全に阻止すれば――「ミサンドリー」は地上に出現しなかったのでしょうか。
そんなはずはありません。「ミサンドリー」は「ジェンダー」が地上に出現した時点で、そこに内包される形で生まれていたのです。
そこを、まるで「ミサンドリー」が「ミソジニー」の二次概念ででもあるかのようによいしょと持ち出して来て、「ミソジニーがけしからぬならば同様にミサンドリーもけしからぬぞ、さあどうだ」などとイキったところで、解決する問題は何一つ、ない。
ぼくたちは、ミサンドリーが正当なこととして存在している「凡ミサンドリー社会」に生きている。そのことをまず、認識しなければ何も始まらない。
上の映画にしても、基本的にはチャドが女性へと悪さをする部分がメインの話なのだから、「チャドのミサンドリーについても言及がないとは許せぬ」という言い方はいささかパンチ不足です。例えばですが、チャドが男は平然と殺し、女には殴打で済ませているのに「ミソジニーだ」と言われている、とでもいった描写があるのならわかるのですが、そうでないのであれば、「映画のテーマ外のことを持ち出して、無理にインネンをつけている」に過ぎません(実際の映画を見てみないと断言はできませんが、少なくとも本書の筆致自体が、そうしたことに言及していない以上、彼らの見方に問題があると判断せざるを得ません)。
これこそ、著者たちがミソジニーとミサンドリーをただ対照的な概念とだけ捉えていることの証拠であり、「わかってない」ことの証明です。
「男性蔑視はしばしば女性蔑視にすり替えて解釈されてしまう。」との指摘は、例えばですが以下のような事例を指してなされるべきでした。
「女性だけの街」問題というのがありました*1。フェミニストたちが「(安全のために)男を排除した女性だけの街が欲しい」と主張し、しかし平然と「しかしインフラは男たちが外部から通ってきて、整備せよ」などと言って呆れられたというのが経緯です。
また、「フェミニスト男性」を自称する者が「ネットにはいつ女性が殺されてもおかしくないほどのミソジニーをはらんだ女叩きで溢れている」との主張をしたこともありました*2。しかし彼は「AEDで女性を救助すると訴えられるかも」との「真っ当な懸念」をも、「女叩き」にカウントしていました。
これらは根を一にしています。
「男は邪悪だから、女性だけの街を作り、排除せよ」。
「男は邪悪だから、女性が倒れても、その汚らわしい手で助けるなど許さぬ」。
もし、そうした意見があったのであれば、それは確かに「ミサンドリー」でしょう。
しかし彼ら彼女らが言っているのは、そうしたことではありません。
「排除するが、インフラだけは整えよ」。
「その汚らわしい手で助け、女性の任意で罪人扱いされても文句を言うな」。
それが彼ら彼女らの言い分です。
この意見に異を唱えることが、絶対に許されるべきでない「ミソジニー」であるというのが、彼ら彼女らのホンキの考えです。
彼ら彼女らは、ミサンドることは「空気のように当たり前な前提」とし、「その上でさらに女へと夥しいコストを投じないこと」を「ミソジニー」であると定義づけているのです。「ミサンドらないこと」が「ミソジニー」なのではありません。「ミサンドること」は大前提で、その上であれもしてこれもしてそれもしてが当然、それをしないことが「ミソジニー」なのです。それは「ミサンドリー」を遥かに上回る、本物の悪魔ですら震え上がるであろう吐き気を催すほどの邪悪な「何か」でした。
フェミニズムは、「ミサンドリー」という「元から山のようにあった女性側の負債」を完全にスルーするという蛮行に、まず、出ました。その、しかる後に「ミソジニー」という仮想通貨による借金を捏造して、ぼくたちに「金返せ」と『ナニワ金融道』のような取り立てを始めました。そこが彼女らの悪質さであり、彼女らは「ミサンドリー」の発明者などではなかったのです。
前回もちらっと触れましたが、あとがきでは久米師匠がこれからのマスキュリズムの展望について、
要するに男女平等を目指す上で過去フェミニズムが男性に対して主張し行ってきたことを女性に対して主張し行うのである。
(444p)
(引用者註・離婚時の男親の不利な法的状態を例に挙げ)厳しく批判、監視していく必要がある。(まさにフェミニズムがやってきたことと同じことを性別を入れ替えてやるだけだが)。
(445p)
などと言っています。
彼のかかわっている、「男親にも親権を認めよ」という運動自体には賛成なのですが、女親に有利な現状だって、ある意味では「母親により子供が懐くから」であり、それを無視したジェンダーフリーに賛成はできません。
いや、それよりも、そもそも、ここまでフェミニズムの欺瞞を暴露しておきながら、その方法論だけはパクろうという久米師匠の感覚はさっぱり理解できません。上の監視すべき対象としては「マスメディア」も挙げられており、この調子だと「男性差別的漫画」とかに文句をつけそうですよね。
つまり彼の言うマスキュリニズムも、フェミニズムの「功績」を頂戴しての「よし、俺も」でしかないことがここで明言されているわけです。しかしそれではダメなことは、ここまで読んできた方にはもうおわかりのことでしょう。
先に「男性差別的漫画」と書きましたが、師匠は『巨人の星』、手塚治虫、宮崎駿、また『ワンピース』などをミサンドリー作品、作家であると位置づけます。しかしこれら作家、作品がミサンドリックであるとは、ぼくにはあまり思えません。これら作家、作品においては男親は悪、女親は善という図式が透徹されていてけしからぬそうですが、それって単純に昔の作品では主人公が「旧世代の男」を乗り越えることがドラマツルギーとして普遍的だったというだけのことです。『ワンピース』について、ぼくは全く知らないのですが、師匠の指摘を見る限り旧世代の作品と同様のようで、そうなるとこうした図式はやはり、時代を超えて普遍的なものなのかもしれません。
師匠の『ワンピース』への憎悪はものすごく(戦闘員であっても女性は守られ続けるという図式が露骨だそうで、それに憤るのはわかるのですが)、
まず、男性差別、ミサンドリーの代表的作品といえるのが、少年(?)漫画である『ワンピース』である。この作品は、極めて強く男性嫌悪、女性中心的作品でありつつ、さらに非常に知名度が高く、そしてメディアで人気(誰に人気なのかはおいておくが)なため、総合点において必ず、触れておくべきだと思ったため、あげた。
(448-449p)
何だか見ていて笑ってしまいます。
師匠の腐女子への憎悪が(括弧の中から)窺われます。もっとも、師匠は「女性向けには少女漫画というジャンルがあるのに、何故少年漫画が女性に媚びるのだ(大意・452p)」とも言っており、「男女共生」というポリコレに盲目的に操られて「ガンダム事変」を引き起こした連中*3に比べれば、フラットなジェンダー感を持っていることもまた、窺われるのですが。
……などと思いながら読み進めていくと、本当に最後の最後というところまで来て、ものすごい爆弾が控えていました。
またこれらの男性差別作品とし(原文ママ)挙げているものは、男性の作者であるが、男性の読者に自然発生的に人気が出て、横に広まっていったというよりも、ある一定の(フェミニズムを大いに含む)メディア政治勢力によって政治的な意図をもってプロパガンダされている気配がある。この手の作品が才能がないのに無理やり押されているというのではない、才能がある作品のうち男性差別的(言い換えるとミサンドリーフェミニズム)に都合のよいものが選んで政治的にプッシュされていると思っている。
(452p)
え~と、すみません、師匠は既に遠い世界に行っていらっしゃるようです。
手塚の時代からフェミニズムはメディアを牛耳り、手塚を(本来人気などなかったのに)表舞台に押し上げたのだそうです。まあ、ジブリ作品は母親受けがいい、くらいのことは言えるかとは思うのですが、それだってフェミとは関係ないでしょう(フェミを延命したくてならない自称フェミ批判者が、ママさん世論的なものをフェミと混同してスケープゴートにしがちなのをふと、連想します)。
まあ、こんなわけですから師匠に対しては遠目にそっと、(『巨人の星』の)明子姉ちゃんくらいの感じで見守るに留めておいた方がよさそうです。
(後一つ、本書については訳文の拙さについて延々愚痴ってきましたが、こうして見ると師匠自身の文章もアレだとわかります。確か千田由紀師匠が「日本語ネイティブではないのでは」と評していた記憶があるのですが、それも道理です)。
さて、では、これからぼくたちはどうすればいいのだ、と言われても困るのですが、しかしぼくたちが考えるべきことは、もう自明であるかのように思われます。
例えば上の映画『イン・ザ・カンパニー・オブ・メン』には当初、チャドと協力状態にあるものの、次第に被害者女性を真剣に愛するようになるハワードという男性も登場します。言わば、今一頼りない男という、90年代を象徴する人物です。前回挙げた『愛がこわれるとき』のベンも、そんな感じでしたね。が、しかしそこを考えるとこの映画もまた「女性に加害する男性、誠実に愛する男性」の二者の登場するジェップスなのです。
先に、こうしたジェップスを「ジェンダー規範に忠実」と書きましたが、正確にはちょっと違う。古典的な、ジェンダー規範に忠実な物語であれば、ハワードはヒロインを助けに来る正義の味方として描かれていたであろうからです。
ひと昔、90年代より前ならば正義の男性と悪の男性が物語のメインとして描かれていたはずです(本書は専ら90年代の作品について語られています)。男性は能動的に動くというジェンダー規範が求められるため、かつての物語において、「ヒーローであると共にヒールであった」。つまり女性は無力なピーチ姫(或いはオリーブでも何でもいいのですが)という役割のみを与えられていたが、男性はマリオかクッパ(ないし、ポパイかブルート)に分かれていた。ところがマリオやポパイが失われてしまった、それが90年代に起きた変化だったのです。両者が共にブルーカラーなのは実に示唆的です。
『セーラームーン』はまさにこの時期に誕生した「女の時代」の寵児であり、そうした「男を蹴散らす」的なミサンドリーの念をもって描かれ、しかしアニメスタッフによってそうしたノイズが取り除かれた良作であることは以前指摘した通りです*4。とは言え、このセーラームーンにおいても、彼女の彼氏であるタキシード仮面は活躍すると「男のくせに出しゃばるな」と言われ、しくじると「男のくせに情けない」と言われた存在でした。
かつてより、「男は悪者」でした。その代わり、かつては「男は正義の味方」でもあり、「女はお姫様」役を演ずるのみでした。それは丁度、手柄を立てるのも悪いことをするのも男の方が多いという、現実世界のジェンダー規範の、忠実な反映です。
男性解放論者の古典的名著『正しいオトコのやり方』において、フレドリック・ヘイワードは
女の子はお砂糖とスパイスと、すてきなものばかりでできていた。そのかわり弱くて、おばかさんで、パンクしたタイヤも取り換えられない。そして男の子は強くて自信に満ち、有能だった。そのかわり無法者で信用がおけず、セックスに目がなくて、卵もゆでられない連中なのだ。両性の闘いは続き、そして現在、主役と悪役は決定された。女の子は以前両性で分けあっていた良い性質を全部独占してしまった。男の子はただもう、悪いだけだ。
(191p)
と極めて鋭い指摘をしています。
本書の分析の全てが無意味だとは全く思いません。しかしそれを実りあるものにするならば、近年の物語(否、言説のレベル)において「ヒーロー」が不在になっていることをこそ、問題とすべきなのです(久米師匠は「ヒーロー」の存在そのものを「男性差別」だとい言い募りそうですが、まあ、彼のことはどうでもよろしい)。
言わば「ミサンドリー」はあってもいい、しかしよりそれ以上の「オトコスキー」がかつてはあったし、あってしかるべきなのにそれが失われた、何故なのか、というのが設問であるべきだったのです*5。
その理由は、何か……? 大情況的には産業のサービス業への移行に伴う男性性の価値の減退みたいことは、先進国に必ず起こる必然だったでしょう。ヴィジュアル文化時代には、見栄えのする女性が有利ということもあります(これはテレビ普及が大きいでしょう)。
むろん、フェミニズムだけが原因ではないとはいえ、彼女らがそこに乗っかり、男性のネガティビティを喧伝し続けてきたということは言えます。本書の諸々の指摘は、そうしたフェミの蛮行の記録にもなっており、そこはもちろん、大変に有意義です。
本書を見ていくと、ポリティカルコレクトに対する鋭い批判、左派が雑に黒人と女性とを混同して「聖なる弱者」に仕立て上げている点についての批判もあり、それぞれ至極もっともな話です。
端々には
ほとんどの人はもし完全な平等が達成されたら、もし私たちが文化システムとしてのジェンダーの名残を全滅したとき、何が実際に起こるのか考えようとしない。私たちが、“脱ジェンダー化”と呼ぶものは全ての男女の文化的違いを解消し、生物学的違いさえ緩和するだろう。ではどうやって男性も女性もアイデンティティを形成するのだろう?
(140p)
といった記述もあり、これなどジェンダーフリーへの鋭いカウンターになっています。
しかし、同時に別な箇所ではジェンダーフリー肯定と思える記述があるなど、全体を通してみると本書がぶれないはっきりとしたビジョンを提示し得ているとは、言い難い。
ましてや久米師匠には、批判する漫画がむしろ古典的ジェンダー観に則ったものであることが象徴するように、ジェンダーフリーへの強烈な志向がある。
それともう一つ、彼は「男性差別解消を目指す人は人文系の学問を納めるべき」と主張し、また本書を学者、学生に読まれることを期待しているなど(445p)、どこか権威主義の匂いのする御仁です。また、上の腐女子への視線や先のポルノ批判の記事*6を見ても、オタクに対しての憎悪を持っていることが窺い知れる。仮にブログ「独り言 女権主義」の主が久米師匠であるとの顔面核爆弾さんの考えを正しいとすると、そのオタク憎悪の強烈さは疑い得ないものとなりましょう。つまり彼自身が今の左派の特徴である「とにもかくにも弱者と見るや、本能的に激烈な憎悪を燃え立たせる」という特徴を十全にお持ちの方であると評価せざるを得なくなるのです。
ぼくが「女災」問題と「オタク」問題を並列させて語ってきたわけは、当ブログの愛読者の方にはおわかりでしょう。「オタク」は「弱者男性」と「≒」で結べる存在であり、従来のポリティカルコレクトネスの穴を突く存在(アメリカで言えば「プア・ファット・ホワイトマン」に当たる存在)であるからです。
そのオタクを呪う久米師匠こそ、この世で一番の「ミサンドリスト」と言えましょう。
左派が女性でありセクシャルマイノリティであり特定の外国人でありを理解する素振りを見せるのは、言うまでもなく彼ら彼女らの人権を慮っているからでは全くなく、最初から持っていた「社会一般」に対する強烈な憎悪を、「正義」に偽装するためでした。
フェミニズムの本質は「箱舟」です。「甚だしく勘違いした、幼稚なナルシシズムを根底に置いたエリーティズム」です。
自らのエリーティズムを満たすため、箱舟に搭乗したが、しかしその箱舟すらもアララト山に辿り着くことができないと知った者がいたとしたら……?
今までの久米師匠の主張は、彼が彼なりに考えて提示したアンサーでした。
弱者男性を深く憎悪する久米師匠(及び、田中俊之師匠)は「男性解放」を小銭稼ぎのネタにすると同時に、実のところ自分たちと歩調をあわせる「選ばれし者」のみを正義とすることで、男性一般は見下すというウルトラCを開発した方でした。
一方、数年前まで「世界ミサンドリストナンバー1」の地位にあった「オタク界のトップ」は、しかしながら、目下のところオタクの味方のふりをしている。彼らは専ら「表現の自由」問題というワンイシュー()に論点を特化することで、今までの方法論のまま、オタクの味方として振る舞おうとした人たちでした。
久米師匠の、フェミの方法論をパクろうという施政方針演説を見ればわかるように、彼らはフェミニストを憎みつつ、同時に彼女らの持つ資産、つまり論理の構築であり(これこそ非実在の仮想通貨なのですが)アカデミズムやマスコミにおける権力に魅力を感じているように思われます。
彼らはフェミニストのトップを殺して、首だけを挿げ替え、そのリソースを利用しようという野望に憑りつかれてしまったのではないでしょうか。彼らが勝利した時、きっとバカ殿としてピル神みたいな人が椅子に座らされることになるのでしょう。
*5 さらに言えばフェミニズムとは「オンナスキー」が(専ら彼女らの責任で)失われ、もう、しょうかたなしに、ほとほと根を上げて、男がホンの僅かばかり露呈させた「ミソジニー」を手に取り、大袈裟に誇張して騒ぎ立てるという現象そのものでしたが、まあ、それは置きましょう。
*6 男性に対する性の商品化の学問上の批判
コメント
コメントを書く『ワンピース』はかなりえげつない作品みたいですね。
今時珍しいとも言えるし、だからこそ売れているとも言えるのでしょうか。
ただ、これも(本書の用語を援用すれば)「男性向けジェップス」なんですよ。
本書の著者の誤りは「ジェップスは女性向けの作品である」というポストが赤いくらいに自明なことに首をひねっていることですが、同様に久米師匠は『ワンピース』を男性向けと認められずに陰謀論に走ってしまっている。それは丁度、ポルノの作り手、或いは出演者の女性の存在を理解することができず、「男性に騙されているのだ」と解釈してしまうフェミニストといっしょです。
その意味で、『ワンピース』にせよ『巨人の星』にせよ「道徳的に問題」、「教育に悪い」という設問を立てることは(ぼくがそう思うかは置くとして)可能ですが、やはり「男性を貶めている」というのは違うんじゃないかと思います。
>近年でも物語(否、言説のレベル)の中にはいくらでもヒーローはいるとは思いますよ。ただ、それが女性向けに特化したヒーロー(チンポ騎士)というだけの話です。
言説のレベルのヒーローとなるともう、東浩紀とか宇野常寛とかしか思いつきません。しかしまさにおっしゃるチンポ騎士でしかないわけで、「オトコスキー」な価値観を提示する人たちではないでしょう。
>リアル社会には女性にモテる男(リア充)がフツーに存在しており、彼らのようなモテ男には世界がオトコスキーに溢れて見えているんじゃないでしょうか?
上の仮定を前提すると、そうした人たちも「オトコスキー」な価値観を享受できているわけでは、ないのではと思います。
これも抽象的な物言いになりますが、社会が右肩上がりであった時は、彼らはオトコスキー度100であった。中間層も70くらいは享受できていた。
しかし今は少ないオトコスキーを彼らが独占し、50ほどを享受し、我々は10くらいになってしまっている……。
数字は適当ですが、いつものように非現実的な数字を出さないのは(ヤツらは一億独占しているが、我々は1だ、とか言わないのは)、「オトコスキー格差の偏在」よりは「社会全体の男性価値の低落」の方が顕著だと思うからです。
>まずは現在の高騰し過ぎた女性性の価値を無効化するためにリプロダクションの権利を平等にするところから始めたらどうでしょうか?
とおっしゃっていますが、そう考える前提として、「女性性の価値が高騰しすぎている」とお考えのわけで、それは「男性性の価値の急落」という考えを導入しないと説明できないわけです。
(もっとも、「女性性」の価値の高さは歴然ですが、「女性」そのものはそこまで幸福そうなわけでもありません。しかしこれって「オトコスキー」がないからだ、と思います)
前に「キモカネおっさん」という用語に対してぼくは、「おっさんはフェミによって無理からに(カネを奪われたのは自明だが、さらに)キモくされたのだ」と主張しました。
こうしたことはなかなか説明困難ですが、例えば「キレンジャー」が戦隊にいなくなったこと、かつては「キレンジャー」そのものが主役のドラマが作られていたことなど(例えば『どっこい大作』)を、例に挙げたかと思います。
ぼく自身、偉そうに言えるほど知識があるわけでも、それを開陳して説明できるだけの表現力があるわけでもないのですが、ひと昔前には、今となっては思い出すことが困難なほどに、しかし空気のように「オトコスキー」が溢れていた、わけなのです。
>前に「キモカネおっさん」という用語に対してぼくは、「おっさんはフェミによって無理からに(カネを奪われたのは自明だが、さらに)キモくされたのだ」と主張しました。
こうしたことはなかなか説明困難ですが、例えば「キレンジャー」が戦隊にいなくなったこと、かつては「キレンジャー」そのものが主役のドラマが作られていたことなど(例えば『どっこい大作』)を、例に挙げたかと思います。
なるほど、兵頭さんの仰る「オトコスキー」の意味がようやく理解できました。
そう意味であるならば、私の主張と兵頭さんの主張にそこまでの齟齬はないと思います。
キレンジャー、みみずくの竜、ボスボロット、寅さんのような現在では一生リプロダクションできる見込みがない非モテにもリプロダクションの権利を与えるべきだというのが私のスタンスです。要するに現在の「オンナスキー」状態に拮抗するだけの「オトコスキー」をもう一度キレンジャーたちにも与えられるような社会を望んでいる訳です。
現在の日本社会では女性性の価値が高騰し過ぎたため、兵頭さんが仰るように「男性性の価値の急落」が起こりました。これはフェミニズムだけが原因ではなく、産業のサービス業への移行や日本が戦争しなくなったことも原因にあるでしょう。
どのみち今後10年から20年の間に約半数の職はAIに奪われるという予測もあるくらい近年は様々な分野で機械化が目まぐるしい勢いで進んでおります。
男性性の価値(オトコスキー)は今まで以上にどんどんなくなり、将来的には消滅していくんじゃないでしょうか?
ならば、リプロダクションにおいても平等にすることでオトコスキーを維持し続けていくべきだというのが私の考えです。
おそらく本質的には私と兵頭さんの考えにそこまでの違いはないと思います。
キレンジャーやボスボロット、みみずくの竜のような兵頭さん的ポジションの男性が淘汰されていくのは寂しい話です(私のポジションをマジンガーZで例えるならばヌケかムチャといったところでしょうかwww)。
そうですね、みみずくの竜やボスボロットを例に出されたように、この種の「力自慢の巨漢」は、本当は主役だったのが、70年代辺りに「三番手」に追いやられたのだと思います(ポパイやマリオがブルーカラーだというのは要するにそういうことですよね)。
ただし、それでも『ゴレンジャー』の頃はまだ、居場所があった。
それが消失し続けたのがこの数十年です。
ただ、男性性に価値がなくなり続けるというのはどうでしょう。
「男性の歴史的意義はもう消失した」というのは80年代の渡辺恒夫(女装を研究していた人物)の言ですが、この頃の「女性メシア待望論」というのは今からするともう本当に古びたものになってしまっている。
ミソジニーというのはその意味で、本当に全てを失った女性の泣きながらの逆切れ……のようにぼくには思われます。
それはOVA的超越的美少女を産出していた80年代オタク文化に対し、ラノベ的「最終的には男の子の前で兜を脱ぐ」的ツンデレ美少女が一般的になったゼロ年代オタク文化という形でも表れています。もこっちは、その最終到達点ですよね。
男女のジェンダー差がいかに大きいかが、女性が男性の世界に入ってくれば来るほど露わになってきたのがここ数十年でしょう。
前にトランプ現象やブレクジットを例に出しましたが、リベラル的な「男女が何でもかんでもいっしょがいいんだ」的価値観はだんだんと後退し、また女性の家庭回帰が始まるのではないかとぼくは思っています。婚活ブームとか、多分、定期的に来るでしょうし。
また、それこそ震災が象徴的なように、危険な仕事はやはり、(別にやりたくもないけど無理からに)男がやることになる。国が貧しくなればなるほどそうした機会が増えていくんじゃないでしょうか。
それは、必ずしもいいことではありませんが(一番危険なことをさせられるのは弱者男性でしょうしね)、それでも今よりは幾ばくかはマシになるのではと思います。
>それでも今よりは幾ばくかはマシになるのではと思います。
すみません、この部分が少々わかりません。
もう少し詳しく説明していただけると幸いです。
要するに「危険な職業ではあるが、弱者男性も仕事にありつくことが出来るから今よりはマシだ」といった感じの意味合いでしょうか?
そういった意味合いであるならば、まさに現状がそんな感じではないでしょうか?
土方のような低所得ブルーカラーにはDQNが多く、フツーに結婚してたりするんですよね(本田透が主張するようにDQNの方が我々より女性にモテるという忌々しい現実)。
ブルーカラー(DQN)は持ち前の男性性でボス猿のように相手を暴力的な手段で貶め、威圧し、服従させ、女たちをフィギュアのようにコレクションする勢いで口説いていくカリスマ性を持った連中が多いので弱者男性がブルーカラーに勤めるのは結構大変だと思います(だからといってホワイトカラーでも我々が落ちこぼれであることに変わりはありませんが……)。
危険な仕事はクソDQNと大神さくらのような女性に任せておけばいいんじゃないでしょうかwww
私たちはホワイトカラーでぬくぬくと適当に仕事しながら安い給料でなんとか頑張っていくしかないんじゃないでしょうか?
いや、そんな難しいことを言っているわけじゃありません。
(逆に言えば、本当にぼくの頭は抽象的にできているんだなとも思いますが)
まあ、確かにぼくにもブルーカラーは務まりそうにないんで、そうした仕事しかなくなったら困りますが、いずれにせよ貧しくなれば女性の家庭回帰は始まると思います。
それで仮に結婚するのがブルーカラーや強者男性であろうとも、何にせよ今よりはましではないでしょうか。
すみません、度々コメントありがとうございます(たった今、気づきました)。
今よりはマシの意味がようやく分かりました。
ただ、国が貧しくなってようやく専業主婦にしてもらいましょうだなんてあんまりにも虫がいい話ではないでしょうかね。
今まで散々好き放題に立ち回り続けてきた女性側のツケを男性側が払い続けてきたというのに挙げ句の果てには専業主婦にしろだなんて男は神様かって話ですよね、コレwww
GUY FAWKESさんが前にウォッチメンのロールシャッハの名言を兵頭さんにご紹介しておりましたが、今回も引用させていただきます(GUY FAWKESさんのようなアメコミオタクは日本では少数派なので貴重な同士ですよwww)。
「自分の罪でがんじがらめになった売春婦と政治屋どもは終いには天に向かって叫ぶだろう。
"助けてくれ!"とな・・・そしたら俺はこう答えてやる。"いやだね"」
-ロールシャッハ(本名:ウォルター・ジョセフ・コバックス)
アラン・ムーア原作 DCコミックス「ウォッチメン」より
>ただ、国が貧しくなってようやく専業主婦にしてもらいましょうだなんてあんまりにも虫がいい話ではないでしょうかね。
でも、「国が豊かになったので職場に進出します」だってめちゃくちゃに虫のいい話でしたし。
いつも言うように、「男性が生命をすり減らしてきた」のが事実でも、「だから女性も同様に危険を担え」というのは恐らく、通らない。せめて、「今まで通り危険を担うので、それに対する1しかなかった感謝を1.5くらいにしてくれ」と言うのがせいぜいだと思います。
>「自分の罪でがんじがらめになった売春婦と政治屋どもは終いには天に向かって叫ぶだろう。
>"助けてくれ!"とな・・・そしたら俺はこう答えてやる。"いやだね"」
今、女性たちは「(結婚できない、)助けてくれ!」と言っている情況だと思います。
ひとまずはそれに対し「何か、男が悪い」というフェミの大合唱が一億存在しているので、それを七千万くらいに減らすことを考えましょう。
ナンテコッタイ、繁忙期も終わったんで久々にお邪魔したら久米シショーは頭悪いの露呈してるし、私がいつの間にかアメコミ好きになってるし(好きだけど)これもうわかんねぇな…(棒)まぁ、それは兎も角。
>ただ、国が貧しくなってようやく専業主婦にしてもらいましょうだなんてあんまりにも虫がいい話ではないでしょうかね。
今まで散々好き放題に立ち回り続けてきた女性側のツケを男性側が払い続けてきたというのに挙げ句の果てには専業主婦にしろだなんて男は神様かって話ですよね、コレwww
フェミニズムにそんなものを期待するのは愚の骨頂ですが、思想としての筋が通らないものが延々脈々と継続してきたのがフェミニズムですからね。
もっと言えば、それだけ男性の負担に乗っかっている事実からも彼ら彼女らこそが「実在性ミソジニー」の唯一の担い手だ。
弱者女性を生み出しているのが自分達であるのにそれを男性に向けている上に男性を弱者の枠組みには入れない。
オマケに稲田クソシショーみたいに公然とのび太君を「クズ野郎」と罵り、「ドラえもんは男子諸君をのび太化させた、女の子達はそれを見捨ててアセンション(高次元への上昇)を成功させたのだ」とトンデモ論理を展開するサブカルクソ野郎も御坐すからね(というか、稲田クソシショーのやってることって藤子先生全否定じゃないか…)
「本当に失礼しちゃう、ネンネしな!!!(キレ顔ダブルファック)」by 恋して ポプテピピック
>GUY FAWKESさんが前にウォッチメンのロールシャッハの名言を兵頭さんにご紹介しておりましたが、今回も引用させていただきます(GUY FAWKESさんのようなアメコミオタクは日本では少数派なので貴重な同士ですよwww)。
兵頭さんはご存知ないとは思いますが、件のロールシャッハというキャラは小柄で不潔な身なりで昼は厨二病じみた文言が書かれたプラカードを持ちながら街を徘徊し、夜は悪人以上にエゲツない手段で自警団活動を行い、狡猾な女と偽善者を死ぬほど憎んで共産主義を唾棄し、更には原爆投下を賛美する(私個人としては受け入れられないが)ある種の弱者男性の本音を赤裸々にぶちまけた様な痛快な人物でしてね。ただ、無垢な子どもには優しいんですよ。
>でも、「国が豊かになったので職場に進出します」だってめちゃくちゃに虫のいい話でしたし。
いつも言うように、「男性が生命をすり減らしてきた」のが事実でも、「だから女性も同様に危険を担え」というのは恐らく、通らない。せめて、「今まで通り危険を担うので、それに対する1しかなかった感謝を1.5くらいにしてくれ」と言うのがせいぜいだと思います。
兵頭さんも引用していた様に吉本隆明が看破した「上野千鶴子は娼婦である」とは見事な指摘でしたね、流石は江藤淳とタイマン張っただけはある。結局のところ、所謂「強者男性」へのカウンターを気取りながら女性をダシにして弱者男性を弱者と看做さない、指摘されれば「それは男社会での問題だから自業自得」と開き直る。ラディカルだとかリベラルだとか、小賢しい分類を作って言い逃れしようともフェミニズムとはそういうモノ。
呆れるのは未だに先のエマ・ワトソンのスピーチを引き合いにして「フェミニズムは弱者男性のことも考えてますぅ〜」と予防線を張って、それにまんまと騙されるリベやサブカルクソ野郎がいる。
なお残念ですが私は「自分のママは専業主婦だったからアテクシもそうさせてよね」という専業主婦どころか家庭それ自体を舐めくさった女性に回帰していただきたくはありません、それこそ虫が良すぎる。
尤も、これが断固としてフェミニズムを糾弾しながらもプロとして思想に一定の保守主義的バランス感覚を担保しようとすると兵頭さんとひねくれた「キモくて金のないおっさん」予備軍である私との姿勢の違いでしょうが。
>私がいつの間にかアメコミ好きになってるし(好きだけど)これもうわかんねぇな…(棒)
どうも、すみません。
ウォッチメンは評価が高いわりに日本ではあまり知名度が高くない隠れた名作ゆえ、理解ある同士に出会えてたのがたまらなく嬉しくて、ついついロールシャッハの名言を引用してしまいました(日本だとアベンジャーズやX-MENの方が有名ですからね。まあ、私も大好きですが)。
>件のロールシャッハというキャラは小柄で不潔な身なりで昼は厨二病じみた文言が書かれたプラカードを持ちながら街を徘徊し、夜は悪人以上にエゲツない手段で自警団活動を行い、狡猾な女と偽善者を死ぬほど憎んで共産主義を唾棄し、更には原爆投下を賛美する(私個人としては受け入れられないが)ある種の弱者男性の本音を赤裸々にぶちまけた様な痛快な人物でしてね。ただ、無垢な子どもには優しいんですよ。
確かにロールシャッハは絶対に友達にはしたくないタイプの男だとは思いますwww
ただ少しばかり厨二病を拗らせている点や女嫌いなキモいオッサンという点は弱者男性そのものでして大変好感のもてる実に面白いキャラクターです。が、それゆえ決して一般受けはしないであろう不憫なキャラクターでもあります。
ロールシャッハの最期はまさに弱者男性のメタファーといっても過言でないほど、リアリティ溢れる圧巻のラストシーンでした。
終盤で敵役のオジマンディアスがエイリアンの侵略によってニューヨーク市民の半分が殺害されたとデマを流すことでアメリカとソビエトによる核戦争を回避する作戦を実行し、見事に共通の敵ができたアメリカとソビエトは思惑通りに和解します。そして人類は救われた訳ですが、ただ一人最後まで妥協しなかった厨二病のロールシャッハはDr.マンハッタン(全裸の青色のオッサン)に殺害されてしまうのです!
決してブレることのないロールシャッハはまさにフェミニズムの悪事を絶対に許すことができない弱者男性の生き様そのものでした。
前回も言いましたが、社会不安を鎮めるためには共通の敵役が必要なのです。ウォッチメンではオジマンディアスがニューヨークに転送したミュータントのイカの精神爆発によって数百万人が犠牲となりましたが、現実ではフェミニズムによって弱者男性が犠牲になりました。
この救いのない現実を決して許すことが出来ないロールシャッハ(兵頭さんやGUY FAWKESさん)でしたが、このままロールシャッハ(兵頭さんやGUY FAWKESさん)が真実を公表すれば、弱者男性の犠牲が無駄になるばかりか、これまで以上に日本社会の不安が高まる危険性を恐れたオタク界のトップが我々の前に立ちはだかります。
このとき原作のロールシャッハは、
「新しい理想郷を守るんだろう。今さら一つぐらい死体が増えても同じことだ。どうした?何を待ってる? やれ。殺せ!」
と、叫びます。
おそらく現実でも我々の最期はロールシャッハと全く同じになるんじゃないでしょうか。
ウォッチメンを読んだことがない兵頭さんには今回の例え話はやや分かりづらいかもしれませんが、GUY FAWKESさんにはご理解いただけたんじゃないでしょうか。
>なお残念ですが私は「自分のママは専業主婦だったからアテクシもそうさせてよね」という専業主婦どころか家庭それ自体を舐めくさった女性に回帰していただきたくはありません、それこそ虫が良すぎる。
そうそうwww私が言いたかったことを見事に言語化してくださいました╰(*´︶`*)╯♡
正直、私も家族制度やら結婚制度やらにそこまでの拘りがあるわけではありません(だって、今の民法などでは圧倒的に男性が不利ですからね)。
今マスメディアでセクハラ騒動が今までにないくらい話題となっておりますが、司法・立法・行政・マスコミが完全にフェミニズムの支配下となった現状の日本で仮に結婚できたとしても地獄でしょうwww
GUY FAWKES様>
お久し振り(^^
>もっと言えば、それだけ男性の負担に乗っかっている事実からも彼ら彼女らこそが「実在性ミソジニー」の唯一の担い手だ。
>弱者女性を生み出しているのが自分達であるのにそれを男性に向けている上に男性を弱者の枠組みには入れない。
本当、「ミソジニーなど、ない」と言いたいところですが「女性の(自分より上の)女性への憎悪」は本当にすさまじい。そしてそれを思想でデコレートして、実際に女性へと被害を及ぼしたのは唯一、フェミニズムですからね。
以前、はてなの記事で「フェミニストは最初から弱者男性だけが憎かったのかも知れない」というタイトルがあり、感銘を受けたのですが、それに倣うと「フェミニストは最初から自分という女性だけが好きだった」わけですね。
>ある種の弱者男性の本音を赤裸々にぶちまけた様な痛快な人物でしてね。
ある意味、加藤貴大的キャラですね。
そうしたキャラを「ネットでだけ神扱い」するのではなくある種の「ワケありの悪役(ただの悪いヤツではなく正義に対するアンチテーゼを示す悪役)」にするところがアメコミの厚みなのでしょうね。
日本でそういうキャラってあるのかなあ?
>なお残念ですが私は「自分のママは専業主婦だったからアテクシもそうさせてよね」という専業主婦どころか家庭それ自体を舐めくさった女性に回帰していただきたくはありません、それこそ虫が良すぎる。
まあ、虫がいいとは思います。
ただ女性のセクシュアリティなどを慮った時、「あたし以下の男」が大勢いる会社組織は、彼女らにとって辛かろう(それ以上にまあ、こちらにとっても辛いんですが……)
「あたし以上の男」と小さな共同体を切り盛りしていただくのが一番の落としどころかなあ、と思います。
顔面核爆弾様>
アメコミは本当に詳しくなくて。
ロールシャッハはシャア的なキャラなんですね(しかしソビエトということは昭和?)。
>今マスメディアでセクハラ騒動が今までにないくらい話題となっておりますが、司法・立法・行政・マスコミが完全にフェミニズムの支配下となった現状の日本で仮に結婚できたとしても地獄でしょうwww
正直そうですね。
ただ、それすらも会社社会に持ち込まれるよりは……とは言えます。
もっともDV冤罪などはむしろ家庭が主な舞台となりますし、別に女性が家庭に回帰すれば全てが解決するというわけでは全くない。
しかし一つに、「女性が社会進出するのは何か、いいこと」≒「何か、みんないっしょであることが無条件でいいことであるという多文化主義」をつぶしておくだけでも話はかなり変わって来るとは思います。