バックラッシュ!

 今月1日、海燕さんのニコブログに「上野千鶴子のオタク批判がひどい。と題した記事が掲載されました。
 数年前に出た『バックラッシュ!』という本での上野千鶴子師匠インタビュー「不安なオトコたちの奇妙な連帯――ジェンダーフリー・バッシングの背景をめぐって――」(聞き手 北田暁大+編集部)についてです。
 この『バックラッシュ!』という本、要は当時、ジェンダーフリーなどが批判されて立場の悪かったフェミニストたちが、「バックラッシュ(反動)」に対し再反論を試みた本です。ぼくも一読して、何というか、ただただ「アンチフェミはネトウヨ(大意)」と言い募っては感情的に罵詈雑言を浴びせるばかりの、品のない本だなあ、という読後感を持ったことを覚えています。
 さて、とは言え、海燕さんは(よくは存じ上げないのですが、ぼくのイメージとしては)どちらかと言えばフェミニズム寄りの人物という印象があり、今回の批判は意外でした。
 海燕さんの主張は、詳しくはご本人のサイトを見ていただきたいのですが、要は上野師匠がオタクに対して、

ところが、彼らが間違って子どもをつくったらたいへんです。子どもって、コントロールできないノイズだから。ノイズ嫌いの親のもとに生まれてきた子どもにとっては受難ですよ。

 と言ったことが大変に差別的である、というわけです。
 基本的には賛成しますし、彼がフェミニズムに対して懐疑精神を持ったことは大変に素晴らしいと思います。
 が、ツイッター上では一部「いや、海燕が文意をミスリードしているのだ」といった感想も聞かれ、一応、確かめてみようと再読してみました。
 結論から言えば、海燕さんの誤読、ミスリードということは全くありません。彼は文意を極めて正しく理解し、そして批判していると思います。
 しかし、とは言え、ぼくの中には複雑な気持ちが沸き上がってこないでもありません。何しろ海燕さんは上野師匠を批判して、

偉大な思想は人間の質を高めたりしないってことですね。

 とまとめていらっしゃるのですから。つまり彼は上野師匠については批判的でも、フェミニズムについては全肯定ということです。
 それって、いささかおかしくはないでしょうか。何となれば上野師匠の上の発言は、まさにフェミニズムという偉大な思想に基づいて発せられたものに他ならないのですから。

 度々繰り返していることですが、オタク界のトップの人たちは極めてフェミニズムと親和性が高く、ことに上野師匠などとは仲がいい。フェミニストを嫌うオタクたちに「フェミニストはオタクの味方だ」と吹聴……あいや、プロパガンダ……あいや、デマコギー……あいや、啓蒙してくださる方が昨今、非常に目立ってきました。
 前回記事の『まどか☆マギカ』の後半でも、上野師匠が

「フェミニズムは敵ではありません」

 と語った記事を引用しましたよね。
 確かに上野師匠の近著、『女ぎらい』などを見ても、「自分は表現の自由の規制に反対している」「オタクは現実の女よりも二次元の美少女が好きだから平和的である」と書かれています(大意)。
 が、それって要は「男が現実の女に手を出すことは全て悪」というフェミニズムの単純極まりない二元論の裏返しに過ぎないわけです。フェミニズムがオタクの味方であるとしたら*1、それはオタクが現実の女に手を出さない限りにおいてです。
 彼女が女性とつきあえない男性について、

マスターベーションしながら死んでいただければいいと思います。冷たいでしょうか。

 と発言していることも、一部では有名です*2。
 だから海燕さんの発言には同意しつつも、ぼくは「今更だなあ」というのと「つまりフェミニズムって偉大な思想じゃないんじゃ……」といった、二つの感想を持ったわけです。

*1もっとも、上野師匠も専門性の高い著作を見ていけば「ポルノは女性差別だ、認めない」などとおっしゃっているのだから、彼女がオタクの味方だなどということは錯覚に過ぎない、とぼくは考えますが。
*2むろん、昨今の、弱者男性バッシングに奔走するフェミニストに比べ、上野師匠の方が理論としては一貫している、ということは言えるかと思います。
 そうした人たちは、男性からの女性への暴力など、絶対に許してはならないことであるはずなのに、何故だかオタクを叩くことにばかり専ら情熱を注ぎ、「オタクはDQNなどにくらべ穏健だ、DQNこそを批判すべきではないか」といくら言っても、「そういう相対的な問題ではない」と言って譲りません。

 さて、とは言え、厚い厚い本書の最後に収められた長い長いインタビューではありますが、オタクについては最後の箇所にちらっと触れられているだけです。
 せっかくなので、以下では全体の論旨についてのツッコミをしてみましょう。
 本書全体について言えるのですが、専門性が高いが故でしょうか、フェミニストたちの発言には、クラスの隅っこでのび太たちがジャイアンに対して「あいつバカなんだぜ」と陰口を繰り返している、という印象しか抱けませんでした。
 この上野師匠インタビューにおいてもそれは顕著で、とにもかくにも「反フェミニズムは保守でホモソーシャルだから許せん」というのが彼女の主張です。こういう場合、相手の主張の不当性を指摘することが何より大事だと思うのですが、フェミニズムにとってそれは二の次三の次のようです。
 本文では論敵に対し、「ヤツらはホモソーシャルだ」を前提に、その「ホモソーシャリティ」を叩くといった振る舞いが幾度となく繰り返されます*3。見てると1pに五回くらい「ホモソーシャル」って言葉が出てくるページまでありますw 「アンチフェミ派の誰それのこれこれの言動がホモソーシャルだ」と指摘するのならまだしも、そうした具体的な指摘はありません。そんなの、韓国人のA氏の発言が気に入らないからと言って、(A氏が犯罪を犯したという事実があるならまだしも、それを示さないままに)「チョンは全員犯罪者!」と罵っているのと同じだと思うのですが。
 こうなると、男性が女性をどんな形であれ批判することそれ自体が、全てホモソーシャルとやらいう「唾棄すべき何か」へと直結しているのだから、ぼくたちはもう、何も考えずただひたすらに女性様にひれ伏す以外、できることはありません

「ジェンダーフリー」を故意に「フリーセックス」と混同し、下ネタへの嫌悪と好奇心を刺激しながら、誰が見てもおかしいと思わせられるような問答無用の攻撃対象を見つけだし、「教育」という聖域を利用しました。(中略)ホモソーシャル(オトコの利益を擁護する男たちの絆)な団結をつくる場合のもっともかんたんな方法は、下ネタで笑いをとることです。(中略)だから笑いがとれるわけですが、男の使う下ネタのなかには、必ずミソジニー(女性嫌悪)があります。

「ジェンダーフリー」と「フリーセックス」に近似性がないとは言えないし、相手を攻撃するために下ネタへの嫌悪と好奇心を刺激したのも、「教育」という聖域を利用したのも、全部フェミニズムの側だと思うのですが。
 そもそも、「男の使う下ネタのなかには、必ずミソジニーがあ」るとか言われても、困ります。ある種のギャグに相手を貶める性質があるのは事実でしょうが、下ネタの対象に、女性よりもより多く男性が選ばれる傾向があることに、何故師匠は思い至らないのでしょうか。いわゆるホモネタのギャグをホモ差別だ、という向きもありますが(その心情もわからなくはありませんが)、そうしたギャグはホモ以上にヘテロ男性が自分自身を笑っているというのが本質だ、とぼくは思うのですが。
 ところで昔、「オマンコシスターズ」とかわめいてレズソーシャルな連帯を結ぼうとしていた人がいたような気がします。もっとも、それに「自分自身を笑」う冷静さがあったようには、ぼくには思われませんけれども。

*3「ホモソーシャル」という概念の無意味さ、稚拙さは旧ブログでも繰り返し批判してきました。「東浩紀「処女を求める男性なんてオタクだけ」と平野騒動に苦言(その2)「ろりともだち(その2)」などを参照してください。

 上野師匠はまた、「フェミニストはジェンダーの消失を目論んでなどいない」とも言います(本書では多くのフェミニストが同様のことを繰り返しています)。
 が、現実問題として彼女のかつての著作を見ていけば「ジェンダーレス」を好ましいことと繰り返し書いて来たのですから、それは苦しい言い訳でしょう。
 この時の、インタビュアーの言葉がケッサクで、

女が男になる、すなわち女が男並みになることがフェミニズムの目標であったとすれば、それは悪夢でしかないということは、上野さんが重ねて表明していることです。アグネス論争に際しても、女性兵士の問題に関しても、いわゆる「女の男並み化」への違和を表明されています。

 というもの。師匠もそれに答え、

私は初期から一貫してそうでした。その点はブレがないことに、誇りを持っています。

 と自画自賛なさっています。
 しかし、この「女性兵士」の問題というのは、要は「男だけが徴兵されるのは不公平、女も徴兵されろ」という論調に対し、「徴兵イクナイ」と話をすり替えるという他愛のないものでした。
 でも、そこにちゃんと回答しなければ、徴兵、いやそれのみならずあらゆる局面において男性は女性に比べ、危険な任務に就かされ、しかもそのため生命の危険があろうとも、それを自明として疑問を呈することすら許されない、ということが明らかになる。つまり「男尊女卑」とのフェミニズムの論拠が大変に怪しくなってくるわけです。
 結局、この箇所が象徴するように、上野師匠の、いえフェミニストのスタンスは一貫して「都合がいい時だけジェンダーフリーを肯定する、都合がいい時だけ性役割を肯定する」というダブルスタンダードなのです。まあ、ある意味そのエゴイズムに、確かにブレは全くないわけなのですが。
『女性セブン』がジェンフリを批判したことに対しても、上野師匠は「フェミニズム批判のために男が使ってきた常套手段。」とばっさりです。
 しかしヘンです。『女性セブン』は女性雑誌であり、その雑誌では女性の声として、ジェンフリに否定的な意見が載せられているのですから。「女性の声とされているものは男性の捏造」というリクツなのか、「この女どもは男の手先、我々の敵だ」というリクツなのか……師匠はこれ以上のことを語っていないので、そこは判然としません。

 度々書くことですが、この時期のフェミニズムが危機に陥ったのは、一つには彼女らが大いに論拠にしていたジョン・マネーの「双子の症例」が捏造だと判明したからです。それによって、「ジェンダーアイデンティティ」とは生後数年後に決定されるものなのだ、との仮説は崩れ去ってしまったのです。
 が、ここで師匠は、「双子の症例」は例外的で、むしろマネーの仮説を支持する事例の方が多い、と言うのです。
 マジか!? と思ったのですが、読み進めていくと、彼女が論拠に上げるのは、トランスジェンダーの存在でしたw いや、でもそれって男脳/女脳の概念で説明が可能です。つまり、男性でも女性型の脳を持っている人間がトランスジェンダーになりやすい、と考えれば辻褄はあうのですから(ただし、そうした研究事例があるかどうかについては、ぼくは詳しいことは知りませんが)。
 それにマネーの研究が捏造だとバレた時、フェミニストたちがまるで地震から逃げ出した時の東浩紀師匠並の俊敏さでマネーを否定し出したのは事実なのですから、やっぱり彼女らの事大主義は否定できないように思います(本書に収められた小山エミ師匠の文章もまた、そうしたものです)。

 インタビュアーが男性側の「バックラッシュ」について、マジョリティ側が声を剥奪されたと感じているのでは、との意見を述べると、師匠はこんなことを言い出します。

 そうでしょうね、既得権を喪失する不安感がベースにあるのだと思います。自分がマイノリティになるかも知れない、転落するかも知れない、という不安感が背後にあるから、屈折したルサンチマンが噴き上がるのでしょう。

 繰り返しますが、問題はそのフェミニズムへの批判が正当か不当かということでしょう。正当であれば、その「ルサンチマン」(というのはあくまで上野師匠の妄想による決めつけなのですが)にだってある種の正当性があるわけなのですから。そこを、ひたすら相手の内面を勘繰っても仕方ないと思うのですが。
 今の日本の状況を鑑みれば、多くの人間が弱者へと転落しつつある。そこでそうした不満の声が上がるのは当たり前すぎるほど当たり前なのだから、フェミニズム側に必要なのは「弱者ぶって声を上げやがって、許せん」などと言うことではなく、どちらの言い分に理があるのかを絶えず検証していく努力でしょう。

 そういう不満感や危機感が瀰漫している時に、不安をもった弱者が、自分が太刀打ちできない強者には立ち向かわないことは、歴史が教えるとおりです。だから不満は、よりバッシングしやすい標的に向かう。

 などと言うに至っては笑うしかありません。誰よりもフェミニスト自身が、フェミニストが弱者男性ばかりを叩いている理由を雄弁に分析してくださっているのですからw

 さて、最後にオタク論についてもちょっとだけ述べておきましょう。
 上野師匠は、いわゆる萌え産業の隆盛について、以下のように分析します。

 ところが、男の幻想を生身で演じてくれる女がすくなくなった。言い換えれば、女がアホらしくてそのゲームから降りはじめたわけです。

 いえ、男が降り始めたのに女がまだそれに乗っかろうとしているというのが正しいように思います。だから、オタクのマジョリティは「メイド喫茶」に興味を持たないのに女性たちはメイド喫茶でバイトをするのだし、「声優」になりたいと望む女性があれほどに(そう、エロゲーでも多くの声優が活躍しているように)いるわけなのですから。
 そう、オタク業界の内でも外でも、女性は「女性ジェンダー」の旨味を捨てようとは、夢にも思っていない。
 そしてそれは、フェミニストたちについても全く同様に言えるわけです。