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バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?(その2)
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バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?(その2)

2012-11-23 19:20
  • 15

バックラッシュ! 

 前回は想像以上の反応があり、驚くと共に嬉しく思っています。
 昨今のフェミ界隈とオタ界隈は「フェミニストたちの弱者男性バッシング」や「表現規制問題」などで妙に小競りあいを繰り返しており、「両者は共闘可能か」といった問題意識が高まりつつあるのかも知れません。
 また、前回記事については、小山エミ師匠からもコメントをいただきました。
 小山師匠は『バックラッシュ!』にも寄稿なさったフェミニストで、自分の記事も読んで欲しい、また上野師匠インタビューは確かに不適切な部分があるとして自分もブログにおいて批判したのでそれも読んで欲しい、といったことをおっしゃってくださったのです。
 というわけで今回は『バックラッシュ!』における小山エミ師匠の論文「「ブレンダと呼ばれた少年」をめぐるバックラッシュ言説の迷走」を中心に見て参りましょう(ただし、小山師匠のおっしゃってくださった彼女のブログに当たることは、今回はできませんでしたので、また次回に回すことにします)。
 また、結果的に小山師匠に対して批判的な内容になってしまっていますが、ご意見があれば、おっしゃっていただければ幸いです。

 さて、ここでの論点はマネーとフェミニズムの関係である、と言えます。
 ぼくは前回記事で、

 度々書くことなので繰り返しませんが、この時期のフェミニズムが危機に陥ったのは、一つには彼女らが大いに論拠にしていたジョン・マネーの「双子の症例」が捏造だと判明したからです。それによって、「ジェンダーアイデンティティ」が生後数年後に決定されるのだ、との仮説は崩れ去ってしまったのです。

 それにマネーの研究が捏造だとバレた時、フェミニストたちがまるで地震から逃げ出した時の東浩紀師匠並の俊敏さでマネーを否定していたのですから、やっぱり彼女らの事大主義は否定できないように思います(本書に収められた小山エミ師匠の文章もまた、そうしたものです)。

 と書きました。
 ここでモンダイとなるのは、マネーの学説のウソを暴いたノンフィクション、『ブレンダと呼ばれた少年』。
 かつて、事故によりペニスを失ってしまったブレンダ少年が、マネーの主張に従って女の子として育てられたことがありました。これを論拠に、「ぼくは男だ/わたしは女だ」というコアジェンダーアイデンティティ(性自認)は先天的なものではなく、後天的なものなのだ、と言われてきたのです(ちなみにこれは「双子の症例」と呼ばれます。一卵性双生児として生まれたブレンダ少年の弟の方は普通に男の子として育ったことが、余計に後天説の確からしさを裏付けている、とされたのです)。
 しかしそれは失敗に終わり、ブレンダ少年は誰に言われることもなく男としてのアイデンティティを獲得していたことが、このノンフィクションによって暴かれてしまったのです。つまり、コアジェンダーアイデンティティはやはり後天的なものではなく先天的なものだ、との可能性が高まったわけです。
 この『ブレンダ――』は出版後、『女災』よりも早く絶版になってしまったのですが、保守派たちの手により復刻されました。その時に、「解説」や「帯」などに政治的な(フェミ叩き的な)色彩をまとって登場してきたことが、フェミニストたちの逆鱗に触れたわけです。
 今回モンダイにする小山師匠の論文も、多くはこの復刻版における、八木秀次氏の「解説」への反論に割かれています。
 果たしてそうした小山師匠(や、他のフェミニストたち)の言に分があるかどうか、これから少し、詳しく見ていきましょう。

 八木氏は「解説」で多くのフェミニスト、そして彼女らの主張していたジェンダーフリーを批判しました。まとめサイト風に言えば

 【悲報】マネーの自作自演が判明
 フェミニスト論拠を失って涙目wwwwwwwwwwwww

 といった感じでしょうか。
 しかし小山師匠が言うには、

 しかし、こうした八木の批判は、大沢や船橋の主張を強引にすり替えて、マネーの理論に引きよせるというごまかしによって成り立っている。

 しかしすでに見てきたとおり、マネーの「双子の症例」に依拠した主張は、上野も大沢もいっさいしていない。

 とのことです。
 こうした「バックラッシュ派」の批判に対する小山師匠(や、他のフェミニストたち)の再反論は、まとめてしまえば

 フェミニズムはマネーを参照してなどいない。
 何となれば、マネーの主張は「コアジェンダーアイデンティティ(性自認)が後天的に決定される」というものであった。
 それは、我々の推進する(そして「バックラッシュ派」の批判する)ジェンダーフリーとは基本的に無関係である。

 といったものかと、ぼくには思われます。
 八木氏が批判した船橋邦子、大沢真理両師匠の発言はそれぞれ、

 今日では、生物的性別であるセックスが社会的性別であるジェンダーを決めるのではなく、社会的性別・ジェンダーが生物的性別・セックスを規定するのだと、女性学では言われています

 セックスが基礎でジェンダーがあるのではなくて、ジェンダーがまずあって、それがあいまいなセックスにまで二分法で規定的な力を与えている

 というものでした。
 しかしこれは小山師匠に言わせると、

 大沢・船橋が「ジェンダーがセックスを規定する」というとき、それはすなわち文化が言語をとおして、自然に存在する多様な性を「男/女」という二項に分節化(区分け、意味付け)しているということであり、「氏か育ちか」という古典的な議論における「育ち」が万能であるという説を主張しているわけではない。

 とのことです。
 何のことかわからない?
 実はぼくもよくわかりません。
 よくはわかりませんが、小山師匠のしているのはどうも、バトラーなどが比較的近年に唱え出した「ジェンダーはセックスに先行するよ」論に則った主張のように思われます。事実、この種の議論において、フェミニストは「マネーは古い、我々はもっと先を行っている」と言う傾向にあります。まとめサイト風に言えば

 【おまいら速報】ネトウヨが情弱と判明wwwwwwwwwwwww
 おわコンのマネーはフェミに相手にされずwwwwwwwwwwwww

 とでも言ったところでしょうか。
 さて、どちらが正しいのでしょう。
 まず、船橋、大沢両師匠についてですが、小山師匠の再反論はいかなるものなのでしょうか。
 彼女が論拠にしているとおぼしきバトラーの説はいささかエキセントリックで、保守派の「バカじゃねーの!?」といった批判を浴びてきました。が、実はこれについても本書の上野師匠インタビューにおいて説明がなされていて、

「セックスは、つねにすでにジェンダーだった」という、バトラーの発言をシンプルに、まとめると、(中略)言い換えれば、セックスの差違というものは、ジェンダーという表象を通じてでなければ認知されないということです。

 ということのようです。
 わかったようなわからないような理論ですが、コアジェンダーアイデンティティが先天的なものである以上、結局はジェンダーは先天的である、ただし彼女らが頻繁に持ち上げるインターセックス、トランスジェンダーといった「心と体の性が不一致」な人もいる、という程度のことでしかないように思います(とは言え、ぼくもバトラーについては知らないので、あくまで上野師匠の言葉だけで判断しています。以上の認識が全く違うというのであればご指摘ください)。
 フェミニスト側は「バックラッシュ派はコアジェンダーアイデンティティとジェンダーとを混同している」との批判をする人もおり、本書でもそうした論調が度々現れます。
 小山師匠は千田有紀師匠の

 わたしたちの身体であるセックスは、まるでコートラックにコートを掛けるように、ジェンダーを身に纏っていくのではないということである。(中略)むしろジェンダーを社会的・文化的に作られた差違と規定することによって、身体的差違が遡及的に「起源」として構築されていくことになる。

 との言葉を引用するのですが、ジェンダーとセックスのどっちを先に持ってこようが、いずれにせよ両者が不可分であることに違いはないでしょう。後半の文章は、言い換えれば

 わたしたちの心であるジェンダーは、まるでコートラックにコートを掛けるように、セックスを心に纏っていくのである。

 と言っているのといっしょなのですから。
 だからコアジェンダーアイデンティティが先天的であるとの、現時点での「正解」を前提する以上、こうした物言いは性同一性障害者など限られた人にしか、大きな意味を持ち得ないように思います(そしてまた保守派も、「オカマは逮捕せよ」とか言ったりはしないでしょう)。

 いきなりちゃぶ台をひっくり返すような言い方になり、恐縮ではありますが、実はぼくはマネーが正しいとされている頃から、「でも、関係ないじゃん」と思っていました。
 マネーの「性自認(コアジェンダーアイデンティティ)は後天」という学説が正しいとされていた頃、フェミニストたちはこれをもって「つまりジェンダーは完全に虚構、男らしさ/女らしさはフィクションなのだ」と主張していました。
 ぼくは、「でも、関係ないじゃん」と思っていました。
 マネーの説が正しいと仮定しても、それはジェンダーが「人間の発明品」である、という以上のことではありません。それは丁度、「衣服」が発明であるのと同様に。世の中には「だから衣服は邪悪なモノなのだ」として裸で生活することが望ましいとする人々もいますが、それは少数派で、普通の人は衣服が必要だからこそ発明されたことを知り、それを脱ぎ捨てようとはしないわけです。
 つまり、マネーの学説が正しい/間違っているという「事実」と、人はジェンダーに縛られるべきではないとの「意見」は元々始めから、全く別だったと言うことですね。フェミニストたちはマネーの学説が自分たちの「意見」を補強するものだと思っていて、一時期、論拠にしていたが、それが過ちだとわかり、それを打ち捨てながらも「意見」は保持している、というだけの話です。
 実はぼくは『ブレンダと呼ばれた少年』を読むまで、マネーを何とはなしにイデオロギー的なヴァイアスなどない「フラットな学者」だと思い込んでいました。そこを、フェミニストに「利用」されてしまった「善意の第三者」であると。まあ、悪の組織に娘を誘拐されて心ならずも協力してしまった哀れな「博士」みたいなモノだろうなと。
 実際にはむしろ彼はフェミニズムに心から染まり、偏向した思想から偏向した実験を行い、作戦が失敗するや大首領に処刑されてしまった哀れな「怪人」だったのですが。

 さて、我らが上野千鶴子師匠についてはどうでしょうか。
 八木氏が言うには、上野師匠は『ブレンダ――』の刊行後にもマネーを肯定した著作を出し、ダイアモンド氏(マネー氏のウソを暴いた学者)の顰蹙を買った、とのことです。

 これについてはマネーのうそを暴いた前出のミルトン・ダイアモンドが日本のメディアのインタビューに答えて「彼女(上野氏)は、全く学問的ではない。それがウソであることを明示した私の論文を知らないでいる。私は、その論文を一九九七年に書いた。その本(『差違の政治学』)を二〇〇二年に出したなら、五年間もの違いがある。全く、何の言い訳も成り立たない」「上野千鶴子氏は、自分の主義主張を喧伝するために、利用できることは何でも利用しようとしている。正直ではない」と痛烈に批判しているほどである。

 しかしこれに対して小山師匠は「まったく不当である」と怒ります。

 なぜなら、「差違の政治学」という論文で上野は、「双子の症例」に言及すらしておらず、マネーの「新生児の性自認は任意に変更可能」という理論に何ら依拠していないからだ。この論文において、上野はマネーの研究のまったく別の部分――性同一性障害についてのもの――を紹介しているにすぎない。

 このダイアモンド氏インタビューには後日談があります。小山師匠はご本人と連絡を取りあい、彼がインタビュアーに、上野師匠について知らないのをいいことに半ば誘導尋問的にコメントをさせられていたのだ、ということをつきとめました。ダイアモンド氏は上のインタビューを不服として、再掲載を不許可とし、またジェンダーフリーの考え方にも同意を示したと言います。

 【メシウマ速報】ネトウヨが頼みのダイアモンド氏にもふられてワロタwwwwwwwwwwwww

 といった感じでしょうか(ただし、そもそもジェンダーフリーという言葉は、アメリカではほとんど――全く、ではないことは小山師匠が明らかにしているのですが――使われてない言葉なんじゃないのか、という疑問は残りますが)。
 さて、それでは『差違の政治学』を紐解いてみましょう。
 確かに、上野師匠は「双子の症例」について言及はしていません。しかし見ていくと、

 その中でセックスとジェンダーのずれを問題化したのは、ジョン・マネーとパトリシア・タッカーの『性の署名』[Money&Tucker 1975=1979]である。ジョンズ・ホプキンズ大学の性診療の外来をうけもっていたふたりは、半陰陽や性転換希望者などの患者を相手にして、ジェンダーがセックスから独立していることをつきとめた。

「性自認」は二歳までの言語獲得期に形成される。ホルモンと同じく、この臨界期を過ぎるとその後は変化しない。

 マネーとタッカーの業績は、セックスとジェンダーのずれを指摘したにとどまらない。もっと重要なことに、かれらの仕事は、セックスがジェンダーを決定するという生物学的還元説を否定した。

 ………………どう見ても思いっきり、マネーを肯定してますよね。
(ちなみにこうした上野師匠の発言は、八木氏もちゃんと引用しています)
 小山師匠は

 しかしすでに見てきたとおり、マネーの「双子の症例」に依拠した主張は、上野も大沢もいっさいしていない。

 と言いますが、それはちょっと通らないのではないでしょうか。
 掛谷英紀氏は『学問とは何か』の中でこの部分に触れ、タッカーはジャーナリストであって外来を受け持ったりはしていない、というツッコミと共に、上野師匠の態度について

 2002年の時点で*この記載が学会を代表する著者による著書に含まれていることは、その学会自体が抱える問題を示唆しているといえるでしょう。

 と痛烈に批判しています(本書についてはmisandry2氏にご教示いただきました。多謝!)。
 ダイアモンド氏が一度は引っ込めた「全く、何の言い訳も成り立たない」「上野千鶴子氏は、正直ではない」との批判も、正鵠を得たものであるように思えます。
 小山師匠はダイアモンド氏と面識があるのですから、今からでも訂正を伝えるべきなのではないでしょうか。

*ただし、この「差違の政治学」という論文自体は、95年に発表されたもので、その上で2002年に上野師匠の単著に収録されたものなのです。
 つまり、マネーの過ちが知られていない時期に書かれたものとは言え、訂正の機会はあったはずなのです。が、実際、細々と結構な加筆をしている割に、マネーの件については訂正がなされていません。該当論文以外については全部読むことはできませんでしたが、脚注やあとがきなどを見ても間違いが訂正されている様子はありません。ダイアモンドが当初言った通り、不誠実で言い訳のできない仕事ぶりです。

 他にも(小山師匠は言及していないのですが)八木氏の「解説」を見ると、女性学・ジェンダー研究会の編著である『女性学教育/学習ハンドブック ジェンダーフリーな社会をめざして〔新版〕』がマネーを無批判に評価していること、またフェミニズムの中でも大変に重要な著作とされているケイト・ミレットの『性の政治学』の中でもやはり、マネーの著作が肯定的に引用されていることなどが指摘されています。
 ちなみにぼくは前者だけチェックしました。見ると(これまた現代では既に否定されている)マーガレット・ミードの説が肯定的に紹介され、また「ジェンダー」という概念そのものを

 セックスは,自然が生み出したものだが,ジェンダーは,人間の社会や文化によって構成された性であり,文化や社会において,また歴史の展開に対応して変化する。

 と、小山師匠が「古い認識であり、最早フェミニストたちが取っていない立場」とする考えを表明しています。ちなみに刊行は1999年。既にマネーのウソが判明している時期です
 そして驚くべきことに、本論の最後の方では、小山師匠自身が「一昔前のフェミニストたちも同じような誤解をしていた」などとぬけぬけと書いていています。
 むろん、いち早く誤解に気づき、まともにマネーを批判していたというのであればそれは立派です。が、実際には単に「逃げ出した」、更には上野師匠すらもが「逃げ遅れた」というのが実態に近いでしょう。

 おまいら保守より一歩早く気づいて追及の手を逃れるために逃げたったwwwwww

 って感じです。

 小山師匠は(というかフェミニスト全体の傾向ですが)

 八木の「解説」は、ただただライマーの生と死を嬉々として「フェミニズムバッシング」「ジェンダーフリーバッシング」に政治利用するだけのものだ。

 と憤ります(ライマーとはブレンダ少年の成人後の名前です)。
 本件は、ブレンダ少年改めライマー青年の数奇な運命、そして結局は彼が自殺してしまったことも手伝い、大変にショッキングでした。小山師匠の激しい表現は「フェミニスト学者が罪もない子供を自殺に追い込んだ!!」とのバックラッシュ派の批判への意趣返しの部分もあります。
 確かに、見ていると本件の周りではフェミニストが、保守派が、「ネトウヨ必死」「ブサヨの手先のフェミ涙目」と見ていていささか辟易とさせられる罵倒合戦を繰り返しています。
 とは言え、悲劇を繰り返さないために議論を深めていくことを一概に「政治利用」と言ってしまっては話が先に進みません。必要なのは誠意を持って事実を読み解くことでしょう。
 しかし果たして、ライマー氏の彼の生と死を嬉々として政治利用したのはどちらなのか。
『デスノート』のエルが、「探偵は仮に推理を間違えてもその時は『ごめんなさい』でいいんです」といった主旨のことを言っていたかと思います。
 学者もまた、「ごめんなさい」でいい、とぼくは思います。
 しかし本件において、果たして「ごめんなさい」ができていないツンデレちゃんがどちらなのか――答えはもう、出たのではないでしょうか。

■補遺■

 上野師匠については小山エミ師匠側から異論が上がり、議論になりました。
 その件については次回記事「バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?(始末記)」をご覧ください。

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他5件のコメントを表示

>>6 兵頭様

さっそくの返信ありがとうございます。
小山エミ師匠も人柄はそれなりにまともなんですかね。多少は見方を変える必要があるかしらん。


>「でも、フェミニズムは正しいんだ」の一点に囚われて、彼女らにとってそれ以外は全て、ノイズなのでしょう。

フェミニストというのはどうも自分達の間違いを認めるのを病的に忌避する傾向があるように思います。学問においては実験一つ、理論一つで今までの主流派の説がひっくり返るってのはよくある話で、その場合以前の説の誤りを認めて新しい説を構築するのは恥でもなんでもないはずなんですが。なぜかフェミというのは間違った説に固執したり、最初からそんな説は唱えてないとか前言を無責任に翻したりする。そういうところがフェミを胡散臭い、まっとうな学問と言い難いものにしている気がします。
ジェンダー問題についても、「性自認は身体的性別と切り離す事はできないと分かった。しかし半陰陽や性同一性障害に対する配慮は必要だ」「従来ジェンダーの一部とされた性役割の中には変更可能な部分も残る」とでも言っておけば波風も立たんだろうにと思うんですが。


>しかし不思議なのは彼女らについていく、進歩派のセンセイ方。

いわゆる論壇の「進歩派」、「リベラル」って連中はけっこう権威主義ですからねえ。声の大きい方、権威を感じる方、そして自分達のイデオロギーに都合がいい方に飛びつきたがる。学問的良心のある者を探すのは至難の業です。

No.7 145ヶ月前
userPhoto 兵頭新児(著者)

>小山エミ師匠も人柄はそれなりにまともなんですかね。多少は見方を変える必要があるかしらん。

少なくとも「悪気」はないのだと思います。
「天然」なだけで。
逆に言うと……(ry

>ジェンダー問題についても、「性自認は身体的性別と切り離す事はできないと分かった。しかし半陰陽や性同一性障害に対する配慮は必要だ」「従来ジェンダーの一部とされた性役割の中には変更可能な部分も残る」とでも言っておけば波風も立たんだろうにと思うんですが。

そうなんですよね。
ぼくが「でも、関係ないじゃん」と思ったのもそこです。
彼女らは「保守派は無知でコアジェンダーアイデンティティとジェンダーの二つの概念を混同している」と言いますが、今回調べた限りではフェミニストの方もかなりその辺りをアバウトに言ってしまっています。
(古典的にはおっしゃった「性役割」という概念が「コアジェンダーアイデンティティ」の上に、丁度ピラミッドを積み上げるように構築されていくのだ、というのが正しい考えとされていたと思うのですが、近年のフェミニストの言からは「性役割」という概念が出て来ません)

>いわゆる論壇の「進歩派」、「リベラル」って連中はけっこう権威主義ですからねえ。

大槻ケンヂが「権威に反抗してるクセに族の連中はものすごい上下関係にこだわる」と言っていました。若い進歩派連中も「???」と思いつつフェミニズムという権威には逆らえないのかも知れませんね。

No.8 145ヶ月前

おー、新嘗祭の日に更新されてらー
兵頭さん、前回私が引用した書籍を紹介してもらえて感謝ですorz
八木秀次は保守派論客としては私はあまり好感の持てない人物ですが、
当該案件の論理は一理あるかな…と思います。
先の方が指摘しているように、小山師匠の発した理屈は一見冷静かつ理路整然に読めますが、
その実、トランス状態と表現するにも酷い。醜悪極まりない本質を表している。

そもそもジョン・マネーの論理、「性別を自己認識(ジェンダーアイデンティティ)する要因は後天性である。」
これが完全に破綻した以上、フェミニズムにしてもジェンダーフリーにしても、その論拠としての支柱が
消え失せた訳だから口を開く度に支離滅裂になるのも当たり前。

ちょっとフェミニスト達のその後について話を広げてみましょうか。
上野大女史が5年程前に出版した「おひとりさまの老後」という本があります。
これを読んでみるがいい、かの日本フェミニズムの提唱者・「上野千鶴子に喧嘩を習う!」なんて
畏敬の念を表されていた人間の本性がありありと堪能できる(笑)
私が所属していたジェンダー論のゼミにいた女子生徒は、
「何この傲岸不遜な本!?金持ち以外は惨めに死ねって事じゃない!どこまで自己中なんだよ!」
とブチ切れていたが…(笑)

No.9 145ヶ月前
userPhoto 兵頭新児(著者)

>そもそもジョン・マネーの論理、「性別を自己認識(ジェンダーアイデンティティ)する要因は後天性である。」
>これが完全に破綻した以上、フェミニズムにしてもジェンダーフリーにしても、その論拠としての支柱が

いや、一応、あちらさんは反論はしてるんですよ。
ところがそれが「マネーの論法が完全に否定されたわけではない」と「我々はマネーを論拠になどしていない」の二本立てなので、こっちは頭がこんがらがってしまうw
「マネーの過ちがわかってからはそれを否定した」という良心的なフェミニストもいるとは思うのですが、そうした人ばかりではないこともまた、否定できません。
そこを素直に謝って、「しかしジェンダーフリーの理念は(生物学的根拠を求めることはできないが、イデオロギーとしては)正しい」と言えば、賛成はできなくても、誠実な対応だと言われると思うんですけれどもね……。
小山師匠とはずっと話しているのですが、あちらさんがループに入りつつあって、ちょっともうダメかな……という感じです。

『おひとりさまの老後』>

これが恐らく、上野師匠の最大のヒット作になった、と言うのは皮肉ですね。
幾度も書くことですが、フェミニズムは男女関係や家庭を破壊し尽くして、不幸な独身者を大量に生産した。
その上でこうした本を出して儲けるというのは、ものすごい悪賢いというか、風邪のウィルスをばらまいて、高値で風邪薬を売るような商売ですね。

>「何この傲岸不遜な本!?金持ち以外は惨めに死ねって事じゃない!どこまで自己中なんだよ!」

多分、上野師匠は天然なんでしょうが、「よっぽどカネなきゃムリだろ、それ」みたいなことばっかり書いてあるんですよね。
フェミニズムというのが一部の恵まれた女性の、弱者女性を騙して金を巻き上げる一種のネズミ講であるということが判明した瞬間です。

No.10 145ヶ月前

兵頭新児さん

書籍にあたっておられたんですね。 お疲れさまです。 
フェミニスト系の紙媒体の中にもジョン・マネーを支持する記述はあったんですね。 当たり前か。ただ説得力が増すような気がして素敵です。
いやまぁ、ネットだけだとそういうの分からないからなぁ。

> 女性学教育/学習ハンドブック ジェンダーフリーな社会をめざして〔新版〕
> 国立婦人教育会館女性学ジェンダー研究会 (著)

国立婦人教育会館( http://ja.wikipedia.org/wiki/国立女性教育会館 )文部科学省所管 特定独立行政法人ヌエックが出してるんですね。
男女共同参画社会のハブ的存在のヌエックさんが出してるのかー。となんだか暖かい気持ちになりました。

No.11 145ヶ月前
userPhoto 兵頭新児(著者)

どうも、お返事遅くなりまして……。
結局、フェミニストがウソがバレてからもかなり長きに渡ってマネーを持ち上げていたことは事実なんですよね。
小山エミさんとの議論も中途半端なところで終わってしまい、どうしようかと思っているのですが、彼女もこうした過ちを認めていないと言うことは、否定ができないと思います。

後、上野師匠はヌエックのようなのって「行政フェミで、私たち野良フェミとは違う!!」みたいな逃げ方するんですが、それってどうなんでしょう。
彼女も行政フェミと仲よくしていらっしゃるわけだし。

No.12 145ヶ月前

>>12
>>上野師匠はヌエックのようなのって「行政フェミで、私たち野良フェミとは違う!!」みたいな逃げ方するんですが、それってどうなんでしょう。

まぁ都合が悪くなったらトカゲの尻尾切り、ってことですかね。
あと「フェミニズム全体としてみると悪い部分はあるけど、私は悪くない」、(フェミニスト内の)「自浄努力はしない!」という宣言ですかね。

ただ、例えば自民党なり民主党なりのなんらかの運動をしている団体って、ある程度、団体としての主張に整合性が求められますよね。
例えば「子供手当て増やします」っていったら「予算はどうすんだ」とか、
「高齢者にやさしい社会に」っていったら「少子化どうすんだ」みたいな。
全体的な絵としての整合性が取れてるかを求められる。

フェミニズムも同様に「女性の権利の拡大」を求めて運動しているのであれば、フェミニズム全体として整合性が取れているか?って問われるよなぁ、と思います。


ちょっと別の観点で。 逆に「そうは言っても自浄努力って大変でしょ」「力関係とかあって無理だよ。。。」っていう気持ちも分かります。
人間ですもの。 健全な人ばかりじゃありません。 分かりますよ、他の人のダメな部分を指摘するって面倒ですよね。
そういう観点で「自浄努力はしない!無理だし!」というのであれば、逆にそういった組織を監視する別の組織が必要です。

行政に対するオンブズマン制度のように、フェミニズムを監視するバックラッシュには価値がある。
でないと、ある組織が肥えていくのを止めることができない訳で、無駄な部分が増えつづけてしまう。

これは例えば食物連鎖におけるキツネとウサギ間のフィードバックのようなものだと思います。
1匹のウサギ観点でみると食べられるのは当然、哀しいのですが、一方で弱った個体が淘汰される事は、ウサギという種、全体でみると健全な方向に向かうことになります。

なので「行政フェミは無関係だ」と自浄努力を放棄する立場なら、外部からの淘汰圧は必要悪として認めなよ、と思ったりします。

No.13 145ヶ月前
userPhoto 兵頭新児(著者)

すんません、またお返事遅くなりました。
フェミニストって、内輪揉めばっかりしてる割に、言ってることはみんな同じに聞こえますからねw
一時期、フェミニスト寄りの人物が広めたと想像できる言説で「ラディカルフェミニストはワルモノだが、リベラルフェミニストはイイモノ」というものがあります。
書こう書こうと思いつつ書けずにいるのですが、それは真っ赤なウソで、彼らが「イイモノ」「リベラル」として持ち上げているフェミニストこそが「ラディカルフェミニスト」であった、というのがオチでした。

「そうは言っても自浄努力って大変でしょ」>

例えば「九条の会のメンバーがナイフを持っていて捕まったぞ」とか「民主マンセーとか言ってたのが在特会だったぞ」とか、そういう不祥事があった時に敵陣からいろいろ言われてしまうのは仕方がないけれども、「だから左派/右派はダメ」ってのも短絡です。
でも少なくとも『バックラッシュ!』は「バックラッシュは全て悪」という粗悪な本でしかありませんでしたからね。
ミソジニーという言葉といい、フェミニストの基本戦略は「殲滅戦」であり「共生」という概念は最初からお持ちではない気がします。

No.14 145ヶ月前

>>14 兵頭新児さん
> ミソジニーという言葉といい、フェミニストの基本戦略は「殲滅戦」であり「共生」という概念は最初からお持ちではない気がします。

フェミニストって不幸で独占欲と怒りが強い人が多いような気がしますねー
twitterみてても不幸なニュースだと盛んにRTされてるような。。。 男性への憎しみが原動力という面がある。
お返事ありがとうございました。

No.15 145ヶ月前
userPhoto 兵頭新児(著者)

こんばんは、ミサンドリー2さんですか?

>twitterみてても不幸なニュースだと盛んにRTされてるような。。。 

これは男性が不幸に巻き込まれたようなニュースを、フェミニストがRTしたがるということでしょうか?
とにかくフェミニストたちに深い深い男性憎悪があるのは否定しようがありません。
そこを認め、「しかしそれは妥当である、何となれば……」と話を進めるのであれば全然構わないんですが、あの人らは盗人猛々しいことに「ミソジニー」とか言い出しますからね。

随分前ですが江原由美子師匠が男子学生に「フェミニストって結局男が憎いだけでしょ」と言われ、「そんな誤解を受けるような文章を書いたりするフェミニストは、私のいる限りいない。最近の男子学生は幼稚だ」などとその生徒を笑い者にしていて、呆気に取られたことがあります。
恐らく彼女らは、本気で自分たちの男性憎悪について自覚ゼロでしょう。

No.16 145ヶ月前
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