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 ――今回も(再)とあるように、
OCNブログ時代の、もう九年前の記事の再掲となります。
 ここしばらく、動画の『パーマン』に加え、『ドラえもん』を扱い続けて来たので、その流れでかつての記事もうpしておくかと思ったのです。
 再掲に当たり、時事ネタなど削っておりますが、基本は元の記事と同じです。

*     *     *
 
 今回は「女災」そのものをテーマとはしません。
 むしろその前段階と言いますか、もう少し視野を広げた、「女災という概念が今まさに誕生しつつある現代という時代性そのもの」についての話題です。
 さて、震災のために今から観ようにも上映館が限られていると思うのですが、今年の映画。
『新・のび太と鉄人兵団  ~はばたけ 天使たち~』。
 これは1986年に公開された『のび太と鉄人兵団』のリメイクです。
 ご存じない方のためにものすごく大雑把にプロットをご説明すると、以下のような感じでしょうか。
 都合上、ネタバレしまくりますので、オチを知りたくない方は、以下はお読みにならないでください。
 巨大ロボットが欲しいと望むのび太の元に、空から巨大ロボが降ってくる。
 百式をドラえもんカラーに塗り替えたようなデザインのそのロボ「ジュド」は、実は人類の奴隷化を企む異星のロボット帝国「メカトピア」の先兵。そしてのび太につきまとう美少女「リルル」もまた、ジュドを回収しにきたメカトピアのアンドロイドであった。
 開始されるドラえもんたちとメカトピア軍の大バトル。そんな中、のび太やしずかと交流を持つことで人間らしい心というものを知ったリルルは、メカトピアのロボットたちが優しさを持ったロボットとしてプログラムされるよう、歴史を改変。しかしそれは同時に、彼女自身の消滅をも意味していた――。
 と、こんなところでしょうか。
 ベタベタと言えばベタベタですが、ドラえもんらしからぬ巨大ロボット戦、そして美少女リルルの可憐さでファンには人気の高い作品となっています。
 さてその人気作なのですが、今回、リメイクものの宿命として、新キャラのヒヨコ型ロボット「ピッポ」というのが登場します。
 このピッポ、実はジュドの電子頭脳が自律式のロボットになった姿です。これは前作においては、ドラえもんがジュドを自分たちの戦力に加えるため、そのプログラムをあっさり再フォーマットしてしまったことが一部で「ちょっと非道くないか」と指摘されたことを受けての改変だと思われます。
 即ち、旧作においては意志を持ったロボットでありながらその心を消されてしまったジュドが、今回はピッポという形でドラえもんたちと交流を持ち、リルル同様、人間の味方になるという救済措置が取られたわけですね。
 正直、ジュドの巨大ロボとしてのカッコよさよりピッポの可愛さにお話の力点が移ってしまったこと、そして何よりピッポとのび太たちが仲良くなる過程のお粗末さなどはあまり評価できません。だから映画の中盤まであまりいい感想を抱いてはいませんでした。
「取り敢えず、親子が揃って見に来るのにいい感動話にしとけ」といった作り手の意識が透けて見える可愛いロボットとのお涙頂戴劇。「はばたけ 天使たち」などという、取ってつけたような薄っぺらな副題。
 あぁ、ダメだこりゃ、と。
 しかしクライマックスでその感想は一挙に塗り替えられてしまいました。ピッポがあのように機能するとは……「はばたけ 天使たち」に隠された意味含め、脱帽です。本作はリメイク版はもちろん、全ドラえもん映画の中でもかなり上位にランキングされるべき傑作と言っていいでしょう。
 ――さて、ここからが本題です。
 そして今回の本題は、上にさんざん書き並べた「本作の、作品としての完成度」とは、直接的に関係がありません
 実は本作についての、とある漫画家さんの評を読んで、どうにも引っかかったことがあるのです。
 その漫画家さんは終始旧作(F先生の原作)を評価し、新作を否定しているのですが、要約してしまえば、
 ドラえもんがジュドの再フォーマットを行ったのは、F先生の仕掛けたトリックであり、F先生は「じんるいのこころにひそむざんこくさ」を確信犯で描いたのだ(キリッ
 と言ったところでしょうか。
 もしご本人が見たら「一面的だ」とおっしゃるかも知れないけれども、しかし少なくとも一側面の要約として、上の一文は決して間違っていないと思います(普通に引用してもいいのかも知れませんが、引用しておいていちゃもんをつけるのも何なので……)。
 さて、ついつい、上のようなおちゃらけた要約の仕方をしてしまいました。
 しかしそれも、ぼくにはこの漫画家さんの発言が、ある種の「テンプレ」のように見えて仕方がないからなのです。おちゃらけついでに喩えてしまえば、『サルでも書けるポリティカルコレクトに乗っ取った評論教室』とでもいった本の第一章に掲げられていそうな文、と言いますか。
 既に書いたように、旧作においてドラえもんはある種の非情さをもって、ジュドの電子頭脳を再フォーマットしました。
 そしてまた旧作では比較的単純な「わるものろぼっと」として描かれていたメカトピアも、新作では身分制を乗り越えて民主化しようとしている、ある種、人間くさい連中として描かれています(ロボットを奴隷にするのは政治的に正しくないから、人間を奴隷化しよう、というのがメカトピアの政策なのです!)。
 同様にリルルの描写も旧作の「非情なロボット兵士が心を知る」というものから、「ロボットと人間のレイシズムを乗り越える」的なニュアンスに変わっています。
 しかしこれも、例の漫画家さんにかかっては
 旧作(F)は敢えて当初、メカトピアを「わるものろぼっと」として描くことでクライマックスでその視点を逆転させることを狙ったのだ(大意)。
 とのリクツになってしまいます。
 ですが、それは、本当に稚拙な詭弁でしかありません。
 実はF先生が原作を描いた『劇場版ドラえもん』において、悪役にそうした内面が与えられたり、善と悪の逆転劇があったりすることは極めてまれです。例えば本作同様に評価の高い『魔界大冒険』では悪役として「悪魔」がストレートに登場し、ドラえもんたちは躊躇なく悪魔たちをやっつけていきます。
 何故か……と言われればやはり、(いささかわかりやすすぎますが)「当時は冷戦時代だったし」という答えしか、ないと思います(そもそもこの『劇場版ドラえもん』というのは『少年ケニア』とか、あの辺の冒険活劇の影響が大です)。
 つまり、F先生が『鉄人兵団』を描く時、その脳裏に(現代で言うところの)「レイシズム」という視点があったとは、どうしても思われないのです。
 そして、既に書いたように新作においてこそ、この漫画家さんの読みとは裏腹に、「メカトピア人たちのレイシズム」が描写されているのです。
 この漫画家さんの評は、(新作によって旧作の)欠点を指摘されて「わざとやったんだ」と居直っているだけだ、とも取れます。更に言うならば、不良に一方的に殴られてボロボロになった軟弱君が、「今日はこの辺で勘弁しておいてやる」と捨て台詞を吐いて逃げ去るような、そんな種類のものにしか思えません。
 非道いことを書いていますが、別にこの漫画家さんに怨みがあるわけではありません(むしろ当初は「ムカつくサブカル漫画家」かと思っていたのですが、調べてみると結構萌え系の絵を描く方で、ちょっと感情が和らいでいるくらいです)。
 しかし、それでも、ぼくの目には、この漫画家さんの態度はどうしても許せない、捨て置くことのできない蛮行に見えてしまうのです。
 それは例えば(例が極端に飛びますが)『モンティ・パイソン』の解説で、オカマネタを「マチズモへの風刺だ」と強弁しているのを見た時に感じる不快感、とでも言えばいいのでしょうか。
 言うまでもなく『モンティ・パイソン』にはどぎついオカマネタが多く出てきます。その標的になるのはまあ大体、軍隊の将校みたいな男らしいタイプの人物であったと思います。しかしそれって単純にギャップの妙を狙ったものであるし、仮に「高圧的な権威」に対する風刺意図がそこにあるとしても、「マチズモそのもの」を笑うような発想があったとは、どうにも思えません。それを「いい子ちゃん」に解釈してしまうことに、ぼくはどうしようもないいやらしさを感じずにはおれないのです。
 てか、『モンティ・パイソン』には「頭のおかしい人がレースをする」といったえげつないコントもありますが、じゃあ、あれは知的障害者差別への風刺なのでしょうかw
 漫画に立ち返って考えれば、「黒人描写」の問題が近いかも知れません。それこそ『ドラえもん』にだって、古い作品を見ていけば「のび太たちがジャングルに探検に行く。そこには人食い土人がいて、のび太は食べられそうに」みたいな話はあります。
 上の漫画家さんのリクツだと、これまでもが「偏狭でステレオタイプな黒人観を敢えて描くことで我々のレイシズムを風刺する」意図があったことになってしまうのかも知れませんねw
 どんな作品も、どんな天才的な人物も、ある程度、その時代の価値観に縛られてしまうのは、仕方のないことです。逆に言えば二十五年も前の作品が今なお、リメイクされるほどの作品としての力を持っていること自体が奇跡的なのであって、そこに古い時代故の限界が仄見えてしまうのは当たり前のことです。ぶっちゃけてしまえば、上の漫画家さんの言は昔の特撮映画の釣り糸を「わざと見せているのだ」と強弁しているのと、はっきり言って大差はないのです。
 ただ、です。以前の『チャージマン研!』のエントリを読んで下さった方はおわかりかも知れませんが(わかってくださっていたら嬉しいのですが)、ぼくが言わんとしているのは別に「F漫画だって古いんだから釣り糸くらい見えるさ」ということでは実は、全くありません。
「わるものと、だんこたたかう」旧作も、
「まれびとと、なかよくなった」新作も、
 どちらも間違ったことをしているわけではありません(例のジュドの電子頭脳の再フォーマットが非道い、というのは同意ですが、しかし念のために言っておきますがジュドは「じんるいどれいかけいかく」のために派遣された「わるものろぼっと」なのです)。
 はっきり言えば、「まれびととなかよくしよう」というその時代の価値観で縛られて、視野狭窄に陥っているのは漫画家さんの方です。
 え~とですね、つまりですね、現代社会の「女災」を打ち砕くには、こうした硬直した政治的正義を徹底的に洗い直さねばならない、みたいなことが言いたくてここまで書いてきたわけですが、ちょっとこの辺で力尽きてしまいました。
 後半は近いうちにアップしますので、もうしばらくお待ち下さい。


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 ――以上です。

 いや、以上も何も途中で終わっていますが、後半も来週辺りうpします。
 ただ、『ドラえもん論』評の時にも述べた『モンティ・パイソン』について言及されているように、本稿も『ドラえもん論』も『ドラえもん』という長寿コンテンツを今のPCで解釈しようと七転八倒しているリベラルの滑稽さが端なくも表現されてしまっています。
 そして、そのPC自体が、男性性の否定という意味では「アフターフェミ」の世界の歪みであるということも、こうなれば自明なのではないでしょうか。