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「漫画『BEASTARS』から読み取る、女性に内在するフェミニズム的性向」を読む(その3)
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「漫画『BEASTARS』から読み取る、女性に内在するフェミニズム的性向」を読む(その3)

2020-10-09 19:49
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    ※この記事は、およそ13分で読めます※

     ――というわけで、続きです。
     匿名アカウント氏の『BEASTARS』評の感想であり、まずは本ブログ前回前々回、及び匿名氏のnoteを読んでいただくことを推奨します。
     さらに、そもそもの『BEASTARS』も読んでいただくのがベストなのですが、ぼく自身、先日ようやっと第一部とも言える六巻までを読んだばかりで、本稿もあくまで匿名氏の批評を根底に置いたものなので……。

    ・兵頭、四巻まで読んだってよ

     さて、上にあるように六巻までを読んだのですが……何というか、匿名氏のnoteではここでひと段落つくようなことが書かれていたのですが、何か次回への引きで終わってしまっており、全然話としては片がついていません。
     一応はハルがシシ組というヤクザに捕まり、食われそうになるのをレゴシが助け出す(その後、期せず「外泊」となり、ベッドを共にしかけてレゴシが臆する)のがクライマックスなのですが、その後、一巻分日常話を続けた挙げ句、ぶった切ったように話が終わってしまいます。
     そう、シシ組というからにはこのヤクザ、ライオン集団。そして彼らが根城にするのは「裏市」の最奥部。
     この「裏市」が描写されるのが三巻で、レゴシたちが仲間で繰り出す話が描かれます。前回挙げた悪役のトラは、ここでクッソ汚い老人が自分の指を売っているのに出くわし、大枚はたいて指を食ってしまう。嫌悪を覚えたレゴシは裏市から出ていく。
     裏市で売られているものの多くは病院や葬儀屋から流されてきた死肉であり、非合法であれ、殺害は(シシ組がいるような最奥部では行われているけれど、浅い部分では)行われていない。
     トラがここを「平和を保つために存在する必要悪」であるように語り、また作者が大体の肉食獣がここを利用していると書くように、また匿名氏が評していたように、ここは歌舞伎町のようなニュアンスで描かれています。
     ここでこの裏市の顔役ともいうべきパンダのキャラクターが登場します。彼はこの裏市でパニクっていたレゴシを見て殺獣経験のある者だと判断、彼を拉致して肉食の悪を解き、ハルと別れろと諭します。「お前は狩猟欲を愛と勘違いしているだけだ」と。
     ここもまた匿名氏が評していたところで、ここで語られるのは「悪しき性欲」と「真の愛」は別という世界観だ、というわけです。
     パンダちゃんは「若いヤツらはロクなモンじゃねえ。何にかにつけて恋愛だ何だとはしゃぐ」と嘆きます。
     80年代に恋愛資本主義というものが生まれ、女性は社会の主役になりました。しかし苦界で女が辛酸を舐めているという設定でしか「シコれない」女性たちはレイプ物のBLを生み、レディコミを生んだ。そして、本作もその一つなのです。
     パンダはレゴシに「小動物物のエロ本」を渡し、語ります。「これに反応したらお前は特殊性癖だ。しかしそうでないのにハルにこだわっているなら、むしろそっちの方がヤバい」。そう、ここで本作はペドファイルをダシに男全体を叩くフェミニズム本であると明らかになるのです。
     ウサギであるハルは、背丈もレゴシの1/3ほど。レゴシは「幼女に欲情するヘンタイ」であった(事実、七巻で「ロリコン」と呼ばれるシーンが登場します)。ハルは精神的には自立している女のように描かれつつ、何故だか幼女のように弱者という聖性を持つ女であった、のです。
     で、このダークな巻を読み終えると描き下ろしページで「ハルのひみつ!」みたいな企画をやっててうんざり。ハルは自分に嘘をつかない、思っていることをずけずけ言うところが魅力なんだそうな
     あ、はい。
     四巻に読み進めるとハルの描かれ方はいよいよ妙なものになります。
     ハルが安易にレゴシと寝ようとしたことを、レゴシは「安っぽく自分を差し出さないでほしい」と諭すと、ハルは、「常に死と隣り合わせの動物の気持なんか知りもしないくせに」と見開き大ゴマで怒り出すのです。
     そんなこと言ったって、「死と隣りあわせ」だったら、なおのこと、「安っぽく自分を差し出すな」というお説教が正しくなるもんなー。
     この後、揉めた二人を見た周囲の連中が「暴行を加えているのか」と騒ぎだし、二人は逃げ出す。「あなたなんて捕まったら少年院行きだ」とハル。
     そう、ここでハルはまた、支離滅裂な理論を展開してしまっているのです。
    「死と隣りあわせ」なのは女ではなく男の方であると、ハルは知りながら、気づかずにい続けているのです。
     また、レゴシもレゴシでここでハルの手を引きリードすることで(別に抱きかかえているわけでもないんだけど)「初めてオオカミの自分を肯定できた」と感じます。いや、でもそこで逃げる必要が生じたのは自分の「肉食」性が原因では。
     この辺、どうも何が描きたいのかが、よくわかりません。
    (この後のお茶してるだけのシーンにわざわざ「レゴシのおごりです」と説明を付け加えるのもいい感じです)

    ・兵頭、六巻まで読んだってよ

     何やかんやで五巻、シシ組編に入ります。
     先に書いたようにシシ組はボスに献上するため、ハルを拉致するのですが、ボスは彼女を食べる前、羞恥の感情が肉を美味にするなど、かの国の人のようなことを言い、その身体を「検品」します(要するに服をひん剥いて○○〇を覗き込むのです)。しかしハルはそこで強がり、「私は冷静だから、もう肉は美味くないぞ」と言うのです。
     何だかよくわかりません。いや、羞恥が肉を美味くするという設定があるので一応、強がりとして成り立っているのですが、それはこの瞬間にいきなり出てきた設定に過ぎません。現実と対応させれば、レイプされそうな女性が「私は恥ずかしくない、イヤじゃない」と強がるのと同じです。強姦者が「羞恥せずに身体を開いたので興醒めだ」と感じることはあるかもしれませんが、それは同時に「レイプされる側の痛み」の否定でもある。フェミニストってよくこういうマウント取るけど、あまり意味ないんじゃないかなあと。
     まあ、何やかやで現れたレゴシが「愛のパワー」で勝利、ハルを助け出すのですが、その時、思わず「ハルは俺の獲物だ」と口走ってしまう様が見事です。これはいまだレゴシが潔白な正義ではなく「悪」の側にいるぞとの保険を、作者はここでかけているのですね。
    (もう一つ、このエピソードでも、またこれ以前にも、劇中に銃が登場します。そりゃあ、スマホすらある世界で銃がないのも不自然ですが、これを持ち出すとパワーバランスが崩れちゃうんじゃないのかなあ)
     五巻終わりから六巻にかけて、ハルとレゴシが帰宅手段もなく、ホテルで一夜を明かすのですが、ここでハルは(レゴシを誘うと共に)自然とレゴシに飲まれるような体勢を取ってしまい、「捕食本能があるように、被食本能もある」などと言うのです!
     ねえよ!!
     いや、もし「ある」という世界観にするのであれば、これはこれで前回挙げた『ミノタウロスの皿』に近い価値観が設定されているといえましょう。「草食獣もまた、一方的な被害者ではないぞ」と。しかし、果たして作者はこれ以降、そこまでを描くのか。現段階では甚だしく疑問という他ありません。
     このホテルのエピソードそのものは、まあ微笑ましいというか生々しいというか、レゴシにそれなりに感情移入して読めるんですが。

    ・兵頭、最終回書くってよ

     ――さて、先にも書いたようにこの六巻までが一つのまとまりであるかのように語られつつ、話はばっさりと終わります。まだ先がどうなるのか読めないのですが……ただ、一つだけ匿名氏のnoteに戻りたいと思います。
     前々回、ぼくは「本作は細かい世界観設定などないのではないか、フィーリングで描かれているのではないか」と繰り返しました。
     が、物語が進むにつれ、この動物たちの社会の形成の経緯がちょっとだけ匂わされるそうです。
     驚くべきことに、それは「かつて、別々に生息していた肉食獣は草食獣に出会い、そして草食獣を守る対象として認識した」というもの(!)。
     自然界において、肉食獣は「罪もない植物さんを屠る草食獣という悪魔から、植物さんを守る正義のハンター」として、神様に配置されています。そう、肉食獣が草食獣を食することこそ、正しい「共生」なのです。
     ですが、本作では当初は両者は棲み分けていた、ところが肉食獣が草食獣へと奉仕したくて、「共生」を選んだといいます。
     普通に考えて、「共生」する意味などないのに(肉食獣もそれ以前は肉食獣同士で食いあっていたのだから)。
     肉食獣が、共食いするより草食獣の方が「美味い」から、ないし肉食獣同士のホモソーシャルな結託を強化したくて、下位存在(食べるための存在)としての草食獣を欲した、というのであれば、辻褄はあう。
     ところが驚くべきことに、「守らなくてはならないから」、自主的に草食獣との「共生」を望んだのだ、というのが本作の世界観なのです。
     もうおわかりでしょう、「私は男なんかキョーミないのに、男どもが寄ってくるのよね」というわけです。
     この社会では草食獣も充分権力を持っているわけで、だったら、ゴタゴタが起こらないよう、肉食獣と草食獣を棲み分けさせればいいのです。
     本作の学園では「草食動物寮」「肉食動物寮」が設定されています。ここまで来て、これが「男子寮」「女子寮」のメタファだと理解できない人はいないでしょう。
     しかし、寮を分けるのであれば、そもそも別に暮らせばいいものを、何故、それをしない?
     そう、肉食獣が草食獣に奉仕したくてしたくてならないので、頭を下げて「共生」を望み、草食獣は半目でタバコを吹かしながら、「寮は分ける」という妥協案の下、それをお許し下さったのです!!
     ここにあるのは、女性の果てしない被愛妄想です。
     そもそもが動物が立って歩き、スマホをいじっている時点でフィクションなのだから、こうした支離滅裂な、女性の「情緒的整合性」にのみ則った設定もまた、許されるのでしょう。
     一方で草食獣と肉食獣の間で戦争があった、との歴史も語られはするのですが……。
     ――さて、いい加減、最終回を語ってみましょう。
     いや、何か実際本作、ちょっと前に最終回を迎えたらしいのですが、以下は「ぼくのかんがえたさいきょうのびーすたーさいしゅうかい」になります。
     一応、上の設定もお含み置きの上、お読みください。

     動物たちの世界に、宇宙船が降り立つ。
     そこから現れたのは、裸の猿を思わせる生物。彼らは自らを、「地球人」と名乗った。
    「申し訳ないことをした。かつて我々の祖先がここを訪れた時、『文化汚染』を行ったのだ」。
     地球人のリーダーが動物たちのリーダー、ヤフヤに謝罪する。
     その様子に、ヤフヤたちは不思議がる。自分たちが異星人と接触した歴史など、残ってはいない。いや、そもそも彼らにとって過去の歴史は極めてあやふやなものだった。かつてあった大戦争のため、歴史を失った民族であったのだ。
    「場所を隔てて生きていた草食動物の下へ、肉食動物が奉仕をするために現れた」といった記述が、聖書でなされてはいたが……。
     地球人は説く。その聖書とは、この星を訪れた地球人の書いたものだ。
     彼はこともあろうにこの星の家畜、「ウス」に恋愛感情を抱き、「ウスを食べるのはよくないことだ」と指導者たちに弁舌を揮い、それでも通じぬとなるや民意に訴えようと、自分の主張を本にして出版した。そこには「ウスが優れたよき存在であり、そんなウスに対し、ズン類は奉仕しなければならないのだ」といった内容が書かれていた。同時にそこにはウスに対する訴えも書かれていた。「君たちは食肉とならずとも、ただそこにいるだけで賞賛されるべき存在なのだ」。
     この主張を受け容れるウスたちが現れた。多くは肉の固くてまずい種族だ。彼ら彼女らはこの本を信じ、自分たちはただ、そこにいるだけでその見返りを得るに足る存在と信じ始めた。
     その結果、ウスとズン類との徹底した断絶が起こった。
     ウスたちの娯楽として、「ズン類が自分の美しさのあまり、食べることなく自分を愛で、奉仕の限りを尽くす」という「不味コンテンツ」が流行した。一部論者が、「本来であれば美味故に得られる栄誉を、何のコストもかけずに得られるべきゲインと勘違いしている」として、そうした欲求を「負の食欲」と呼んだり、ウスに媚びたいズン類がウス批判者の著作を自著でデタラメな根拠によってあげつらったり、こっそり裏市でウスを食っていることがバレたが、ウス側の糾弾からは逃れたりといったことが起こった。
     やがてウスから得られる利がゼロになった時、ズン類はウスと接触を断つ道を選び――しかしズン類の称賛を必要とするウスはそれを押し留めようとし、両者が武力衝突。「第一肉草大戦」が勃発した。
     ついには禁断の「D兵器(多様性兵器)」が投入された。遺伝子を変換するその兵器のためにウスもズン類も多種多様な姿に変貌してしまい、両者のボーダーは曖昧となった。
     ウスは「草食獣」と呼ばれるように、ズン類は「肉食獣」と呼ばれるようになって、その中でも巨大獣、小型獣といった多様性のある種族が溢れ、それぞれの種の都合を忖度して生きねばならない非常に高コストなエココレ(生態学的正義)社会が現出。元の文明も忘れ去られ、永い時が経った。
     生存するため、再びウスとズン類は共生関係を築き上げ、しかし草食獣は数の少なさから(希少な自分たちを巡って肉食獣を争わせることで)優位性を得、政治権力を握るようになっていた。彼らの中でも有力者は自ら動物たちの長、「ビースターズ」と名乗り、肉食獣を支配するに至った。彼らはあの地球人の出した本を「聖書」として崇め、その記述はいつしか「肉食獣は草食獣に尽くすために、共生を望んだ」と解釈されるようになっていった――。
     草食獣たちは、肉食獣に引き金を引かせた時点で自分たちが勝利するシステムを作り上げた。自分たちの肉体を小出しにすることで、相手にそれを求めさせ、そして求めたとたん、相手を糾弾し、優位に立つ支配のシステム。
    「肉食獣が草食獣に奉仕するために現れたのではなかった、草食獣が奉仕されたいがために肉食獣へと働きかけていたのだ」との歴史を白日の下に晒され、パニックに陥る草食獣たち。
     いずれにせよ、肉食獣が肉食を止めたことは今までなかった。また、草食獣の中に自分の肉体の美味さに対するナルシシズム――食べられることで、相手の心を捉えたいという衝動――はあった。
     ならば、互いの欲望を詳らかにして、肉食獣と草食獣は今一度、共生するか分立するかを見直すべきではないか――。
     ようやっと、大戦以降初めて、草食獣と肉食獣は異質にして対等なる者として、この星に並び立ったのだ――。

     ――とまあ、こんなところです。
     ぼくは、本作は女性性の持つ大いなる利、即ち男性にモテることで自己承認欲求を満たせるとの「事実」を隠蔽した上で成り立っている、と指摘しました。女性側は、自らの欲望を隠し、綺麗なままでいると。
     ハルは「自分に被食本能がある」と語り、また後の話ではレゴシ以外の男に食われようとする。そこに、彼女の「汚れる覚悟」を見て取ることができるのかは今のところ、判然としません。
     後、本作にはもう一匹のキービーストが登場しますが、それについてはいまだ述べることができていません。
     そんなわけでまあ、ぼかしたオチになってしまいました。
     つーことで『BEASTARS』評、もうちょっとだけ続きそうです。
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