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 目下、『Daily WiLL Online』で新たな記事が公開されております。
「お母さん食堂」まで標的に――過度な言葉狩りで墓穴を掘るフェミニストの矛盾」。
 何と目下五位!
 いよいよの記事の拡散など、お願いできれば幸いです。
 どうぞよろしくお願いいたします!

 さて、前回前々回で宇多丸師匠のCG版『ドラえもん』論をお送りしました。

 そこで明らかになったのは、もはや映画批評業界はPCに乗っ取られ、まともに機能していないということでした。もちろん、それは一般の評論業界も同じで、近しいことをやっていたのが稲田豊史という御仁。
 ところがこの人はものすごく、まず述べている『ドラえもん』について、認識がデタラメだらけで――。

*     *     *

 皆さん、ジャイアンの「お前のモノは俺のモノ、俺のモノも俺のモノ」という名台詞のルーツをご存じでしょうか。
 そう、のび太やスネ夫の漫画やおもちゃなどを奪い取り、そのまま借りパクしてしまうジャイアン。そんな彼のエゴのよく表された名台詞……かと思いきや!
 何と最初にこのフレーズが使われたのは、幼稚園時代のジャイアンがのび太の苦難を捨て置けず、ツンデレ的に「お前の苦労は俺の苦労でもある」と手助けをしてやった時だったのです。
 さすがジャイアン、乱暴者ながら実は心の優しい、男の中の男!!
 ――ウソですけどね
 いえ、上のエピソード、近年のアニメで実際に放映されていました。
 だから決してウソではないのですが、言うまでもなく原作にはないオリジナルのお話。ジャイアンをむやみにいいヤツにしたがる近年の傾向は、あまり歓迎できません。
 これは作品が国民的コンテンツになっていく過程で避けて通れない、ある種の必然ではありますが、ここ数十年、『ドラえもん』は「感動」といった方向で一般人の皆様方に受容される傾向が、大変強くなってきました。「のび太の結婚前夜」(てんコミ25巻*1)における、しずかちゃんのパパがのび太を素晴らしい青年だと賞賛するシーンなどが代表ですね。後、CG版『ドラえもん』も「ドラ泣き」とかいう「何だかなあ」なキャッチコピーがつけられておりました。
 ですがぼくとしては――本当、ひねくれ者ですみませんが――藤子・F・不二雄のファンが妙に『ドラえもん』をアナーキーな、インモラルな作品であると評したがる傾向にも、あまり乗れないモノを感じるのです。
 オタク色の強い掲示板、例えばふたばちゃんねる、2ちゃんねるなどで『ドラえもん』が語られる時、必ずFマニアと思しき人物が「藤子Fの作品はブラックだ、実のところ藤子A以上だ」的な決まり文句を伴って現れるのですが、その度ぼくは「まあ、間違っちゃいないけど、何だかなあ」という気持ちでスレを眺めることになります。
 藤子・F・不二雄は、知名度に反して評価されることの少ない作家です。同期の作家たちよりも児童向けという捉えられ方をされることが多い気がします。コンビを組んでいたAがブラックな作風で知られるため、上のようにマニアも妙にAに対するコンプレックスをこじらせてしまっているわけです。
 アニメが青年文化になっていきつつあった80年代に大ブームになった児童漫画という点もあり(また児童漫画としては鳥山明など新しい潮流が生まれていたこともあり)Fには「時代遅れの幼稚な作を乱発する作家」といったイメージが拭いがたくまとわりついていたのです。
 上に書いたマニアの言はそうしたコンプレックス故のモノであり、そこで持ち出されるのが「ドラえもんだらけ」(てんコミ5巻)におけるドラえもんの暴走であったり、「ネズミとばくだん」(てんコミ7巻)における「地球はかいばくだん」であったり、或いはしずかちゃん関連のお色気描写など、アナーキーというか、インモラルとされるような描写です。
 しかし、そうしたものを仰々しく持ち出してドヤ顔になるのもまた、いささか厨二的ではないか。ぼくとしては心情は理解するが、反発も感じてしまうわけです。
 それは丁度、オタクたちが『ガンダム』を評する言葉が、「単純な勧善懲悪ではない」というものであったことと、全くいっしょです。先の『スパロボV』の記事をご覧になればおわかりになるでしょうが、ぼくとしてはそうした「厨二」的、『映画秘宝』的な価値観もまたどうにも幼稚に思え、「何かヤだ」と思ってしまうわけなのです。

*1 以降、サブタイトルの後に収録巻を記すことにしますが、慣例に従い、「てんとう虫コミックス」を「てんコミ」という略称で表記します。
「慣例なんてあるのか」と思われたかも知れませんが、世には『ドラえもん』評論というものもいくつかはあり、その世界でのお約束なのです(このお約束に、本書もまた倣っているのが腹立たしいですが……)。

 さて……そこで本書です。
 本書の版元をみると、「株式会社PLANETS/第二惑星開発委員会」。例の、アニメやオタクについてのヘイトスピーチをするためにこの世に存在する、宇野常寛のお膝元。著者の稲田豊史師匠はその子分のようです。
 はい、ここで解散!
 ……でもいいのですが、まあ、そう言っては記事が成り立ちません。もうちょっと続けましょう。
 さて、本書のスタンスは上に挙げた『ドラえもん』インモラル論に、実は近い。
 何しろ第二章のタイトルは「のび太系男子の闇【前編】正当化される「ぐうたら」」というものなのですから。
 本書の第一章辺りの筆致は、実のところぼくが本稿の冒頭で書いたこととさほど違いはありません。つまり、「『ドラえもん』は文部省推薦的なよい子よい子した漫画などではない」というものですね。何しろ師匠は

 余談だが、当時筆者の間でも、幼少期に多少原作とアニメに触れた程度の20代女性たちの間で、「『ドラえもん』っていい話多いよねー」「のび太って優しくていいよねー」的な薄っぺらい会話が交わされていたのをはっきりと覚えている。(38p)

 などとミソジナス()極まりない物言いでにわかファンを罵っています。
 もっとも上に書いたように、その心情はまあ、半分くらいは理解はできるのですが、しかし本書は二章になるや、のび太への常軌を逸した攻撃を始めるのです。

今や「のび太=劣等生の象徴」という認識は、日本国民ほぼすべてに行き渡っているといってよいだろう。ただ、のび太が「頭脳・体力面で平均値より劣る」という認識はあっても、「人格面でも劣る」という認識はそれほど人口に膾炙していない。実はのび太ほどのクソ野郎は、なかなかいない。まずは、のび太のクソ野郎ぶりがわかるエピソードをいくつか拾ってみよう。
(30p)

 といったもの言いに始まり、「単なるギャグ漫画におけるバカな描写」を、大袈裟に大袈裟に嘆いて見せます。そのしかつめらしい物言いは、何だか手塚治虫氏の漫画を「非科学的だ」と焚書したPTAを思わせます。
 江川達也を「文化人」と呼び、彼の『ドラえもん』批判(ドラえもんがのび太を甘やかすばかりで教育によくないという、バッカみたいなもの)を持ち上げ、首肯するという無惨さも、いい感じです。
 言うまでもなくのび太は毎回、ドラえもんのひみつ道具によって欲望を実現させ、しかしラストでは調子に乗ってしっぺ返しを食らうわけで、『ドラえもん』は別段、調子のいい欲望を節度なく肯定しているわけではありません。本書でもそのしっぺ返しついて、一応、さらりと触れてはいるのですが、師匠はしかる後、大慌てでのび太バッシングに舞い戻り、彼への悪口を繰り返すのです。
 こういう人はそもそも、漫画を読むのに向いてないんじゃないでしょうか。ポルノなんて当然、全否定でしょうね。
 特にのび太が自分よりもダメな子が転校してきたことに喜ぶ「ぼくよりダメなやつがきた」(てんコミ23巻)、しずかちゃんが未来のお嫁さんであるとわかっているのに、他の「キープ」のガールフレンドを作ろうとする「ガールフレンドカタログ」(てんコミ18巻)、「虹谷ユメ子さん」(てんコミ24巻)などへのバッシングぶりは、苛烈を極めます。

貧しい農民に不満を抱かせないよう、その下に卑しい身分の存在を設定した中世支配層のさもしい発想と変わらない。
(31p)

要はしずかちゃんとは別に保険を打っておきたいのだ、このクソ野郎は。
(32p)

なお、てんコミは藤子・F・不二雄の自薦によるベスト盤なので、のび太のクソぶりがこの程度に押さえられているが、てんコミ収録作以外の作品では、さらに目を覆うようなクソぶりが拝める。
(33p)

「ウンコウンコ」と繰り返して大喜びしている五歳児にも負けないであろう、「クソ」の連発ぶりです。
 もう、そんなに『ドラえもん』が不快なら、のび太が憎ければ、読むのを止めればいいじゃないかという感想しかない、半狂乱の怒りっぷりですね。
 そのくせ端々でホンキで『ドラえもん』を好きそうなことを書いてるんだから、わけがわかりません。何だかフェミ的怒りで発狂寸前になり、包丁を握りしめながら、それでも『おそ松さん』を見続けているおそ松女子の話をつい、連想してしまいます。

 第2章で取り上げたように、のび太は、作中で一時的にしっぺ返しを食らったり痛い目に遭ったりはしても、人格の根本的な欠陥(盗み見、結婚相手以外の女性に唾をつける、自分よりダメな人間への優位性に浸る等)については、決定的なおとがめを受けない。次回も、そのまた次回も、同じようにクソ人間ぶりを披露しているからだ。
(51p)


 何故、そのように描かれているか。
 その理由が、師匠にはおわかりにならないご様子です。
 これ、小学生に向けて描かれた児童漫画であり、当然子供たちは正しく読めているはずなんですけどね。
 東浩紀師匠しかり宇野常寛しかり一体に、左派文化人というのはアニメ、ゲーム、漫画を読み解くだけの読解力を持っていないことを最大の特徴としますが、稲田師匠もまた、という感じです。
 仕方がありません。ぼくが、お教えして差し上げましょう。
 そうしたお話では、のび太が(しっぺ返し、ドラえもんの叱責などもあれ、それ以上に)自分の過ちに自分で気づき、態度を改めるから、なのです。ウソだと思うなら単行本を見てみてください(「虹谷ユメ子さん」だけはただのしっぺ返しですが)。
 師匠はそうした部分を実に周到にスルーすることでのび太を貶める、という戦術に出ているのです。
「パパもあまえんぼ」(てんコミ16巻)では、パパが荒れているのを見兼ね、のび太とドラえもんがタイムマシンで生前のおばあちゃん(パパにとっての母親)の下に連れて行きます。
 一般的に、やはり「感動」とされるこのエピソードを、師匠は「息子の前で母に甘える三十男はどうなんだ」と舌鋒を極め、罵り倒します。

「いい話」のオブラートに包みながら、「いい大人も時には甘えたい。自分をさらけ出すのは、誰がなんと言おうと、人の親だろうと、良いことだ」という主張を巧みに展開し、読者の納得をとりつける。
(53p)

 いやはや、師匠にあってはF先生は「人々を弱体化させる悪の組織の工作員」みたいに描写されてしまいます。仮に第二次大戦当時に『ドラえもん』が書かれていたら、当局はこういったことを言って、本作を発禁にしていたかも知れません。
「りっぱなパパになるぞ!」(てんコミ16巻)では逆にのび太がタイムマシンで、大人になった自分に会いに行きます。しかし大人になってもダメなのび太の姿を、やはり師匠は狂ったように蔑みます。

 なんと小さくまとまった、なんと低水準に収まった「行く末」であろうか。
(57p)

 このエピソードのポイントは「大人になってもパッとしない自分」に失意するのび太に対し、「人生はまだまだこれからだ」と成人ののび太が説くところにあるのです。大人ののび太が、成長途上にある自分を肯定的に捉えているところにあるのです。
 しかしそれを、師匠は「息子や妻のためだけに生きるとは度量が小さい」とわけのわからない言いがかりをつけるのです(ちなみに「45年後……」(ドラえもんプラス5巻)も似たエピソードですが、ここでは初老ののび太が現れ、少年ののび太に「お前は何度も挫折するが、それを乗り越える強さも持っている」と説くのが象徴的で、Fのメッセージ性は一貫しています)。

 第四章は「のび太系男子の闇【後編】ホモソーと少年の心」と題されています。
 もう、本ブログの愛読者のみなさまはこれだけで「あ……っ、察し」となりますよね。
 そう、「ホモソー」は「ホモソーシャル」の師匠なりのポップな表現(のつもりなのでしょう、きっと)。いちいち書くのも面倒ですが、師匠は「さようなら、ドラえもん」(てんコミ6巻)を「感動の名作」として評価しておいて、しかし舌の根も乾かぬうちに両者の関係をホモソーシャルであると言い立てるのです。
「ションボリ、ドラえもん」(てんコミ24巻)はのび太の相棒として成果を出せないドラえもんを案じたセワシ君が役割をドラミと交代させ、ドラミが優秀な成果を出すものの、のび太はドラえもんとの別れを泣いて嫌がるという話です。このエピソードと『エヴァ』のシンジとカヲル君、アスカの関係性を準え、師匠は「男の子同士の方が気心が知れている」という「東からお日様が昇る」くらいに当たり前なことが、大問題ででもあるかのように大袈裟に騒ぎ立てます(きっと「ジェンダーフリー」によって性という概念がなくならないと、許してはもらえないのでしょう)。
 そしてまた師匠は、劇場版『ドラえもん』でしばしばドラえもんが敵に捕まるなどして無力化し、のび太に助けられる「お姫様」役を果たすことを指摘、

 ふたりの絆が一体どれだけ強いのか、計り知れない。一連のくだりはごちそうさまとしか言いようのない、完全なノロケターンである。
(69p)

 と言い募ります。
 ちなみに「一連の下り」について、ここでは詳述しませんが、師匠が採り挙げたのは『のび太とブリキの迷宮』というふたりの絆が極めて強く描かれる名作で、どうもこの人、本章では「腐女子脳」で『ドラえもん』を見ているようです。
 読解力のない師匠に、お教えしましょう。
 何故ドラえもんが「お姫様」になったか。
 それは劇場版『ドラえもん』後期の作品だからです。
 師匠が挙げるような特徴を持つ劇場版は、専ら90年代のものに限られるのです。以前も書いたことがあるのですが*2、一つに「ドラえもんという万能兵器を封じることで、物語にサスペンスを加える」という手法が採られていたと言えるのですが、もう一つの理由は、この頃の作品はFにとって晩年の作だったこと。描かれるモノは毎回、「遺作」的な性格を持っていたからなのです。
 だから本作では、チャモチャ星という「ロボットの反乱で人間が支配下に置かれた」星が舞台になり、のび太たちは「機械に頼りすぎて、自分では歩くこともままならないひ弱な」サピオ少年と友だちになり、さらわれたドラえもんを奪い返すためにチャモチャ星を支配するロボット軍団と戦うのです(こうした密かに温めていた自慢の『ドラえもん』評をこんな本のレビューに記すのは正直、イヤなのですが)。
 そう、劇場版『ドラえもん』後期は言わば、毎年毎年の作が「さようなら、ドラえもん」。のび太のドラえもんからの「卒業」がテーマとなっています(ただし、それをぼくが必ずしも好んでいないことも、以前、書いた通りです)。
 師匠の批評が初めから、最後の最後まで、完全に、根本的に、絶対的に間違っていることを証明する作品であるからこそ、本作ではドラえもんがBL脳の師匠には「お姫様」としか解釈され得ないような役割を、担っているのです。
 しかし自説のために、恣意的に作品を曲解する師匠は、

 ドラえもんにべったりだったのび太は、うだつの上がらない凡庸な大人として、少年のび太に愚痴るようなつまらない人間になってしまった(てんコミ16巻「りっぱなパパになるぞ!」)。第3章の江川達也の主張(p.58)を再度引くなら、カヲルやドラえもんこそ、「人の欲望を際限なく肥大化させる」諸悪の根源だ。(72p)

 などと絶叫するばかりです。
 ドラえもんの「しっぺ返しオチ」は言うに及ばず、カヲル君に至ってはどうすれば「人の欲望を際限なく肥大化させる」要素を見て取れるのか不明ですが、まあ、師匠にはぼくたちのような愚民には決して見えない何かが見えていらっしゃるのでしょう。

*2『源静香は野比のび太と結婚するしかなかったのか
 これもまたリベラル君の書いた粗雑にして支離滅裂な『ドラえもん』に対するヘイトスピーチでした。

 さて、しかし、それにしても、一体全体、どうしてこうまで、師匠は漫画の中のキャラクターに憤死寸前の憎悪を沸き立たせることができるのでしょう?
 実はその理由は、あまりにも明らかです。
『ドラえもん』が「感動」の名作として評価され始めた時期がゼロ年代前半であるとして、師匠はこれをロスジェネ世代の窮状と結びつけます。
 そして、それ自体は単なる世代の問題でしょうが(この世代が子供の頃、『ドラえもん』に親しんでいたというだけの話でしょうが)、この指摘もまた、それ自体は別段間違ってはいないかと思います。
 しかし師匠の筆致はそれを指摘するだけに留まりません。

 素直に自分の欲求を吐き出し、弱さをさらけ出すことを善とし、競争を敬遠する。自身の生来的な価値観に自信を持ち、「ありのまま」の自分を全肯定する。それが『ドラえもん』を読み、見て育った30~40代男性にはびこる「のび太系男子」の本質だ。そりゃ、勝ち組にはなれない。
(58p)

 第3章では、のび太の欠陥人格は藤子・F・不二雄の独善的な自己肯定の結果であると述べた。
(中略)
 そんな大甘な受け身思考が骨の髄まで染み付いてしまったのが『ドラえもん』を読み、見て育った30~40代男性を中心とした「のび太系男子」というわけだ。
(62p)

いずれにせよ、のび太系男子を輸出するのは、世界にとって得策ではないようだ。
(75p)

 そう、先の江川達也への崇拝ぶりからもわかる通り、師匠の中にあるのは男性性に欠ける「弱者男性」に対するすさまじい、そしていっそ清々しいほどに純粋な憎悪です。
 しかしそれにしても、どうしてリベラル君と思しい師匠が、ここまで弱い者を憎むのでしょうか?
「男のクセにだらしないとはけしからぬ」。
 これは本来、保守派の言い分ではないでしょうか――いえ、リベラル君たちの脳内の「保守」はともかく、今時の保守がそんなことを言うのを、ぼくは見たことがありませんが。
 サメは、イワシの群れからランダムに、或いは丸々と太ったものを獲物として狙うわけではありません。ケガをしたイワシがぴくぴくと痙攣すると、そこから「死のサイン」を読み取り、それに「欲情」し、襲いかかるのです。
 リベラル君たちはそれと同じです。
 弱い者を見るとそれに欲情し、本能レベルで襲いかかる
 サメ脳ですね。すごい、総理大臣レベルです!
 或いは、彼らはこの世の「弱肉強食」のシステムを守るために宇宙意志に生み出された、捕食者なのかも知れませんね。彼らが植松聖のように障害者を殺せと安倍さんに直訴しないことが、ぼくには不思議でなりません。
 或いはまた、ご本を出せるほどに頭のいい人たちになると、「本能」だけではないかも知れません。となると、彼らが弱者男性を叩く理由は彼らが女性に寄り添い、既得権益を得ていた、それを脅かされてなるかとの不安によるものと考えるべきなのでしょう。
 ページをちょっと戻ると、師匠のヘイト感情の、更に具体的な像が明らかになって来ます。

 彼ら(引用者註・のび太系男子)のアイデンティティを染めているのが、自分たちは割りを食った世代だという被害者意識だ。その鬱屈はおおむね富裕層や政治権力に向けられ、「社会正義」の旗印をエクスキューズに私怨を爆発させるのが常套。押し寄せる劣等感と吐き出すルサンチマンの出納業務で、毎日が忙殺されている。
(48p)

 また、先の「ガールフレンドカタログ」を評する箇所では、

のび太は非モテのくせに、童貞ネット民並みに上から目線で女子を品定めする。
(32p)

 とも言います。
 師匠ののび太への憎悪はホンモノですが、同時にそれはのび太そのものではなく「ネット民」に代表されるような層にこそ、向けられているのです。
 ぼくはここで、勝部元気アニキのツイートを思い出さずにはいられませんでした。
 記憶に依りますが、アニキは以前、「フェミニズムの敵はかつては家父長制であったが、目下はミソジナスな弱者男性になりつつある」といったことを言っていたのです。
 そう、彼の発言は彼の優れたビジネス感覚を、そして「フェミニスト」という「オンナノコ」を楯に弱者に暴力を振るうことをその存在意義としているリベラル君たちのホンネを、極めて率直に表しています。

 ドラえもんがぼくたちを救済したように、「萌え」がぼくたちを救済したように、文化は弱者のための武器です。
 リベラル君たちがオタク文化を憎むのは、そうしたわけでした。
『ドラえもん』評論といえば、上の*2に挙げた『源静香は野比のび太と結婚するしかなかったのか』が思い浮かびます。ぼくのこの本に対する評は端的には「作者はガチな『ドラえもん』ファンのようだ。しかしそれ以上にガチなフェミニストファンであるため、その意向に逆らえず、『ドラえもん』の誹謗中傷をせざるを得なかった」とでもいったことだったかと思います。
 師匠もまた、見ているとガチな『ドラえもん』ファンのようにも見えます。
 作品についての評は極めてマニアックで、知識量も相当なことがわかります(しかしそれは同時に、ぼくが上で「スルーした」と評した箇所が無知や過失によるものなどではなく、意図的なものであると判断せざるを得ない、ということでもあります)。
 ただ一方、師匠は晩年の作を病的に貶めてもいます。

 プロットの切れ味も鈍り、単発の思いつきに物語が無理やり付随しているような印象も受ける。
(24p)

 30巻台終盤以降、作者の筆の衰えが目立って以降の作品を主に触れた層は、原作『ドラえもん』の「残りカス」しか味わっていない。
(25p)

 正直、Fの晩年の作に筆の衰えのあることは、疑い得ません。彼の作家としての全盛期は、70年代から80年代前半までにあったと言えることでしょう。
 しかし、師匠にこんなことを言う「資格」があるのかについてははなはだ疑問と言わざるを得ない。そもそも後期『ドラ』を「毒が抜けた」などとこき下ろしていますが、同時に師匠は『ドラえもん』の毒をこそ攻撃していたのですから、全く辻褄があっていないのです
 もっとも、辻褄があわないと言えば「ホモソー()」とやらにしてもそうで、ホモソーシャルがケシカランと言いつつ「さようなら、ドラえもん」を名作と褒めちぎるのはさっぱり意味がわかりません。ご当人も、恐らく書いていてよくわかっていなかったのではないでしょうか。
 稲田師匠は――否、全リベラル君は「オタクストーカー」です。
 それは丁度、アイドルのツイートを逐一チェックして、彼女らに嫌がらせのリプを飛ばしているアイドルストーカーと全く、同じです。
 彼らは本来、オタク文化が好きであった。しかしフェミニストという名のママに、それが悪いものであると教えられた。そこで勝手に「裏切られた」と思い込み、ママに教わったムツカしいカタカナを使い、オタク文化へのストーキングに出たのです。恐らくアイドルストーカーが自分の感情を正しく把握していないように、彼らもまた、自分の感情を正しく把握していない。ただ、「悪しき文化を正義の味方である俺が正してやるのだ」との歪んだ正義感だけが、彼らの中で燃えたぎっているのでしょう。

 ……もう、いつもの文章量を大きく越えてしまいましたが、まだ本書の1/3もレビューできていません。仕方がないので、以降は次回に回しましょう。
 しかし、最後に一つだけ。
「セワシ君」の名前の由来を、師匠は「世話し」であろうと述べています。
 そんなバカな! 「のびのび太」の子孫だから「忙しい君」だということは、誰にでもわかっていることだと思っていたのですが……やっぱり師匠はビッグです。