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 目下、記事を書かせていただいた『実話BUNKAタブー 2022年3月号』が発売中です。もっとも、そろそろなくなる頃なので、未読の方はお早めに!!

 ――さて今回、久し振りに新規記事です。
 久し振りなのでカネを取ってやろうということで、noteでは課金記事になっています。
 もっともこちらでもnoteでも課金しなければ読めないところはないので、もしカネを払う気がない場合は、別にここで読んで終わりで構わないのですが、よければnoteまで飛んで百円恵んでいただけると大変に喜びます。
 では、そういうことで……。


 コミケ99に行って参りました。

 二日の内の初日だけの当選だったせいで、男性向け創作を買うことがほとんどできず、ほぼ特撮関連の評論本ばかりを買ったのですが。

 ――いや、そもそも何故、このタイミングでそんなことを……という感じですが、その買い込んだ同人誌をいまだ読み続けているから。何しろフェミ本も読まねばなりませんし、その合間に少しずつ読んでいく内、ちょっと書き留めておきたいことがあったので、今回、こうした機会を設けたわけです。

 ・侵略する死者たち


 まあ、いつも言うように「オタクはノンポリだが、上のヤツらは極左の歪んだ考えをオタクに押しつけて(それを拒まれた逆恨みでオタクへと汚い攻撃を仕掛けて)くる」。

 そう、オタク文化は常に、既に死んだ思想を後生大事に抱えている連中の侵略を受け続けているのです(サブタイトル回収)。

 このことをぼくは今まで、例えばエロ漫画といった80~90年代のオタク文化の主戦場の「トップ」がそうした極左であったがため、その思想汚染を受けたとも、今までオタクを見下し、差別し続けていたサブカルが『エヴァ』をきっかけにオタク資産を狙ってきたのだといった言い方も、また『ウルトラマン』や『ガンダム』などオタクの先代が作ったオタク文化が極めて左派的な思想を秘めていたからとも表現してきました(もちろん、それぞれが当を得た指摘です)。

 オタク文化の黎明期は80年代前半と言っていいでしょう。岡田斗司夫は「DAICONⅣ」OPアニメが上映された瞬間がオタクの誕生の瞬間だ、としたことがありました。

 このDAICONⅣは1983年に大阪で開催された日本SF大会であり、そのオープニングに上映されたアニメが当時のマニアによって作られた、美少女とメカ、モンスターといったオタクの好むキャラクターが総登場するもの。この作品はアニメを観て育った男の子が「自分の好きなもの」を全部注ぎ込んで作り上げた表現、だったわけです。

 しかしぼくは以前、このDAICONⅣで上映された自主制作特撮『愛國戰隊大日本』について、オタクを象徴する作品として言及したことがあります。これは「もし右翼が戦隊を作ったら」という思考実験とも言うべき作品で、「政治の季節」を生きた「怒れる若者」であった上の世代を笑い飛ばしたものであり、端的に言えば「俺たちノンポリだし」という自己表明でありました。

 また最近の動画では、当時制作された『超時空要塞マクロス』(1982)のことをオタク作品の第一号として語ったこともありました。『マクロス』には『ガンダム』などの政治性がなく、敵は男と女で争っている巨大宇宙人。主人公の一条輝は「軍の一兵卒」という意味ではアムロ・レイと同様ですが、アイドルのリン・ミンメイを追いかけるばかりであんまり主人公っぽい活躍はしない。「何故戦わねばならないのか」と悩むだけシンジ君の方がモノを考えていたわけです。

 そうした政治性の喪失こそがオタク世代の特徴であり、これを「戦いを止めたパーマンがのび太になったのだ」と表現をしたこともあります。

 しかし、それはオタクたちの内面の「リアル」であり、同時にこの当時はまだ、「左派的な言説がアタマイイ」というイメージが濃厚にあった頃でもありました。

 そんなこんなで、まあ、当時のオタクたちもマジメな子は(オタクは大体マジメな子なんですが)ロボットアニメが是か非か、戦争を肯定しているのではないか、などとアニメ誌の投書欄で盛んに議論をしておりました。しかしまあ、そうした「問題意識の高さ」は自分以外のオタクを見下して「これだからオタクはダメだ」と言ってしまう傲慢さにもつながります。

 いつもぼくが指摘している、「オタク内差別」はそうした者たちによって引き起こされていたのでしょう。

 ぼくはこれを「サブカルがオタクを叩いていたのだ」と表現することもありますが、往々にしてそうした連中は「オタク文化だけじゃなく洋楽(つまり、ガイジンという価値ある者たちの作ったコンテンツ)も聞くぞ」「少女漫画(つまり、オンナという価値ある者たちの作ったコンテンツ)も読むぞ」と下らぬことをプライドの根拠にしていたわけです。

 ぼくの彼らに対する嫌悪感の根源は、彼らが自分たち以外のところに価値を置いて相手にマウントを取ろうとする醜さにあるわけです。

 

・怪獣使いと少年


 さて、しかし何やかやで80年代は漫画界、アニメ界には新しい人材が活躍し初め、上に書いた『マクロス』など「オタク純正文化」が次々と生まれつつありました。

 特撮はそれに一歩遅れ、まだ「おっちゃんが子供たちに作ってあげる」文化のムードを濃厚に残していましたが、そんな中、活躍していた人物に上原正三がいました。

『ウルトラQ』の頃から特撮番組の脚本を執筆、『ゲッターロボ』『UFOロボ グレンダイザー』などでメインを務め、『秘密戦隊ゴレンジャー』『がんばれ!ロボコン』、『宇宙刑事』シリーズと、70~80年代のアニメ特撮を常にリードしていたのが上原氏と言えました。

 この上原氏が2020年の一月に物故し、今回のコミケで買った老舗特撮評論誌は氏の追悼特集となっていました。

 そう、今回、延々と語っていたのはこの同人誌についての前振りだったのですが、本筋に入る前にもうちょっとだけ前振りを。

 上に書いたように、オタクも高齢者は左派的な言説の影響下にある御仁が多い。

 今回、(しかも二年ぶりにネットの世界から抜け出して)評論本を漁ってそれを実感させられました。

 あっちの本では赤松健の自民党からの立候補を腐し、こっちの本ではトランプを、百田尚樹を悪の組織の大首領のように罵る。

 オタクは『ガンダム』などの「リアル系」ロボット作品を観ることで善と悪の単純な対立構造を超克したはずなのですが、一体全体どういうわけか、この世代の御仁たちの脳内では、いまだ「スーパー系」の時代が続いているかのようです。

 いえ、さんざんそうした連中を腐しているぼくも、上に挙げた上原正三の作品の影響を受けてはいるのですが。

 上原氏は沖縄出身で、その作品には常にマイノリティの怨念が見え隠れしています。

 彼の作品の中でも一番の問題作とされるのは『帰ってきたウルトラマン』第33話「怪獣使いと少年」でしょう。ここでは宇宙人への迫害が在日コリアンへの差別問題の暗喩として描かれます。

 つまり上原氏も、ある意味では「怪獣モノ」というメディアを使い、自分の思想を少年に伝えようとした人物ではあった(サブタイトル回収)。もちろん、「押しつけた」「ウザいお説教をした」わけではなく、氏をサブカルと並べる気は一切、ありませんが。

 そんなこんなで氏の物故は『東京新聞』とか『毎日新聞』とか『朝日新聞』とかで、そーゆー方向で採り挙げられました。というか、件の同人誌であちこちの追悼記事の切り抜きが掲載されており、その度「怪獣使いと少年」、「怪獣使いと少年」と繰り返され、いささか辟易とさせられたという感じです。昔はこの種の大メディア、怪獣モノやロボットアニメを好戦作品として叩いてばかりいたのですけれどもねえ。

・第四惑星の悪夢


 しかし、「辟易」はそればかりではなく、同人誌の書き手たちの筆致においても、感じさせられました。

 先に『ゴレンジャー』のメインライターであると書いた通り、上原氏は石森章太郎原作作品に関わることの多い脚本家でしたが、とある論者はこの両者がシスターコンプレックスという共通点を持っていることを指摘し、以下のように言うのです。

 それを悪いと言うと、男性である筆者にもブーメランとして跳ね返ってくるのだが、子供番組における男女平等は、国際的基準で見れば日本が大いに遅れていることは否定できず、その一因をこの二人が作ったと言われれば反論できないところがあるからだ。


 工工エエエ(´Д`;)エエエ工工

 そもそもジャパニメーションが世界を制したのは、海外では子供番組なんかあまり作ってなかったからでは……?

 あ、いかにも古くさい言い方で、この認識も古いのかも知らんが、少なくともダイナミックアニメがヨーロッパを席巻したなど、欧州では子供番組の歴史があまりなかったことは事実だと思うんですが……まあ、『パワーレンジャー』では女の隊員がレズだったりするそうで、確かに日本は遅れてるのかも知れませんが、うんまあ。

 上原氏は『透明ドリちゃん』という女児向けのファンタジー特撮も書いているのですが、ここでは以下のように書かれるのです。

 しかし、石森&上原氏の作風である「少女崇拝」が露骨に出ている作品なので、令和の女性やフェミニストが本作を見たらどう思うのか気になってしまうところではある。(中略)それが時代の違いや女性観の進歩といったものでもあり、残念ながら我らの偉大なる石森&上原氏とて時代の限界という制約からは抜け出ることが難しいということだ。

 

(゜Д゜) はあああああああ!?

 正直、この論者が『ドリちゃん』のどこが気に入らないのか全く書かれていないので、単にわけわかんないんですが、ぼくがよく『ドラえもん』評論を採り挙げては言っている「極左がオタク文化よりもフェミ好きすぎ問題」が、ここでも生じているわけです。

 しかし何というか、左派寄りのオタは例えば『プリキュア』などを持ち出して日本における「子供番組における男女平等」は先進的であるなどとドヤるのが定番であるように思うので、この御仁は随分とラディカルというか、ある意味ではフェミニズムを正しく理解しているというか、かなり「レベルの高い」人なんだなあと感じずにはおれません。

 しかし、ここまで70年代文化を愛しつつ、フェミニズムに危険性を感じるどころか、まさに追悼本のその場でフェミニズム側に軍配を挙げるのはまた、更に別な意味で「レベルが高い」としか。

 上原氏は多分もう、二十年前くらいのインタビューで「日本は第四惑星に、デスパーシティになりました」と語っていたことがあります。

 前者は『ウルトラセブン』第43話「第四惑星の悪夢」で描かれた、ロボットが人間を支配する星のことを、後者は『イナズマンF』で描かれた悪の軍団の支配する全体主義の社会を指しています。

 しかし――まさに氏の没後、日本の「第四惑星」化、「デスパーシティ」化は急速に進みつつあるように思えるのですが、この論者にそこは、見えてはいないのでしょうか?

 昔のアニメや特撮には(もちろん上原氏が書いたものにも)よく「テコ入れ」というものがありました。例えば「ちょっと大人向けを意識して作った作品だが、視聴率が振るわず、子供向けの路線変更する」などが典型的です。

 そうした時、大体は今まで絶対的権力者として振る舞っていた悪の組織のボスがいきなり現れた影に怯え、「○○様、お許しください!」などと言い出し、その影は「まだ○○ロボを倒せぬのか、生ぬるい!」などそのボスを威嚇し、処刑をちらつかせたりもします。そう、悪の軍団はこの「影」として処理され姿の見えない真の大ボスにこそ操られていたのです。

 彼ら――というのはオタク界やその近隣の左派連中のことですが――はいまだ、テコ入れで真の大ボスが現れ、軍団の運営方針が変わったことに、気づくことができずにいるのでしょうか、それとも本当に、ただ上の命令を唯々諾々と実行するだけの「戦闘員」にすぎないのでしょうか――?