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 相も変わらず、『現代思想』の特集の再録を続けます。元は2019年3月29日に発表したもの。


 しかしまあ、読み返して文字量が多いことに呆れました。
 今回は本来の(その2)の前半だけ再録し、後半は来週に回しことにしました。そのため、先には(その1)として再録しましたが今回から、何か適当に(○○編)と副題をつけることにしました。
 今回は海外事情について書かれているものを集めたので、「ガイジン編」というわけです。
 それと目下、「風流間唯人の女災対策的読書」でジャニー問題について扱っていますが、『WiLL online』様でも火曜日辺りにその辺について書かせていただきます。どうぞご愛顧のほどを!!



 それでは、そゆことで。


  *     *     *


 ……というわけで、さて、続きです。
 初めての方は前回記事から読まれることを推奨します。
「男性学」については今までも幾度も述べてきましたが、このタイトルを見ては採り挙げざるを得ない……ということで始まりました本エントリ。前回は伊藤公雄師匠、田中俊之師匠などこの業界の大物(……?)たちの、読む前からお察しな千年一日の文章をご紹介しました。まあ、「基本編」といった感じですね。
 今回は変化球というか、「男性学」にとっては「やや周縁」、「やや異端」な人たちの文章を集めて批評してみよう、という趣向です。
 因みに今回、この『現代思想 男性学の現在』という一冊の本を指す場合は「本特集」、それぞれの記事を指す時は「本稿」、そしてこのブログ記事は「本エントリ」と表現することで区別しております。
 また、(これは前回も同様で、その時にお断りしておくべきでしたが)男性学の研究家を男性学者と書くと「男性の学者」を指しているみたいで紛らわしいので、「男性学」者と表記します。

○フランシス・デュピュイ=デリ 男らしさの危機、あるいは危機の言説?

 前回では本特集を評して、ネット世論などの「本来、相対すべき主張」に反論しようとしていない、と述べ続けてきました。そんな中の数少ない例外が本稿です。
 え~と、この人、何者か知らんのですが、フランシスっていうところ見るとフランス人ですかね? あ、違う? とにかく「英語圏以外の欧州の人」っぽいところが何とはなしにありがたみを感じさせますが、とにかくわざわざ外国からお呼びしたこの人の主張がまあ、何というか、非道いもの。要するに「ネット世論」に対して抗するべき言葉を持たない「男性学」者たちが泣きながらガイジン様に泣きついたものの、そのガイジン様の口から出てくる言葉も無残の一語……とまあ、ぼくの目からはそんな風に評する以外、どうしようもないものなのです。
 表題はこのフランシス師匠の著作のタイトルで、本稿はその一章を抜き出してきたものだそうですが、内容としては昨今「男らしさが危機を迎えている」との言説がはびこっているとの認識を前提して、それについて反論していくもの。何でもアメリカなどではこの種の「男らしさの危機」について書かれた本が何冊も出ているとのこと。
 しかし師匠の反論は、その種の本は「文学的テクスト群に示されているもの(78p)」が根拠になっていることが多いのでダメ、「しばしば映画を参照する(79p)」のでダメといったもの。つまり敵の主張は根拠が小説や映画だからダメだ、というのがこのフランス人(とは限らんって)の子供めいた主張なのです。それじゃあ小説を読みながら腐女子がBL妄想をこじらせてるだけの『男たちの絆』なんて全否定なんでしょうなあ。
 面白いのは上のような「男らしさの危機」本では、日本の「草食男子」にも言及がなされているということです。それに対してのこのフランス人の反論は、日本の政治や経済の重要なポストに女がおらず、またこの種の本は「資産、住居所有権、家事や育児における異性間の配分に関して少しの詳細も提供しない(80p)」からダメだという、バッカみたいなもの。イヤミ君、日本では(国際的には例外的に)主婦が家計を握っているって、知ってます?
 あ、すみません、わかりにくかったと思いますが、今のは「フランシス」師匠をフランス人だと決めつけ、しかもフランス人だから「イヤミ」だと思い込んでいる、というギャグです。
 何にせよ、「男が虐げられてるなんて嘘だも~ん」という言い訳は、今まで「男性学」者によってなされ続けてきました。それらは「男がどれだけ過労死しようとも、ホームレスの圧倒的多数が男であろうとも、エラい人が男である以上、男のエラさは揺らがない(キリッ」という幼稚園児のような理論でした。それではネットの弱者男性による世論に抗しきれず、イヤミ君に理論武装を外注してみたものの、別段、言うことは変わらなかったというのが、本稿のおそ松なオチです。そしてイヤミ君は「アリバイ証明は終わった」とばかりに、後は延々「男らしさの危機は主観にすぎない」と繰り返すばかりです。
 しかし、主観性をよしとしてきたのは何よりフェミニズムだろうというツッコミはおくとして、上にホームレスなどの例を挙げたように、実際のところ、その「主観」は全て「客観的事実」に基づいているものであることは、自明なのです。本稿は先行する書籍への反論という体裁をとっており、ぼくもそれらの本を読んでいないので断言はできませんが、それらにそうしたデータが挙げられていないというのはちょっと、考えにくいのです。

 そもそも、根本的なことですが、本稿では繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返しこの「男らしさの危機」という言葉が繰り返されるのですが、その内実は、ふわっとしていて、判然としません。以前、ぼくは日本のフェミニストたちが「女をあてがえ論」という「存在しない主張」を仮想して、男性側を攻撃していたことを指摘しましたが*1、この「男らしさの危機」という概念もまたそれと同様に、このイヤミ君の目に映るふわっとした「政敵」の像にすぎず、本来の論者の姿を正確に捉えたものではないのでは、との疑いを禁じ得ません。
 以降もイヤミ君のうわごとは一行一行がフェミニズムへの鋭い批判になっており、抱腹絶倒。

 単なる言説が問題となっているからといって、男らしさの危機についての主張が現実に対して効果を持たないというわけではない。コミュニケーションの専門家たちは、政治的社会的な勢力が、自分たちに有利な資源の流用を促進するために、危機の言説にしばしば依拠することを喚起している。
(82p)

危機についての一言説は、たとえ本物の騒動がなくとも、たとえシステムが本当に揺り動かされたり脅かされたりしていなくとも、信じるに足るものと思われることができる。
(82p)


 まさにmetoo運動、性犯罪冤罪への鋭い批判ですね。

 われわれ――男性たち――が危機に瀕していると宣言することは、われわれについての注意を喚起し、諸処の権力機関がわれわれによりいっそうのサービスと資源を割いてくれるように、それら機関に圧力をかけるという効果を持ちうる。
(82p)


 そう、フェミニズムはそうした手法により、ぼくたちから軍事費に勝る予算を剥奪しました。
 とにかく「男らしさの危機」の言説が現実に影響を及ぼしているぞ、及ぼしているぞと繰り返しているのですが、その前の、「男らしさの危機」に根拠がないとする言説が極めて薄弱。当たり前です、「男らしさの危機」はあるのだから。だからイヤミ君はふわっとした観念論をもてあそぶしかないわけです。

 加えて、男らしさの危機の言説は、たとえ社会において男性たちがいまだにあまりにも明白に支配的であるとしても、フェミニズムと解放された女性たちが体現する脅威に抗して男たち(さらに潜在的にはいくらかの女性たちも)を動員するための道具である。
(84p)

 男らしさの危機の言説はしたがって、至上主義者の論理に属するのであり、それゆえに一九七〇年代にフェミニストたちによって提起された「男性優位」や「男性至上主義者」といった表現や、クー・スラックス・クランのようなグループの白人至上主義に反応したアメリカの反レイシストたちを再び取り上げるのは、適切なように思われる。(中略)最後に、男性至上主義は概して女性に対して、そしてとりわけフェミニストに対して、軽蔑と憎悪を助長する傾向もある。
(84p)


 はい、また本音が漏れました。ただ単に「フェミに逆らうからムカつく」と言っているだけです。「男性学」は「フェミ言い訳学」と言い改められるべきでしょう。
 ともあれ、この稚拙な論文は八田師匠の「インセルはトランプ支持者だ、そうじゃなきゃ嫌だ!!」とのファビョり*2と「完全に一致」していると言わざるを得ません。
 ちなみに、引用中、アンダーライン部は原典では傍点です(以下同)。この「至上主義」の意味は今一わかりませんが、文脈からするに「(男性)優越主義者」みたいな、もっとどぎつい意味あいが込められているのではないでしょうか。

 もっとも最後の節においては、一応、もうちょっと具体的な反論が試みられています。
『男性の終焉』という本を著したハンナ・ロージンは「いまだエラい人は男が多いが、それは時差であり、それよりジェンダーにおける華々しい変化があったことが重要だ(大意)」と言っているそうです(85p)。この女性がどういう人物かは知りませんが、何だかフェミニストが言いそうなセリフって感じもしますね。要するに「(男性の方がトクをしているというフェミニズムの世界観を仮に正しいとして、その上で)仮に男女平等が達成できていないにしても、フェミによるパラダイムシフトが男性を脅かしていることは事実だ」とでもいった主張を、彼女はしているのです。しかしイヤミ君は相も変わらず、それに対して「でもまだ男の方がエラいんだ、エラいんだ」と泣きじゃくるばかり。
 もう一つ、ダニエル・ワルツァー・ラングという社会学者、当初はフェミだったのが転向した人物だそうですが、この人は「男性には輝かしいモデル、イメージがなくなっている(大意)」とのまっとうな主張をしています(86p)。これに対してもイヤミ君はオウムのように同じ反論を繰り返すばかり。「現状を見るに女性の社会進出が成就するまで千年はかかろう」などともおっしゃっていて、どうも皮肉のおつもりらしいのですが、それは単純にフェミの「理念」か「方法論」かどちらか(あるいは両方)が間違っていた、ということではないでしょうか。
 ちな、このラング氏はセクハラで訴えられ、証拠不充分で釈放されていると言います。そりゃ、状況からみてどう考えてもやってるということなのかもしれませんが、釈放された者に対してこういうことを得意げに書くってどうなのかなあ。表現の自由クラスタも自分の意に反するフェミに対しては、保守寄りの団体で講演したの何のと大はしゃぎで書き散らしますが、それを連想します。
 とにもかくにもイヤミ君は馬鹿の一つ覚えで「エラい人の女性比率が少ない」と指摘し、「こっちは数字を挙げているぞ、相手は感覚でものを言っているだけだ」と泣きわめくだけ。そして「男らしさの危機」論者は「男性のパニックをあおるために……。(87p)」それをしているのだ、とまで言い募ります。いくら何でも卑劣すぎるのではないでしょうか。

 彼の滑り坂論法の主張に従うなら、男らしさの危機の言説とはそれゆえ一つの「新しい代案」、時宜を得ないフェイクニュースである。「男性たちが現在抱える不安」は、幽霊への恐怖に似ている。人々は存在しない何ものかについてパニックを起こしているのだが、ぺてん師たちや布教者たちは、われわれがパニックになるだけの理由を持っていると証明したがっているのである。
(87p)


 まさに全てがフェミへのブーメランです。
 この「滑り坂論法」というのは「男らしさの危機」論者の主張で、先にも挙げた、「フェミニズムのもたらした変化により社会は不可逆の流れを持った、それこそが男らしさの危機だ」というものらしく、正論としか思えないんですが、イヤミ君は自分を差し置いて相手をペテン師だとまで口汚く罵るばかり。
 てか「男らしさの危機」が幽霊であるなら、そもそも「男性学」って必要ないんじゃないでしょうか。

 客観的事実(物質主義)と主観的知覚(観念主義)との間では、もしそのおかげで人々が擁護し売り出そうと努めるまことしやかな主張を正当化できるなら、第二のものを選ぶほうが良いらしい……。
(87-88p)


 この無残極まる論文の最後の一文です。
 一つだけわかったのは、この地上で一度たりとも客観性を保証したことのないフェミニズムという学問、否、カルトの信者は、「我こそは客観主義なり」と泣き叫んでいる滑稽な人々である、ということでしょうか。
 シェ~~~~ッッ!!
(最後に無理矢理入れてみました)

*1 男性問題から見る現代日本社会
*2 八田真行「凶悪犯罪続発!アメリカを蝕む「非モテの過激化」という大問題」を読む

○海妻径子 CSMM(男性[性]批判研究)とフェミニズム

 これまた、日本の研究者ではありますが、話題は海外事情についてです。
 まず北米の「男性学」誕生の経緯について述べて、当初はフェミの傀儡から始まったが、抵抗勢力としてファレルなど反フェミ的な層が出てきたのだとしています。そして、そうした勢力は「いわゆるオルタナ右翼の一部を構成しているとも考えられるが(94p)」。
 あっ、はい。
 この種の運動は「(New)Male Studies」と呼ばれ、「"I feel(私は…と思う)"の多用、言い換えればある種の「感情の共同体」の構築が試みられることが指摘されている。(94p)」と、海妻師匠は指摘します。イヤミ君の主張と全く同様ですね。しかし『男性権力の神話』の名を挙げながら「主観だ、主観だ」と繰り返すのだから、イヤミ君よりも悪質と言えるのではないでしょうか。

 ちな、Hernという人物の言葉として、以下のようなフレーズが引用されています。

もはや男性それ自体がジェンダー化された存在と認識されるだけではなく、彼らあるいはその一部が、福祉システムが対応あるいは何らかの理由で対応しないジェンダー化された社会問題であることも、次第に認識されるようになってきた。暴力、犯罪、ドラッグ、売春、事故(を起こすこと)、(暴走)運転、そしてまさにそれらを性暴力として認めるのを拒むこと。
(97p)


 またHearn(上のHernとは別人なんですかね)は、「「男性」を「ジェンダー・システムにより構築された社会的カテゴリーであると同時に、集合的・個人的な社会実践の支配的エージェント」と定義(98p)」しているそうです。
 もう、これぞフェミニズムという憎悪と破壊と死と呪いの思想の本領発揮の無残さ、陰惨さですが、考えると森岡正博師匠も似たことを言ってましたね*3。或いは上のをマネしているのかもしれません。

 AMSA(引用者註・全米男性協会)が大会のキーノート・キースピーカーに非白人、外国人やゲイ、そして「女性」を意図的に選ぶようにしてきたのは、「自らの経験を専有しない」「自らの経験に対する自らの意味付けを疑い続ける」、いわば脱構築的当事者主義とでも呼ぶべき実践だと捉えることができる。
(100p)


 本稿の最後の節にある一文です。
「脱構築的当事者主義」とはまた、千両なコトバではありませんか。これは「絶対に当事者になってはいけません主義」とでも言い換えられるべき言葉でしょう。
 この愚かしい選択の裏には「男はずっと当事者として威張り続けてきた」という前提がありましょう。しかしファレルが指摘するように「男性は彼ら自身の司令官になったことは一度もなかった*4。少なくとも情緒のレベルにおいての当事者は常に女性でした。フィクションで女性が被害者になるのはそれ故です。悲しむ権利を持っているのは女性だけなのだから、男性が悲しんだところで観客の共感を得られないから、です。
 本特集に登場した「男性学」者たちが「男も感情を発露すべき」といった主張をしているのだから、そこには一応、上のような考えが前提されているはずなのですが、しかしいざ男が感情を発露させようとする度、「女性様のお気持ちを慮れ、慮れ」という圧力がそれをもぐら叩きのように叩き潰す。その一連のマッチポンプの過程こそが「男性学」の本質だったのです。

*3 拙著で採り挙げたのですが、読み返すと森岡師匠が直接言っているわけではありませんでした。師匠が最終チェックを行い、また師匠のブログで大々的な紹介がなされている大阪府立大学大学院の人間社会学研究科の「女性専用車両の学際的研究 性暴力としての痴漢犯罪とアクセス権の保障」というレポート、恐らく師匠が指導したと想像できるものの記述です。
「フェミニズムは男性の性欲を批判してきた云々」といった文章の脚注として、

また、ここでの「男性」とは、性差別(社会的男性の優位性・女性の劣位性)の存在する社会において、男性として身体的に範疇化されていることからその優位性を当然のこととし、それを根拠に(またそのような社会体制を維持するために)女性を搾取する集団を指す。

 などと書いている非道いものです。
*4 男性権力の神話 《男性差別》の可視化と撤廃のための学問(その2)