
ドラは俺に何も言ってはくれない。教えてくれエーフー!
というわけで劇場版『ドラえもん』感想のコーナーでございます。
一応ネタバレなし。まずい部分は○と伏せ字で表現しています。
では、そういうことで。
いや、面白かったです、今回。
そもそも藤子・F・不二雄原理主義者のぼくにとって、基本、アニメ版なり何なりには点が辛いです。毎年の映画版も、あまり高得点をつけることはありません。
去年の『地球交響楽』も、世間的評価は高いですが、あまりキャラに感情移入できませんでした。
一昨年の『空の理想郷』は明らかな駄作。全体主義国家をテーマとし、(子供たちをさらってくるというモチーフから)Colaboがテーマとも言えた作品ですが、残念ながら意あって力足らず。
比較的近年で評価の高い『月面探査記』もぼくとしては低評価。やはり「ゲストキャラとの友情」などに感情移入できなかったことに加え、好みの問題とは言え、「異説倶楽部メンバーズバッチ」という「とっておき」というしかない道具を前面に押し出した作品にもかかわらず、そこで期待してしまう面白味を一切、提示してくれなかった。ぶっちゃけ、F作品でこれはなあとしか。最強怪獣を出しながら全然暴れさせない『ウルトラマン』みたいなものです。
――さて、本作品。
今回のヒロインは、クレア姫というのび太たちよりもかなり幼い少女です。
彼女が○だったというのはなかなかやられたという感じでしたし、もっともその後あんまりにもすぐ、○って来るのはどうかと思うのですが、そこはまあ、しょうがないかなあとも。それにその展開も理屈がつけられ、全然ご都合主義になっていないのはエラい。
ちょっと不満だったのはあのイケメンキャラで、恐らく「お母さんのための、一般的に知名度のあるイケメンタレント起用」枠。その弊害でちょっと芝居がよくないなあと。ただ、これは「ドジっ子」として描かれており、そこはいいかなと感じました。ぼくが思うにイケメンの所属事務所は当然、「いい役で出せ」と言って来たはずで、そこを演技がヘボなので作り手も急遽「ドジっ子」として演出、しかし事務所に難癖つけられないよう、その「ドジっ子」ぶりもギリギリ明示されないレベルで描かれた、とそんな事情だったんではないかと。ただ、だったらそこははっきりと「頼りにならないなあ」といったふうに描いた方が親しみも感じさせ、子供の受けもよかったと思うんですが。
悪役のあの人は、絶対大塚周夫辺りがアテるべきキャラですが、演技はもうちょい。やはりお笑いタレント枠かな。
画家志望であったパパの使い方も決してひけらかすでもなく、好印象。オチの小技(テレビニュースの下りです)もいかにもFテイスト。外注ライターのマスターベーションではなく、F愛に満ちた脚本だったと思います。
とまー、いろいろ書きましたが、一番重要なのは先にも書いたクレア姫がちゃんとこちらの感情を揺さぶってくれ、魅力あるキャラとして描かれた点。
これは明らかに前作のゲストキャラであった「幼女」が受けたので、そこをプッシュしようという意図があったと思われます。
が、前作以上にクレアは生き生きと描かれていました。現代社会へと放り出され、自分の世界との様子の違いに驚くというシーンの軽快な演出で、一挙にこちらの心を鷲掴みにする辺りは見事。そして、それ以降も基本、このクレアが物語の中心となり、話をぐいぐいと牽引していくことになるわけです。
上にもあるように従来、のび太たちと「ゲストキャラとの友情」がどうしても重視されていたのに対し、あくまで本作はクレアの物語と割り切り、話としてはクレアと(幼なじみである)画家の少年との交流がメインにしたことが特徴的です。のび太やドラえもんたちは今回、助っ人として割り切った感じです。
「異世界の友人との束の間の友情」というのももちろん、テーマとしては決して悪くありませんが、ある種のマンネリは避けられないし、そこをなおざりに描くとクライマックスで「友だちじゃないか!」といくら言っても空々しい。結果、(前作の幼女が受けたという追い風もあり)ゲスト中心の作劇が考えられたのでしょう。
さて、ともあれ面白い作品で、そこに何の不満もありません。
上にあるようにFテイストをちゃんと押さえているという点でも好ましい作です。
ただ……ここでぼくは八〇年代のオタク文化黎明期以降、ずっとドラマの中心は「女の子」が担っていたという傾向について、思いを馳せずにはおれません。
大雑把にまとめるなら、六〇年代辺りの白黒アニメなどの頃は少年ヒーローが盛んでした。彼らは例えば銃を持つ、車を運転するなど「小型の大人」として描かれ、実のところ大人と子供の境界はそこまでありませんでした(『ドラえもん』についてFが「大人の介入を認めない」作品であると述べているのと対照的です)。
七〇年代辺りの学生運動、政治の季節の頃から、「若者」がヒーローとなります。『ウルトラマン』でも「地球防衛軍の上層部という名の親」に反抗するといったテーマが描かれるようになりました。
八〇年代に空前の『ドラえもん』ブームが巻き起こったのは、男の子が目指す目標が失われたがため、のび太という「何もしない世代」が支持を得たからということがいえましょう。この頃黎明期を迎えつつあったオタク文化では(やはり、主体足り得なくなった男の子たちの代わりに)女の子がヒーローとして活躍しました(あ、ムツカしい文章では「戦闘美少女」と書かねばならんのでしたっけ?)。
もっとも、この女の子はあくまで男の子たちの「理想的自己像」としての少女像だったのですが、九〇年代になると「ホンモノのオンナノコ」がヒーローとなり、〇年代以降はテレビドラマで結構妙齢な女性が、何か、活躍するドラマが受けるといった、男性からすると微妙な事態に。
これは例えば、『セーラームーン』がまず、オタク少年が量産していた「美少女ヒーロー」を女性側が「簒奪」することで生まれ、しかしそれを世間が「若い女性が描いた強い女性像」として見ていて退くほどの持ち上げ方をした、という経緯が象徴しています。
そしてそれはいつも言う通り、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』などにおいて、オタクが自身の理想像を美少女に仮託して描いているうちに、それに乗っかった女性クリエイターが「自身をモデルにしたオタク女が主人公のコンテンツ」を描き出し、世に溢れるようになったという形で、リプレイされました。
もちろん、現代社会における男性の身の置きどころのなさを考えれば、これは仕方ないというならば仕方ないことでしょう。
『セラムン』は(ことにアニメは)優れた作品であり、上のような理由からけしからぬ、といいたいわけではありません(ただ、美少女戦士たちは今見返すとちょっと驚くほどのビッチどもで、ここでセーラーマーキュリーが男の子たちの支持を一手に集めたのは、比喩的に言えば、彼女だけは作り手が男の子たちに「残してくれた」枠だったからなのだ、と言えます)。
ただ、とにもかくにも八〇年代、男の子は「なすべきこと」がなくなり、主役の座を女の子に明け渡した。
しかしだからこそ逆説的に、『ドラえもん』という「何もしない男の子」の物語が当時、絶大なブームを巻き起こしたのです。
よく言うように、『ドラえもん』の主役はあくまでのび太で、本作は「のび太の私小説」であり、なすべきことのない、弱い男の子は幸福になれるのかをテーマにした作品でした。
そこで何もしようとしないのび太の欲望を表面化させるガジェットとして、「ひみつ道具」は存在していました。作品のほとんどがのび太が外界から帰ってきて、部屋にいたドラえもんが迎える、という構造であることが象徴するように、『ドラえもん』そのものがのび太が「もしこんなことができたら」と夢想している、妄想の物語であるとも言い得る。しずかちゃんが「トロフィーワイフ」だと批判されたりもしますが、「男の子の妄想世界の話だからしょうがない」のです。
……さて、ところが、です。
男の子に「モチベ」がなくなったのでしょうことなしに「ひみつ道具」でそれを引き出すという実験を繰り返していた本作が、今回の映画でとうとう女の子に「簒奪」されてしまったわけです。
クレアというのは強烈な自我と明確な目的意識とをもって、物語を誘導していく、本来の活劇の主役としてふさわしいキャラでしたから。
いえ、もちろん、本作は『映画ドラえもん』です。
原作を見ても、通常の『ドラえもん』と映画版(厳密には映画の原作となる漫画)である『大長編ドラえもん』はまた完全に構造の異なった作品として描かれていました。
後者は何しろ活劇ですから、のび太以外のキャラにもスポットが当たります。だからジャイアンはいいヤツになるし、のび太も「映画になると格好いいことを言う」のです。
だから別に、本作がけしからぬといっているわけでは全くない。
ただ、それにしても、やっぱり、ぼくにはこれが「弱い男の子の私小説」が少しずつ解体されていく現場であるかのように思われるのです。
それはこの十年ずっと、進行してきた事態であり、「ああ、ここでもか」と心の片隅で思わずにはおれないわけなのです。