
男性ヘイトの旗手、藤田直哉師匠の記事が更新されておりました。今回はそのレビューです。
なるべく簡単に……と思っていたのですが、長くなってしまいました。師匠の文章は煩瑣で難渋で雑然としており、『ハルヒ』くらいに順序の混乱が見られ、『ハルヒ』くらい内容の繰り返しが多く、読んでいて頭がおかしくなりそうで、もう書かれた順番通りにツッコんでいくしかないのです。
さて、そう言いつつもまず最初に。
この種の「弱者男性憎悪クラスタ」とでも「男性学クラスタ」とでも「フェミの走狗」とでも称するべき人たち、具体的には白饅頭、ベンジャミン・クリッツァー、橘玲などに対し、ぼくがここしばらくずっと言っていることがありました。
何だか彼等の間で進化心理学とやらが爆発的ブームを起こしていて、例えば男女の性差などについて肯定的に述べる傾向が大になっている。それそのものは結構だが、ならばフェミニズムなど虚妄の極みとするしかないはずなのにもかかわらず、何故だかそこは見えていない。
要するに正義側と悪側にリモコンで操作され、立ち往生している鉄人28号のような様相を呈している、という感じなのですね。
例えば今回の記事で藤田師匠は「80:20の法則」、「負の性欲」、「暴力性モテ」、「ただしイケメンに限る」などの、言うならアンフェ論壇における論理を俎上に載せます。
「80:20の法則」というのは、女は上位二割の男のことしか見えていない、そうした男のみを求めるというもので、師匠はこれを進化心理学的に見て女はよい遺伝子を求める傾向があるからと(そしてまたそうした実験結果もあるからと)、正しいとして首肯するのです。その意味で、「ただしイケメンに限る」もある程度の真実との評価を下しています。
もっともそれに続き、「負の性欲」についてのデマを、相変わらず飛ばしているのには頭を抱えました。
師匠にとって「負の性欲」とはただ「女性が性的魅力のない男性に好意を抱かれることに強い嫌悪を抱くこと」であると認識されています。こんなの、「万有引力の法則」を「ニュートンが木からリンゴが落ちるのを見て、不思議に思ったこと」と説明するようなものです。この概念の真意は、出てきた当初から、非常にわかりやすく説明されているのですが、フェミ界隈の人はそれを、絶対に理解しようとはしません。
少々余談になりますが、考えてみてください、例えば子供に対して「万有引力」を上のように説明したとしたら、しかる後、「エーテル理論」を吹き込むことが容易になるのです。エーテル理論というのは自然科学が発達する以前の考えで、宇宙にはエーテルという物質が満ちており、リンゴが落ちるのもエーテルに流されている(木の葉が水に流されるようなもの)と説明するものです。即ち、科学を教えているフリをして、オカルトを刷り込むことが可能なわけです。
まあ、そうした「悪の組織の作戦」についての説明はひとまず措いて、先を続けましょう。
ともあれ僅かと言えど上の概念を認めてしまえば、フェミニズムはもう木っ端微塵に吹き飛ぶことは自明です。
事実師匠も以下のように続けています。
女性にこのような性質がある以上、繁殖戦略=モテようとするため、男性は「強者」「格上」になろうとする。(中略)これが、前回論じた「競争」を生み、「男性性」の構築に関連していることは明らかであろうと思う。それは、男女の繁殖戦略の「共進化」によって生まれてきたという側面がある。
そう、フェミ共が「有害な男性性」とほざくものも、元を正せば女が強い男を求めるからであり、女に責任がないとは言えないのだと、師匠は続けます。
まさにおっしゃる通り。ぼくが十五年前に既に言っていたことですが、ともあれこれで師匠はフェミから卒業できるはずです。
おめでとう! おめでとう! おめでとう!
フェミに、さようなら。アンフェに、ありがとう。
そして全てのリベラルに、おめでとう。
しかし、それで女性を責めたり、見下したり、操作し詐欺的に搾取したり、フェミニズム・リベラリズムを否定するような方向を主張するところが間違っているのではないかと思われる。
れれっ!?
何でそうなるんでしょう?
アンフェが何もしてない女性に殴りかかっているのなら問題でしょうが、おかしな意見を述べる女性やフェミ、フェミの走狗として長年男性を攻撃し続けて来たリベラルが批判されるのは当たり前でしょう。
「操作し詐欺的に搾取したり」というのは(師匠がアンフェと一体だと深く信じる)恋愛工学クラスタのことを指しているのですが、それですら性行為を強制したりといったことは(ぼくも詳しくは知らないのですが)していないはずで、ぶっちゃけそっちについては女性が自衛するしかない。しかしそれはフェミ的には絶対にあってはならないことなのです。女性が素っ裸で闊歩しても襲われない世界を作れというのがフェミなのですから。
さて、ところが「産業構造と恋愛・性愛・結婚の変化」という節からは話ががらりと変わります。
要するに(面倒なので思い切りはしょりますが)「一夫一婦制は決して普遍的じゃないんだよ~ん、昔はフリーセックスだったんだよ~ん」という内容です。
……否、師匠はここで驚くべき裏技を繰り出します。
形式的には一夫一婦制が維持されている国の多くでも、実質的に富裕層は一夫多妻制になっている。ここで「一夫多妻」とは、時間差で結婚したり、妾や愛人を持ったり、性風俗、パパ活、売春などを利用することを指して言っている。
既に日本も一夫多妻制の社会になっていたんだよ!
な……何だってーーーーーー!?
往年の宮台真司師匠などを見てもわかるように、フリーセックスを称揚するのは左派のお約束です(ならば今のフェミがポルノなどに噛みつくことを藤田師匠がどう考えているか疑問が湧きますが、きっと何も考えてません)。
愛人だ買春だは一夫一婦制の陰としてずっと存在していたわけで、それを今さらドヤ顔で持ち出されても困るのですが、師匠にとって、現代の日本の状況は以下のようなものとして認識されています。
「一夫多妻制が広まると売春婦への需要が増し、サービスの値段はつり上がっていきます。すると結婚しているよりも売春婦になった方がよいと考える女性が増えます」(p150)。そして男が余る。それが、日本でも起こっている現状ではないかと思われる。
(括弧内はレナ・エドランドとイブリン・コーンの著作からの引用らしいのですが、呆れたことに書名は書かれていません)
男があぶれる理由は、「男性間の不平等」、つまり格差拡大なのだ。
とも指摘され、それ自体は正しいでしょうが、ならば女性差別など嘘だったわけで、アンチフェミの言い分が正しいじゃないかと思っていると、師匠もまた、「女性はむしろ一夫一婦を望むことが多」いと正しく認識しています。
じゃあ、今の状況は誰も得をしないじゃん!
更に師匠は、高学歴高収入の女たちは(男たちは女たちに対し、そうしたスペックを求めないがため)低学歴定収入の女たちとも争わねばならない、努力の甲斐のない戦いを強いられている、とも指摘します。ここまで来ればフェミが女性の社会進出をさせたことが全て悪いとなるはずなのですが、どういうわけか師匠はここで話をすり替えます。
カジュアルセックスを好む男性たちにいいようにされ傷つけられる女性が増大し、その憎悪や怨嗟がネットに溢れることを帰結する。そしてそれが「男性」一般と混同されることで、その恩恵を受けていない下位の者が、してもいないことを非難され傷つき苦しむことになる。
女が上層男子にされたことの責を下層男子に負わせるという、ネットで常に見る光景を正しく指摘しています(ただしそうした「上層男子に傷つけられた怨嗟を吐く女性」というのを、ぼくは見たことがありません。あるのは萌えキャラに文句をつける女か、本当にあったか疑わしい、或いはそもそもどこがセクハラなのか理解できないセクハラに憤る女性の声ばかりなのですが、師匠は自説のため、前提の事実を捏造しているのです)。
更に文章は以下のように続いているのですが、本当でしょうかね。
そこで「上昇婚」をせず、学歴や収入などで自分に劣る男性とパートナーになるケースが増えているという。
そうした革命的変化が起きているとのことで、もし本当なら全ての問題が解決し、めでたしめでたしなのですが……どういうわけか、それに続けて師匠はマリナ・アドシェイドの『セックスと恋愛の経済学』を引用します。
こうした貧しい男たちを宥めるためには単婚を法制化した方が有利なのです」(p143)
れれっ!?
「一夫一婦制にすることによって最下段の最も貧しい男は幸せになります。女性が結婚したければ彼とくっつく以外になくなるからです。一方、彼女はできればもっと豊かな男の妻になりたいのはやまやまなので不幸になります」(p147)。
あれあれ、先には「女は一夫一婦制を望む」と書いていたのに、もう忘れたようです。
そもそも女ってそんなに売春婦やいただき女子になりたいんですかね(それらの中のアルファに憧れるということはありましょうが、それはあくまで一握りです)。
そんなのに比べ、男に生活を保障され、家庭という「領地」を与えられる主婦にこそ、女性が憧れてきたことは、データからも明らかです。
これまでは女性にそれを強いてきた。そして、そこから女性を解放してきたのが、フェミニズムの歴史である。
はい、フェミとは女性を結婚から解放して売春婦や愛人にしてあげた、正義の味方だったのでした~~!!
もちろん当noteをずっとお読みの方は、「確かにフェミは主婦をつぶそうとしている」ことをご理解いただいているでしょうし、また左方面のお歴々は後半の「売春婦や愛人」の辺りを見てえびす顔になっていらっしゃるでしょうが。
ともあれ、師匠には現代の日本がフェミニストの御心に敵った素晴らしい社会であると認識されており、「しかしそれに不満を抱く弱者男性どもがテロを起こしかねない、困ったね」というのがこの連載を貫く問題意識だったのでした。
さて、また話がコロッと変わります。
デートで奢るか奢らないか、サイゼリアでいいかどうかも、セックスを巡るコストが男性にとって増大していることの不満、エロティック・キャピタルの領域において男女が平等ではないことが不可視化されていることに対する平等要求だと言って良い。そのことは、真剣に考える価値があるのではないだろうか。
要は男が男女不平等(女性の方が有利であること)について怒っているのは当然だとの指摘で、これまた頷くしかないもの。
ところが以降、本稿には「ダークな性格」という概念が導入されます。何のことはない、利己的で搾取的な人物を指す言葉ですが、まあ、「サイコパス」とでも理解していいかと思います。事実、この概念を説明する中に「サイコパシー」との言葉も登場します(「サイコパス」と「サイコパシー」とがどう違うのかは本稿にも説明がないし、面倒なので調べません)。
もっとも女にも(いただき女子など)ダークな性格なものはおり、要するに「悪いのは一部の『ダークな性格』の者だけだよ~ん、弱者男性諸君は間違えちゃいけないよ~ん」というのが師匠の主張。もちろん正論であり、その「ダークな性格」な者の中にフェミもカウントするんであれば、もっと尊敬するのですが……。
いえ、師匠はここで驚くべきことに「草津のケース」を挙げているのです。それにもかかわらず「フェミに逆らうことはまかりならん」などとほざける師匠の感性が、ぼくには理解できません。
――さて、次にまた話が「暴力性モテ」は本当か、との議題に戻ります。
これは真実だろうか? 「バカ」と見下すミソジニーは賛同しないが、悲しいことに、バスによると、どうもこれは真実の一端を捉えているようだ。それを「悪い男」パラドックスと呼ぶ。
はぁ!?
要するに師匠がミソジニーとして退けようとしている者が正しい、ってことです。
「バカ」と呼ぶかどうかはマナーとか人格の問題で、認識は正しいとするしかないでしょう。
ちなみにバスとは『有害な男性のふるまい』の著者、デヴィッド・M・バスのことで、以降も同書を引用し、「暴力性モテ」が真であることが述べられます。一方、そうした(恋愛工学的)行為を繰り返す男は、女を機械のような存在として見下しがちいなるのだとも。こうなるとどう考えても弱者男性に罪はないはずで、師匠も「弱者男性」や「オタク」は性加害を犯さないと太鼓判を押しています(もっとも師匠の中では「恋愛工学クラスタ」≒「弱者男性」と認識されているはずで、本稿でもそこをつなげようとして、うっかり忘れたのかも知れませんが……)。
が、本稿の真価が発揮されるのはここからで、これに続き、師匠は「要するに『ダークな性格』の強者男性が男女共の敵なのだから、強者男性に立ち向かえ」との結論をとってつけます。
いや、「性加害」を犯した男は悪いでしょうが、同時に「草津のケース」を見ても冤罪という名の「性加害」を犯す女もいることは否定できない。また、繰り返すように恋愛工学的な方法論は褒められたものでなくとも強制はないのだ(ろう)から、仮に女が内省するでもなく弱者男性にその責を押しつけているのだとしたら(そうしているのだと師匠も言っているのだから)そりゃ女は最低ってことになりますって。
まとめです。師匠は以下のように言います。
ネット上のミソジニックな怒りの中には、置き去りにされ、見捨てられた感覚があることが多い。
笑ってしまうのはそれに以下のように続くことです。
そして、女性が男性を粗末に扱うなら女性は相手にせず二次元美少女を愛する、などと言う滑稽に見える意見は、後者なのだと理解すれば腑に落ちる。
そうなんだw
二次元美少女って、単に三次元の女を恫喝するためだけに作られた存在だったんですねw ぼくたちは「本当は女が欲しくてならず、女に振り向いて欲しくて二次元美少女に萌えるフリをしている」だけだったんだよ!!
な……何だってーーーーーー!?
本稿の最大の特徴は、藤田師匠の恣意的な結論につなげるため、前提となる認識が極めて歪んでいるところにあります。このつまらぬ言いがかりも、近年のアンチフェミが元はと言えば萌えキャラのキャンセルへの抵抗から広がったものであることを、隠蔽しようという意図があるのではないかと想像したくなります。
最後は「ダークな性格」の者を救おう、じゃなきゃ戦争が起こるよ~ん、みたいなハナシになりますが、まあその辺はパス(イーロン回を思い出せばまあ、お察しですよね)。
かなり文字数の割かれている「ダークな性格」は要するに「男女共に悪質なヤツっているよね」と言っているだけで、もう、何も言っていないのといっしょ。ぶっちゃけ「有害な男性性」に言及した、つまりジェンダーに即したダークさがあると指摘したフェミの方がなんぼかマシです(フェミの問題は「有害な女性性」が「ない」との通念を利用して社会を破壊してきたことでした)。
逆に言えばこれは、現状でフェミを正当化するには「フェミ以前」に戻る以外に手はない、ということでもあるのですが。
また、そもそも、許より、一体に、藤田師匠の問題点は、ただひたすらに「非モテ」に拘泥し、近年の「女性に近づくのは危険」とのアンチフェミの論調から、全力で目を逸らしている点にあります。
先にも端々で指摘したように、師匠は最初からしつらえられた結論(フェミは正しい)へと持っていくために、前提となる事実をあちこちで捻じ曲げているのです。
相も変わらず、弱者男性が「女をあてがえ論」を主張しているとの(今までに実例が一つとして発見されたことのない)前提を自明視しているところからも、それは窺えますね。
師匠たちは進化心理学を援用し、性差を認めるなど、確かにアップデートの気配も見られます。が、そんな撤退戦にあたふたしている間にもアンチフェミばかりか世論も、とっくに次のステージへと移っているのでした。
めでたしめでたし。