
さて、今回はウィックジェイ氏への反論です。
同氏は左派系アンチフェミと称するべき方で、前回の動画で彼の主張について批判的に採り挙げました。
ちなみに動画はサブチャンネルにもうpしたので、未見の方はそっちをご覧ください。
と、それについてnoteで反論をいただいたのです。
随分丁寧に動画を読み込んで、しかも「挑戦」までされた以上、無視もできないので、今回はそれです。
一応、未読でもわかるように書くつもりですが、できればウィックジェイ氏の記事をまず、ご覧になってからお読みいただくことを推からお読みいただくことを推奨します。
肝心の内容については、あまり時間も取れないので、順次反論していくことにしましょう。
では、そういうことで……。
まずぼくの「フェミニスト」の用法が広すぎる、という指摘がありましたが、それは単純な誤読かと思います。
ぼくが動画で言ったのは、あくまで「ジェンダー」そのものが不幸の源泉だとして取り除こうとする、その雑に患部を切り取っちゃうような方法論がフェミといっしょだ、ということで、例えば白饅頭を「フェミの手先だ」と言っているように「ウィックジェイもフェミの手先だ」と言っているわけじゃないってことです。
また、どうもぼくは(小山晃弘氏のアンチフェミ分類における)「①平等主義からのフェミニズム批判」「②自由主義からのフェミニズム批判」などを主張する論客をフェミニスト呼ばわりしていることにされてしまっていますが、それもちょっと言いがかりと言う他ない。
ぼくが白饅頭やら何やらをフェミニスト呼ばわりしているのは、彼らが平等主義、自由主義を唱えているからなどではなく、彼らがあくまでフェミニストの手先だから、なのですから。
その意味でこの小山氏の分類も、必ずしも適切とは言えない。ぼくはここで「③伝統主義・共同体主義からのフェミニズム批判」にカテゴライズされているのでしょうが、ぼくの言い分は③という「手段」の方が①や②の「思想」を実現させるのにまだしも敵っている、ということなのだから(「伝統主義を守るべきだから」という「べき論」を主張する人は、この界隈ではほとんどいないでしょう)。
ウィックジェイ氏は現状を「平等・自由主義的な疑念からフェミニズム批判を志した人は少なからずいましたが、ことごとく伝統主義的な批判論に飲み込まれ、転向していっ」たという「見方」をしていますが、これはこの分類の不適切さを象徴していて、実際には①、②のスタンスを取っている人が必然的に③という方法論に行き着いただけでしょう。
要は見ていると、①、②と③とが何か対立的なものででもあるかのように思えることが、先の分類の問題点であると言えます。
ぼくの議論に対しての批判は、「多くの女性は家庭に入ることを望んでいるのだから、結局旧来のジェンダー観こそが“正解”としか思えない」という発想しかしておらず、社会の持続性について考えていないというものでしたが、これも随分持って回った言いがかりです。
ここ数十年の多くの女性たちの望みを蔑ろにした社会実験が、社会の持続性を危うくしたことはもう、わかってるんだから。大衆の感覚を無視しての強攻策というシャアみたいなやり方は、通用しないんです。
「ヘテロセクシズムがけしからん」みたいな「べき論」を続けながら、ぼくの意見に唱和してくれるのも、極めて奇妙です。
ただ、確かにこのような「旧来のジェンダーやセクシャリティ」の否定は、そのまま「欲望の否定」につながりかねないということは、留意しなければなりません。
ここはもちろん、大賛成なんですが、上の「ヘテロセクシズムがけしからん」と単純に矛盾してますよね。この辺の基準がわからない。
フェミもまたジェンダーフリーを実に恣意的に、自分の好きな部分にだけ適用するという過ちを犯していましたが、その轍を踏んでいるんじゃないでしょうか。
Point Of No Returnはもうとっくに過ぎたのだよ、唯人君。
という節タイトルに対しては、「何かそういうデータあるんですか」としか。
「事態は緊急を要する」と言われればぼくもそういう気はしますが、明確なポイントを明確に見極めることができるんでしょうか。そこを何か「革命だーー!!」みたいなことを叫びたいがために「今年の七月五日に地震が起こる!」とか言いたがる人が一定層、いるんです。そういうことを言うのは気持ちがいいことみたいですが(言ったことがないのでよくわからんのですが)、大衆の気持ちがついてくるかどうか、そういう人はあんまり考えてない。シャアの独りよがりになりがちなんです。
ジェンダー回帰そのものに対する批判は、仮になし得ても、それがフェミに「丸め込まれる」からダメだ、というものになっているけれども、どうにも意味不明です。
他にもフェミが邪魔するぞという箇所がありますが、それってもう敗北宣言でしょ。まずジェンダー回帰をするということはほぼほぼ「フェミの力を削ぐ」ということと同義であり、仮に「フェミは未来永劫栄える」のであればもう、何やったってムダとしか。
また旧来のジェンダーを「社会の中で取り戻さずとも、謳歌する」ことはできるというのも、何が何だかわからない。一人ひとりのジェンダー観が変われば、社会全体のそれも変わるに決まってるでしょ。先にも「兵頭が個々の女性の思惑ばかりをモンダイにしている」といった旨の批判がありましたが、これは逆にウィックジェイ氏が民意を無視した「社会の改革」というシステム上の操作ばかりをやりたがっているが故の誤謬であると、ぼくには思えます。これって本当に、男性論者の病気なんですが。
また、この「丸め込まれる」という表現は或いは、「(そうなったらそうなったで)女性ジェンダーの旨味を悪用されるぞ」という意味かも知れませんが、そりゃ当たり前ですよ。それはご自身が指摘しているように今も進行中であり、全くのゼロにはできない、しかしならばかつての方がまだしもマシ、というぼくの主張を、まるでご理解いただけてないように思います。
(一体にネット論客様はフェミニズムと一般の女をごっちゃにする傾向があります。しかし「ツイフェミ」とやらのその場の情緒の垂れ流しとフェミ「ニズム」という「本になっている何か、思想っぽい体裁を整えているもの」とは、常に区別して考えるべきです)
モンダイの「女性から女の妊孕性を奪う」という戦略について、ぼくは以下のように言いました。
一億歩譲って技術的に可能になったとして、じゃあ政治的(倫理的)にそれを通せるのかとか、全然考えてないですよね。
このツッコミに対し、しかし今回、「考えている」と言いつつ、提出されたのは「出資しよう」とか「おベンキョして技術を開発しよう」とかで、これは悪いけど「ぎゃふん」としか。単純にこれ、「みんなでガンバロウ」って言ってるだけですよ。
いや、技術や資金については「ガンバロウ」という方法論が提示されているが、政治的倫理的問題については語られていない。回答がなされてないんです。
先には「ジェンダー回帰はフェミに反発される」とありましたが、それよりも人工子宮なり何なりの方が何千、何万倍も「大衆」から反対されるでしょう。
社会のシステムをとにもかくにも変えたいとの野心に取り憑かれ、そうした大衆への視点を忘れるというのはフェミの得意技であり(共産主義の時もそうでしたよね、リクツは正しいかも知らんがという)、賛同するわけにはいかないんですよ。
ちょっと先走ってウィックジェイ氏の考え方そのものを上から目線で批評するような内容になってしまいましたが、見ていて感じたのは、最初に想定した結論へと持っていくため、いくつもいくつも無理を犯しているのではないかということです。
そこにはリクツを捻る楽しさはあるけれども、「大衆が着いてくるか」、「人間の感覚がそれを受け容れるか」という視点がどうにも欠落している。
一度、もうちょっと現実に足をつけた上で、先の戦略について問題点をリストアップしてみてはいかがでしょうか。でなければ、おっしゃることは空論の域を出ませんよ。