五体不満足

「フェミニストはオタクの味方だ、表現の自由を守る同士だ!」としつこくしつこく言い続けてきたリベラルの皆様、上野千鶴子師匠が「風俗は完全になくすべきだ」と絶叫なさっている件について何か言及なさいましたか?
 きっと、スルーでしょうね。
 お気楽な商売で羨ましゅうございます。

 さて、そんなマクラ(……?)とは何の関係もなく。
 乙武問題について。
 いや……乙武問題もマクラですけどね。
 乙武さんのイタリアンレストランの入店拒否問題。
 これはいろいろ余波があって、(みなさんの方が詳しくご存じでしょうが)彼が言い訳半分に「海外ではレストランの検索サイトで『車椅子で行けるかどうか』が条件検索できるのに、日本ではできない」などと言ったものの、日本でもそうしたサービスがあることが即座にバレるとか、何だか火消しをしようとすればするほど延焼という感じで、端から見る分には不謹慎ですが「面白い」状況にあります。
 が、ぼく自身はそこまで乙武さんを叩く気にはなれないのです。
 第一に、結局はレストランの店長とのやり取りがどんなものであったか、その場にいないことには判断のしようがない点。店長の言い分は正論だとは思いますが、ひょっとするとものすごい嫌味な口調でいわれてムカついたのかも知れない。まあ乙武の方が明らかに根性は悪そうだけれども、こういうのは売り言葉に買い言葉で泥沼化していくものですし。
 第二に、ツイッターが「バカ発見器」といわれてるように、そりゃ誰だってこんなツールがあれば「左翼のクソバカ」とか「スマイルプリキュア」とか「敵の表現の自由は徹底的に圧殺」とか、いろいろとついつい言っちゃうよなあと。その意味で、こうした失言には少しばかり同情的になってしまいます。むろん、そのせいでイタリアンの店長が嫌がらせを受けているとのことですから、そっちの方がよっぽど可哀想とも思うのですが、結局一番タチが悪いのは騒ぎすぎる第三者だよなあとも思うのです。
 第三に、これは感覚の問題ですが、ぼくは以前から乙武さんに「暴言を吐くムカつく障害者」みたいなイメージを持っておりました。実際、結構失言をしてを叩かれている人でもありますし。本件は「弱者を自称する者の欺瞞」といった、言わばぼくの大好物のネタではあるのですが、同時に乙武さんは「力を持った障害者」としての地位をとっくに確立していた存在と言え、叩くことに今更感を持ってしまうのです(逆に「裏乙武」的な、偽悪家みたいな路線で登場したホーキング青山氏はちょっと……というイメージを持っているのですが)。
 そう、結局は「乙武なんて最初っからみんな、強者扱いしてたじゃん」という点が、今回の乙武叩きに対して、ぼくがそれほど乗れない原因である、と言えるかも知れません。
 それは意地悪な見方をすれば、「障害者の“クセに”恵まれやがって」という妬み嫉みを持つ者が、以前より彼の失言を手ぐすね引いて待っていた、とも取れましょうが、更に言えば「安心して叩けるほどに強者な障害者がいる」というこの社会、そんなに悪いものでもない気もします。
 それは彼の

 お恥ずかしい話だが、自分で店を予約する際、あまりバリアフリー状況を下調べしたことがない。さらに、店舗に対して、こちらが車いすであることを伝えたことも記憶にない。それは、とくにポリシーがあってそうしているわけではなく、これまで困ったことがなかったのだ。

 といった発言にも端的に表れていて、「そんくらいバリアフリーな社会だからこそ生じた問題で、俺らが恵まれてる証拠じゃん」とも思ってしまうわけです。
 ただむろん、上の発言が事実かどうかはわかりません。
 ぼくが度々引用する評論家の小浜逸郎さんは名著『「弱者」とは誰か』の中で『五体不満足』を評して、「素晴らしい本ではあるが、『明るい障害者本』というコンセプトに振り回された本でもある」と述べています。
『五体不満足』の中には「障害者として生きていて蔑まれれたりして不快に感じたことは今まで一度もない」といった記述があるのにもかかわらず、別な箇所には「他人に自らの姿を奇異の目で見られて傷ついた」経験が書かれていたりして、矛盾ではないかとか、或いは乙武さんの母親は彼を産んだ時、その姿を初めて見て、ただ「可愛い」と思っただけで障害について悲しむことは下より、何ら気にも留めなかった、といった記述があるのだけれども、さすがにそれは盛ってるんじゃないかとか、そうした指摘を、小浜氏はしていました(これは記憶で書いています。主旨は間違っていないはずですが、細かい点で差違があるかも知れません)。
 ぼくは実のところ『五体不満足』そのものも読んだことがなく、乙武氏について詳しく知っているわけではないのですが、彼は明らかに「ものすごく恵まれた障害者」であるか、或いは「そうしたキャラ付けを、戦略としてし続けてきた」かのどちらかだと思われるのです。
「障害者が健常者と変わらぬ明るい生活のできる社会を」とでもいったコンセプトを過剰に体現することを意図して、また周囲からも望まれて、彼は立ち現れた。
 今回の事件は、そこに生じた小さな綻びです。
 だからぼくが本件を見ていて感じたのは、ある意味では乙武さんの擁護派もバッシング派も似たようなものだと言うこと。
 それは言ってみればアイドル声優の○○ちゃんのスキャンダルが発覚した時のようなもので、「あれは嘘だ! ○○ちゃんは処女だ!」と言っている側も「裏切り者め! 処女膜から声が出ていない!」と言っている側も、何だかいっしょじゃん、と感じてしまうのに近い。
 言ってみれば乙武さんは処女ドルだったわけです。「バリアフリー社会に生きる、明るい障害者」という名の。

 すみません、いつまで経っても話が本筋に入りませんね。
 要するに、「障害者が不幸」と決めつけるのもよくないけど、「明るい障害者」を強いられるのも大変だよなと。障害そのものはネガティビティなのだから、過度に明るさを求めるのってどうなんだと。
 でもぼくたちは、ぶっちゃけ彼のことを担いで階段を上がるのも面倒だし、テレビでニコニコしている彼だけを見ていたいよなと。
「バリアフリー社会の伝道者としての、明るい障害者」というのは、そうしたぼくらの「後ろめたさを誤魔化すため」に用意された、お気楽な存在でもあると同時に、障害者側の「一般ピープルといっしょになりたい」との身を焦がすような感情が生んだ存在でもあるでしょう。
 そしてそれに近しい構造を持つのが、セクシャルマイノリティを巡る諸相なのではないかと、ぼくはちょっと思ったのです。
 ここでもぼくは幾度も、セクシャルマイノリティに辛辣なことを書いてきました。
 読んでくださっている方の中にもそっち方面の方がいるようで、申し訳ないなあと思いつつも、とは言え、今更方向転換もできず、今回も悪口めいたことを書いてしまいますが、ぶっちゃけホモやオカマがフェミニストの手先として送り込まれてきた裏には、ぼくたちが「明るい障害者」を望む心理、そして障害者が「一般ピープルと共に生きられるバリアフリーな社会」を望む心理と似たメカニズムがあったように思います。
 彼らは多くの場合、フェミニズムを唱えながら「ヘテロセクシズム社会」の糾弾者としてぼくたちの前に立ち現れます。
 彼らのネガティビティは「ホモを嫌悪するヘテロ男性の差別意識」が原因だそうです。だから「ホモやオカマを受け容れる」のはぼくたち、シスジェンダーへテロ男性の仕事です。シスジェンダーというのはよくわかりませんが、「男性ジェンダーというけしからぬものを備えた男性」のことを指すようです。
 専ら「ホモやオカマを差別する悪」として糾弾されるのは一般の男性側、女性たちはそれらに責任がないため、BL漫画を読む腐女子のように、他人ごととして聖なるマイノリティたちの苦悩をオカズに、美味しくご飯が食べられるという案配です。
 つまり二十年ほど前の「ゲイブーム」よりこっち、ホモがある種の地位を築き上げた裏には、そうした「女性にとってのお気楽さ」があったと言えるのです。

 しかし。
 ここへ来てそうしたやり方の綻びを象徴するような事件が起きました。
 いや、実はもうかなり旧聞に属するのですが、女装した爺さんが女子トイレに入るという事件です。
 いえ……違いました。
 本当の事件は、現場では起きていませんでした。
 今回の事件で特徴的なのは、それに対するフェミニストたち、実際のオカマたちのリアクションがネット上で簡単に知り得たことだったのです。
 類似の事件は以前からずっと起きており、彼ら彼女らも類似のリアクションをし続けていたはずですから、これもネットの発達によって明らかになったことなのでしょう。
 フェミニストの小山エミ師匠はかねてより「オカマは女湯に入る権利があるのだ」との主張の主で、本件でもぼくが蒸し返したのですが、そうなると「私はそんなことは言ってない」などと強弁し続けました(「「オカマ」は女湯には入れるのか?」「「オカマ」は女湯には入れるのか?Ⅱ」を参照のこと)。
 しかし、実は彼女は「オカマは女湯に入る権利がある」と公言することはまずいと知っていて、だからこそ失言の火消しを計ったわけです。
 しかしtogetterでは更にコアな方々の、コアな意見で溢れております。
女装した"男性"が女性トイレを利用して逮捕!事件について」や、去年のものですが、「小田急永山駅のトイレで見た暴力的な張り紙の話とXトイレ計画の宣伝」など。
 後者など、駅のトイレに

警告 女性用トイレへの男性立ち入り、多目的トイレの目的外使用は、不審行為として警察官に通報します。駅長

 という張り紙が貼られたことを、絶対に許されぬこととして、厳しく糾弾する内容です。彼らは、自分たちが不当な目に遭っているのだと信じて疑いません。どうなっているのでしょう。
 今まで、セクシャルマイノリティは「女性に害をなさない、安全な異人」としてフェミニストに「政治利用」されてきました。フェミニストたちは「上野千鶴子師匠はオタクの味方だ」と喧伝するリベラルくらいの二枚舌で、セクシャルマイノリティは女性の味方だと喧伝してきました。
 が、ここへ来てセクシャルマイノリティと女性の利害がバッティングする事態が明らかになってきたわけです。
 バリアフリーには、莫大なコストがかかります。
 その中には「社会に余裕があるのであればそうした方が望ましい」ものも多くあります。
 乙武さんの例で言えば、あらゆるビルにエレベータを設置することが望ましい、またオカマの件で言えば彼らはXトイレ(性別不問で利用できるトイレ)の設置を提唱していますが、それは確かに一つの落としどころではある。
 が、そこまでコストをかけるほどの余裕が、もし社会にないとすれば?
 乙武さんの場合であれば、事前に電話をすればよかっただけの話です。
 彼が「自分で店を予約する際、あまりバリアフリー状況を下調べしたことがない。さらに、店舗に対して、こちらが車いすであることを伝えたことも記憶にない。」と言っているのが本当のことかどうかはわかりませんが、どこかに「障害者が健常者と全く同じ生活のできる完全バリアフリー社会」を理想とする心理があったと、考えざるを得ません(仮に乙武さんの言が100%真実だとしても、そうした彼をもてはやしたぼくたちにこそ、そうした理想があったということは言えるはずです)。
 オカマの人たちがどうするのが正しいか、ぼくがここで決めることではないものの、女装はある程度限られた場だけですることでリスクを減らす、誰からも女性として認識され、男性とバレないようにする、といった自助努力をするくらいしか、やれることはないのではないか。
 少なくとも、「完全バリアフリー」という理念には、実利的な要求ばかりでなく、「障害者、マイノリティとしての引け目から逃れたい、一般ピープルと同じになりたい」との情念が感じられます。
原発幻魔大戦』という漫画のコラージュで「ノンケボーイ」というのがあるのですが、それが読みたくてググると、同名のホモ向けのお店がやたらと出てきました。そう、ホモは「ノンケボーイ」に強く憧れているのです。
 しかし、マイノリティは「一般ピープルになりたい自分」を認め、「そうはなれない自分」に諦念するというプロセスを経ない限り、幸福にはなれないのではないでしょうか。