現代を代表するラノベ『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』、略称『俺妹』の最終巻である12巻が先頃出版され、あちこちで騒ぎになっています。
本作については以前も採り上げたことがあり、万一全く概要を知らない方は、そちらを見ていただきたいと思います。というかウィキでも見た方が早いですが。
また、面倒なのでストーリーなどの説明は基本、省くことにしますが、ネタバレは避けられませんので、未読でこれから読もうと考えている方は、以下は読まれませんようにお願いします。
さて、最終刊については賛否真っ二つに分かれたわけですが、見る限り否定派の方が多いようです。
否定論者たちの意見は「そもそもあの兄妹って互いに恋愛感情なんか抱いていたのか?」ということに集約され、ぼくもそれに同意します。
いや、それ(第四章)以降の展開にも大いに疑問はありますが、その是非を云々するよりも前に、「まず恋愛感情があったのか」という疑問がどうしても湧いてくる。
逆に肯定論者たちは軒並みそこをスルーしており、対照的です。
こちら(否定派)としては「肯定論者の目は節穴か?」と言いたくなるところですが、むしろ「桐乃と京介の間にあった感情が兄妹愛であったか恋愛であったか」という点について、肯定論者は鷹揚に構えている、「いや、そこはどっちでもいいじゃん」と思っている感が、ぼくにはしました。
肯定派は、「恋愛も兄妹愛も、本作では敢えて区別せず、ごっちゃにして描かれているのだ」と捉えているのではないでしょうか。
これは、もし本作がエロゲなら「エロにかこつけて兄妹愛を描く」みたいなウルトラCもありそうで、肯定派はそうした展開に慣れていた「エロゲ脳」なのではないか、という気もします。別にこれは肯定派をdisっているわけではなく、エロゲは「エロを入れる」という特質上、どうしてもそうした展開に陥りがちだし、またプレイヤー側もそれを読み解くことに慣れてしまっているわけです。
比喩として適切かわかりませんが、ロボットものとかで男女の恋愛を、「ロボット同士のバトル」で表現するのに、ちょっと似ています。『Gガンダム』の最終回、ドモンとレインの痴話ゲンカがロボットバトルとして描かれたことを、思い出さなくもありません。
或いはまた、BLや百合が友情を「恋愛」に変換してしまうのにも似ているかも知れません。男たちは「腐女子はBLという形に曲解して男同士の友情を汚す!」と憤りますが(ぼくにもそうした感情はありますが)あれは曲解していると言うよりは、「わかっているけど彼女らの規格にあわせるために、あのような形に変換している」のですな。もっと簡単な比喩を使うなら、美味しく食べるためにマヨネーズをバンバンかけてるという程度のことです。
オタク文化、萌え文化というのは少し前までエロゲやエロ漫画と言ったエロメディアに依拠していました。そのため、「エロゲ脳」を持った者にはあのマヨ山盛りの味つけがある種自然に感じられたが、若い人には不自然に感じられたのではなかったか。
……などと書くとぼくもまた若い側の人間みたいに思えますが、当然年寄りでも、「ここで二人の感情を恋愛へと移行させるのは不自然だ」と感じた人間は多かったはずです。どう見ても前巻までは京介が桐乃に恋愛感情を抱いていたという描写は(肯定論者にしても「暗示はされていた」と言うのがせいぜいで)なかったのですから。
――ただ、まあ、上に自分を否定派であるとは書いたものの、ぼくの感想はまた違っています。
ぼくにとっての『俺妹』はあくまでオタクを描く作品だったので、そうしたテーマが最終巻のみならず、物語後半には薄れがちになっていたこと自体が不満でした。
ぼくの本作初期についての評価は、上のリンク先から旧ブログへ飛んでいただければ読むことができますが、例えば「幼児向けの魔女っ子アニメにしか見えないオタク向け萌えアニメで結構えぐいエロが」といったネタを出してくることで、オタクシーンをそのネガティビティに至るまで結構リアルに描いて、しかしそれでも「オタク肯定」という結論に落ち着けるそのバランス感覚が、素晴らしいと思ったわけです。
昨今、主人公がオタクである作品が増えていますが、その多くは小ネタとしてオタネタを出す程度であったりして、物足りなく感じておりました。が、本作はそんな中で明らかに頭一つ抜けていると言えます。
が、残念ながら巻を数えるにつれ、本作ではキャラクター同士の恋愛模様がむしろ主眼として描かれるようになっていったのです。
それがファンの思惑の影響か、編集部やアニメ会社の意向か、原作者がそうしたかったのか、或いは単にオタネタがつきたのかはわかりません。
しかし、恋愛に終始した最終巻を見るとやはり、いささか寂しく感じます。
ちなみに、Amazonのレビューで秀逸なことを書いている人がいました。
エピローグ(本当に最後の最後)において、「オタクッ娘あつまれー」のオフ会が開かれ、京介と桐乃、黒猫と沙織が一堂に会します。
そして彼女らのサークルに今日、新メンバーが加わることが語られ、京介が「新入りはどんなヤツかな、俺たちのことをそいつにも語ってやろう」などと思うところで、お話は終わりになっています。
この新メンバーとは、今まで『俺妹』を読んできた読者のことであろうが(これはあくまでそのレビュアーの意見であり、作中にことさらそれを暗示する描写があるわけではありません)、しかし普通に考えて「京介と桐乃は兄妹で恋愛をしていた」「黒猫は京介と以前つきあっていたが関係を解消している」と、そんな複雑怪奇な人間関係を持つサークルに放り込まれた新メンバーは普通退くぞ、絶対かかわりたくねーよ、というのがそのレビュアーの意見です。
なるほど、作品としては桐乃と京介の関係も、桐乃とオタ友との関係も、これからもいい感じで続いていくことを暗示させて終わってはいます。が、リアルに考えるとそれはどうか。
ここで「新メンバー」の登場などという展開がなければ「まあ、こいつらは変人の集団だから」で何とか納得させられたところを、なまじ新入りを設定したことで、このレビュアーはふと素に戻ってしまったわけですね。
沙織のオタサークルを大事に思う心は以前から描かれてきた通りです。ぼくは今回本ブログを書くために読み返していて、「桐乃たちはオタクッ娘あつまれーの二軍メンバーである」、との設定が語られていたことに初めて気づきました。つまり沙織は桐乃や黒猫といった協調性のない連中のことを慮り、彼女らの面倒を見てやっているわけです。
「新メンバー」はその彼女らのコミュニティがこれからも発展していくことの象徴として、彼女らを、言ってみればオタクの中のはぐれ軍団を祝福するために登場するはずでした。その意味で、一応、作者は本作のオタク作品としての側面を忘れることなく、最後にこのような展開を用意してくれたはずです。
が、しかしその設定のせいでふと素に戻った読者もいる――沙織の気持ちを考えた時、何だか切なくてなりません。
どうしてこうなった?
それに対する答えを、ぼくは持っていません。
しかし肯定派の、それもどちらかと言えばAmazonのレビュアーなどではなく、ブログなどで意見を表明している肯定論者たちの言い様に、ぼくは僅かばかりの不快感を覚えました。
というのもブログなどでは、上に挙げた「兄妹愛か恋愛か」といった論点ではなく、また別な論点が上げられていることが多いように思うからです。
つまり、
「従来のラノベは生ぬるいハーレムを破綻させず、『これからも日常は続く』などといって終わらせるのが常であった。そうしたお約束に踏み込み、最後まで描ききったことが素晴らしい」
といったような論調ですよね、大体。
海燕師匠の
『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』は、おそらく現在のライトノベルの限界にまで踏み込んでいる。
といった評はその代表と言えましょうか。
彼の友人であるペトロニウス師匠もまた、
この中で、なんといっても、特筆すべきテーマの一つは、ラブコメの領域に生まれたハーレムメイカーの系譜です。そのテーマのイシューについて、どう俺妹が回答を出そうとしているのか、という視点で見ていきたいと思います。
と前置きし、
そして、実妹ルートに入ったのは、そもそも「選ぶこと(=決断する)で、時を止めない」ことを、優先させた結果に僕は思えます。
と書きます。
しかし決断すること、時を動かすことがそんなにも偉いのか……否、「動かないこと」をやたら腐してみせることが、そんなにもいいことなのでしょうか。
以前も書きましたが、80年代以降、例えば子供向けのヒーローアニメなどでも「他の星から来たキャラクターが地球の少年と別れを告げ、故郷の星に帰る……かと思いきや、また舞い戻ってきて共に暮らすことに」といった「外し」たオチで「別れ」を忌避するようになっていきました。
しかしそれもぼくたちが「辿るべき、正しいルート」を失ってしまった現代においては仕方がない面もある、といった辺りが、ぼくの感想でした。
海燕師匠もペトロニウス師匠も、ある意味では沙織のような人なのだろうなあ、と思います。彼らの中では「迷えるオタクたちを善導してやらねば」といった使命感が炎と燃え立っているのかも知れません。
しかし娯楽作で居心地のよい仮想空間を描くことをよしとせず、厳しい現実を描くことこそが尊いのだ、といった評論には何だかもう、食傷気味です。
そんなの「ドラえもんはすぐ道具に頼らせるから子供に有害だ」という江川達也の考えと、どこが違うのでしょうか?
そんなことを思いながら、ペトロニウス師匠の『俺妹』一巻が出た当時の記事を拝見しました。彼自身が、「実は初期の『俺妹』は自分にはあまりにあざとく感じられ、酷評をしていたのだ(大意)」と語っていたからです。
いやはや、ちょっと心が折れそうになりました。
これって「自己肯定されたい」というヲタク側(ってカテゴライズするの難しいけど)の欲望が透けて見えるなーって思うんですよね。
これは、やっぱり「自分が世間から自己肯定されたい」という自己の仮託に思えてしまいます。
本作が、男の子と女の子を入れ替えることで、「俺みたいなオタクの女の子を助けてやることで、俺が女の子から感謝される」という形にして、読者の男の子(そして女の子)たちがアイデンティティを保護膜に守られながらお話を読み進めることのできる構造になっている、という分析は、実のところぼくがしたものと全く同じです。
そこを、彼は嫌悪し、ぼくは賞賛している。
そして残念なことに、ぼくには彼が何故それを嫌悪するのかが、さっぱりわからない……というのは嘘で、実は死ぬほどよくわかる。
ペトロニウス師匠は海燕師匠と共にウェブラジオもやっているのですが、そこではいよいよ苛烈な言い回しがなされます。
記憶で書きますが、彼は(すみません、一部海燕師匠などの発言も含まれているかも知れませんが)
一巻はマーケティングで作られてる。
タイトルがまず出てきて、そっから自動的にくみ上げられた作品だ。
と指摘した後、
編集者は『オタクはバカで肯定されたがってるから、こうした物語に飛びつくだろう』という計算でこうした作品を立ち上げたのだろう。
といったことを、非常にいやらしい口調(編集者のセリフをいやらしい感じで読み上げているところを想像してください)で語っていらっしゃいました。
どうして?
どうして編集者もオタクで、「こんなオタクな美少女を彼女にしたいな、読者たちにもそんな女の子を届けてあげたいな」と考えたのだ、とそういう発想にならないのでしょうか。
ラノベ編集者って、そんなにオタクを憎悪しているのでしょうか?
いや、憎悪している人が大変に多いんですけどね、経験上。
まあそれはいいです。
編集者(いろいろと話題の多い三木氏ですね)がオタクを好きかどうかは徹底的にどうでもいい。或いは、(企画の立ち上げに三木氏の意向が大きかったのはどうやら事実のようで)彼がオタク嫌いだとでもいった話が、あるのかも知れない。
しかし何よりぼくが感じたのは、オタクを善導したくてたまらないであろうペトロニウス師匠は、オタクが嫌いでたまらないのだな、ということです。上のいやらしい口調もその意味で、編集者の舌を借りて彼の中の本心が現れてしまったもののように、ぼくには思われました。
時々、「男性差別クラスタ」の方から「お前は何故男性差別とオタク差別をごっちゃにして語るのだ」と問われることがあります。
むろん、ぼくは「男性差別」などというものについて語ったことはないのですが、こうして見るとぼくの意図は明らかになってくるのではないでしょうか。
こうした人々は「男のマチズモ」を否定することが深夜の萌えアニメを視聴することの千倍くらい好きなのですが、実際に力を持った男性に立ち向かうことはまあ、あんまりない。それが証拠にこうした論者が『ドラえもん』を批判することは決してないのです。
彼らは萌え作品に耽溺しているけしからぬオタどもに正義の刃を向けることに専ら、熱心ですが、では女性オタクにもその刃を向けるかというと、それは決してない。それが証拠にぼくは本作の構造を男の子にも女の子にも快いものだと分析しましたが、ペトロニウス師匠は女性ファンへの視点は全く欠落させています。
オタク(男性限定)は萌え作品で二次元への女性へと身勝手な欲望をぶつけていて許せない(彼が自己肯定の欲求を、悪ででもあるかのように「肯定されたがっている肯定されたがっている」と執拗に糾弾する筆致が特徴的です)。
普段は児童ポルノ法反対運動の先頭に立って行進していそうな人物が、一体全体どうしたわけか、そうしたオタク(男性限定)の「悪しき欲望」を一刀両断に切り捨てます。
結局、彼らもローゼン閣下くらい俺たちの味方であったはずの上野千鶴子師匠がポルノを否定しているように、ぼくたちの欲望、それも持っていて当たり前でその発露の仕方にどこに問題があるのかさっぱりわからないそんな欲望のあり方が、憎くて憎くてたまらないのです。
彼らにとっては「慮るべき弱者」というのがまず確固たる存在としてあって、彼らの味方を装い、返す刀で「慮らなくともよい弱者」を一刀両断にするというのが、習い性なのです。
オタク(男性限定)は、「慮らなくともよい弱者」なのです。
そう、弱者には「人権強者」と「人権弱者」の二者があり、オタク(男性限定)は後者なのです。
オタク問題は弱者男性問題だ――彼らを見ていると、それがはっきりとわかるのではないでしょうか。
難しいところですね、私の感想はこの作品はあくまでも京介の主観で書かれている印象があります。なので京介が嫌われていると感じたのならそういう言い回しになると考えます。桐乃がどう思っていたのかはこの語り部からはわからないというのが感想ですね。一部描写桐乃が京介から嫌われているという風にもとれる部分がありますしね。
また、ほんとに最初のエロゲを落としたのが偶然なのか最終巻で疑問に思っちゃいましたがね。
オタクどうこうというのは少々発展しすぎな気がします。あとアニメの方はどうも京介主観を極力廃した内容かなと考えてます。なのでアニメの最終回を見て判断をしようかなと。
コメントありがとうございます!
おっしゃっているのは要するに、お話が京介視点なので、桐乃が最初から京介に恋愛感情を抱いていたことはあり得る、ということですね。
ぼくもそう思います。
お話としては、やはり「恋愛」感情は絡めて欲しくないと思いますが、「いや、絶対納得できない」というほどではないかと思います。
桐乃が兄貴を引き込むためにわざとゲームを落としていた……と想像すると楽しいですねw
>オタクどうこうというのは少々発展しすぎな気がします。
ぼくにとっての『俺妹』はあくまでオタクの生き方をテーマにした作品なので……。
もしおっしゃっていることが、海燕さんやペトロニウスさんといったブロガーについて文句をつけている部分についてのことだとしたら、でもそうした考え方が今回の12巻に影響を与えた可能性もゼロじゃないし、文句を言っておくべきだと思うんですよ。
『俺妹』最終巻がペトロニウスさんのブログに影響を受けた可能性は、ゼロに近いでしょう。
でも「生ぬるいハーレムエンドはダメだ」みたいな言い方は彼以前からされてきたことで、そうした考え方に知らず知らずに影響を受けてあのストーリーになった、という可能性は多々あると思います。
としたら、やっぱりそれに対して文句は言いたくなりますよね。
はじめまして。俺妹についての記事を見かけて書き込んでみました
俺自身は俺妹が結構嫌いで、嫌いだからこそ関心を持ってしまうという面倒くさいアンチ的な立場なんですが、アンチなりに作品を分析してみて思うのは、なぜ俺妹が実妹エンドになったのかというのに実は桐乃こそが人格という意味ではもっとも他者的だったからではないか?という風に思ってます
真奈美や黒猫は母性的でヒステリックではないため、男にとっては都合がいいと言われるようなキャラです(性格がいいだけとも言えますけど)
しかし恐らく女性に評価される恋愛の選択肢は、桐乃のようなヒステリックな女性を恋愛相手に選ぶこと、それが男の器であって、まともに大人な男性なら当然だ、みたいな世間一般の含意を作家という職業の方は人一倍気にするのではないかと思います
桐乃が気持ち悪いオタク趣味を持っていること、実の妹であることといった属性自体はマーケティング的にオタク受けを狙った、他者的ではない自己愛的なものだと思いますが、その人格は非常にヒステリックで男にとってというか特にオタクには感じが悪い、都合の悪いキャラでもあります(俺は普通に性格悪いじゃんこいつ、と思ってしまいますが・・・)
なんとなく作者さんの中でマーケティング志向=売り上げを現実的に上げることを受け入れられなければ大人ではない、オタク受けするものを入れなければ、といった価値観と、ヒステリックな女性を受け入れられなければ大人ではない、といった価値観が入り組んでしまっているのではないかという気がします
上手くまとめられませんが、ある人の作家性が外部や他者性を志向し続けることに至上価値を置くものなら、ヒステリックな女性と母性的な女性、作品の中でどちらを選ぶべきかという価値判断に、大きなバイアスが掛かるのではないかと
例えばマクロスの三角関係でも伝統的に、いかにも萌えキャラ然としたキャラは選ばれず、より現実の女性に近い方が選ばれるということがありますけど、それもこういった傾向のせいなのではないかな、と個人的には思ってます
より困難な道が正しい、より現実的な、たとえ性格の悪い女性でも受け入れるのが正義というような一種イデオロギーめいたものがどこか世間にあるような気がします
たしかにそれは良いことだろうけど、それを無理に強制したりすれば洗脳とどう違うんだと思うし、強制することでよりこじれてくこともあると思います(というか一方的に都合良すぎないか?といった疑問も)
同族嫌悪的にオタクを叩く人というのは、自分は正義のつもりでやってるんでしょうけど、結果的にはヘイトを稼いで憎しみあわせ、より子供っぽさをこじらせるということを手助けしてるんじゃないでしょうか
ついつらつらと長文を書いてしまいましたが、俺自身は俺妹に対してほとんどハーレムエンドということに拘りがなかったせいか、むしろ黒猫エンドか真奈美エンドになってくれれば別にハーレムでなくていい、という感じだったので兵頭さんの関心とは全然違うかもしれません
単に桐乃が嫌いなので、桐乃のいるハーレムはノーサンキューといった程度の話なんですが・・・
俺の俺妹の見方というのは、女性のヒステリックな部分を受け入れることが正義である、といった大げさに言うとプロパガンダみたいに感じることへの苛立ちみたいなものが中心なんだと思います
こういう作品を読んでいると器を大きくするのは正しいけど、それってどうして一方通行なの?とかなんで半強制的なの?という疑問がどうしてももたげてしまいます
長くなりましたが、頓珍漢なこと書いてたら申し訳ないです
俺は電波男に共感したタイプの人間なので兵頭さんのブログを結構応援してます
孤軍奮闘で辛いと思いますが、是非がんばってください。長文失礼しました
はじめまして!
面白い考え方ですね。オタクというのは面倒な生き物で、例えばぼくが挙げたペテロニウス氏は「目の前に甘いお菓子をぶら下げられたがため、それを拒絶してしまっている」とでもいった感じです。
作者自身もまた、それに近いひねくれた心理を持っている。そのため「自分の作家性を殺してでも売れるものを書かねば」といった価値観と、「厳しい現実を突きつける作品こそが高級だ」といった価値観とを持ち、その両方をごっちゃにしてしまい、結果、このような展開となってしまったという説ですね。
そこに『マクロス』が出てきたのも示唆的です。
ファーストについては恐らく、当初はミンメイとのエンディングが予定されていたところ、美沙が予想以上に人気が出てしまったこと、そしてミンメイが(恐らく女性層によって)予想以上に嫌われてしまったため展開を変更したのではと思っています。
『F』についてはその失敗を踏まえ、男性ファン受けするランカ、女性ファン受けするシェリルとを用意して、しかも最後まで決着をつけなかったのではないでしょうか。
アルトは京介と同じ声にもかかわらず、その意味で好対照です。
両作は三十年近い隔たりがありますが、まさにこの三十年が女性ファンの声、或いは男性の中にあるそうした「内なる女性の声」を無視できなくなった三十年であるように思います。
>俺の俺妹の見方というのは、女性のヒステリックな部分を受け入れることが正義である、といった大げさに言うとプロパガンダみたいに感じることへの苛立ちみたいなものが中心なんだと思います
なるほど。
男の子が女の子の出す課題をクリアし、そのごほうびに女の子からの愛を獲得する。
それが従来のラブコメなどの構造でした。
『タッチ』などもそうですし、そもそも『かぐや姫』の時代から、そうした構造は普遍的ですよね。
これをフェミニストなどは「トロフィーワイフ」などと言って腐します。
「女性をトロフィー扱いとは女性差別だ」というわけです。
いや、身一つでトロフィーの価値がある女性の方がお得だと思うのですがw
が、「萌え」文化ではその女の子の「トロフィー」性がなくなっているように、ぼくには思える。
いわゆる「ツンデレ」は(モノによるでしょうが)女の子がデレますが、それは努力したから「トロフィー」である私をあげる、と言うニュアンスではなく、「女の子の辛い過去を知り、共感する」といった形容の方が近いと思います。
岡田斗司夫さんは「萌え」の本質を「男女平等だ」と言いましたが、これは正しい。
萌え世代のオタク評論家を自認する誰よりも、既に旧世代のオタクであるはずの彼の方が、萌えの本質を突いてしまっている。
そこに、本作はある意味「テーマ性の追求」、或いは「世間で正しいとされている価値観への迎合」という要らないモノを加えてしまい、こうなってしまったのかも知れません。
>俺は電波男に共感したタイプの人間なので兵頭さんのブログを結構応援してます
> 孤軍奮闘で辛いと思いますが、是非がんばってください。
ありがとうございます。
本田さんに対しては「こんな時、お前がいてくれたら……」と思うことがしばしばですねw
返信ありがとうございます。自分は文章をまとめるのが得意でないので、書き込んでみたら予想以上に長文過ぎて思わず引かれないか心配してしまいました・・・しかも初書き込みで長文にも関わらず、丁寧な考察もして頂いてびっくりしました
俺妹に関して俺が感じていたことは、なんとなくもやっとしていたものがあったんですが、人に自分の考えを考察する対象に思ってもらえてなんだか嬉しかったです。どうも2chとかでこういう考えを書き込んでも、おかしなアンチが来たくらいにしか思ってもらえなそうでなかなか書く機会がありませんでした
兵頭さんがおっしゃってたトロフィーワイフという考え方も初めて知りました。フェミニストって相変わらず無茶苦茶なこと言いますね
男が努力せずに女性に受け入れてもらおうとするとマザコンがどうたらと罵詈雑言されそうな気がしますが、マッチョ的に努力するとそれはそれで叩かれるってのも理不尽な気がします
(俺自身は非モテなんでそういった努力をする気にはなれませんが・・・)
それに萌え文化ではトロフィー性がなくなるというのも興味深いです
完全にではないでしょうけど、少なくとも女性に受け入れられる、あるいはハーレム的な作品にしても、その手段が共感といったコミュニケーション的な方法になっているということなんでしょうね
兵頭さんのレスをもらってまた何か思いついて書きたくなってきたんですけど、それも長文になりそうなのでちょっと自重しておきます
また機会があったら相手をしてやってください。どうもありがとうございました
桐乃的な高圧的な女が嫌だ、という人は多いようですが、2chとかで書いても「桐乃アンチ」で括られちゃいますしね。
ただ、こういうキャラクターが受けること自体は仕方ないというか、まあ文句をいっても仕方がないと思いますが。
強気のムカつく女でもアニメキャラの場合は努力の分、報われる図式になっているのが普通なので、現実よりはいいのではと。
ただ、『俺妹』の最終回はその報われ方がちょっと……ということだったのかも知れません。
またどうぞ、コメントをください。
こんばんは。『俺妹』は残念ながらまったく知らないのですが、一般論めいたところで思いつい事があるのでコメントさせていただきます。
>しかし娯楽作で居心地のよい仮想空間を描くことをよしとせず、厳しい現実を描くことこそが尊いのだ、といった評論には何だかもう、食傷気味です。
こうした「現実主義」への批判は『電波男』の本田透氏も繰り返し述べていたように思います。萌え作品は元来「厳しい現実」から人を守り慰撫するのが目的なんだから現実を描けというのは端から間違っている、そもそも我々オタクは女性から蔑まれ嫌悪されるという「現実」を誰よりもはっきりと認識し、理解して、それだからフィクションとしての萌え作品を享受している、といった論旨だったでしょうか(読んだのが数年前なので語句はかなり曖昧ですが)。
私が常々思うのは、ペトロニウス師匠やら海燕師匠やら、世に数多ある「現実を見ろ」式の「現実主義」者たちの言い立てる「現実」というのが実は発言者の考える、発言者のイデオロギーにまみれた、発言者に都合のいい「世界観」でしかないのではないか、という事です。例えば海燕師匠の考える「現実」とは、「女性はあらゆる面で差別されているカワイソウな弱者。男性差別なんて存在しない。男性はマッチョでミソジニーでホモソーシャルでナルシスト。オタク男性は差別加害者で幸福なのに自分を不幸な弱者だと思ってるけしからん背教者」みたいなところではないのかと。そんなもの、どんなに贔屓目に見ても彼の個人的な「世界観・価値観」に過ぎず、人に偉そうに押し付けるだけの普遍性があるようには全く思えない。3K労働に男性ばかりがついていて、過労死するのも自殺するのも男性の法がはるかに多く、離婚すれば男性の親権は剥奪され、DV被害に遭っても男性は救済されなくて・・・などなど、彼の「世界観」と矛盾する「厳しい現実」なら掃いて捨てるほどあるのですから。
結局、彼ら似非現実主義者の「現実を見ろ」とは「俺様の考える俺様に都合のいい世界をお前らも受け入れろ。フィクションでも俺様に都合のいい世界を描け」という主張でしかなく、物語の展開が自分の期待と違ったので怒り狂う、ステレオタイプなオタクと選ぶところがない。いや、物語ではなく現実の他者に怒り狂って憎悪を吐き散らしてる分オタクよりさらに下劣。
「現実主義者」の言説が妙に高圧的で傲慢なのは、こうした本質的な独善性が彼らにあるからでは、と自分には思えます。
萌え作品に対する本田氏の捉え方、おっしゃる通りだと思います。
本田氏の主張は「ミソジニー」という思考停止ワードの一斉放火によって抹殺されました。が、彼の発言は「アキバ通り魔みたいに暴走しちゃいかんから、萌えに癒されていようぜ」、もっと推し進めれば「逆ギレして女性に暴行加えてもまずいしね」といったことだったはずです。
それが何故、「ミソジニー」なのか。
昨今のネットで、フェミニストが彼氏には絶対したくないはずの「弱者男性」をひたすら叩いていることでもわかるように、彼女らにとっては「自分たちを欲しない男」などこの世で一番許せない存在なんですよね。「自分を欲し、レイプ未遂犯として警察に捕まる」という「性役割」を男らしくこなさないことには、「女性差別」なんですよ。
>「俺様の考える俺様に都合のいい現実をお前らも受け入れろ。
そうなんですね。
オタクが「弱者」であるなど、女性への差別だ。だからオタクが「俺は不幸だ」と思ったら、その感情は圧殺されるべきなんです。
フェミニストが「私以外の女性も結婚を幸福に感じることがあってはまかりならん」と考え、「ジェンダーフリー」によってそれを禁じようとしたのと全く同じです。
そういえばドラえもんって前に偽の最終回が出回って話題になってた時、編集者は「藤子先生ならあんな夢を壊す悲しい最終回は書かない。のび太とドラえもんの日常が何時までも続くような、夢のある最後を書く」って言ったんだよな
なんでハーレムラノベの編集者はそういう発想ができないのかね
初めまして(^^
確かにこの最終巻は例の「のび太君植物人間END」みたいな「リアルと言えばリアルだけど誰得だ」って感じのエンドでしたね。
あれ? ひょっとするとおっしゃっているのは「のび太がドラえもんを作った」という方か? あれはあれで『to Heart』のパクリですしね……(^^;
ただ、『ドラえもん』の最終回は「日常が何時までも続くような」ものというのは本当でしょうか?
『ドラえもん』の既に描かれた最終回はいずれもドラえもんが未来に帰る話なので、真ENDが描かれていたとしてもそうしたものになる気がします。
もちろん、のび太が成長を迎えて別れていく、ちゃんと感動のできるラストになったと思いますけど。
『俺妹』もちょっとマジメに考えすぎた挙げ句、「真摯にテーマに向きあったのだ(キリッ」と言いつつ誰得なラストになってしまった気がします。