どうも、長らくブログを放置してしまいました。
 あまりネタもないのですが、月に一回くらいは更新しておかねば、とも思うので、もういい加減語り尽くしているはずの「ミソジニー」と「ホモソーシャル」について、またちょっと思うところを綴ってみたいと思います。
 それと、今更ですが前回記事「これからの女子キャラクター造形はこうなる? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!」について。
 最近また本も読まずに『ダンガンロンパ』をプレイしてしまったおかげで、罪木蜜柑について思うところができ、書き留めておきたい、と思いました。というわけで最後の方に彼女の項目を追加しましたので、ご興味のある方はご覧ください。

 さて、ぼくは以前、以下のようなことを言ったことがあります。

オタサー云々の話題について一言だけ。
「オタサー姫」「サークラ」といった一連の概念は「ホモソーシャル」への「返歌」だ。 だから、この概念は闇の組織に握りつぶされ、絶対に書籍などの表メディアで採り上げられることはない。

 しかし数日前、この予言に反し(?)、瀬川深という御仁が実に嬉しげにオタサーの姫についてつぶやいていました。

 瀬川深 @segawashin     ·   9月9日   

この恐怖は皆様にもおすそ分けしておこう。要するにこれ、ホモソーシャルな世界をぶっ壊す最善手だよなぁとしみじみ感心しながら戦慄している。ミソジニー強い手合いほどコロッと逝くだろうなとも予想。

これであなたも、サークラになれる!! http://uzuramadoka.hatenablog.com/entry/2014/09/08/225010

https://twitter.com/segawashin/status/509137563840299008


 瀬川が何を言っているのか、よくわからないと思いますが、もちろんぼくもよくわかりません。
 わかりませんが、彼がとにもかくにも「ホモソーシャル」は悪いことなのでそれをつぶすことは絶対正義、との妄念に取り憑かれている、ということだけは確かなようです*1。
 冒頭に上げたぼくのつぶやきは、「フェミニストはオタサー姫について、積極的に言及するまい」との予言でした。何となればその存在そのものが、彼女らの振り回していた「ホモソーシャル」という概念を否定することになるからです。だってそうですよね、本当に「ホモソーシャリティ」というものがあるのであれば、オタサー姫はオタクサークルに入れない。オタサー姫がサークルクラッシュというミッションに成功したとしたら、それはそのサークルに「ホモソーシャリティ」がなかったという証拠です。
 が、深川はそうした当たり前のリクツにすら思い至ることができず、実にあどけなく「対ホモソーシャル兵器」としての「オタサー姫」投入を進言しているのです。
 何というか「大量破壊兵器があるに決まっている!」と断言して敵陣に乗り込み、しかし予測と異なって相手がその兵器による反撃をしてこない、でもまあ敵を殲滅できたからいーや、みたいな話です。

*1 ただ、彼がリンクしている女性ブロガーはサークラ姫を自称しており、確かに読んでいるとムカムカしてくるのですが、「自分もかつてはモテないデブスでした」などとも書いていて(好意的に解釈すれば、流行語であるサークラとの概念に乗っかって露悪的な表現をしているだけで)オタクになればモテるかも……と思ったブスが「婚活」してるだけ、とも取れます。

 一方、これに腹の虫の治まらないのが赤木智弘氏です。彼のつぶやきを見ていきましょう。

 赤木智弘@アンナカアンナカ! @T_akagi     ·   9月9日   

この事例に対して「ホモソーシャル」とか「ミソジニー」と言っているのは、単なるオタクバッシング。「モテる男はミソジニーじゃないし、ホモソーシャルでもない」なんていうのは、その単語が女性都合でのみ使われていることを意味する。恥を知れ>RT
https://twitter.com/T_akagi/status/509249250778025984

 赤木智弘@アンナカアンナカ! @T_akagi     ·   9月9日   

単なるサイコパス女が男をたぶらかしただけのことが「ホモソーシャルをぶっ壊す」だってさ。何いってんの、このクソガキが。幼稚園児並みの発想だな。
https://twitter.com/T_akagi/status/509249876870180864


 ま……まあ、ただの暴走族に「体制への反抗」を見て取って、暴走族写真集を作った左派寄り出版社とかありますし、それと似たようなものじゃ……。

 赤木智弘@アンナカアンナカ! @T_akagi     ·   9月9日   

男が女性に優しくされて、それで告白することが「ミソジニー」とは、なんと腐った神経の人間なのか。気持ち悪いので予防原則的にブロックしよう。
https://twitter.com/T_akagi/status/509250347961835522


 ほ……ほら、「ミソジニー」って、最初っから「私に気に入らない男」以上の意味はありませんから、キモ男は呼吸をしていることそれ自体が「ミソジナスな行為」と見なされるんですよ……。

 赤木智弘@アンナカアンナカ! @T_akagi     ·   9月9日   

ちょっとモテる男が、女性を弄んで「ちょっと優しくしたら、つけあがって告白しやがんのwww」とか書いて、それに対して「ミサンドリーが」とか書けんの?
https://twitter.com/T_akagi/status/509250715164766208

 赤木智弘@アンナカアンナカ! @T_akagi     ·   9月9日   

そもそも「サークルクラッシャー」なんて、たいした問題ではない。趣味のサークルなんてもともとそんなに強固なつながりのある集団ではないし。女性が問題視する「ホモソーシャル」ってのは、そんなものを指す言葉ではないはずだが?
https://twitter.com/T_akagi/status/509252604698693632

 赤木智弘@アンナカアンナカ! @T_akagi     ·   9月9日   

俺はサークルクラッシャーを問題視することに否定的。サークルなんて変遷する人間関係の1つに過ぎないんだから。ソーシャルというなら、もっと共同体としての強固さを持つ部分に踏み込めよ。そういう場ではサークルがクラッシュせずに、女のほうが悪者にされて追い出される。だから問題なんだよ。
https://twitter.com/T_akagi/status/509253172150276096

 赤木智弘@アンナカアンナカ! @T_akagi     ·   9月9日   

俺がエセフェミが嫌いなのは、結局、女性が対峙せざるを得ない、自分の父親や夫、親類縁者という、強固なホモソーシャルを構成する人たちには従順に従いながら、その憂さを弱い立場の他者男性に押し付けて「女性が勝った!」とかやっていること。偽問題の自己満足で男女の分断ばかりをしている部分。
https://twitter.com/T_akagi/status/509254065537052672

 赤木智弘@アンナカアンナカ! @T_akagi     ·   9月9日   

つか、あるオタクサークルがホモソーシャルだったとして、それが女性の人生に何か関係有るのか? ほっとけばいいだけだろ。
https://twitter.com/T_akagi/status/509254355405381632

 赤木智弘@アンナカアンナカ! @T_akagi     ·   9月9日   

一方で、家父長制や会社での人事など、女性が避け得ない部分がホモソーシャルであることに関しては、それで女性が割を食うことになる。そっちを批判せずに、男性ばかりのオタクサークルを批判して、何の意味があるのか。
https://twitter.com/T_akagi/status/509254809124216832


 赤木氏の論調は、瀬川の「弱者男性」、「オタク」へのおぞましい憎悪への批判に始まりますが、最終的には「本来のフェミニズムにおけるホモソーシャル概念はそうしたものではない」、「敵は強者男性のはずだ」というものに帰着します。
 彼がここで(恐らく瀬川たちを指して)「エセフェミ」と呼んでいるのが象徴的で、彼にとっての「本来のホモソーシャル概念」は「真のフェミニストの唱えた正当性のあるロジック」なのでしょう。
 が、当然ながらぼくは、赤木氏の主張にも全面的な賛成をすることはできません。
 瀬川の主張は誰よりも饒舌に、「強者男性」も、それによる「ホモソーシャル」も、最初からなかったということを証明しているのではないでしょうか。
 強者男性など、この世にはいません
 むろん男同士のヒエラルキーにおいて強弱はありますが、「全男性最強」の男性も結局はその力を自身の母親や妻や娘のために使うのですから、「全人類最強」は彼の母親や妻や娘になるのです。
 同様に、「ホモソーシャル」などという概念も、最初から、ない
 もしあるとしたら、それは「上に書いたような女性ジェンダーを外れた生き方をする女性が、男性社会へと入っていく時に立ち現れる、ガラスの障壁」とでも称するべきものでしょう。
 つまり、そもそもフェミニズムの主張する「ホモソーシャリティ」は、女性が女性ジェンダーを保持した状態で男性に相対した時に発動するものでは、最初からないのです*2。
 しかしまず第一に、「そうしたルートを辿ろうとする女性」、即ちキャリア志向の女性が圧倒的少数派であること。
 第二に、均等法が通ってもう二十年以上経っていることが象徴するように、また上に「ガラスの障壁」と書いたように、あくまでそれは目に見えにくい慣例やムードと言った形で存在しているかも知れないが、あくまでシステム外のものであり、存在の証明は困難な(=あるぞと言い立てて男性を攻撃する冤罪が容易に成立する)種類のものであること。
 第三に、女性の社会進出のためにおびただしいコストが何十年とかけられ続けている、つまり対処が既になされていること。
 最後に、そもそも、何よりも、異分子が社会に入っていく時にある種の「障壁」があること自体は(善悪以前の問題としてある程度は)やむを得ない、また、例えばオカマが女性社会に入っていく時の、或いは男性が主夫となり、「公園デビュー」する時のことを考えた時、経験則的にそうした「レズソーシャルの壁」に比べ、「ホモソーシャルの壁」がことさらに悪質で堅牢であるとは、どうにも考えにくいこと。
 それらを勘案するに、結局、この「ホモソーシャル」というのがフェミニストがドヤ顔で振り回す必殺兵器としてはどうにもショボい、朝日の慰安婦問題に対して産経だって山田太郎と山口太郎を間違えて報じたぞと指摘するような(一例です。そういう事実はないと思います)無理やりさを感じないではおれないわけです。

*2 ただし、一番最初にこの言葉を考え出したセジウィックの論理では、ホモソーシャリティは専ら「男女の三角関係」において成立するようです。しかしそれは結局、「女を男の共有財産と考えているのだ云々」といった妄想に帰着するので、逆にそうなると瀬川の過ちを見るまでもなく、「オタサー姫」という概念が成立し得ない。どっちに転んでも矛盾だらけの妄想社会学に過ぎなかったのです。

 さて、しかし、問題は瀬川です。
 彼は今までもオタクを「嬉々として弱者を差別している存在」であると、どう考えても無理やりな理由で断罪してきました。
 その意味で、上の発言は象徴的です。
 ぼくが最近の左派に対して繰り返し指摘しているように、彼もまた弱者を憎悪し、弱者を殺す快感を得るため、弱者に悪者のレッテルを貼ることだけを考えている人物なのです。
 ぼくは今まで、「ホモソーシャル論とは、弱者男性の最後の食料である、冷蔵庫の中のタクアンの尻尾を収奪するためのロジック」と繰り返してきました*3。赤木氏の主張も、前半はそれに近いですね。
 つまり、「ホモソーシャル」という武器は「弱者と強者を自動的に識別し、弱者のみを殺すという能力を持った武器」であり、瀬川がそれを嬉しげに振り回していることは非常に象徴的に思われるのです。
 ぼくは「ホモソーシャル」、と言われる度に思い出すことがあります。
 今回はそれを思い返しつつ、瀬川の言動がどれだけ卑劣なものかを、確認していくことにしましょう。

*3 この辺は「神聖モテモテ王国」を参照

 さて、「ホモソーシャル」と言われる度に思い出すと書いたのは、伊集院光のラジオに出てきた、女子のことです。
 伊集院光は非リア、非モテ男子のカリスマ的な存在であり、伊集院本人も自らのラジオ番組(TBSラジオで放送されている『深夜の馬鹿力』)を「男子校」「工業」と表現しています。聴取率調査をやってみると女性の比率がゼロとの発言もありました……とは言っても、ぼくの周囲では結構女で聞いている人もいるんですけどね。
 もう一つ、余談になりますが伊集院はかなり女性に辛辣です。ラジオでは「非モテ」というスタンスから、女にばかり媚びるテレビメディアや「ブス」に対する罵詈雑言を繰り返します。しかし不思議なのですが、伊集院光を「ミソジニー」とする言説に、ぼくは今までお目にかかったことがありません。
 何故か。
 言うまでもなく「ミソジニー」という言葉には「弱者男性」という意味しかなく、伊集院光は(仮に弱者男性のカリスマとして君臨していようと、タレントである本人はフェミニストたちにとっては)弱者男性ではないからです。

 閑話休題、「伊集院光のホモソーシャル」について、続けましょう。
 もう十年以上も前のことになりますが、当時、リスナー参加型企画として行われていた「快感 薬師丸ひろ子 チャン・リン・シャン」。これはリスナーの中から薬師丸ひろ子志望者を募り、クイズ形式で対戦させるという……えぇと、説明しづらいのですが、「芸能人選手権シリーズ」の一環であり、勝手に薬師丸ひろ子を自称するリスナーが妄言を吐き散らかすという……すみません、説明のしようのないコーナーです
 登場した「薬師丸ひろ子志望者」の多くは伊集院のラジオのヘビーリスナーであり、そのほとんどは若年層の男子だったのですが、一度だけ女子が出てきたことがあったのです。
 仮にNさんとしましょう、その女子がギャグを言ってみせる度、伊集院は「俺、何だか涙が出てきちゃったよ」とまで言って、大いに感激していました。
「何だお前、女の子のクセに、バーカ!」とのNさんに対する罵声も、ツンデレ的な喜びの表現でした。
 が……コーナーが進行するにつれ、何だか伊集院のテンションは落ちていき、最終的にはNさんはぱっとした成績を上げられないまま、伊集院の「女の子は不利だ」との声を背に、退場していきました。
詳しくは実際に聞いてみてください
 何しろ素人であるリスナーの参加する企画ですから、他にもギャグを外して気まずいムードになる参加者などは当然、いました。が、それにしてもNさんが登場する場面は、番組でも珍しい、妙なムードの流れた時間だったのです。
 もうおわかりかと思いますが、ここでぼくがしようとしているのは、いったんフェミニズム的文脈で語られる「ホモソーシャル」という概念を全否定した上での、「しかし確かに存在するホモソーシャリティ」の指摘なのです。

「何故伊集院がNさんとのギャグをうまく広げられなかったか」
→「ホモソーシャル」

 それ自体は、正しい。
 しかし、ではここで伊集院を断罪すべきか、擁護すべきかとなると、やはりどう考えても「そういう善悪の問題ではない」という結論に達するしかない。
 上に書いた通り、Nさんが登場した時の伊集院は、大変に感激していました。それがだんだんと白けムードになっていく。これは比喩的に言えば、例えば

「ディープなガンダムオタクの男子のクラスに、やはりディープなガンダム女子が転校してくる」
→「意気投合し、仲よくなる二人」
→「しかし男女のジェンダーギャップから、だんだんと溝ができるように」

 とでもいったストーリィーに置換が可能でしょう。
 例えばですが、ここで「男子がファースト至上主義者であったが、女子は『SEED』ファンであった」とかであれば、それは善悪の問題ではなく、シュミの問題と言うしかない。しかしNさんはディープなリスナーであることに間違いはなく(何しろネタ投稿者としても活躍していましたから)、そういう事情でもなさそうです。
 Nさんと話すうち、伊集院は自らの心情を的確に「女の子と話すとドギマギしてしまう」「俺は心の童貞だ」と表現していました。
 これが仮にですが萌え作品であるなら、或いはまた伊集院がよく例に出す『BOYS BE…』なら、「いつも男友だち同士みたいにざっくばらんにつきあっていたN子……でもそんなN子がふと見せた、女らしい仕草に……」といった展開にもなるのでしょうが、言わばこの時の伊集院は、そのネガティブ面に陥ってしまった。
 正直、ラジオを聞いていて何故伊集院はもう少しうまく立ち回れないのか、せっかく出てくれた女子が可哀想だと、ぼくは感じました。
 しかし同時に、リスナーの方はおわかりかと思いますが伊集院のラジオは下ネタ全開の、それも必ずしもエロネタのみならず、モテない男が集まってわびしさを確認するような、ある種の閉鎖性のあるものです。そこに女子が入っていくこと自体、かなりハードルが高いことは自明です。喪女同士がグチをこぼしあう女子会に男子を迎え入れる度量のある女子は、かなり少数でしょう。その意味で、上に「伊集院リスナーの女子も多い」と書きましたが、そうした女子たちには伊集院のギャグを楽しむ一方、どこか男の弱味を覗き見ることに喜びを見出しているのではないか……という感じも、少しします(これはぼくの直感で、説明はしにくいのですが……)。
 じゃあ、「入って来たNが悪い」のかと言うと、むろん責任は彼女を迎え入れた伊集院にあるわけだし、じゃあ「最初から女人禁制にしろ」と言われると、それもまた微妙です。一つの案ではあるけれども、やはりその場その場で伊集院が判断し、「行けるかな」と思った女子には参加してもらう、くらいが現実的な落としどころだし、しかし上の例のようにうまくいかないことだってあるよな、としか、言いようがないわけです。

 疲れたのでそろそろ結論にします。
 瀬川の愚かな言動は、少し前に加野瀬未友が「兵頭はガンダムファンに女子が少ないと言ったぞ」とデマを飛ばした事例、またそれ以前に起こった『パシリム』騒動(実はぼくは『パシリム』について全く知らず、この騒動には参加できなかったのですが、これについては新田五郎氏のブログが参考になるかと思います)と全く同じ構造であることは、言うまでもないでしょう。
 それは、企業社会など公正であることが求められる社会に適用することすら、さしたる根拠があるとも思えないフェミニズムの「男性破壊兵器」を、何ら関係もないシュミの分野にまでポリティカルコレクトを持ち込むことで、弱者の殺戮を楽しみたいとの惛い情念に根差した愚行でした。
 もはや彼ら彼女らは、何らビジョンを持たない大量破壊兵器での殺戮だけを目的とした存在、にまで堕してしまっているわけです。