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●メインヒロイン:土ぐも

 さて、予告通り本作については少し詳しく見て行きたいと思います。
 正直今回は前回より更に「女災」とは関係のない話になってしまいますが、今回のヒロインとも言える「土ぐも」は先に述べた『時間漂流記』の若林雪子先生同様、「この当時のフィクションにおける女性像の一典型」とも言えるので、その辺りに興味を持った方はどうぞご一読ください。
 ただし最後までネタバレしてしまいますので、そこはご了承ください。

 さて、本作はシリーズの中でも最高傑作、異色作といった評価を受けているのですが、何十年ぶりかに再読したぼくの感想は、「キモい」というものでした。過剰に表現するなら、「児童文学でオウムを賞賛した」的な感じです。
 プロットを説明しますと、要するに「三人組が隠れ里に迷い込む」お話です。
『オバQ』にも平家の隠れ里に迷い込む話があり、昭和のフィクションではよくあるパターンではあるのですが、特異なのはその「くらみ谷」と呼ばれる隠れ里に潜む人々が「土ぐも一族」と設定されていること。彼らは自分たちこそが日本の真の先住民族であるとし、政府転覆の機をうかがっています。トップの「土ぐも」は宗教的カリスマであり、地元の村には信者のシンパが大勢います。
 とは言え人数としては百人足らずの勢力のため、たまには外部の血を入れようということで、ドライブ中の三人組を拉致ってきた(このような表現が一般化したこと自体、考えてみればオウム以降です)と、そういうわけです。
 しかし仮に彼らの先住権が正当であれ、子供を拉致るようなヤツらは単なるテロ集団です。何しろ過去には「逃げ出した者は三歳の女児を含め斬首された」ことすらあるというのですから、こんな腐れ外道どもは、拉致被害者さえ奪い返せば無慈悲な核攻撃を加え殲滅してやってもいいくらいです。
 が、基本、作者の筆致は、この土ぐも一族に好意的なのです。
 三人組を温かく迎えた食事係のおばさんが、にこやかに自分もまた娘時代に連れてこられ、その後は三日三晩泣いたことを語ります。何というか、拉致られたものがすっかり馴染んでしまっているというこのリアリティ、非常にどす黒いモノを感じます。
 三人組もまた比較的すぐ、一族の暮らしに馴染むようになります。こういう場合、一族の生活ぶりの描写をしたり、或いは一族の子供たちと仲良くなる描写などが見どころになるだろうに、そうした面は淡泊に感じられました。ハチベエは婚約者まで宛がわれるのに、その描写もあっさり風味。もっとも美少女と混浴という、とってつけたようなエロ描写はありますが。
 さて、おかしいと言えばキーマンとなる堀口青年です。三人組をドライブに連れてきたがため、共に囚われてしまった大学生なのですが、すぐに三人組と別れてしまい、あまり登場しなくなります。別に会うことを禁じられたわけではないにもかかわらず、こんな非常事態に際し、たった一人の親しい大人と会うこともなく、何となく土ぐも一族に馴染んでしまう小学生って、一体何なんでしょう。
 それもこれもページの都合だったのかも知れません。
 中盤の山場は土ぐも一族の祭りで、ここは確かに絶賛されてしかるべき子細な描写がなされています。
 一族のトップである土ぐもは「ルサンチマンをぶつける対象としての神」、「人々の恨みを一斉に受けることで崇拝される神」として描かれます。人々は自らの不幸についてこの神事で「土ぐも様、お恨み申し上げます」と不満をぶつけることで、憂さを晴らすのです。
「女災」理論に近しいとも、何とかウォッチ的とも、現代のぼくたちの政治体制の暗喩とも取れるし、単に「ルサンチマンにまみれて生きている人々」の「負け犬根性」を描写しているとも取れます。
 作者は一族に好意的ですが、この場面だけは「怨んでばかりじゃ仕方ない」とやや批判的です。また、彼らはこの神事に際し、「土ぐも様、今年こそクーデターを!」「まだ時機ではない」といったやり取りを行いますが、これもまた形骸化した天丼であり、マジで政権を取る気はないんじゃね、といったことが暗示されます。

 そしてこの祭りの最終日、三人組は逃げ出します。祭りは土ぐもを崇拝する地元の人々と共に行われるため、この時が脱出の千載一遇のチャンスだったわけです。
 地元の村の駐在に助けを求める三人ですが、この駐在も土ぐも信者であり、「通報しますた」で脱出は失敗してしまいます。
 おかしな話です。
 そもそも一帯の村にシンパが大勢いることはわかりきったことです。彼らが拉致られたのも、最初からシンパである村人がウソを教えて土ぐも一族の里に誘導したからこそでした。
 大体、最初から彼らは上の斬首の件を持ち出され、さんざん脅されていたのです。にもかかわらず三人は何の計算もなく、ただ人々が酔っ払っている間に逃げ出しただけ。小学生離れした知恵者であるハカセが、こんな無謀な計画にダメ出しをしないことが、全く理解できません。
 また、(首切りの話を聞いていながら!)連れ戻された三人は「こっぴどく叱られるかも」などとノンキなことを言っています。
 しかし三人は裁判の結果、斬首されることに。このヘビーな展開に、挿絵師の前川かずおセンセも大慌てでコミカルな挿絵をつけて何とかフォローしようとするも、焼け石に水
 で、最終的には土ぐも様が御自ら、部下には秘密裏に三人を助け出します。
 この土ぐも様、普段は顔を見せず、上の神事では恐ろしい面を被っているが正体は美少女。物語中盤でちょっとだけ正体を隠してモーちゃんの前に姿を現し、テレパシー能力があるのでは……と匂わせる描写がなされます。
 ここで三人は晴れて下界に帰れることになりますが、堀口青年はあろうことか、里に残ることを決意するのです。
 その理由は、ここに恋人ができたからということもありますが、本人の口からは「みなそれぞれが得意な仕事をして、平等で金持ちも貧乏人もいないこの里が気に入った」と語られるのです。
「は、は~ん」と、やっぱり言いたくなりますよね。
 三人組が家族の下に戻った後、当然、堀口青年にも親がいますから、警察は三人組の話を聞いて山を捜索しますが、地元の村は口裏をあわせ、結局真相は闇の中、というオチになります。これ自体がかなり無理矢理な上に、やはり作者の土ぐも一族への傾倒ぶりを感じさせる展開です。
 しかしどうリクツをこねようと、こんな連中は極悪犯罪者集団です。
 ハチベエはラストで堀口さんを偲びつつ、土ぐもは一族に帰化したがる人間だけをさらっているのでは、だからこそ俺たちについてはミスだったと判断し、解放してくれたのではと想像します。土ぐも様がテレパシストと暗示させる描写は、上の下りの伏線として描かれたものなのでしょうが、それこそそんな言い訳は焼け石に水というものです。
 やはりこれ、オウム以降じゃ出せなかった話だよなあとか、北朝鮮がおんなじことやったこと知っても驚かねーメンタリティの主じゃねーかこいつとか、いろんなことが頭を巡るのですが。
 取り敢えず、当ブログ的には、やはりこの「土ぐも」の存在に注目したいのです。
 このキャラクターもまた、言わば『時間漂流記』の若林先生同様、この時期のSF特有の「女性の聖化」を感じさせるキャラですが、考えると彼女がテレパシストとして表現されることもまた、象徴的です。
 この「テレパシスト」という概念も当時のニューエイジ系SFが女性性に無理からに「萌え」るため、多用していたガジェットだったのですから!

 ちなみに、本作も『中年三人組』シリーズで続編が書かれているようです。
 まさかとは思いますが、土ぐも一族が「くらみ国」を名乗るとか、土ぐも様の薄い本を出した同人サークルに一族が殴り込んで同人作家を殺すとか、首を切られた三人組の死体の映像を宅和先生が授業に使うとか、それらを全て好意的な筆致で書いているとか、そういうことがないといいなあ