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 さて、相も変わらず「男性学」についてです。
 90年代にちょっとだけ騒がれ、そのまま消えていった「男性学」が近年、まさかの復活の機運がある。ならばこちらとしては、「男性学に騙されるなかれ」との警告を発するためにも、当時の状況を今一度見直しておこうと考えたわけです。
(ちなみに「メンズ・リブ」、「マスキュリズム」などとも呼ばれるものも似たようなものですが、本稿では「男性学」で統一します。また「男性学」の研究者、支持者をここでは「男性学」者と呼ぶことにします)
 さて、今回採り上げるのは「日本のフェミニズム」というシリーズの、その中でも別冊扱いの一冊です。出版は1995年で、やはり当時のフェミニズム界隈で「男性学」が無視できない勢力であったことを伺わせます。
 本書を読んでいて、ぼくは感じました。
『ゆう君ちゃん』みたいだなあ……と。
 と言っても、ご存じない方が大半でしょう。『ゆう君ちゃん』については後にまたご説明しますので、まずは本書のご紹介から始めましょう。

 ページをめくると真っ先に始まるのが、上野千鶴子師匠による端書き、そのタイトルも「「オヤジ」になりたくないキミのためのメンズ・リブのすすめ」。
 内容は本書に収められたそれぞれの論文への一口批評集、といった感じなのですが……このタイトルだけで、何かため息が出てきません? ぼくは出てきました。
 この「オヤジ」になりたくない「キミ」とは誰なのか?
 何故「オヤジ」になりたくないのか?
 そもそも「オヤジ」って何?
 今の目からは次々と疑問が浮かんできますが、当時はそれらの説明は全くの無用だったのです。
 当時、「オヤジ」は絶対悪でした。女性を差別し、搾取し、一方会社社会にその全てを捧げ尽くしながらも、女性たちに逆襲され、その地位を追いやられ、全てを失って朽ち果てるだけの「産業廃棄物」でした。
 一方、当時の上野師匠は、例えば別冊宝島といったメディアで「彼女の欲しい少年たちの味方をする、優しいお姉様」といったキャラづけで小銭を稼いでいました*1。フェミニストは、「オヤジ」のような保守反動男性になりたくはないと望む少年たち、即ち「新男類」*2を導く、女神だったのです。
 さてこの端書き、読み進めると五行目から、

 かれらが「男らしさ」から降りないのは、ほんとうは「男らしさ」から利益を得ているからではないか。たとえ胃潰瘍になっても「カローシ(過労死)」をしても、コストにみあう報酬が還っているからではないか?
(4p)


 と筆の滑りは絶好調。
 いや、しかし、死に見あう利益があるとは言いも言ったりです。
 ぼくたちは企業社会に殺されながら、その生命に見あうほどのメリットを得ているのだそうです。そのメリットが何なのかは、明らかにされませんが。
 それならばぼくたちは主夫になるので、そのメリットは女性たちに譲渡して、是非とも過労死していただきたいと思ったのですが、更に読み進めると

 「カローシ」という言葉は、いまや「スキヤキ」「ジュードー」とならんで、翻訳なしで流通するニホンゴのひとつになった。日本の男たちの生き方は、女にとってすこしもうらやむべきものではない。
(216p)


 などとぬけぬけと書いているので、こちらはひっくり返りそうになります。
 つまり、男は全然いい目を見てないって師匠自身が認めているわけです
 フェミニストたちが「男性は女性を搾取し、一方的に利を得てきた」と語っていたことは全部ウソだったのだと。
 こうなると師匠が冒頭で「カローシ(過労死)」をしても、コストに見あう報酬が還っているからではないか? などと言ってみせたのは、単純にフェミニズムのウソを誤魔化すための、思いつきだと言わざるを得ないようです。フェミニストはこういう、子供でもしないような妙な論理展開をする方が大変に多く、見ていて唖然とさせられます。
 前回記事でも書いたように、当時は「女性が企業社会に入っていくことにより、何かが変わる」との期待がありました。政治の世界ではマドンナ旋風とか言われ、サブカルチャーの世界では少女漫画が聖書のように扱われていた時期です。
 なるほど、「男が女よりも得」というウソはさすがにもう通らない。そこは諦めましょう。しかし「男は女性を搾取し、自身をも破壊してきた」という言い分なら通るかも知れません。上のリクツと総合すると、「しかし女性が企業社会に入ると驚くべき改革がなされ、そのような破壊活動には終止符を打つことができるのだ」との仮定も成り立ちそうです。何だか民主党のマニフェストみたいですが。
 しかし女性が会社に入ることでどのような改革がなされるのか、その具体策は誰も語りませんでした。「ワークシェアリングで世の中がよくなる」的な話は聞きましたが、そんなの、女性が主夫を養うようになってからの話ですよね。
 彼女らが自らの矛盾を脳内でどう処理しているのかは不明ですが、ともあれ、「男性学」が当時の「男性も女性の生き方に学べ」的な風潮の一端であることが、ここからも伺えるかと思います。それは上野師匠自身が「男性学」がフェミニズムの産物であると指摘していることからも、証明できましょう*3。

 男性学とは、その女性学の視点を通過したあとに、女性の目に映る男性の自画像をつうじての、男性自身の自己省察の記録である。
(2p)


 つまり「男性学」とは「フェミニズムに学ぶことにより、男性も救われるのではないか」との願望だったのですが、師匠はよりにもよって、その「男性学」の本の1p目から、「いや男性は(過労死に見あう)利を得ているのだ」と支離滅裂なことを口走ることで、ある種、男性へと肘鉄を繰り出してしまっているわけです。
 非道いです。
 もう泣きそうになりながら更にページをめくれば、得意げに家事や主夫業に精を出してみせる村瀬春樹、たじりけんじ両師匠を紹介し、

フェミニズムに理解のある男たちといえば、まっさきに思いつくのが「家事・育児をする男たち」である。(中略)妻に迫られ、あるいは子育ての状況に強いられ、または自分自身の意思から、不払いの家事労働をになうことで、「二流市民」にドロップアウトする危険を冒す男たちがいる。
(11-12p)


 などと評し出します。
 なるほど、彼らがそこまで正しい存在なら、さぞかしフェミさんは喜んで彼らを「扶養」しているんでしょうなあ、と思ったのですが、意外や意外、男性を養う女性の率はむしろ過去の方が(ちょっとソースを失念したのですが、確か均等法以前の方が)高かったそうです。
 こうなると師匠が「家事・育児をする男たち」を持ち上げて見せたのは単に「男への復讐心」からであり、ホンネは「男と女の美味しい部分、楽な部分のいいとこ取り」をしたいというものであるようです。上の記事でも、また前回記事でもご紹介したように「男性学」者たちが「女性ジェンダーを身につけさえすれば俺も救われるのだ」と一心不乱に家事をしていることを考えると、もう可哀想で泣きそうになります
 余談ながら、そもそもそこまで男性ジェンダーが劣り、女性ジェンダーが優れているのなら、「ジェンダーフリー」など愚の骨頂のはずなのですが、彼ら彼女らがこうした矛盾に目を向けるのは、見たことがありません。
 更に指摘するならば、フェミニストたちは「マッチョなオヤジ」の攻撃性、権力欲を憤死しそうな勢いで憎悪しますが、彼女らの素描するそうした「マッチョなオヤジ」像はあまりにも現実と乖離したものであり、更に、裏腹に彼女ら自身が彼女らが素描する「マッチョなオヤジ」を超えた幼稚な攻撃性、権力欲を発露させることにためらいのない人々であることが非常に多い。ここ、以前にも書いた「男性学」者自身がどんな男性よりもマッチョである、というお話と全くいっしょですね。

*1 「チェリーボーイの味方・上野千鶴子の“恋愛講座”」など。
*2  当時の上野師匠が考え出した、要は「草食系男子」とほぼ同じ意味の言葉です。
*3 もっともここで師匠は日本の男性学のスタートを切ったのが渡辺恒夫教授であると認めています。以前に述べたように、「男性学」者は渡辺教授の業績の美味しいところだけは剽窃し、都合の悪い部分は抹消し、「我こそが一番乗りなり」と名乗る傾向にありましたから、珍しくフェミニストが事実を認めたという点で、ここは評価できます(もっとも渡辺教授の主張については全くデタラメな読解をしまくっていますが)。

 さて、本書では以上に挙げた上野師匠の端書きの次に橋本治師匠の、そして山崎浩一氏の文章が続きます*4。
 橋本師匠の「男の子リブのすすめ」は、(この人の文章は情緒的観念的で極めて把握がしにくいのですが、思いきり端折ると)「男は仕事人間でつまらない、自分自身のために生きようとしないので幸福になれない、女に学べ」的な主張です。まあ、趣味と実益を兼ね、「ホモセックスの勧め」をなさっているのはご愛敬、といったところですが。
 橋本師匠は『枕草子』をギャル語訳してみせる小技で評価されるなど、少女漫画を神のように称揚する当時のサブカルチャー界の流れに沿って出て来た人物です(上野師匠は「女装文体の持ち主」と極めて的確に形容しています)。彼は実のところ「男性学」においては隠れたキーパーソンで、男性が半ズボンを穿くことを提案するなどして、渡辺教授にも影響を与えています。
 その意味でこの文章も、言ってみれば一足先に女性軍に投降したインテリ男性の、「女性軍はこんなにも楽しいぞ、羨ましいかお前ら」という宣言であると、取り敢えずは言えましょう。
 続く山崎浩一氏の文章はそこを踏まえると極めて示唆的です。
 彼は男性誌『ポパイ』の編集に携わっており、同誌の変遷についてが語られます。

 そして特筆すべきは、そこからは「セックス」が慎重に排除されていたことだ。それは「性文化なしに男たちは消費の主体たりうるか」という、ささやかな実験であり、冒険であったように思える。
(53p。ちなみに原文では「消費」に「あそび」とルビが打たれていました)


 本来の『ポパイ』はそうした(言ってよければ)硬派なホビー誌でした。
 それが80年代の中頃から、「女性を口説くための恋愛マニュアル誌」へと変貌を遂げ、類似の『ホットドッグ・プレス』なども登場するようになる。そう、まさに当時の「男性誌」は「恋愛マニュアル誌」だったのです。前回ご紹介した「アッシー君」云々が、当時はそれなりの説得力があったことの、一つの証左と言えましょう。
 しかしこの後、文章は

結局、「アセクシャルな男の子文化」は、以後〈おたく〉的な文化へ収斂するのみとなり
(55p)


 と続きます。まさか恋愛マニュアル誌どころか「恋愛資本主義」そのものがおわコン化し、裏腹に当時としてはあだ花くらいにしか思えなかったオタク文化が日本を制し、世界を覆い尽くすとは、山崎氏をしてすらこの時点では予測だにつかなかったのでしょう。

*4 すみません、露骨に「師匠呼ばわり」したりしなかったりもどうかと思うのですが、山崎氏は「味方」だと思っているので……上の文章は山崎氏の単著、『男女論』にも収録され、これは今の目で見ても得るところの多い好著です。


 ぼくは以前、自治体などで催されている「男性学講座」などが「蕎麦打ち講座」などと同列のものである(だろう)ことを揶揄してみせました。それは定年後にやることのない高齢男性を嘲笑する「男性学」自身も、実のところそれと似たようなものでしかないのではないか、との皮肉でした。
 また一方、ぼくは「オタク文化」を「裸の男性性」と形容したこともあります。それは日本の男性が役割から解き放たれ、初めて得た「自分のための楽しみ」であり、(例えば『エヴァ』が象徴するように)初めて吐露した「自らの内面」でした。
 いや、むろん昔から趣味人はいたのだからこれはかなりの極論ですが、『ポパイ』のホビー路線が上のような経緯を辿ったことを思えば、極論なりに意味が生じてくるのではないでしょうか。
「オヤジになりたくな」かったぼくたちは、「オタク」になりました。
 庵野秀明は『エヴァ』を作る数年前、「少女漫画の世界はアニメを超えている」と絶賛し、しかしながら『エヴァ』である意味、少女漫画を超えてしまいました。
 オタクはフェミニストたちの望んだ「新男類」であり「草食系男子」のはずでした、理論上は。
 ところが、当のフェミニスト様たちは、それをお喜びになっているご様子があまりありません。
 ですがそれは、仕方のないことです。
 ぼくたちは彼女らに向かって、こう言わねばならないのです。
「ぼくたちはお言いつけ通り、自らに正直になりました。あなたたちがフェミニズムを、少女漫画を称揚している間に、あなたたちの与り知らぬ間に、あななたちに学ぶことなく、オタク文化という自らの内面を吐露する大衆文化を築き上げ、世界に広めました。その反面給付として(というよりは同じ原因から導き出された必然として)、ぼくたちは草食系男子となり、女性を養うマチズモをいささか喪失してしまいました。ご希望に添えなくて、ごめんなさい」と。
 後、ついでながらフェミニズムに大いにベットしていた人たちにも、謝っておきましょう。
「ごめん、俺らが全部持ってったから。なれるモンなら、キミらもオタクになれば?」
 考えれば橋本師匠が極めて口汚くオタクを罵っていたことは、なかなかに象徴的です。それはつまり、「自分が内面を獲得するには女装しなければならないのだ」との強迫観念に囚われていた師匠が、「女装することなく内面を獲得したオタクたち」を見た時の、はらわたの煮えくり返るような嫉妬の感情であったことでしょう。
 一方、山崎氏は『週刊アスキー』で連載を持つなど、近年オタク度を強めていたのでありました。

 さて、こうなると橋本師匠は、「男性学」者たちは「ゆう君ちゃん」だった、ということがよくわかるのではないでしょうか。
 というわけで以下、『ゆう君ちゃん』について説明します。
『内気はずかしゆう君ちゃん』は自主制作アニメーション。
 男の娘*5であるゆう君ちゃんが、めそめそしてはお姉さんに甘やかされ、お父さんや昭和軍人に怒られ(というか殺しにかかられ)るという内容です。
「待て、お父さんはわかるが昭和軍人って何だ?」といった声が聞こえてきそうですが、そんなことを言われたってぼくにだってわかりません。ゆう君ちゃんは父親や軍人、地獄の鬼に常に「男たれ」と追い立てられ、しかし母性の象徴たるお姉ちゃんに、常に甘やかされ続けるのです。男の娘物のエロ漫画などでも「年上の女性に甘える」というモチーフは散見されますが、ここまで父性への怯えを執拗に描写するのは特徴的です。
 自主製作アニメにありがちな、言っては悪いですが稚拙な画に稚拙なストーリー展開。その稚拙さが、期せずして作者の精神世界をストレートにこちらへと伝える結果となっています。
 ぼくが本作を持ち出した理由は、もうおわかりではないでしょうか。
 稚拙さのため、作り手の父性、男性性への憎悪がストレートな形で溢れ出た自主制作アニメ――それは、橋本師匠や「男性学」者たちと「完全に一致」してしまった。
 そして、一般的な「男の娘」物にそうした男性への憎悪は登場しない。
「ボクが幸福になるにはオヤジを嬲り殺しにして、お姉様を獲得し、女装しなければならないのだ」との彼らの強迫観念を、オタクたちは否定した。
 橋本師匠が、リベラル男性が、フェミニストたちがオタクを憎悪するのは、オタクのせいで自分たちのマスターベーションイマジネーションが打ち砕かれてしまったからなのでした。
 橋本師匠は「妻と息子がオヤジに愛想を尽かして家を出ていく」たとえ話を得意げに語り、また鹿嶋敬師匠は本書の「捨てられる夫たち 夫無用の時代」という論文でそうした実話を楽しげに語っていますが――こうしてみると「愛想を尽かされ、出て行かれた」のはフェミニストであり、「男性学」者たちだったようです。
 終わり。

*5 言うまでもなく、オタク系漫画に登場する「女装少年」を指します。昨今、リアルなオカマが「男の娘」を僭称する事例が増えてきましたがむろん、男の娘は「萌え絵」の中にしか存在しません。