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  • 風流間唯人の女災対策的読書・第69回 啓蒙エロ漫画家の憂鬱――ぼくが男性差別はないと考える理由

    2025-04-25 17:45
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     第六十九回です。



     炎上を繰り返す藤田直哉『フェミニズムでは救われない男たちのための男性学』。
     第六回ではイーロン・マスクを障害者だとして嘲笑する悪辣さを見せつけてくれました。もちろんこうした差別は左派の十八番。しかしならばぼくたちは、ただ彼ら彼女らを差別者として糾弾すればいいのでしょうか?
     まず「差別」という言葉そのものに「差別性」が潜んでいること、また藤田の同族はこうしてずっとオタクへと卑劣な攻撃を続けて来たことについて、学んでみましょう。

  • 若者を見殺しにする国 (再)

    2025-04-18 19:46
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     目下、『WiLL Online』様で例の札幌で起きた「女性を介抱しただけで逮捕された」事件について書いています。
     どうぞ、応援のほどをよろしくお願いします!

     さて、今回は十一年前の記事の再録。

     動画で赤木智弘師匠について語ったので、「まだまともだったころの師匠」についての記事も読んでいただくことにしました。



     では、そういうことで……。

     *     *     *

     赤木智弘さんについては度々「男性問題の論者」「フェミニズムの批判者」といった風聞を聞き、またフェミニストたちの集い、自分たちにとって煙たい存在に罵詈雑言を浴びせる「キモオタ叩きスレ」*1でも度々名前が挙がっているのを拝見しておりました。
     が、不勉強なことに、ぼくは今まで著作を読んでいなかったのです。
     で、「いい加減読んでおかないと……」と考え、手に取ったのが本書。
     今回の記事は『エヴァ』を今ようやっと知ったヤツが「おまいら、『エヴァ』って知ってるか?」とドヤ顔で語るような今更感がつきまといますが、そこはご容赦ください。

    *2chにはそういうのがパーマネントであるのです。本当にフェミニストはオタクの味方ですね。

     さて、彼はロスジェネ論壇というか、若年層の非正規労働者の代表という感じで論壇に登場した人物です。
     彼のデビュー作となる論文「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」は、ごくおおざっぱに言えば「我々若年非正規労働者層の現状は絶望的である、それをひっくり返すには戦争ぐらいしかない」といった主張をしたものでした。
     しかしそれは衆目を集めるための、単なる「暴論」ではありません。

    問題なのは上層、・中層間の格差ではなく、中層・貧困層間の格差なのです。

     といった発言に象徴されるように、言わば彼の仮想敵は「中間層」。そうした格差間の差が流動化しないことに絶望的な彼は、それをリセットする「希望」として、戦争待望論をぶち上げるわけです(この論文は本書の第四章に掲載されているのですが、ご本人のサイトでも読むことができます。是非、ご一読ください)。
     第五章に進むと、内容はそれに対する左派層の言論人の批判の引用、それへの再反論へと移っていくのですが、見ていて驚くのはそうした旧来の知識人たちが赤木さんの主張を全く理解できずにいる点です。
     少なくとも本書を読む限りにおいて、そうした人々の赤木さんへの反論は相も変わらず「我々弱者が立ち向かうべきは彼ら強者だ」との二元論を振りかざすものでした。要は既に「中間層」となり、「貧困層」を搾取する側に回ってしまっている自分たちという現実に気づくことができず、いまだ「心は弱者」で居続けている図です。でなければ、「バカな右傾化した若者と俺ら頭いいインテリ」という図式に引きこもり続けているかです。ちなみに本書では知識人が若年層を「ネトウヨ」にカテゴライズしたがる心理、そうした左派から若年層が離反してしまう心理も、非常に鋭く分析されています。
     冗談抜きで、今の左翼はこういう現状から目を伏せることに、知的エネルギーの大方を費やしているんじゃないでしょうか
     そうした「わからず屋のジジイども」をばったばったと切り捨てていく赤木さんの姿は非常に痛快であり、魅力的です。
     また一方、第三章や第一章で語られているのは「若年男性」、或いは「弱者男性」をバッシングし続ける世間への違和。ここではまた同時に、左派の論客が「若年男性」を「ワルモノ」として排除しようとするロジックに与しているのを見ての、旧来の左派への嫌悪感も語られます。

     彼らは平等の名の下に、「女、子ども、老人」という「名目上の弱者」を幸せにはするかもしれません。しかし、「若者男性」という「名目上の強者」を幸せになどしないのです。

     という言葉にそれは象徴的に現れており、これはぼくが繰り返す「プアファットホワイトマン」の理論、つまり「白人男性」という先天的な強者の属性を持ちながら、後天的に弱者となった者を、「意識高い系」の人たちは容赦なくいじめ抜くのだ、という指摘と全く同じですね*2。
     本書を読んでいくと目を引くのは「弱者男性」というタームです。
     昨今、ネット上で時々見かける言葉ですが、ひょっとして初出は赤木さんだったのでしょうか?(もし違うというご意見があればご一報ください、無知ですみません)*3
     考えると一昔前、『もてない男』において小谷野敦博士は「もてない男」を「性的弱者」と呼び、「男のクセに弱者を名乗るとは何事ぞ」とバッシングを受けました。本田透さんもまた、「日テレ版ドラえもん」くらいの、「漫画版ハルヒ」くらいの勢いで、オタ史の黒歴史とされてしまいました。闇の勢力にとって男性を「弱者」と認めることなど、絶対に許すことのできない暴挙であったからです。
     その時にせよ昨今の「弱者男性」バッシングにせよ、何、「我こそは弱者(或いはその味方)」と信じる者たちの「お前に弱者としてのアイデンティティや利権を渡してなるか」との必死の形相での逆ギレなのですな。

    *2ここは本書においても、

     つまり、左派の人たちは、「固有性に対する差別」と戦うことを重視するあまりに、「固有性によらない」差別に対する理解が浅くなっています。

     と指摘されています(言うまでもなく「性別」「人種」などが「固有性」にあたるわけですね)。
    *3ここは以前、当人に発案者ではないと聞いたことがあります。

     繰り返す通り、本書はあくまでロスジェネ世代の貧困を問題にしているわけで、「女災」とはテーマがそもそも異なります。
     が、しかし同時に上に見た通りそのロジック、スタンスは極めて「女災」と被る部分が大であり、それは「私は主夫になりたい!」と題された第二章に最も強く現れています。
     赤木さんは自らのブログで「主夫になりたいので養ってくれ」といった旨の告知をしたところ、リアクションが芳しくなかったことを語り、

    私が「女性の既得権益に対する略奪者」のようにうつっていたのだと思います。

     と想像します。結婚というものは、弱者女性が強者男性に養ってもらうという弱者救済のシステムであり、ならば経済的に余裕のある女性は弱者男性を「主夫」という形で養うべきなのではないか、というのが赤木さんの考えなのです。
     しかし……それであれば、主夫という存在に対して憤るのはそれこそ「花嫁修行中」の「ニート女性」だけで、バリバリ社会で働くキャリアウーマンはむしろ、「家事を担当してくれるとはありがたい」とばかりに、彼へとオファーを出してきそうなものではないでしょうか。そして少なくとも本書を見る限り、そうしたオファーはなかったわけです。
     赤木さんは

    我々は食うや食わずで首を括る未来が待っている、「だからこそ私は、弱者男性の主夫化を真剣に考えるのです。

     ともおっしゃいますが、しかしぼくがちょっと感じたのは、そもそも主夫になるのであれば、ある程度女性とも交流が持てるだけのコミュニケーションスキルが必要とされる。そういうヤツはそもそも、負け組にはなっていないのではないか、という疑問です。
     また同時に、「主夫」という回路を開くことを怠ってきたことが、左派の欺瞞であり、怠慢であるともおっしゃいますが……う~ん、それも間違いではないと思いますが、ここはぼくもちょっとだけ左派に対して、同情を憶えました(詳しくは後ほど)。
     一方、『負け犬の遠吠え』に噛みつくところなどはまさに『電波男』そのもので、痛快です。赤木さんは酒井順子師匠の文章の端々から覗く女性の甘えを、

     これでは、「どうせ女性は結婚したら退職するのだから、最初っから入れ替え可能な程度の仕事しか与えないようにしよう」とか、「男性のほうが家族を養う義務があって大変だから、同じ能力の男性と女性だったら男性を雇おう」とする会社の判断は、就業差別などではなく、きわめて妥当なものだと思わざるを得ません

     と喝破します。
     しかし彼は同時に、そうした男女差を社会的文化的性差であろうともしています。
     つまり――本当のホンネはどうなるかとなると、ぼくには窺い知れないのですが――本書を読む限り、赤木さんは「弱者男性の主夫化」の構想を結構マジに考えていらっしゃるように読めるのです。
     ひょっとしたら、「希望は、戦争。」と語った論者が、戦いに依らない一縷の望みを、「弱者男性主夫化構想」に見出したのでしょうか――!?

     しかし、とぼくは思います。
    「女らしさ」というものが社会的文化的性差であり、覆すことができるものかどうか、ぼくにはわかりません。
     とは言えこの二十年間、フェミニズムが行政を牛耳り、女性の社会進出に対して夥しいエネルギーと気の遠くなるような予算を費やしてきたことは明白な事実です。にもかかわらず、「婚活」ブームに見るように、女性の専業志向は収まるどころか加速しているようにさえ見えるのが現実。フェミニズムのしてきたことは全くの徒労だったわけで、上に「左派に同情を覚えた」というのはそこです。むろん、間違った方向に何十兆という血税を使われた国民、フェミニズムに無理強いをされた女性たちの方が遙かに気の毒ではあるのですが。
     いずれにせよそんな状況で男性の「主夫化」に現実味があるとは、ぼくにはとても思えません。
     一方、件の「負け犬」を自称する女性たちが実際のところ「強者女性」ではないかとの指摘は、結構あちこちでなされていたように思います。
     赤木さんもまた、酒井師匠の「ブランドもののお洋服を買っても満たされない、哀しいワタシ(大意)」といった呟きに、「俺はユニクロの服しか着れねーぞ!」と憤ります。いや、気持ちはわかりますが、あなただってブランドもののお洋服なんて興味ないでしょうに*4。酒井師匠が嘆いているのはいいお洋服を着てもイケメンにナンパ一つされない我が身について、なのだとぼくには思えます(ちなみにイケメンとは俗に美男子の意味と捉えられることが多いようですが、ここでは胸ポケットから札ビラをはみ出させている金持ち男性を指します)。
     要は「負け犬」はあくまで経済上のバトルではなく恋愛上のバトルにおける「負け犬」なのだから、赤木さんとはそもそも、スタンスが違う(昨今のこの種の議論は意図的にかどうかは知りませんが、常にここを混同しているように思います)。
     酒井師匠の嘆きは(本人がどこまで自覚的かはわかりませんが)「経済強者になったはよかったが、それと引き替えに性的弱者にもなったでござる」という嘆き、「お嫁さんになりたかっただけなのに、オオカミの甘言に惑わされ企業社会へと連れて行かれてしまった赤ずきんちゃんの嘆き」だったのです。
     要するに、フェミニズムによって間違った配分をされたがため、赤木さんと酒井師匠は、いや、全地球の男性と女性は共に不幸になっているわけなのです。
     解決の手段は、論理的には二つしかありません。
     つまり、女性を家庭に戻すか、或いは主夫を娶らせること。
     いずれも強制はできないでしょうし、女性のマジョリティの意向を考えれば、前者の方が遙かに合理的でしょう。幾度も例に出しますが、日本経済新聞2006年1月16日号夕刊によると、翌年の就職を目指す大学三年生女子516人へアンケートを採ったところ、「結婚してもずっと一線で働きたい」と答えたのは僅か5.2%だったと言います。繰り返しますが、大学三年生です。これが短大や高卒を含めると、一体どういう数字になるのでしょうか(なのに、にもかかわらずこの新聞記事は、そんな結果を「意識の高い学生は少数派だ。」と、「私の考えに賛同しない者は悪だ」とでも言わんばかりに難癖をつけておりました)。
     女性に経済力を持たせることはこの二十数年、あらゆることを犠牲にして断行され、結果、若年層では女性の収入の方が高いとの逆転現象まで起こり、その上で弱者男性を娶った女性は限りなくゼロに近いという現実を考えれば、後者は実現性がないと考えるべきではないでしょうか。
     しかしこんなことを書くのですら、今、ぼくは勇気を振り絞っています。
    「女性の社会進出」という絶対正義を疑うことは、現代社会ではタブーですから。
     いかに女性自身がそれを望んでいないとしても。
     この「宗教的禁忌」からぼくたちが解き放たれ、オカルト的な「宗教裁判」がこの世から消える日まで、そうしたことが声高に叫ばれることもまた、ないのでしょう。
     やはり「希望は、戦争」しかないのかも、知れません。

    *4余談ですが、ぼくは「ブランドファッション」と聞く度、バブル期に誰かが描いた「渋谷に一流大学の女子大生をモデルとしてスカウトに来たAVスタッフが、自分の着ているブランドもののお洋服を自慢する」というエロ漫画を思い出し、ついつい笑ってしまいます。

     さて、というわけで再び「希望は、戦争」に戻りましょう。
     この「暴論」では戦争のメリットとして「経済のリセット」と同時に、「お国のために戦って死ぬ」ことによって得られる自己承認欲求の充足についても言及されています。
     こうした「暴論」は「若いヤツはネトウヨだ」と短絡したまとめをされてしまうのではないか、左派がそのように短絡してこっちを叩く大義名分する危険はないか、との不安を憶えないでもありません。が、赤木さんはかなり左派寄りの人であり、少なくとも右派的な愛国心から上のようなことを書いたとは思えません。
     恐らく正確に指摘した者は少ないと思うのですが、この「暴論」からはむしろ、左派が今まで男性を貶めてばかりきたこと、男性の自己承認欲求を蔑ろにし続けてきたことへの深い怒りが垣間見えます。
     圧巻なのは終章である第六章。ここで赤木さんは「死ぬ死ぬ詐欺」を例に取り、「可愛い子供という存在には多くの寄付金が集まる」「裏腹にオッサンはそうした愛され方を全く期待できない」ことを嘆きます。子供の臓器移植にかけるコストで何十人ものフリーターを救える、しかし、

    主観的な募金者は、フリーターなんかよりも、かわいい子どもを選んでしまう。こうして募金という「良心」すら、偏ってしまうことになります。

     というわけです。ぼく個人は、まあ子供が贔屓されること自体は仕方ないなとは思うのですが、この「子供」を「女性」に置き換えれば、いかに多くの「善意」が、「良心」が、弱者男性を殺戮し続けてきたかが窺い知れるのではないでしょうか?
     この終章の最後の節ではやや唐突に「アメリカにおいて『拡大家族計画』という疑似家族を人工的に作り出す政策が施行された」という小説を引用し、「役割が欲しい」、「自分のアイデンティティが欲しい」と切望するところで終わっています。

     そう、繰り返す通り本書のテーマは貧困層の労働問題なのですが、しかし通奏低音としてそこには、『電波男』につながる切実な叫びが流れ続けているのです。
     それはつまり、弱者男性としてこの社会のどこにも居場所がない者の、火を噴くような怒りと哀しみです。

  • 『ドラえもん のび太の絵世界物語』ネタバレなし感想――エーフー、教えてくれ。俺たちは、後何回「幼女つえー」と言えばいい?

    2025-04-11 19:58
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     ドラは俺に何も言ってはくれない。教えてくれエーフー!
     というわけで劇場版『ドラえもん』感想のコーナーでございます。
     一応ネタバレなし。まずい部分は○と伏せ字で表現しています。
     では、そういうことで。

     いや、面白かったです、今回。
     そもそも藤子・F・不二雄原理主義者のぼくにとって、基本、アニメ版なり何なりには点が辛いです。毎年の映画版も、あまり高得点をつけることはありません。
     去年の『地球交響楽』も、世間的評価は高いですが、あまりキャラに感情移入できませんでした。
     一昨年の『空の理想郷』は明らかな駄作。全体主義国家をテーマとし、(子供たちをさらってくるというモチーフから)Colaboがテーマとも言えた作品ですが、残念ながら意あって力足らず。
     比較的近年で評価の高い『月面探査記』もぼくとしては低評価。やはり「ゲストキャラとの友情」などに感情移入できなかったことに加え、好みの問題とは言え、「異説倶楽部メンバーズバッチ」という「とっておき」というしかない道具を前面に押し出した作品にもかかわらず、そこで期待してしまう面白味を一切、提示してくれなかった。ぶっちゃけ、F作品でこれはなあとしか。最強怪獣を出しながら全然暴れさせない『ウルトラマン』みたいなものです。

     ――さて、本作品。
     今回のヒロインは、クレア姫というのび太たちよりもかなり幼い少女です。
     彼女が○だったというのはなかなかやられたという感じでしたし、もっともその後あんまりにもすぐ、○って来るのはどうかと思うのですが、そこはまあ、しょうがないかなあとも。それにその展開も理屈がつけられ、全然ご都合主義になっていないのはエラい。
     ちょっと不満だったのはあのイケメンキャラで、恐らく「お母さんのための、一般的に知名度のあるイケメンタレント起用」枠。その弊害でちょっと芝居がよくないなあと。ただ、これは「ドジっ子」として描かれており、そこはいいかなと感じました。ぼくが思うにイケメンの所属事務所は当然、「いい役で出せ」と言って来たはずで、そこを演技がヘボなので作り手も急遽「ドジっ子」として演出、しかし事務所に難癖つけられないよう、その「ドジっ子」ぶりもギリギリ明示されないレベルで描かれた、とそんな事情だったんではないかと。ただ、だったらそこははっきりと「頼りにならないなあ」といったふうに描いた方が親しみも感じさせ、子供の受けもよかったと思うんですが。
     悪役のあの人は、絶対大塚周夫辺りがアテるべきキャラですが、演技はもうちょい。やはりお笑いタレント枠かな。
     画家志望であったパパの使い方も決してひけらかすでもなく、好印象。オチの小技(テレビニュースの下りです)もいかにもFテイスト。外注ライターのマスターベーションではなく、F愛に満ちた脚本だったと思います。
     とまー、いろいろ書きましたが、一番重要なのは先にも書いたクレア姫がちゃんとこちらの感情を揺さぶってくれ、魅力あるキャラとして描かれた点。
     これは明らかに前作のゲストキャラであった「幼女」が受けたので、そこをプッシュしようという意図があったと思われます。
     が、前作以上にクレアは生き生きと描かれていました。現代社会へと放り出され、自分の世界との様子の違いに驚くというシーンの軽快な演出で、一挙にこちらの心を鷲掴みにする辺りは見事。そして、それ以降も基本、このクレアが物語の中心となり、話をぐいぐいと牽引していくことになるわけです。
     上にもあるように従来、のび太たちと「ゲストキャラとの友情」がどうしても重視されていたのに対し、あくまで本作はクレアの物語と割り切り、話としてはクレアと(幼なじみである)画家の少年との交流がメインにしたことが特徴的です。のび太やドラえもんたちは今回、助っ人として割り切った感じです。
    「異世界の友人との束の間の友情」というのももちろん、テーマとしては決して悪くありませんが、ある種のマンネリは避けられないし、そこをなおざりに描くとクライマックスで「友だちじゃないか!」といくら言っても空々しい。結果、(前作の幼女が受けたという追い風もあり)ゲスト中心の作劇が考えられたのでしょう。

     さて、ともあれ面白い作品で、そこに何の不満もありません。
     上にあるようにFテイストをちゃんと押さえているという点でも好ましい作です。
     ただ……ここでぼくは八〇年代のオタク文化黎明期以降、ずっとドラマの中心は「女の子」が担っていたという傾向について、思いを馳せずにはおれません。
     大雑把にまとめるなら、六〇年代辺りの白黒アニメなどの頃は少年ヒーローが盛んでした。彼らは例えば銃を持つ、車を運転するなど「小型の大人」として描かれ、実のところ大人と子供の境界はそこまでありませんでした(『ドラえもん』についてFが「大人の介入を認めない」作品であると述べているのと対照的です)。
     七〇年代辺りの学生運動、政治の季節の頃から、「若者」がヒーローとなります。『ウルトラマン』でも「地球防衛軍の上層部という名の親」に反抗するといったテーマが描かれるようになりました。
     八〇年代に空前の『ドラえもん』ブームが巻き起こったのは、男の子が目指す目標が失われたがため、のび太という「何もしない世代」が支持を得たからということがいえましょう。この頃黎明期を迎えつつあったオタク文化では(やはり、主体足り得なくなった男の子たちの代わりに)女の子がヒーローとして活躍しました(あ、ムツカしい文章では「戦闘美少女」と書かねばならんのでしたっけ?)。
     もっとも、この女の子はあくまで男の子たちの「理想的自己像」としての少女像だったのですが、九〇年代になると「ホンモノのオンナノコ」がヒーローとなり、〇年代以降はテレビドラマで結構妙齢な女性が、何か、活躍するドラマが受けるといった、男性からすると微妙な事態に。
     これは例えば、『セーラームーン』がまず、オタク少年が量産していた「美少女ヒーロー」を女性側が「簒奪」することで生まれ、しかしそれを世間が「若い女性が描いた強い女性像」として見ていて退くほどの持ち上げ方をした、という経緯が象徴しています。
     そしてそれはいつも言う通り、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』などにおいて、オタクが自身の理想像を美少女に仮託して描いているうちに、それに乗っかった女性クリエイターが「自身をモデルにしたオタク女が主人公のコンテンツ」を描き出し、世に溢れるようになったという形で、リプレイされました。
     もちろん、現代社会における男性の身の置きどころのなさを考えれば、これは仕方ないというならば仕方ないことでしょう。
    『セラムン』は(ことにアニメは)優れた作品であり、上のような理由からけしからぬ、といいたいわけではありません(ただ、美少女戦士たちは今見返すとちょっと驚くほどのビッチどもで、ここでセーラーマーキュリーが男の子たちの支持を一手に集めたのは、比喩的に言えば、彼女だけは作り手が男の子たちに「残してくれた」枠だったからなのだ、と言えます)。
     ただ、とにもかくにも八〇年代、男の子は「なすべきこと」がなくなり、主役の座を女の子に明け渡した。
     しかしだからこそ逆説的に、『ドラえもん』という「何もしない男の子」の物語が当時、絶大なブームを巻き起こしたのです。

     よく言うように、『ドラえもん』の主役はあくまでのび太で、本作は「のび太の私小説」であり、なすべきことのない、弱い男の子は幸福になれるのかをテーマにした作品でした。
     そこで何もしようとしないのび太の欲望を表面化させるガジェットとして、「ひみつ道具」は存在していました。作品のほとんどがのび太が外界から帰ってきて、部屋にいたドラえもんが迎える、という構造であることが象徴するように、『ドラえもん』そのものがのび太が「もしこんなことができたら」と夢想している、妄想の物語であるとも言い得る。しずかちゃんが「トロフィーワイフ」だと批判されたりもしますが、「男の子の妄想世界の話だからしょうがない」のです。
     ……さて、ところが、です。
     男の子に「モチベ」がなくなったのでしょうことなしに「ひみつ道具」でそれを引き出すという実験を繰り返していた本作が、今回の映画でとうとう女の子に「簒奪」されてしまったわけです。
     クレアというのは強烈な自我と明確な目的意識とをもって、物語を誘導していく、本来の活劇の主役としてふさわしいキャラでしたから。
     いえ、もちろん、本作は『映画ドラえもん』です。
     原作を見ても、通常の『ドラえもん』と映画版(厳密には映画の原作となる漫画)である『大長編ドラえもん』はまた完全に構造の異なった作品として描かれていました。
     後者は何しろ活劇ですから、のび太以外のキャラにもスポットが当たります。だからジャイアンはいいヤツになるし、のび太も「映画になると格好いいことを言う」のです。
     だから別に、本作がけしからぬといっているわけでは全くない。
     ただ、それにしても、やっぱり、ぼくにはこれが「弱い男の子の私小説」が少しずつ解体されていく現場であるかのように思われるのです。
     それはこの十年ずっと、進行してきた事態であり、「ああ、ここでもか」と心の片隅で思わずにはおれないわけなのです。