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オタク文化とフェミニズム(その2)
さて、続きです。
前回記事を未読の方は、まずそちらからお読みいただくことを、強く推奨します。・何かルッキズムみたいなことが書いてある、本
その前回の最後の辺りで全体に対する評は既にやっちゃったのですが、以降は個別に細かいツッコミどころを見ていきたいと思います。
第8章は「娯楽と恥辱とルッキズム」と題され、「ルッキズム章」とでも評するべきもの。そう、前回にも述べたように田中師匠にはルッキズムに対する大いなるこだわりがあり、それ故に「女性が男性アイドルをまなざしていること」も問題化したいという気持ちは、確かにあったのでしょう。
ところが本章において、師匠は延々「女は見た目で差別されてきた」という恨み節を炸裂させるのですが、驚くべきことにここでは男性アイドルのことも、それを「まなざしている」はずの女性ファンのことも、全く触れられていません!
これは初出がアイドルと関係のないテーマで書かれたものだったがためと思われますが、ならそもそも本書に入れるべきではなかったでしょう。ぼくが前回、師匠がBL作家としての身バレについて難詰されても、悪びれずに本書を掲げるだろうと書いたのをご記憶でしょうか。
その理由はもうおわかりかと思います。師匠は本書の中でそれ(女性の、男性への搾取)について考える素振りは見せているわけですから。
もちろん、素振りは素振りに過ぎませんが、ぼくたちも「女だって男性性を搾取しているじゃないか」式の物言いをするのではなく、「見る/見られる」の男女の非対称性は普遍的であり、それ自体を否定すべきではない、と主張すべきなのです。
例えば前回挙げた『セクシィ・ギャルの大研究』からして、上野師匠が「男のスケベ心を利用して、自らがまるでセクシィ・ギャルであるかのようにミスリードして、地位を得た」、「パパ活の書」に他ならないのだし、いかに田中師匠が「女性は男性アイドルをまなざしているぞ」とはしゃごうとも、女性が着飾る(つまりまなざされたいと考える)傾向は厳然としてある。
確かに、「女性がイケメンをまなざすようになっている」というのもそれはそれで正しいのでしょうが、それが決定的な傾向かとなると、疑問です。例えば、バブル期はやはり似たような言説(女が男性化しているぞ!)が流行し、ジャニーズアイドルが脱いだりしたのですが、結局、男性ヌードは普遍化しませんでした。
つまり、結局「男が女をまなざす」ことこそが普遍的であり、それは女も望んでいることで、別に「搾取」などではない。フェミがそもそも、根本から間違っていることを理解し、その言説の無意味さを説いていく必要があるわけです。・やたらと自己評価の高い女子の書いた、本
――さて、そのためにも、もうちょっと本書について、深く切り込んでいきましょう。
実はぼくは時々思うのですが、女性のアイドルファンって、とんでもなく自己評価が高いんじゃないでしょうか。
本書においても、まず「推し」という言葉が世を席巻していると滔々述べられていることを指摘しましたが、そこには「世間の注目を浴び(た気になっ)て有頂天になっている田中師匠の姿が、どうしたって思い浮かびます。彼女も、まなざされたいんでしょう。
にもかかわらず、師匠は飽きもせず、繰り返し男女の「見る/見られる」の権力関係がどうのこうのと書きますが、そう言ったその直後、オリックスファンの女性が自らを「オリ姫」と呼ぶという豆知識を披露します(165~166p)。
そこを読んで、ぼくはため息が出ました。
アイドルファンの男性が自身を「○○王子」などと呼ぶことが想像できるでしょうか。
つまりこの「姫」という表現が既に、女性が自ら、主体的に、「まなざされる」という女性ジェンダーを選び取り、あどけなくその快楽に酔っていることの証拠なのです。
さらに言えば、「推し」という言葉が既に、女性のアイドル消費が女性ジェンダーから一歩も出ていないものであったとの「答え」を最初から提示していたのです。
そう、「萌え」は「感情」を示す言葉ですが、「推し」は「行為」です。好きなアイドルを応援することですよね。能動的「主体」があるんです。
こう言うと師匠たちは「女性が主体性を獲得し、云々」とドヤ顔になることでしょうが、ちょっと待ってください。これって要するに「旦那に弁当を作ってあげること」の代替行為なんですよ。
「萌え」オタにもまた、散財することを誇るような傾向が、ゼロではないかも知れません。が、「推し」にはそもそも、「貢ぐ」ことを誇るような心性が最初から内包されている。
本書では「モンペ」という言葉が紹介されています(179p)。「モンスターペアレント」の略語ですが、しつこく「布教」活動をするファンが、自らをそう称することがあるそうなのです。
「自虐的、換言すれば自己相対的ではないか」と感心する人もいるかも知れませんが、さて、どうでしょうか。要するにアイドルファンが「モンペ」という時、アイドルを「息子」に準え、息子への愛情故に暴走する自身を、そのように形容している。ここからはどこか浮かれた感じを、ぼくは受けます。言い換えれば「モンスター」をつけて謙遜することで、彼女らは自身を(ある意味、傲慢にも)「アイドルの母」だと自称しているわけですね。
前回、師匠が「推し活」を「労働力の搾取」とか何とか宣っているのをご紹介しましたが、芸能事務所にしてみれば「あんたらがやりたがるからやらせてあげてるのに、何を」といった気分かもしれません。
そう、「推し活」とはケア労働であり、「女の悦び」の代替行為でした。
「萌え」にもモテない男の代償行為という面はあり、一般のアイドルファン女性を馬鹿にするつもりは、ぼくには毛頭ありません。しかしフェミニストがそうした本質に気づくことなく浮かれた書を著してしまうのは、果たしていかがなものでしょうか。
ましてや、非婚化、少子化そのものがフェミニズムの「成果」であることを考えるならば……。
アイドルファンとは、アイドルを「旦那」に、「息子」にしている存在です。
そして、本書から立ち上がってくる彼女らの自己像は、「アイドルを応援し、キラキラ輝いているワタシ」というものです。
おそらくアイドルが輝いている以上、応援している自分たちが輝いていないわけがない、というリクツなのでしょう。それは丁度、旦那の地位によって井戸端会議におけるヒエラルキーが決定されてしまう奥様方と、全く同様に。
つまり、仮にアイドル愛好を「搾取」であるとしても、男女でその仕方は全然違う。
先にアイドル愛好は搾取でないとしましたが、仮にですが男性のアイドルファンが女性アイドルのパンチラを盗撮したら、それは「搾取」と呼ばれるべきかは措くとして「悪いこと」でしょう。
しかし女性というものは女性ジェンダーのネガティビティについて全くの無頓着で、男性アイドルに対して「「搾取」と呼ばれるべきかは措くとして「悪いこと」」をしたとしても、無自覚であることが多いのではないか……と思えます。
アイドルに熱中することを代償行為と気づけず、軽率に輝かしい自己像を抱くこともまた、(自分や周囲を不幸にしかねないという意味で)「悪いこと」の範疇ではないでしょうか。・ジャニーズ問題から目を背けている、本
その証拠に――とつなげますが――第6章「ジャニーズ問題と私たち――性加害とファン文化の不幸な関係」を見ても、そこに「反省」はありません。
そう、ジャニーズ問題について、こんなの六〇年代からずっと言われ続けてきたことで、多くの「ジャニオタ」も、知りながら素知らぬ顔でファンでいたのではないかと批判されました。事件が騒がれる前(といっても『文春』によってタレントたちの証言がとっくに出ている段階で)柴田英里師匠はジャニーズアイドルに軽薄に萌えながら、「噂は噂にすぎない」などと一蹴していました。
柴田英里「新緑のアクアリウム──ジャニー喜多川の少年愛」を読む翻って田中師匠は「私たちのまなざしそのものが問題の本質を隠蔽させていたのではないか(大意・143p)」などと言うので、「あ、満更でもないな」と思っていたら、それ以降は延々芸能事務所やマスコミのあり方へのご意見が続きます。
本当にちらっとだけ、ファンも悪いようなことも言っていますが、何かそれも、女性ファンを貶めていた世間が悪いみたいなハナシになっていきます(154p)。しかも、アイドルの応援を軽蔑に値する文化であると断じ、ファンの女性を侮蔑し、ミソジニー(女性嫌悪)と結びつけた悪感情に満ちた言葉が、ファンコミュニティの外側から雨あられと飛んでくる。内情を知らぬ者たちに、別のファン文化と比較され、優劣を付けられもする。
(155p)何かよくわかりませんが、全て男のせいということになったみたいです。
しかしね、そこまでアイドルファンをやってるだけで叩かれるのが本当なら、それについて検証する本を出しゃいいと思うんですけどね。
「別のファン文化と比較され、優劣を付けられ」るって、幼い少年たちがジャニーに受けてきたことを考えれば、どう考えても、どうでもいいような、鼻で笑い飛ばされるようなことでしかないし、こうした「被害感情」も責を人に押しつけるため、急遽発動したものじゃないでしょうか。
「ジャニオタ」の元ジャニーズの告発者への攻撃についてはさすがにスルーできなかったのか、ちらと触れてはいますが、自殺者を出したことについては言及がありません。結局、フェミは誰も少年への性的虐待について真摯に向きあうことはなかったわけです。この問題をジャニーズに特有のものとせずに日本社会に蔓延る普遍的な課題として捉えていくためには、エンターテイメント業界でこれまで浮かび上がってきた女性による性被害の訴えもまた過去にさかのぼって検証し直す必要がある。
(158p)あぁ、そうですか、よかったですね。
・何か「男の娘」とか書いてある、本
――さて、最後にちょっと、第9章についても触れておかねばなりません。
オタクについての言及がほとんどない本書ですが、この章ではコスプレが、しかも「男の娘」についてが妙に子細に語られます。特に、若くてかわいくてきれいな女性キャラクターや萌え系の女性キャラクターのコスプレを男性がした場合、それは「コスプレ」であるのと同時に「男の娘」でもある。
(221p)えええええぇぇぇぇぇ~~~~~っっっっっ!!!!!?????
何故!? どうして!?
萌え系の二次元のキャラを「男の娘」と呼ぶのであって、そのコスプレはあくまで「男の娘」のコスプレ、です。異性愛の対象を自身の身体に憑依させるということよりも、むしろ、もっと直接的に「オンナノコ」になり、むしろ「異性」である男性たちに可愛がられたという受動的な欲求の発露である。
(同p)えええええぇぇぇぇぇ~~~~~っっっっっ!!!!!?????
何故!? どうして!?
根拠は一切、示されません。
女子スペースに侵入し、性犯罪を繰り返すオカマが後を絶たないことを考えてもわかるように、「女性化願望」と「同性愛」の間には溝があるわけで、そこを単線的につなぐ師匠の考えは全く当を得ていないでしょう。
ここでは「自分を男の娘だと思い込んでいる一般オカマ」についてひたすら書かれるばかりで、「男の娘」については全く言及がありません。例えばブリジット、例えば綾崎ハヤテ、例えばローラ・ローラなどについては、潔いほどに。本書のタイトルにオタクと冠されながら、最後までオタクについて全く書かれないことと、「完全に一致」して。
これはそれこそ上にも挙げたブリジットが数年前、「トランスにさせられた」のと同様の、オタク文化のLGBTによる誤用であり曲解であり簒奪です。
今は亡き遙かなる男の娘へ案の定、師匠はLGBTアライなのですが、それにしても一体何をどのようにすれば、ここまで卑劣で陰惨で残酷なことができるんでしょうか。
・何か自分語りで締められる、本
女オタクの嗜好性は、規範的な女らしさとの切断の回路だ。しかし、同時にそれは、切断されたものとのオルタナティブな関係を再生する試みにもなりうる。
(227p)本書の最終章である第十章の書き出しです。
どう思われたでしょう。
この十章では急に情緒的な自分語りが始まります。活字中毒でロジカルにしゃべる女の子が小・中学校の女子のグループに受け入れてもらうのは、極めて困難なことだった。本やマンガやアニメやロックやSFが好きで、解釈論ばかりを繰り広げ、あげく「結婚制度には反対」とか言っていた私は、今思い返すとあまり同級生ウケの良い子供ではなかった。
ガキっぽい趣味の同年代の男の子たちには嫌われていたし、バレンタインの手作りチョコレートにおまじないをかけているような同年代の女の子たちにも、あまり好かれてはいなかった……と思う。
(同p)いかが思われたでしょうか、みなさん。
オタクというのはナイーブで聡明な存在であり、気持ちはよくわかるし、自分も『エヴァ』を観ながら、似たようなことを考えていた気もします。
あ、ロックとかSF趣味を誇らしげに開陳している辺りは赤面してしまいますが、それはまあ、世代的に仕方がないのだと、許してあげてください。
ともあれ師匠は、そんな自分を、オタク趣味がいかに救ってくれたかという追想を始め、それそのものにはぼく自身も共感を覚えます。
問題は、男の子たちをガキっぽいと貶め、また自分以外の女の子たちの恋愛脳を蔑む彼女が、本人が言うほどに「ロジカルにしゃべる」女の子だったら、こんな論理性に欠ける本を書いたりはしないのではないか、ということですが。
つまり、田中師匠が自分の「非リア充」性の原因を自分の知性に求めているのに対し、いささかの疑念が湧かないではないわけです。
冒頭の「女オタクの嗜好性は、規範的な女らしさとの切断の回路」というのは要するに「オタク女子は通常の女らしさを持っていない」との主張です。何しろBLなどは「男しかいない世界」ですから、何とはなしに騙される人もいるのですが、ここまであどけなくアイドル萌え話が開陳された後では、それを信じる気になれるでしょうか。
続いて「切断されたものとのオルタナティブな関係を再生する試み」とあるのは、要するに「BLで女のいない世界を描くのもいいけど、三次元のアイドルに姫扱いされるのもいーな」という意味なのです。
これは同時に、バレンタインの手作りチョコレートに夢中になっていた他の女子たちを見下しているように見えた師匠が、実は羨望していたのだ、ということでもあります。
同章では十年ほど前に2.5次元の世界(要するに漫画などを原作とするミュージカル)にハマったことが書かれており、まあ、オタク趣味が普遍化したおかげでホストクラブに好みのイケメンが溢れるようになってよかったねと、いえ、「ホストクラブ」というのは言葉のアヤですが、要するに師匠はそういうことをおっしゃっているわけです。
言うなら上野千鶴子師匠が結婚しながら「結婚制度は悪」と言っているようなもので、こちらとしては「完全敗北宣言だな」と思うのですが、おそらくご当人にその自覚はない。
フェミニストは男が好きで好きでたまらない、フツーの愚かで可愛いオンナノコ(の、なれの果て)でした。
だから、市場もまたその欲望を汲んで、ホスト――じゃなくて、何だ、その、イケメン君たちを用意してくれました。
その快楽を存分に享受しながら、今日も彼女らは相も変わらず十年一日のフェミニズムを、念仏の如く唱え続けるのでした。
めでたしめでたし。 -
オタク文化とフェミニズム(その1)
目下、『WiLL Online』様で新しい記事「松本人志裁判取り下げをどう見る?」が掲載されています。
卑劣なパオロ・マッツァリーノのデマゴーグも一刀両断にした、おそらく本件に一番切り込んだ記事となっていることでしょう。
目下、第二位。どうぞ応援をよろしくお願いします!さて、本題は今話題の田中東子師匠のご著書です。
田中師匠については「東大教授のくせに変名でBLを(商業出版でも)書いていたこと」「そのくせ萌え表現は燃やしていたこと」が難詰されました。
前者に(だけ)着目し、「何を書こうが自由ではないか」と擁護する向きが(表現の自由クラスタ方面に)いますが、問題は後者と整合性が取れてないということであり、そこを突っつかれるのは当たり前です。
ただ、もし仮にその点について田中師匠に問い質したら、師匠はおそらく本書を自慢げに掲げてくるのではないかと思います。
まあ、その辺については後にゆっくり語るとして。
実はぼく、この本、騒ぎの前にたまたま購入していました。
いや、やん師匠という御仁が本書を批判していたのを見て、ついつい尼でポチったのです。
やん師匠は以下のように宣っていました。「はじめに」から偏見が多くて辛い。オタク文化は男が異性愛を語り消費するものと決めつけ、その他のオタクたちの存在を矮小化し頭を踏みつけながら、男オタクたちは上で私は下にいると思い込み拳を振り上げている。そんな本なのである。
(https://x.com/skd7/status/1839284656379945458)そんなこと言ったって、「オタク文化は男が異性愛を語り消費するもの」なのは自明であり、だからこそ異性愛を全否定するフェミはオタクの萌え表現をここ十年来、ずっと燃やし続けてきた。
だからぼくはこれに対して「正しいじゃん。」と書いたのですが、そうしたらやん師匠、速攻でこっちをブロックしやがりました。
まあ、彼のことは詳しく知りませんが、フェミ信徒なのでしょう、きっと。
さて、ともあれそんなこんなで同書のページを開いたのですが――。・オタクについての記述が、ない本
開いてみて大後悔。
これ、「オタク」についての本じゃないです!
ここでは「オタク」という言葉は専ら「男性アイドルファンの女子」という意味で使われます!
「いわゆるオタク」の話題は、ほとんどないです!!
以前も同じようなことを書いたことがありましたが、こっちはまあ、だらだらしゃべりの対談本だから……という感じではあったのですが。その意味で、やん師匠の「オタク男性を見下す書」とのコメントも全く事実に反しています。この人、字が読めないんでしょう。
さて、しかしまあ、ある意味では同書のタイトルも「正しいじゃん。」かも知れません。
Xではドヤ顔で「萌えから推しへ」みたいなことを言う輩がいますが、そもそも萌えと推しとは似たような概念だけど、言ってる主体は違います。「萌え」と言っていたのは一応はオタク男子であったのに対し、「推し」と言っているのはいわゆるアイドル好きのおねーちゃんでしょう。
しかし「ジャニオタ」といった言葉に代表されるように、そのおねーちゃんたちこそが「オタク」であるということにもう、なってしまったのです。
ちょっと前、togetterだかどこかで「オタクはもう女を指す言葉になってしまった」と書いても理解されなかったのですが、こうして見るともう、それは自明としか言い様がないわけです。
世間ではオタクというのはもう、アイドルファンのおねーちゃんなのです。
いつも書く通り、本稿もここで終わりでもいいのですが、いつも書く通り、大枚を投じて買ってしまった以上、記事のネタにでもしないとやってられません。
そんなわけで別な視点から本書を斬りましょう。 本書のまえがきでは本書のタイトルについて、以下のように述べられます。一つ目の理由は、「オタク文化」という言葉がこれまで無意識のうちに「男性オタクの文化」として流通してきたことへの静かな異議申し立てである。「オタク論」とされるものはこれまで、ジェンダー的には無微で中立的な言葉であるかのようにふるまいながら、主に男性オタクのための論であった。
(9p)もちろん、ウソです。
そもそもオタク文化自体が男性発祥のものであり、ジェンダー的に中立なんてことはあり得ない。こう書くと「初期のコミケの参加者の多くは女性で」などと言い出す人が出そうですが、まずオタク文化黎明期(八〇年代初期)にはそれは、「ロリコン漫画」と呼ばれるメディアで展開していました。もちろん一方では『JUNE』などもあったし、アニメファンの中にも(『ガンダム』を除くと*)女性は多かったのですが、独自の文化として勢いがあったのはこの「ロリコン漫画」でしょう。もちろん描き手読み手に、女性は決して少なくなかったとはいえ。
さらにこの当時、「オタク」とは唾棄すべきゴミ虫くらいの意味であり、女性は決してオタクとは呼ばれなかった。女性は守らねばならないからです。オタクという言葉が肯定的に語られるようになった九〇年代後半、いきなり女性がオタクをまるでサブカル君のように名乗りだした、というのが実情です。
さらにジャンルをBLに限るならば、それは十全に語られてきたでしょう。田中師匠がよく執筆し、本書の初出ともなっている『ユリイカ』でも特集は組まれてきました。
もう一つ、時々言いますが、オタク文化と共にオタクそのものへとスポットを当てた「オタク男子論」とも言うべき『電波男』が話題になった時、出版社は「電波女」を、自らを語れるオタク女子を探しましたが、見つけ出すことはできませんでした。彼女らはこの時も「隠れていた」のです。
さて、しかし本書はそのBLにすらほぼ言及されていません。腐女子をオタクというならわかるけど、アイドルファンがオタクかとなると、やっぱり違うでしょう。例えばサッカーファンを「サッカーオタク」と呼ぶような、一種の比喩的用法と考えるべきです。
おそらく(三次元の、男性)アイドルファンと腐女子とはかなり層が被っていて、彼女らの主観ではアイドルファンを「オタク」と呼ぶことに違和はないのでしょうが、ぼくからすると大変に違和感があります。
そんなわけなので以降、本書において「オタク」と詐称されている者たち、つまり男性アイドルにハマっている女性ファンのことを、本稿では「アイドルファン」と呼称します。
まあ、フェミニストの本です。数行の記述に対するツッコミだけで大量の文字数を必要とするのはいつものことですが、タイトル詐欺についてはこの辺にして、内容について語っていきましょう。*ギャグ
・何かネオリベみたいなことが書いてある、本
さて、本書では「推し」という言葉の普及ぶりを誇るように、ひたすら経済雑誌だ、芥川賞を取った小説だ、NHKのドラマだと、あらゆる場で「推し」という概念が扱われていることが嬉々として並べ立てられます。
が、アイドルや宝塚を見れば推し活に類するモノは以前よりあったし、それは本書にも言及のあるところです(そればかりかこういうの、歌舞伎の昔からありましたよね)。
しかし、今日日の「推し」には二つの独自性があるのだというのが本書の主張です。
一つは「ネオリベ的土壌の上にある」こと、もう一つは「ネット上で行われる」こと。
しかし、前者は資本主義的と言い換えても構わず、別にそれも昔からだよなとしか。要するに近年のアイドル産業は商業主義的だ、さらに「推し」とは要するに積極的ファン活動であり、金銭はおろか労働力をも企業に搾取されているのだといった話が続くのですが、別に独自性はありません。
ネットについてもファンがネットで宣伝の一環を担わされていることが独自だ、といったハナシになります。確かにSNSや動画投稿サイトなどで「推し」の宣伝をするのも「推し活」の一環です。ネット時代に入り、大衆が「発信者」となったはいいが、ファンは専らアイドル事務所の「ブラック社員」さながら、宣伝活動に従事させられている、というわけです(師匠はこれを「情熱のカツアゲ」などと称しています)。
ただ、それも昭和のファンクラブの頃からある話じゃないかとは思いますが。九〇年代末ですが、ブラックビスケッツという音楽ユニットがテレビ発信で「CDが売れなきゃ解散!」と煽って買わせる手法を採っておりました。
他にもマルクス主義に準え、芸能事務所が資本家でアイドルをファンから独占しているとか言ってるのですが……あの……あんまり言いたくありませんが、芸能事務所がイケメンを発掘して、テレビだの写真集だので消費者に届けてくれるから、あなた方がイケメンに賜れるのであって、そうじゃなきゃ、とてもとてもお近づきにはなれないんじゃないでしょうか。その意味でアイドルって師匠の指摘とは真逆の「イケメンの共産主義」です。
一方、アイドル側も「搾取」されているそうです。
近年はファンがネットで「布教」する以上に、アイドルもツイッターなどでプライベートの時間までも「営業」に費やしているのですから。
何かそれが大変で大問題だ、みたいな話なのですが、じゃあファンを止めればいいじゃん、以外の言葉を思いつきません。
大体、昔のアイドルの方がプライバシーゼロで住所まで知られていて大変だったと思いますけどね。
以上、何も言っていないに等しい内容なのですが、これは要するに社会学者である師匠が自分の大好きなアイドルについて、マルクス主義だ何だと自分の専門分野にこと寄せてちょっと語ってみました、ということです。・何か性的搾取みたいなことが書いてある、本
さて、しかし田中師匠もフェミニストなのだから、ジェンダー論もまた、ご専門でいらっしゃいますよね。そっちの方はどうでしょうか。
「女はずっと男性アイドル(俳優、タレント、アニメキャラ含む)を消費してきた。自分の欲望の対象として『見る』対象としてきた。が、それは今まで専ら「ミーハー」という言葉の下に貶められてきた(大意・136~137p)。
あっ、はい。
要するに本書の主な主張は、「アイドルファン」が女性ながら男性を「まなざす」という主体性を獲得した存在である、ということです。
これは、例えばですが以前ご紹介した『ポルノウォッチング』や、上野千鶴子師匠のデビュー作『セクシィ・ギャルの大研究』などを見れば、フェミにとっては一大テーマと言うことがおわかりでしょう。
要するに男が女を「まなざす」ことは男による女の支配であり、女性差別でケチカランという。
もっとも、田中師匠の筆致は、ちょっとどっちつかずです。「女が男をまなざすようになった、やったー、カッコイイ!!」で終わらないのです。まえがきからして「オタク文化は異性愛主義であるため、女性による男性性の消費が行われていた(大意・10p)」などと書かれています。
今までフェミニズムは「復讐史観」でものを見ていました。男に対していかに残忍で卑劣な言動を取ろうとも、それは今まで男たちが女を搾取し続けてきた(という妄想史観)ことに対するカウンターであり、許されるというのが彼女らの考えでした。
そこを(形だけでも)葛藤してみせている田中師匠はフェミニストの中ではまだしも、良心的な人だと言えるのです。
が、「じゃあ、アイドルファンなんか止めればいいのに」と思いながら読み進めると、まとめとして以下のような記述に行き当たります。一見、アイドルを応援することで金銭や時間など様々な所有物を搾取されているかのようにも見える女性ファンの得ている対価は確実にあるし、男性アイドルと女性ファンの関係性のなかには、性的搾取以外の多くのものがある。とするならば、男性アイドルと女性ファンの研究は、ひるがえって女性アイドルと男性ファンの関係性を単なる「性的な搾取」のみに加減してしまわない、別の可能性を見出していくことにも貢献できるのではないだろうか。
(139p)何か急に男性の女性アイドルファンが巻き添えを食らってますが、要するにこれは、「これからも考えていかなければならない問題だ」と言っているだけで、別に内容のある文章ではありません(そもそも上にある「性的搾取以外の多くのもの」が何なのか、よくわかりません)。
最終章である十章でも、似たようなマッチポンプ的記述が繰り返されます。女オタクによる男性消費はそのすべてが単なる搾取にはなるわけではない、ときっぱり宣言し、そこに搾取以外の何があるのか、一度きちんと考えてみることは重要かも知れない。同時に、もしそのように宣言するのであれば、男オタクによる女性消費のなかにも、「男性による女性の単なる搾取」以上の何かがあることを考えてみなければならないだろう。
(238p)「考えてみることは重要」と言っているってことは、「搾取以外の何か」についてはまだ、思いついてないってことです。
その上でいきなりこっち(男オタク)へと話を押しつけ、一腐り批判した後、以下のように締めます。二次創作やファン文化、それ以外のあらゆる文化的な活動が、既存のくびきからわたしたちを切り離すと同時に、新しい関係へとつないでくれる可能性を秘めている――その可能性を、私は絶対的に信じている。
(238~239p)絶妙に、いいことを言っているようで、実質何も言っていない文章です。
フェミの文章って、痛いところを突かれると大体「これからも考えていかなければならない」で終わるんですよね。
そもそもアイドルやアニメキャラを愛好することが「搾取」であるというフェミ以外には理解不能なロジックをこっちに押しつけられても困るのですが、もしそれを「搾取」というのならば、アイドルファンの振る舞いは「搾取」以外は特に何もないでしょう。
翻って「萌え」コンテンツは「キャラ萌え」以上にストーリーや演出などにおいて優れたものがいくつもあるのだから、「搾取」以外の何かが大いにあると言うしか、ひとまずはないのではないでしょうか。
師匠は「技術のある成熟した男性もまた、女性はアイドルとして見ている」などとしていますが、彼らをアイドルと呼んでいる以上、それは「性的な消費」がメインであるとしか言いようがないわけです。もう一つ、師匠は「ファン活動はクリエイティブ(17p)」みたいなことを言っているのですが、その具体例については一切語られません(応援する団扇とかがクリエイティブなのかなあ?)。――さて、まだまだツッコまねばならないことがあるのですが、もう相当の文字数を費やしてしまいました。
まだジャニーズについての6章、ルッキズムについての8章、そして(自分を)男の娘(だと思い込んでいる一般オカマ)についての9章と、ご紹介しなければならない点が多いのですが、ここで一端休憩にしまして、続きは明日か明後日にお届けしようかと思います。 -
風流間唯人の女災対策的読書・第64回「男性差別」→「弱者男性」→「男性復権」
第六十四回目です!
アメリカ大統領選、蓋を開けてみればトランプの圧勝。
左派のドリーマーぶりと共に、「現実」がどうなっているかをぼくたちに突きつける結果となりました。
さて、注目したいのはアンチフェミツイッタラーrei氏の「大統領選は男性差別が争点だった」という指摘ですが――。
文中のファレルの著作については以下を。
当該箇所については「夫の代わりとしての政府」で検索してみてください。
男性権力の神話 《男性差別》の可視化と撤廃のための学問
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