「なんだテメェ!」


突如物陰から飛び出してきた影に、悪漢たちは身構えた。
しかしすぐにその警戒を解く。なにせその影はぐるぐる巻きに縛られていたのである。

元用心棒はその顔に見覚えがあった。


「おっほ、テメェは俺様に痛い目見せてくれちゃったヤサオトコじゃないの。そのザマはいったいどうしたんだ? そういう趣味があったのか?」

「黙れ外道! モノノフなら正々堂々立ち合えこんにゃろーっ!」


鬼の形相で悪漢をにらみつけるスマキの剣士。しかしその姿は傍目にも滑稽であった。
ともすれば太腿を斬られ泣き叫ぶ足軽よりも自由の利かない身である。


「そんな芋虫みたいな格好でいったい何ができるってんだ? ああん?」


形成は明らかにつばめ不利である。
いかなる剣豪とてスマキにされれば文字通り手も足も出ないのだ。

ただし、それはつばめに仲間がいなければの話である。


「おい、三郎左衛門とかいったか! この縄を切ってくれ」


物陰に潜むもう一つの影は、その声にビクリと肩を震わせた。
その男、三郎左衛門はこのままひっそりと息を潜めてやり過ごす腹づもりであった。


「にゃ、にゃーお、オイラは猫でござんす」

「なんだあ? もう一人隠れていやがったのかあ? おい、アイツを引きずり出せ!」

「いやーっ! なんでバラすんだよーっ!」


引きずり出された三郎左衛門を縛り上げようと、手下の一人が荒縄を構える。

“ピンチはチャンス”という言葉はまやかしである。ピンチはピンチなのだ!

もし三郎左衛門がつばめ並の剣術を体得していたならば。
もし正義の心に燃える友情厚き漢の中の漢であったならば。
もし侍としてのプライドを欠片でも持ち合わせていたならば。
この場で仲良くつばめ共々斬り伏せられていたことだろう。

しかしこの男は良くも悪くも足軽であった。


「待ってくれ! 俺、いやオイラは親分の手下でござんす!」


とっさに腰を折った三郎左衛門は、大柄な元用心棒の足元にすがりついた。


「なんだ降伏するってのか? 矜持も恥もねえクソ野郎だな」

「その通りオイラは道端のクソでござんす。草履もなめちゃうもんね、ペロペロ」

「うひゃひゃ! 悪くねえぜ、よし今日からお前は俺様の子分四号にしてやる。俺様ってば優しいから!」

「「「「そのとぉーーーり!」」」」


己を卑下し、他の手下どもと仲良く声を合わせる三郎左衛門を見て、つばめの怒髪が天を突いた。


「お前、寝返るのか! 情けないヤツめ! 仲間が斬られたんだぞ!」

「うるせぇ俺の知ったことか! 三郎左衛門流足軽兵法その一“勝てない喧嘩は売らない”だっ! 俺は我が身が一番かわいいんだよ! 無策で飛び出しやがってこのマヌケッ!」


悪の手先と化した三郎左衛門の心に、つばめの罵声は響くはずもない。
それどころか、一人で危機的状況を脱した三郎左衛門とは対照的に、つばめのピンチは未だ継続中である。

悪の首魁たる元用心棒は、血に濡れた刀を手にしたまま、スマキにされ床に転がされたつばめを見下ろした。


「俺様ってば優しいからよおー。ちょっとボコってくれちゃったことは許そうと思うわけ。つーか、俺様負けてねーし。勝ちを譲ってやっただけで、アレ実質引き分けだし」


そのこめかみには青筋がクッキリと立っており、数日前つばめにコテンパンにされたことへの深い恨みが見て取れた。その凶刃から滴る血がつばめの頬を濡らす。


「ただ許すつってもよぉー。手下どもも見てるわけよ。落とし前はつけなきゃなんねえわけよ。わかる?」


元用心棒はそう言ってボロボロの刀を大上段に構えた。
その切っ先が囲炉裏の火を映してヌラリと光る。


「腕一本だ。それで許してやるぜ」

「ぎゃーっ! やだーっ!」


刃こぼれし、もはやノコギリに近いその刃がつばめの肩めがけて振り下ろされた。





もうダメか。そう思われた刹那、つばめは父のことを思い出していた。


「よいかあ、つばめ。我が小川流剣術は一対一ならどんな相手にも負けん。だが一度に多くの敵を相手取る場合は、ちょっと危ない」


父・椿九郎はかねてより酒を飲むと講釈を垂れるのが常であった。
二人暮らしで他に話し相手がいなかったこともあり、つばめは時として支離滅裂な父の言葉を毎度聞かされていたのだ。

酔っ払いなど相手にしなければよいものを、真面目なつばめは父が酒気とともに吐き散らす言葉を聞き漏らすことなく心に留めていたのである。


「相手が多い場合はな、敵を味方につけるのだ。なあに簡単なことだ、敵が最も恐れることをほのめかしてやればよい。敵の一人を指差してこう言うのだ――」





「今だっ! 三郎左衛門! やれーっ!」


振り下ろされようとした刀は、つばめの肌に突き立つ直前でピタリと止まった。
そしてそのまま傍らに立つ足軽へと向けられる。


「なんだとぉ!? テメェ味方のフリしていやがったのか!」

「どしぇーーーっ! なに言ってんだお前! お前ーっ!」


三郎左衛門が慌ててつばめの襟を掴んで食ってかかる。
窮地を脱したはずの三郎左衛門、気づけば敵陣ど真ん中である。


「どうした、今が好機じゃないか! あのデカブツをブスッとやってやれ!」

「おいおいおい笑えねえ冗談だぞ。俺とお前は敵なんだよドジョウさんよお」

「ドジョウさんじゃない、小川つばめだ。よく知っているだろう、私たちは仲間同士なんだから。ナーカーマーなーのーだーかーらー!」


つばめは周囲にもよく聞こえるよう、わざと声を張り上げた。
当然それは元用心棒一味の耳にも入る。
とりわけ元用心棒その人にいたってはコケにされたと思ったのか、ワナワナと全身を震わせ目を充血させている。握られたボロボロの刀が折れんばかりにプルプルとわなないた。


「テメェ……怪しいとは思っていたけどよぉー、最初から寝返ったフリして俺様を騙すつもりだったんだな? まあ俺様は最初から気づいてたけどよぉー!」


血濡れの刀を持った狂人を前にして、三郎左衛門の生存本能がアクセルを踏み抜いた。


「三十六計逃げるに如かずってな。悪いが俺は逃げるぜ!」

「一人で行かせるかっ!」


すたこらさっさと逃げ出そうとした足軽に、スマキの剣士がトビウオのように飛びかかった。手も足も出ないが、襟を掴まれるほどの近距離であれば他に出せるものはいくらでもあるのだ。


「いでぇぁーーーーっ!!」


三郎左衛門の肩に、大きなドジョウががぶりと噛み付いた。
図らずしも、三郎左衛門はつばめを背に負うような姿勢になる。


「仲間割れたあ、都合がいい。まとめてぶった切ってやるぜえ!」


前門の虎、後門の狼。ならぬ眼前の狂人、背後のドジョウである!
この状況下にあって三郎左衛門が取れる行動は三つしかない。


その一、元用心棒を相手に戦って勝つ。
――否、その根性と実力があれば今こうして窮地に陥ってはいない。


その二、諦めてバッサリ斬られる。
――否、こんなところで死ぬのはまっぴらゴメンである。



その三、つばめを背負ったままこの場から逃げる。


「っっっっっ!!!」


三郎左衛門の視界に入ったのは村長宅の裏口である。
火事場の馬鹿力か、それともつばめの体が軽いおかげか。三郎左衛門は肩に噛み付いたままのつばめを背負い、勢いに任せて裏口から飛び出した。

その視界の隅に、太腿から血を流し助けを哀願する足軽を捉えながら。


「待てコラァ!!」


背後からは怒号が飛び交う。しかし人間一人を背負っている三郎左衛門に振り返る余力はない。

裏山へと続く山道を脇目も振らずひた走り、二人して土手を転がり落ち、ドボンと沢にはまったところでようやく止まった。

追手の気配はあったが、山道を逸れたことが幸いしたのか、沢まで下りてくる様子はない。


「はひっ、はひっ、やり過ごせた……死ぬかと思った……!」


三郎左衛門の額を濡らしたのは冷や汗か、それとも雨上がりで茶色くにごった沢の水か。
ろくに受身も取れないまま転がり落ち、全身がすり傷だらけでズキズキと痛む。
ずっと噛み付かれていた肩にいたってはアザになっているかもしれない。


「そういやアイツどこいった?」


三郎左衛門が周囲に目をやると、ほど近い沢の澱みから頭の先だけが出ているのが見えた。


「ぶくぶくぶくぶく……」

「おい大丈夫か、ちくしょう! ふんぬ!」

「ぷはぁーーーっ!」


スマキのまま水に沈められるとは、まるでちょっとした拷問である。
しかし助けあげたその剣士の目には怒りの炎が煌々と灯っていた。


「この最低のクズ野郎! ぎゃあぎゃあ、ふんすふんす!」


もはや言葉にならない怒声を発し、つばめはスマキの体をくねらせた。
袖で拭うこともできないせいか、顔は泥水と鼻水と涙でぐちゃぐちゃになっている。


「どうどう、落ち着け。まだ暴れるってんならスマキのまま置いていくぞ」


三郎左衛門は暴れ馬をなだめるように、つばめを落ち着かせながらスマキの縄を解いてやった。
つばめはドッと疲れが出たのか、はたまた眼前で人が斬られていくのを止められなかった心痛からか、シュンと肩を落としていた。


「泣くなよみっともねぇ」

「みっともないのはお前だ! 仲間を見捨てておいてよくもぬけぬけと!」

「誰が見捨てるつったよ」


三郎左衛門はそう言うと泥にまみれた手でつばめの頭を鷲づかみにした。
そしてキョトンとするつばめの顔を引き寄せる。


「頭すっからかんのお前に足軽の流儀を教えてやる。逃げも隠れも負けじゃねえ、負けるのは俺が死んだときだけだ」


互いの吐息が、濡れた冷たい頬を温めるほどの距離。
私たちにはまだできることこがある! その高揚からか、それとも生まれて初めてこれほど近くで父以外の男と接したからか、つばめの心臓が再び熱く鼓動する。


「それじゃあお前……」

「お前じゃねえ、三郎左衛門様だ。よく知ってるだろ、俺たちは敵同士なんだからよ。その敵の一味を助けようってんだ。大馬鹿者だぜ、小川つばめ」


まるでその言葉に呼応するかのように、空から大粒の雨が滴り落ちる。
先ほどまでとは比べ物にならないほどの豪雨が、二人の全身をしたたかに打ちつけた。


「反撃開始だ。三郎左衛門流足軽兵法その二。“勝つまで戦えば負けない”だっ!」