2014年11月27日発行 第0824号 特別
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 ■■■    日本国の研究           
 ■■■    不安との訣別/再生のカルテ
 ■■■                       編集長 猪瀬直樹
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                *

「猪瀬直樹 贖罪告白」(『女性自身』14年11月18日号掲載)

「知事を辞めたのが、昨年の12月24日。5千万円の問題は、僕自身の至らなさ
を痛感した事件でしたから、その日から反省を繰り返す“謹慎生活”を送って
いました。辞職直後は、自宅前に記者が大勢いましたので、ほとんど外には出
ず、食事は仕出し屋の弁当などを食べて過ごす、そんな毎日が数か月間続きま
したね」

 13年9月、20年の東京五輪・パラリンピック開催決定の立役者として、一躍
時の人となった、前東京都知事の猪瀬直樹氏。だが、その決定から2カ月後、
人生最大の“スキャンダル”が明るみに出る。

 12年12月の都知事選前に、医療法人・徳洲会グループから5千万円を借りて
いたことが発覚。当初は選挙資金ではなく、「個人的に借りた」と議会や記者
会見で釈明していたが、混乱の責任を取って知事を辞任する。

 まさに天国から地獄――。史上最多得票(433万8千936票)で東京都
知事に当選。彼の手腕に多くの都民が期待を寄せていた矢先の出来事だった。
あれから10カ月。表舞台から姿を消していたが、自らが犯した罪について沈黙
を破り、本誌の取材に応じた。

 まず、なぜ徳洲会から5千万円を借りたのか。

「本当に軽率だったと思います。選挙について素人だった私は、当時いろんな
ところに選挙協力のお願いに行っていました。そのうちの一つが徳洲会でした。
12年11月20日、徳田毅衆議院議員(当時)の事務所で、用意されたお金を目の
前にしてたときに断ればよかった。実際、その瞬間、“断ろう”と思ったので
すが『落選したら生活がどうなるかわからない』という不安もあった。その時
点では選挙の支援体制が固まっていなかったですし……」

 支援を頼んだ手前、断る勇気がなかった。また拒否すれば徳洲会を敵に回す。
その一方で選挙に“支援をしてくれるのは当然”という傲慢な自分がいたと猪
瀬氏は振り返る。

「優柔不断でした。借りる段階になって『これはマズい、これは個人の借金、
選挙後に全額返済してなかったことにしよう』と決めました。ただし、選挙後
の一時期、徳洲会を紹介してくれた一水会(民族派団体)の木村三浩さんに5
00万円を貸しました。これは選挙とは無関係ですが、都議会で『手つかずで
全額保管していた』という発言は誤解を招く表現だったと反省しています。今
は、選挙で投票してくれた方に、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです」

 14年3月28日、東京地検特捜部は、猪瀬氏を公職選挙法違反で略式起訴。選
挙資金を選挙運動費用収支報告書に記載していなかった、虚偽記載の罪だ。同
日、東京簡易裁判所が略式命令を出し、罰金50万円(公民権停止)の処分を受
けたのだった――。

 知事を辞めて謹慎生活を送る猪瀬氏は、自分の心にぽっかりと穴があいてい
ることに気づく。それは、政治家という仕事を失ったからではなく、妻・ゆり
子さんがいないということだった。

「ゆり子との出会いは、僕が19歳で彼女が18歳のときです。大学卒業後に『作
家になる』と言って、友人の車に布団一式、ギターとテレビだけを積んで上京
しました。ゆり子も一緒に行くつもりでしたが、両親が許すはずがない。でも、
僕が風呂なしアパートを見つけた後、ゆり子もトランク一つで上京してきまし
た。寝ているかのように布団を膨らませておいて、裏木戸から抜け出し、夜汽
車に乗ってやって来たのです」

 いわゆる「駆け落ち」同然で『神田川』の歌詞そのままの生活がスタートし
た。

 ところが、すぐに作家になれるほど世の中は甘くない。当時、家計を支えて
いたのは、ゆり子さんだった。小学校の先生をしていた。4年後、2人に赤ち
ゃんができて、郊外の団地に移り住む。

 だが、夫は相変わらず不安定な収入のまま。団地で昼間にブラブラしていれ
ば、近所の主婦は不審がる。しかし、周囲にどのように思われても、ゆり子さ
んは「なんとかなるわよ」と明るく支えてくれた。

「生まれたばかりの子どもを“無認可の保育所”に預けながらの生活でした。
当時は保育料が高くて収入の半分が消えましたね……。ただ、貧しくても楽し
かった。ゆり子も、夜汽車に乗ってから、ずっと“僕の夢”に一緒に乗ってい
たわけですから。

 あるとき僕は本を書くのに“無謀な借金”をしたんですが、ゆり子は一言も
反対しなかった。そして本が出たときは、自分のことのように喜んでくれた。
『よかったね』ってずっと表紙をさするんです。売れなかったけど(苦笑)」


○ 五輪招致で海外へ。「まだ逝かないでくれ」と祈った

 ゆり子さんは、ほとんど休まず23歳から55歳までの32年間、教師として働い
た。その後は、猪瀬氏のサポートすることになる。夫の“二つ目の夢”にもつ
いていこうと決めたのだ。だが、不運にも昨年7月、突然の病に倒れ、帰らぬ
人となる。

「妻が亡くなったのがあまりにも急で、心に空洞ができたようでした。ずっと、
何も手につかない状態が続いていましたから、まず妻のことを思い出すことに
しました。一つ一つ丁寧に“妻の存在”を確認することが、妻の供養になるの
ではないかとも思って」

 思い出をきちんと言葉に置き換えれば、心の喪失感を埋められるかもしれな
い……。猪瀬氏は1冊の本を作ることを決意する。それはまるで、家族のアル
バム写真を一枚ずつ貼り直すような作業だった。

「かつて妻が『わたしのこと、一度も書いてくれたことないじゃない』と不満
をもらしたことがあります。いまさらですが、僕は独りで生きてきたわけでは
なく、妻と一緒に生きてきた。内助の功というより、ゆり子の自立した一人の
女性としての部分も書いた、夫婦の記録です。

 今回、彼女の残した育児日記や仕事の資料などすべて読みました。彼女が言
語障害児童のための『ことばの教室』で教えていたことも詳しく知ることがで
きた。そこには、母として、教育者として、僕の知らなかったゆり子がいまし
た」

 猪瀬氏が10月に出版した『さようならと言ってなかった わが愛 わが罪』
(マガジンハウス)は、単なる夫婦愛を描いた作品ではなく、まるで妻への懺
悔本のようでもある。そしてこれまで語られることのなかった五輪招致の舞台
裏。知事を辞任することになった「5千万円の真実」も赤裸々に明かされてい
る。

 なかでも、ゆり子さんが病に倒れ、余命宣告を受けてからの家族の苦悩は、
壮絶な描写でつづられている。

「昨年5月、ゆり子の言葉がもつれたり言葉が出てこなくなったりしたので、
病院で検査することにしたんです。当初は軽い脳梗塞ぐらいはありえるかな、
という程度にしか考えていませんでした。

 検査は5月26日の午後4時過ぎ。妻を病院に預けた後、僕は大相撲千秋楽で
都知事杯を渡すために国技館に向かいました。そして仕事を終えた6時ごろ、
院長から電話で、「いちばん上の『グレード4』だと言われたんです。余命数
カ月、“こぶし大”の悪性の脳腫瘍でした」

 病院まで約20分。院長は心構えをしてもらうために、事前に電話をしたのだ
った。

「病室に入ると、ゆり子は、いつもとまったく変わらない笑顔です。その姿を
見てショックを受けましたね」

 翌日はサンクトペテルブルクで行われる五輪招致のプレゼンテーションに出
発する日。ゆり子さんも同行予定だった。

「検査の前夜、プレゼンテーションで着る3回分(サンクトペテルブルク、ロ
ーザンヌ、ブエノスアイレス)の衣装を試してみようと、自宅で1着5分程度
のファッションショーをやったんです。僕の前でくるりと回っては笑顔を見せ
るゆり子……。まさかその翌日余命宣告を受けるなんて」

 6月12日、5時間以上の手術を無事に終えたが、6月21日に容体が急変、昏
睡状態に陥る。だが、猪瀬氏は、30日にはスイス・ローザンヌに出発しなけれ
ばならなかった。

「仕事を投げ出すわけにはいかない。とにかく僕が日本にいない間に、逝かな
いでほしい。そう願うだけでした。空港へ向かう直前に病院へ行きました。そ
して薄暗い病院の部屋で、眠っていた妻の額に接吻をしました。“これで終わ
りかもしれない”との思いで。もう瞳孔が開きかけていましたから」

 その間も、猪瀬氏は、ゆり子さんの病状が漏れないように平静を保ち続けた。
だが、プレゼン会場でも何度も携帯電話を確認してしまう。病院にいる長女か
ら妻の容体を知らせるメールが来ないかと。

「何をしているのかと、いぶかる人もいたかもしれません」
 晩さん会などすべてが無事に終わった時点で、招致メンバーの太田雄貴選手
と滝川クリステルさんには、妻が危篤であることを告げた。

「2人は僕に寄り添い、一緒に泣いてくれました。そして、妻は僕の帰国を待
っていてくれたかのように、2週間後の7月21日に亡くなりました」

 9月7日、ブエノスアイレスでの最後のプレゼンは、ゆり子さんの四十九日
法要の日だった――。

 だが、その後の5千万円の資金提供問題が発覚し、すべてがひっくり返った。

 それだけに「今さら言い訳は聞きたくない。もう猪瀬氏の本は読みたくない」
という人もいるのでは? 記者がそのことをぶつけると、本人は、ゆっくりと
うなずいてから言った。

「そうですね。そういうことを言われるのは、そのとおりだと思います。だか
らこそ、過去を振り返り、なぜこうなってしまったのかを、きちんと書いてみ
たかったのです。妻、都民、支持してくださった方々すべてを裏切ってしまっ
た。本にはその懺悔の気持ちを込めて書きました。すべて包み隠さずに正確に
書いてありますので、その全体を理解していただきたい」

 最後に、本当は「20年の東京五輪まで知事を続けたかったか」と聞いてみる
と、
「それは運命ですから。過ぎてしまった話ですから。もう政治はこりごりです。
一切関わりたくない。今後は作家として、もう一度、やり直したいと思ってい
ます」

 47年間連れ添った夫婦、よく話をする夫婦であったが、妻への感謝の言葉は
少なかったと後悔する猪瀬氏。

 ゆり子さんの一周忌を前に、仕事場近くにお墓を建てた。毎日のように会い
たい、何度でも謝りたいからと――。

                   (『女性自身』14年11月18日号掲載)

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