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⌘ 2015年03月05日発行 第0837号 特別
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■■■ 日本国の研究
■■■ 不安との訣別/再生のカルテ
■■■ 編集長 猪瀬直樹
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http://www.inose.gr.jp/mailmag/
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4年目の3.11が近づいてきました。『救出 3.11気仙沼 公民館に取り残
された446人』は東日本大震災の記録です。「押し寄せる津波、燃える海、
水没した公民館屋上の446人。絶体絶命の危機にさらされた彼らが全員救出
されるまでの緊迫と奇跡を、迫真の筆致で迫真の筆致で描く感動のノンフィク
ション」とオビで紹介されています。
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また雑誌感覚で読める本の要約サイト flier (フライヤー)で『救出』が紹
介されました。登録すれば無料で読むことができます。
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「二宮金次郎に改革のヒントがある 人口減少時代の『成長戦略』論」
少子化に歯止めがかからず、将来に消滅する可能性がある自治体がある―ー
「消滅可能性都市」という論証が日本の脅威として受け止められていますが、
人口減少の現状と未来を、地図、表、グラフ、図版を駆使してわかりやすく解
説するムック『別冊宝島 図解ひとめでわかる地方消滅』が先月、宝島社から
発売されました。猪瀬直樹の6ページにわたるロングインタビューが掲載され
ています。『二宮金次郎はなぜ薪を背負っているのか』(文春文庫)の副題は
「人口減少社会の成長戦略」で、そのエッセンスを解説しています。メールマ
ガジンでは前後編にわけて掲載。
『別冊宝島 図解ひとめでわかる地方消滅』はこちら⇒ http://goo.gl/ntOIni
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○江戸時代後期住民が江戸に流出し破綻寸前の藩があった
――近年、人口減少が社会に深刻な影響を及ぼすことが明らかになり、政府も
ようやく少子化対策に乗り出しています。
出生率は、政府が政策的に働きかけたからといってなかなか改善するもので
はありません。
実は日本の出生率は、戦後2度あったベビーブームを除けば、1925年(大正
14年)以降、一貫して下がり続けています。
戦時中の「産めよ増やせよ」のスローガンがあまりに有名なせいで、私たち
はつい戦前は人口が増えていたかのように錯覚してしまうのですが、そうじゃ
なかったんですね。
――1925年以前には、人口が増えた時期もあったのでしょうか?
江戸時代が始まってからの最初の100年間がまさにそうでした。
戦乱に明け暮れた戦国時代がようやく終わり、泰平の世が長く続いて新田開
発も進み、庶民の生活も安定したからです。
徳川幕府が成立した1603年(慶長8年)の時点で、日本の人口は1200万
人程度。それが100年後、赤穂浪士が吉良上野介邸に討ち入した1702年(元
禄15年)には2倍以上に膨らんでいます。1721年(享保6年)に幕府が行った
調査では、約2600万人との記録もあります。
ところが元禄時代が終わって江戸時代後期になると、一転して人口減少・低
成長の時代に突入します。
特に100万都市である江戸周辺の関東平野の村々では、住民が江戸に流出
してしまう「バキューム現象」によって過疎化し、著しく荒廃してしまいまし
た。
「赤城の山も今宵限り……」で有名な侠客の国定忠治は、上野国(現在の群馬
県)国定村の出身です。関東平野の村から彼のような代表的なアウトローが出
たのも、成長がなくなって行政サービスも滞った環境で人々の心が荒み、博打
など刹那的な享楽に身を委ねる人が多かったからではないでしょうか。
人口が減れば当然税収も減りますから、地方財政も逼迫していました。よく
「三百諸侯」と言われるように、当時の日本には300近い藩があったのです
が、「加賀百万石」「仙台六十二万石」などの大藩はほんの一部だけで、大半
は1万~3万石程度の小藩、いわば中小企業です。上杉鷹山のような経営セン
スのある領主が出て藩政改革を成功させた例もありますが、そうではない藩で
は商人からの借金が膨れ上がり、財政破綻寸前まで行ったところもありました。
武士の俸禄(賃金)が表向き50石ということになっていても、実際は半分し
か支給されないこともありました。
――猪瀬さんの2007年の著書『二宮金次郎はなぜ薪を背負っているのか』は、
そうした人口減少・ゼロ成長にあえいでいた関東の農村を再建した、二宮金次
郎の活躍がテーマですね(アマゾンはこちら→http://goo.gl/5ilAfO )
二宮金次郎の偉業を理解するには、まず彼が生きた江戸時代後期と、現代日
本がどれだけ似通っていたかを知っておく必要があります。
当時の日本は産業革命こそまだ経験していませんでしたが、市場経済の発達
度という点では世界でも屈指でした。産業革命を成し遂げてからも戦争に明け
暮れていた欧州諸国に較べて日本はずっと平和でしたし、幕末に日本を訪れた
イギリス人を驚かせたように、庶民の教育水準もごく高かったので、流通や金
融のしくみが必然的に発達したのです。
大阪堂島の米市場では先物取引が世界で最も早く行われていましたし、今で
言う信用貸のような取引もすでに成立していました。
『東海道中膝栗毛』の弥次さん・喜多さんは、お伊勢参りの道中で現金を持ち
歩かないでしょう? あれだけの長い旅で何両もの大金を持ち歩くのは危険だ
から、当時の旅人は今で言うところのトラベラーズチェックのようなものを持
ち歩いていました。行く先々でそれにサインするだけで、決済ができるシステ
ムができあがっていたんです。
葛飾北斎が信州の小布施町の豪商に招かれ、寺の天井に絵を描いた時、彼は
83歳の高齢でした。そんな老人が徒歩で旅しても道中の安全が保証され、お金
の決済もできるほどに市場社会化されていたということです。
そういう社会ですから、農民の生活も現代人が考えるイメージとはかなり違
います。江戸時代の農民といえば、いつも重い年貢負担や飢饉に苦しんでいて、
『胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出る』とか、『百姓は生かさず殺さず』な
どの為政者の言葉に代表されるように、ひどく搾取されていたイメージがまだ
根強くありますよね?
しかしこうした「貧農史観」は、明治政府が自らの正当性を主張するために
流布され、さらにのちに入ってきたマルクス主義の影響で帝政ロシアの農奴と
江戸時代の農民が混同されたことで生じた誤解です。
士農工商の身分制度にしても、身分間の移動は不可能だったように思われて
いますが、実際は農工商に境目などありませんでした。農民の子として生まれ
ても、近隣の村に出て商売をする者もいれば、職人として都市住民に転じる者
もたくさんいました。金次郎などは農民の子でありながら小田原藩士に取り立
てられ、最後は幕臣にまでなっています。
住む場所だって新しい会社に就職するかのように、他領へ移動して定住する
農民もいました。
現代に置き換えれば、武士や一部の大店の奉公人は公務員か一部上場企業の
社員。農村は現代の農家よりも、町工場の経営者の方が実態としては近いでし
ょう。
○二宮金次郎は不世出の産業再生コンサルタント
――二宮金次郎について大半の日本人が知っているのは、「苦学して偉くなっ
た人」ということだけです。
肝心の「どう偉くなったのか」はほとんど知られていませんね。薪を背負い
ながら本を読んでいるあの有名な銅像にしても、単に根性で担いでいるわけじ
ゃないんです。
金次郎は1787年(天明7年)、相模国足柄上郡山栢山村(現在の神奈川県小
田原市栢山)に生まれました。金次郎が5歳の時、暴風雨で酒匂川の堤が決壊
し、川べりにあった実家の田畑が流出してしまいます。
金次郎一家は田畑を元に戻すために懸命に働くのですが、まず父親が過労で
亡くなり、母親も病死して金次郎は親戚に預けられ、やがて奉公に出ることに
なります。
そうした生活を送るなかで金次郎が気づいたのが、薪を集めて小田原の町に
出て売れば、奉公の賃金の何倍もの収入になるということでした。
当時、薪や柴は貴重品であり、村の共有地である入会地で薪や柴を拾うにも、
入山できる時期や採取できる量は厳しく制限されていました。しかし金次郎は
まだ少年で、かつ境遇への同情もあって大目に見てもらっていたのでしょう。
これらを拾って何里も離れた小田原の城下町まで担いでいき、売り歩いたので
す。
現代の日本の家計に占める燃料費は平均6・6%程度ですが、当時の一般的
な武士の家では、薪が家計に占める比率が10~20%とかなり高額です。しかし
生産と流通と販売を全て1人でやっている金次郎の場合、通常より安い値段で
売ることができ、大いに売れました。
そうやって稼いだ資金を元手に、金次郎は20歳の時には生家の再興を果たし
ます。
――生家を再興させた金次郎が、ひとつの村の再建まで任されるようになった
のはどういう経緯でしょうか?
小田原藩の家老を務めていた服部家から才能を見込まれて奉公人となり、同
家の財政再建を成功させて小田原じゅうで評判になったからです。
この過程で金次郎はいくつもの卓越したアイディアを考え、実践しています。
なかでも面白いのが、彼が現代でいうところのファンドのような仕組みを独自
に考案していたことです。
先程も話したように、江戸時代後期は非常に発達した市場社会でしたから、
農村にも金融がありました。富裕な農家が、年10~20%の金利で金を貸してい
たのです。当然、滞納して夜逃げする人もいました。
金次郎も主に仲間内で年8%程度の低利で金を貸していたのですが、無理な
取り立ては禁じていました。さらに彼の場合、ただ金を貸すだけではなく、さ
らに発展的なビジネスに結びつけていました。
たとえば10両を貸す場合、原則的には5年賦無利息返済で年間2両ずつ返し
てもらえば、5年で返済は終わる。ただし、完済できた相手には、「5年間、
2両ずつ返済しても生活できたのだからあと1年、2両払っても大丈夫だろう」
ということで、6年目に「冥加金(お礼)」という名目でもう2両出させるの
です。この2両は実質的な金利であると同時に、いわば「二宮金次郎ファンド」
への参加金でした。ファンドに集まった資金を内部では低利で融通し合う一方
で、外部には相場で運用し、さらに増やしていったのです。
金次郎の発明のひとつに「分度」があります。服部家の支出に実収入に見合
った上限を設定し、そのなかでやりくりさせたのです。
これらの手法で金次郎は、一時は千数百両もあった服部家の借金を5年で完
済し、300両もの余剰金まで残しました。この仕事が評価されて小田原藩士
に取り立てられ、小田原藩主・大久保家の分家で旗本・宇都宮家の知行地だっ
た下野国桜町領(現在の栃木県真岡市)の立て直しを命じられます。
桜町領の再建にあたり、金次郎が最初にやっことは、村のそこかしこを覆っ
ていた雑草――民家の屋根に生えていたペンペン草など――を綺麗に刈り取る
ことでした。
金次郎が桜町領にはじめての調査に来た際、「百姓の風俗悪く、人気きわめ
て惰弱なり」と書き残しています。人口減により、希望が失われた当時の関東
の村の典型のような場所だったのでしょう。
そうしたネガティブな雰囲気を村から一掃し、閉塞感を取り払った上で、荒
廃した田畑を村人総出で改良し、さらに新田開発によって収入を増やしていっ
た。
金次郎のやった仕事は、現代でいうところの産業再生機構のようなものです。
(前編 了)
◎本インタビューが掲載され、図解満載の『別冊宝島 図解ひとめでわかる地
方消滅』(宝島社)はこちら→http://goo.gl/ntOIni
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■週刊読書人3月6日号で石井光太×猪瀬直樹トークライブ「3.11を語り継ぐ」
が載録されています。→http://goo.gl/jG9Tnw
臨場感―震災当日自分は何をしていたか/一通の緊急SOSを巡る一筋の
ライン/死を見つめないメディア 報道と現実との乖離――。
■クリエイターと読者をつなぐサイト cakes(ケイクス)で『作家の誕生』連
載中です。→ https://cakes.mu/series/3311
太宰治は芥川龍之介の写真をカッコイイと思った。文章だけでなく見た目
も真似た。投稿少年だった川端康成、大宅壮一。文豪夏目漱石の機転、菊池
寛の才覚。自己演出の極限を目指した三島由紀夫、その壮絶な死の真実とは。
■動画書き起こしサービス logmi(ログミー)で元プロ陸上選手の為末大さん
との対談「日本のスポーツはなぜ体罰的なのか? 為末大氏が語った”遊び”
としてのスポーツ論」がアップされました。→ http://logmi.jp/39351
■2月26日発売の月刊『WiLL』に『さようならと言ってなかった』『救出』
の著者インタビューが掲載されています。
→http://goo.gl/llez5s
■猪瀬直樹が「755」をはじめました。
→http://goo.gl/RO9Vax
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「日本国の研究」事務局 info@inose.gr.jp
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