【創作】自切【単発】
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【創作】自切【単発】

2014-06-08 01:50

     眼鏡には指紋が付いている。誰かが勝手に触ったのかとも思うが、実際にはただ単純に、自分が不注意で触っただけである。どういうことかというと、人間は無意識のうちに何かをしているということである。

     彼の背中を押したのは、おそらくわたしなのだろう。

     友人が死んだ。仲が良いと思っていた、こつこつと関係を積み重ねてきた、恋人になれたかもしれない友人だ。結局二人がつきあうことはなかったが、異性の中では一番関係性が深い人だった。
     死因は転落死。
     言及するのも今更であるが、当然ながら自発的な死因だ。
     彼はビルの上から飛んだのだ。おそらくはわたしがした「なにか」が決め手となって、黄泉路へ向かってビルの端をとんと、彼は蹴飛ばして落ちたのだ。
     飛び降り自殺とは、落っこちる前に死ぬという。
     落ちていくさなか、死への恐怖心からやってくるショックで、落ちきる前に死んでしまうという。

     彼は死の瞬間、なにを思っていただろうか。
     どうして遺書の書面に、わたしの名前を書いたのだろうか。

     細かい説明はなにもなかった。
     わたしを責めるなとも書いてあった。


     ただ責任は、飛び降りる自分にあるのだとのことだった。


     わたしはなにをしただろうか。
     彼とは幼いころからの友人だ。
     いわゆる幼馴染というやつで、物心ついたときにはすでに隣にいて、もちろんこれからも隣にいると思っていた。
     それが突然に喪失された。

     わたしはなにをしただろうか。

     心当たりなんて一切がない。
     仲が良いと思っていて、彼だってわたしを一番の友達に挙げてくれていて、ならばどうして自殺の要因がわたしなのだろう。
     きっとなにかをしてしまったのだろう。
     仲の良い友達までも死に至らしめてしまうなにかを、きっとわたしはしたのだろう。

     ビルの淵に立つ彼の背を、わたしはとんと、小さく押してしまったのだろう。

     バタフライエフェクトという言葉がある。小さな蝶のはばたきだって、遠く遠くに流れていけば大きな嵐になるという、それは確かSFの用語だ。
     どこかでわたしは些細な棘を彼に植え付け、それはだんだんと大きくなり、やがて心臓を突き刺した。
     多分、きっとそんなものなのだろう。
     だからこそ彼は、わたしには責任はないと言って、そして自分を殺したのだろう。

     わたしがつまり彼を殺した。
     わたしのどこかの軽率が、時間をかけて彼を殺した。

     人間とはそういうものなのだ。
     知らないうちに眼鏡に指紋をつけて、知らないうちに誰かを傷つけて、そして平然としているものなのだ。

     おそらくはただ街を歩いているだけで、なにか事を起こしてしまうものなのだ。

     わたしは今、部屋から出られずにいる。
     友人を殺した些細な棘を、また誰かに植え付けるのではと、わたしは脅えて引きこもっている。

     要するに、人間は弱い。

     部屋の片隅で、軽快な音を立てて電話が鳴った。一人暮らしの若い女には、ほとんど用のない固定電話が、この日ばかりは暗がりで主張を始めていた。
     あまりに携帯電話にわたしが出ないので、しびれを切らして誰かが番号を回したのだろう。暗闇で塊のように、それはぴかぴかと輝いている。電話機の数字ボタンをアットランダムに、ミラーボールのように輝かせる。
     眩しいなとわたしは思った。
     暗闇で突然光っては、迷惑になるだろうとわたしは思った。
     今はいったい何時だろう。
     カーテンが閉め切っていて、遮光のそれは外界からわたしを遮断して、もはや昼か夜かもわからない。わたしは空腹のままで膝を抱えて、何日もベッドに寄りかかっていたようで、今が何曜日かもわからない。
     携帯電話を手繰り寄せて、ひらたい無機質なそれから時間の確認を試みる。
     ――反応は返ってこない。
     大きな画面を触っても、何度も何度もつついても、力のこもらない指でなぞっても、携帯電話は反応をしない。
     電池が切れていた。
     携帯電話は主人がかまってくれなかったので、ふてくされて眠ってしまっていた。
     仕方なしに立ち上がる。
     電灯のひもを引っ張って、久方ぶりに室内を明るくする。
     ぱちぱちと、蛍光灯は瞬いた。
     あっという間に、室内は明かりを取り戻した。
     暗闇で突然光っては、迷惑になるだろうとわたしは思った。
     なんとか目を慣らして、ぐるりと室内を見回す。
     部屋は散らかっていた。脱ぎ散らかした服や、コンビニエンスストアの弁当の空や、ペットボトルが散乱していた。固定電話のミラーボールは、変わらずに今も輝いていた。
     時刻は七時。
     壁にかかった時計が言っているので、おそらくは間違いはない。
     朝か夜かはわからない。
    「――」
     長い髪をかきあげ、背中に流す。汗やら皮脂やらでべたついて、ぼさぼさの髪はひどく手触りが悪い。手についたべたべたのなにかは、まるで生乾きの血液みたいに気持ちが悪い。
     風呂に入らなければと思った。
     いつまでもくさくさしていては、心も体も弱っていくとわたしは思った。
     眼鏡についた誰かの指紋が、しばらくぶりに神経を逆なでした。
     窓に寄っていく。
     閉めきった遮光カーテンを、分厚いそれを引っぺがす。

     七時は夜の七時だった。
     あれからは何日がたったのだろうか。

     凶報が耳をつんざいて、体中のなにもかもを洗面台に流してから、果たして何日がたったのだろうか。

     固定電話のミラーボールはまだ輝いている。

     わたしは仕方なく電話に手を伸ばした。受話器を取り上げようとして、べたついた掌が気になって、逆の手でそれをつかんだ。風呂に入らなければと思った。
    「――はい」
     声は出たのだろうか。かすれた喉から絞り出して、細いそれはちゃんと声だっただろうか。
     きちんと受話器の向こうに聞こえただろうか。
    『……ひどい声ね』
     少しの沈黙があったあと、諦観めいた声が届いてきた。聞き覚えのある、老いた女性の声だった。
     まぎれもない、それは母からの電話だった。
    「――うん」
     ようやっと、わたしはそれだけを返事する。
     力のない体は自然に壁に背を沿わせて、ずりずりと落っこちて床に尻をつく。ぺしゃん――と、まるで体はつぶれたようになる。
    『ちゃんとやってるの?携帯電話にかけたのに、あなたちっとも出ないんだもの』
    「――――うん」
    『仕事も、ずっと欠勤してるんでしょう?有給休暇、使い切っちゃうって、上司の方が言ってたわよ』
    「――――――うん」
    『うんじゃなくて、ちょっとは元気を出さないと。タッくんの分まで、あんたは生きないといけないんだから――』
    「――――――――――」
     そこで電話を放り出した。
     母の小言はまるで呪いの言葉のようだった。
     遠くでぎゃあぎゃあと喚いている母親を無視して、わたしは電話に戻らない。
     受話器を元の通りに押し戻して、電話線を引っこ抜いて、連絡手段のすべてを断った。
     引っぺがしたカーテンも元に戻して、ワンルームのマンションを、またぞろ世間から切り離した。

     なんだかすべてがどうでもいい。
     気力の一つも起こらずに、生きる事さえどうでもいい。

     電気も消した。
     再びわたしは膝を抱えて、力なくベッドに寄りかかった。

     風呂に入らなければと思った。
     くさくさしていてはいけないと思った。
     手についたなにかが生乾きの血液みたいだった。

     彼はなんで死んだのだろうと思った。

     少し眠る。
     胃の中までからっぽな自分を抱えて、一休みをすることにする。
     目が覚めたら風呂に入ろう。
     服をきちんと着替えよう。
     胃になにかを入れよう。
     部屋を片付けて洗濯をしよう。

     そうすれば、わたしは前に進めるだろうか。
     彼の死から解放されて、人を傷つけることを恐れないで、外の世界に戻れるだろうか。

     ――無理だと思う。

     今にして思う。彼はきっと、わたしの全てだったのだ。幼いころからそばにいて、ずっとそばにいるものと思っていて、だから気が付くのが遅れたのだけれど、彼はわたしの全てだったのだ。

     愛していたのだろうか。
     愛していたのだろうな。

     だからわたしはこんなにも、彼の死でこんなに痛んでしまったのだ。
     彼を殺してしまったので、ついでに自分さえも首を絞めているのだ。

     これもバタフライエフェクトなのだろうか。
     長く緩慢に、わたしはわたしを殺すのだろうか。

     彼はビルから飛んだその時に、わたしの心に棘を差したのだろうか。

     とろん――と、眠りに落ちていく。

     夢の始まりは深い闇。
     昏くて昏くて、足元さえもおぼつかない闇。
     足を踏み出していく。
     不思議と恐れは感じなかった。絵の具で塗りつぶしたような真っ黒な世界に、わたしはすとんと馴染んでいった。眠りにつく前の世界が既に、闇に似た色だったからだろうか。
     足を踏み出していく。
     ひとつひとつ、わたしは進んでいく。
     大地に感触はない。確かに踏みしめて進んでいるのに、固い平面に足はついているのに、何一つ返ってくるものはない。
     徐々に世界は明るくなった。
     闇色に光は溶け込んで、視界が次第に晴れていくのだ。それはあまりにのんびりで、理解が遅れるほどの変化であったが、しかしはっきりと景色は明るくなっていった。

     やがてわたしははたと気が付く。
     やけに低くなった視界の中で、ぼんやりと歩いていることにはたと気が付く。

     掌には誰かの体温がある。

     小さな手に小さな手が繋がれていた。
     歩を進めながら姿を追うと、男の子が柔和に微笑んでいた。

     わたしは男の子と目を合わせていた。

     この子は誰だろうか。
     わたしは誰だろうか。
     ここはどこなのだろうか。
     夢の世界で確認に努める。いったい何の世界に飛び込んだやら、事態の掌握に尽力する。
     答えはすぐに出た。
     ここは小学生のころの通学路だ。

     わたしはわたしで、男の子は死んでしまった彼だ。

     わたしは意識の中で、時代を遡上していったのだろう。毎日からっぽでしかなかったわたしは、かけらのように残っていた彼の記憶を手掛かりに、思い出の中の美しい景色に身を投じたのだろう。
     季節は夏だった。
     太陽が強く照りつける、おそらくは初めての夏休みの、その目前のころだった。

     このころにはわたしは確か、彼と結婚を約束していた。

    「楽しみだねえ、いっぱい遊ぼうねえ」
     やや舌っ足らずな言葉づかいで彼は言った。
     唐突に記憶は想起される。そう、彼はこんなだった。幼いころ、彼は思う通りに言葉を操れず、わたしはそれをよくからかったものだ。
    「     」
     わたしが勝手に言葉を吐く。
     彼の言葉に応じようとして、だけど言葉は出てこなくって、代わりに幼いわたしが言葉を吐く。
     ただ記憶をたどっているだけのようだ。
     自由などというものは効かなくて、距離の近いホームビデオを見ている感覚だ。

     わたしがなにを言ったのかは、わたしはなぜか聞き取れなかった。

    「いやなことばかり言うんだ、マイちゃんは」
     困らせるような発言をわたしはしたようだった。この小娘は底意地の悪い性格をしているのだ。妙にませていて、彼のことをいつもいじめていたのだ。
     蹴飛ばしてやりたいと思う。
     おまえがそんな性格だから、最低な結末を迎えてしまったのだと腹が立つ。
     優しくしておけばよかった。
     彼に優しくしておいて、手だってずっと握っていればよかった。
     なぜわたしは彼と結婚しなかったのだろう。
     別れを切り出したのはどちらからだっただろう。
     ――いや、別れてなどいない。
     そもそも色恋がどうだという、そういう関係になったことはないのだ。結婚の話だって冗談の延長線で、いずれ忘れてしまう程度のもので、誰にでもある間違いなのだ。
     ただしわたしは忘れなかった。
     そういえばそんな約束をしたなあと、時々思い出してひとり笑っていたのだ。

     それでも二人の手は離れていって、感じた温もりは薄れて消えた。

     思い出の中の通学路は続いていく。
     背の高い景色の中を、小さな二人は歩いていく。
     彼は楽しそうに言葉を連ねた。
     わたしは懐かしく彼を見ていた。

     彼を困らせるわたしの言葉は、なにひとつとして聞こえてこなかった。

     世界を広く感じる。
     長く歩いたつもりで、道程の半分にも到達していないことを不思議に思う。
     あの時の通学路はこんなにも長かっただろうか。もっとずっと短くて、ほとんど一瞬で終わってしまうものではなかっただろうか。
     感覚が随分と違う。
     夏の太陽に照らされて、溶けだすようなアスファルトを踏んで、わたしは既視感と不安感に襲われる。
     知っているはずの道なのに、覚えているものと全く違うのだ。
     子供の体で歩いているからなのか、大人の記憶でたどっているからなのか、あたりそこらで違和感が芽を出しているのだ。
     思わずわたしは、彼の手を強く握る。
     離れてはいけないと思って、離してはいけないと思って、思わず握った手に力を入れる。
     少しだけ我慢しよう。
     もう少しだけ、違和感は我慢しよう。
     いずれは家に帰りつくはずだ。高校生のころまでを過ごした、今は古くなってしまった建て売りの我が家につくはずだ。そうなれば、もう違和感と付き合わずに済むはずだ。
     夢は続いていく。
     ひとりでに動いていく、できそこないのホームビデオは続いていく。

     彼と「別れ」たのはいつだっただろうか。
     結婚できないと言い出したのは、わたしからではなかっただろうか。

     それは多分、中学生のころのはずだ。
     彼は確か、困った顔をしていたはずだ。

     多分結婚の約束をしたなど忘れていて、おまえは何を言っているのだと、きっと彼は困惑していたのだ。

     彼は中学生になって、急にいい男になった。
     もともとアイドル系の顔立ちだったが、大人びてきて「かわいい」から「かっこいい」に変化していった。
     誰もが彼に恋をしたはずだ。同じ学校の女子生徒は、決まって彼に夢中になって、いつの間にやら「勝手に近寄らないように」との規約が出来上がってしまった。
     それを破ったのはわたしである。
     ――というのも、幼馴染ゆえに彼の方から近づいてきて、破るなというのも無理がある。
     そして嫌がらせがわたしを襲った。
     女とは陰湿なもので、和を乱すものを拒絶するのだ。へどろを固めたような結束力で、抜け駆けするものを排除するのだ。

     そのくせに決まって彼女たちは、彼の隣に立つのは自分だと思っているのだ。

     虚像の世界である。真実を見分ける鏡があれば、誰もがみんな悪魔のような顔をして映る、悪夢のような世界である。仲良くグループになってみんな笑って、女の裏側は黒々としているのである。
     毎日は凄惨だった。
     ほとんど嫌がらせはいじめのようで、わたしは辟易してしまった。

     だから彼とはなんでもないと示すために、わたしは「別れ」を切り出したのだ。

     誰かが悪いなどというのはなかったはずだ。
     誰もがみんな悪くって、誰もがみんな悪くなかった。

     そもそもわたしだってそんな女だった。

     だから「別れは」仕方なかったのだ。
     疎遠になる引き金を引いて、あれは行きがかり上仕方がなかったのだ。

     問題となるのはわたしの態度だろう。
     彼に対して、中学生のころのわたしは怒っていた。わたしの中で彼は加害者で、わたしは被害者で、だからずっときつく当たっていた。
     わたしはつまり、彼を傷つけてきたのだ。
     小学生のころに始まり、中学生になっても、わたしは彼を傷つけてきたのだ。

     舌足らずをからかって、被害者面してきつく当たって、だからわたしは彼を傷つけてきたのだ。

     幼い体に押し込められて、わたしは一人、自らの行いを悔いる。隣で柔和に笑った彼の、その裏表のない優しい笑顔に、一人で勝手に後ろめたさ感じる。

     違和感の正体はそれかもしれない。
     大人の目で見たからでなく、幼い体で歩くからでなく、夏の太陽が影のような女を照らしているからかもしれない。
     強い光にさらされて、本当はわたしなどは霧消していってしかるべきなのに、居残っているための違和感かもしれない。

     高校生になってからは、いったいわたしはどうしただろうか。
     大学生になってからは、大学を卒業してからは、いったいわたしはどうしただろうか。
     彼との関係は修繕された。
     一度拒絶して疎遠になって、彼はわたしを元通りに優しく迎えてくれた。
     わたしは大人になったのだ。陰惨な女の世界で上手く生きる術を身に着け、男との距離の測り方も覚えて、だから彼ともうまくやったのだ。
     ただし、距離が詰まっていくことはなかった。
     関係は友人のそれでとどまってしまって、近く深くなることはなかった。

     わたしたちはきっと、結末を決定してしまった。

     彼に優しくしていれば、もっと違っていたかもしれない。
     自分を被害者だと思い込まなければ、多分変わっていたかもしれない。
     胸の恋心に気づいていれば、きっと良かったのかもしれない。

     その全てをわたしは誤った。
     彼の心臓に植え付けられた棘は、だから時間を経て成長していった。

     そしてそれは刺さったのだ。
     ずぐりと命を貫いて、彼を殺してしまったのだ。

     やり直せるとするならば、きっと生まれたころからなのだろう。
     すべてをわたしは間違って、だから運命はそっぽを向いたのだろう。

     ――でも、これもわたしの想像か。
     本当のところは、きっと彼にしかわからないのか。

     するりと手から温もりは去っていく。
     繋いでいたはずの手が、強く握っていたはずの手が、ほどかれて温もりが消えていく。
     彼は急に飛び出していった。道端に興味を惹かれるなにかをみつけて、声を上げてなにかに駆け寄っていった。
     わたしはうろたえる。
     せめて夢の中だけでも強く握りしめていたかったのに、繋ぎとめていたかったのに、するりとほどけて温もりが消えていく。
     わたしが力を強くしても、効果は何もないのだった。
     ぎゅうっと握ったつもりでも、夢の中では通じないのだった。

     わたしはこの夢の世界では、自由はひとつも効かないのだった。

     しゃがみこみ、遊ぶ彼をわたしは見つめている。近寄って、声をかけて、また小さい手を繋ぎたいのに、わたしはただ彼を見ている。
     幼いわたしはただただ彼を見ている。
    「     」
     そして呆れたように声を出して、一人で通学路の続きを歩き出してしまう。

     わたしの声は届かない。
     わたしにわたしの声は届かない。

     せっかく一緒に居られるのに、一緒にいてくれるのに、わたしは彼の側から離れてしまう。

     ずっと一緒にいてくれるのに、わたしの方から離れてしまう。

     馬鹿な女だ。
     おまえはたった今、一生を捧げてもいい相手を放り出したのだ。

     おまえはそんな女だからだめなのだ。
     わたしはそんな女だからだめなのだ。

     右手がさみしくなってしまった。
     ついさっきまであった体温は、あっさりと拡散して消えてしまった。

     なんでわたしはこんなに素っ気ないのだろう。
     幼いころは、彼への恋心にこそ気づいていなかったが、それでも仲が良かったはずだ。竹馬の友ともいうべきか、心が通じ合っていたはずだ。

     なのにどうしてこんなにあっさりと、彼のことを放り出せたのだろうか。

     社会に出てからのわたしもそうだ。
     遠く生まれ育った土地を離れて、わたしは大きくも小さくもない会社に就職した。仕事は忙しくて、一人前になるために奔走して、私生活はあまりなかった。
     携帯電話には懐かしい名前からの着信がいくつもあったが、ほとんどわたしは出なかった。
     忙しかったのだ。
     わたしはとにかく忙しかったのだ。

     忙しさを理由にしていたのだ。

     そうしてすべてを放り出して、自分のことしかやらなくって――。

     そうしていたら、凶報が届いたのだった。

     そしてわたしは穴に落ちた。
     脱力感に支配され、登ることのできない暗闇に落っこちた。
     いくつもの着信履歴は、わたしの首をゆるい力で締めつけている。ぎりぎりで喉を押し付けて、息の通りを悪くして、徐々に意識を失わせる。
     わたしは打ち上げられた魚のようだ。
     ぱくぱくと口を動かすけれど、酸素は血中に流れていかず、やがてわたしは死に至るのだ。

     多分、そのうちわたしは死に至るのだ。

     死を前に、彼はなにを言いたかっただろうか。
     何度も何度も携帯電話を鳴らして、彼はなにを言いたかっただろうか。

     放っておかずに通話をしていれば、今もまだ生きていてくれただろうか。

     わたしは徹底的に無視をしたのだ。
     彼からの着信はいくつもあって、誰よりも一番多くって、その多さにいらいらしてしまってわたしは徹底的に無視をしたのだ。
     通話をしていればよかった。用もないくせにいつもうるさいと、勝手に決めつけて放り出さなければよかった。
     たったの数日前の自分だけれど、横っ面を思い切りぶん殴ってやりたかった。
     誤りばかりだ。
     わたしは誤りばかりだ。

     わたしは誤りしかしないのだ。

     歩みがいくらか遅くなった。
     日陰を選んで、わたしは振り返りながら道を歩いた。
     そんなに気になるのならば、どうして放っておいたのだろう。彼を待たずに、さっさと先に行ってしまったのだろう。
     だめな女だ。
     生まれてこの方、一度も素直になっていないのだ。
     やっと素直になったと思ったら、彼は既に死んでしまっていた。

     だからわたしはだめな女だ。

     これは美しい記憶などではない。
     これはきっと、後悔の履歴だ。

     幼い時分のわたしから、過ちを振り返るための旅路だ。

     少女は一人道を行く。
     足取り重く、罪を背負って道を行く。
     影が伸びていた。強い日差しに照らされて、輪郭を濃くして影は大きくなっていた。過ちの数だけ、影は肥大化しているのではないかとわたしは思った。
     彼は駆けてくる。
     息を切らして、困ったように笑って駆け寄ってくる。

     掌に、するりと体温が戻ってくる。

     わたしは彼の小さな手を握った。
     力は通じていないけれど、今度こそは離さないと、わたしは強く強く手を握った。

     追いついて彼は、
    「もう、いつも先に行っちゃうんだから」
     ――と、小さく不満を漏らして口にする。

     途端に堰が切れた。
     幼いわたしの中でわたしは、濁流のように涙を流した。

     突然涙は流れてきた。

     どうしてだろう。
     どうしてこのタイミングで、我慢していたのに泣いてしまうのだろう。

     わたしは泣かなかった。
     凶報を聞いて、ひとつも雫をこぼさなかった。
     彼を失って、自分の気持ちに気が付いて、永遠に離れていったと知って、それでもわたしは泣かなかった。
     堪えてしまったのだ。
     泣いては別れを認めることだと思って、「死」などなかったと決めつけて、だからわたしは堪えたのだ。

     なのに夢なんかで、わたしはとうとう泣いてしまった。

     一度泣いてしまったらもう止まらない。
     思い出が重なって、後悔が重なって、素直だったらとの想像と、もしかしたらあったかもしれない未来とがないまぜになって――。

     どうして死んでしまったんだ。
     ビルの淵から飛び降りて、命を捨ててしまったんだ。

     いつも先に行くだなんて、先に行ったのはあんたじゃないか!

     追いかけられない場所に行ってしまうだなんて、彼はあまりにも卑怯すぎる。
     謝ることもできないだなんて、彼はあまりにも卑怯すぎる。

     ずっとずっと、このところ毎日、わたしは悩んだ。
     助けられたのにと、それができたのはわたしだけなのにと、ずっとずっと悩んだ。

     だから泣かずに我慢したのに、あんたを終わらせないようにと我慢したのに、先に行ってしまうとはなんだ!


     おかげであんたが死んだことを、わたしは認めてしまったじゃないか!


     視界が揺れている。
     どうにもならないくらいに、涙で視界が揺れている。

     通学路は続いていく。
     手を握り直して、幼い二人は家路を急ぐ。

     わたしはわたしが、さっきより強く手を繋いだのがわかる。

     少しくらいは素直になれるものだ。
     だめな女も、少しくらいは頑張って、好きな男を繋ぎとめておけるものだ。

     さっきはごめん。
     悪かったのはおまえじゃなかったよ。
     おまえの後を引き継いで、どこかで誰かが間違ったんだよ。

     このころのわたしは今よりも、ずっと素直な女だったよ。

     涙に濡れて、わたしは二人を眺めていた。
     繋いだ手を振り回して、楽しそうに歩く幼い二人を眺めていた。

     いつの間にやらわたしはわたしを抜け出して、二つの背中を見送っていた。

     夢は覚めていく。
     どうやら時間切れが来てしまったみたいだ。眠りはだんだんと浅くなって、現実という湖面にわたしは浮上するのだ。

     二人は無事に帰っただろうか。
     そんなことを気にしても仕方ないのに、わたしはどうにも気になった。

     手を繋いだまま無事に帰って、そのまま違う未来に行ってくれればと思った。

     体がきしんでいる。
     へんてこな体勢で眠ったせいで、がちがちに体が固まっている。
     顔はぐしゃぐしゃだ。夢の途中から大泣きに泣いて、現実でもわたしは大泣きに泣いて、だから顔中涙でぐしゃぐしゃだ。
     立ち上がり、伸びをする。凝り固まった体が音をたて、緩やかにほぐれていくのがわかる。固まりはまだなくならないけれど、それでもいくらかマシになる。

     泣いたからだろうか、わたしはなんだかすっきりしていた。
     認めたからだろうか、わたしはなんだか楽になっていた。

     心の重さが軽くなっていた。

     そして思う。
    「――お腹がすいた」
     ぺたりと腹に手を当てる。
     それは随分を引っ込んだようだ。慢性的に運動不足で、少し痩せなければと思っていたのだが、痩せる必要はなくなっていた。
     ――随分と憔悴していたと、今になって理解する。
     ――そりゃあ腹も減るもんだと、なんだか妙におかしくなる。

     空腹感の発露は久しぶりだ。

     勢いに任せ、食事をとることにしよう。
     せっかく心が軽くなったので、人間的な生活に復帰しよう。

     ガスコンロに火をつける。
     クッキングヒーターなんぞがあるこの時代に、わたしはいまだにアナクロだ。おまけに二回ひねらないと火がつかないなんて、新築で入居したマンションなのに、なんで設備がいちいち古めかしいのか。
     調理メニューはインスタントラーメン。
     こんな時には、賞味期限の長いものが役に立つ。長く活動を停滞させていたので、悪くならないものが重宝する。

     ものぐさな性格で、買いだめをしていたことを誇らしく思う。

     さあさっさと調理を済ませて、さっさと腹に入れてしまおう。
     食事を済ませたら風呂に入ろう。
     風呂に入ったら着替えをしよう。
     着替えをしたら家を出よう。
     家を出たら買い物をしよう。
     買い物をしたら家に帰ろう。

     あとはそれらを繰り返そう。

     徐々に体を慣らしていって、行動範囲を広げていこう。
     そのうちきちんと会社に行こう。
     再び社会に馴染んでいこう。

     彼のことは忘れることにした。
     いつまでも引き摺っていては、わたしが生きていけないし、それではきっと彼に悪いし、だから思い切って忘れることにした。

     忘れることで、また生きていける気がした。

     人間は忘れることで生きていると誰かが言ったが、それはいったい誰だっただろうか。
     大恋愛は終わりを告げた。
     そう、これは恋愛だったのだ。

     永い永い時間をかけた、壮大なラブ・ストーリーだったのだ。

     さあて、これからの時間をどう過ごそう。
     どうして人生を過ごしていこう。

     今日はいい天気だ。
     まだ見上げてはいないが、きっと雲一つない青空なはずだ。

     永い永い恋愛だったから、エンディングロールもきっと永い。
     本編よりも永すぎて、きっと生きているうちに終わりはしない。
     でも別にそれでもいいだろう。
     両親に孫を見せる役割は、妹にでも任せておけばいいだろう。
     わたしはそれでもいいだろう。

     眼鏡には指紋が付いている。誰かが勝手に触ったのかとも思うが、実際にはただ単純に、自分が不注意で触っただけである。どういうことかというと、人間は無意識のうちに何かをしているということである。

     だけどいったい、だからなんだというのだろう。
     眼鏡に指紋が付いているなら、さっさと拭いてしまえばいいではないか。清潔な布きれの一つもあれば、事は簡単に解決するではないか。
     複雑に考えて悩む必要なんて、どこにもありはしないじゃないか。

     すべてはそういうことだ。
     すべてはそういうことなのだ。

     インスタントラーメンを器に入れる。鍋から直接放り込まれて、麺とスープが派手に踊って、やがてするんと落ち着いていく。箸と一緒に食卓に運べば、それはなんと豪華な朝食だろうか。
    「いただきます!」
     食卓について、勢いよく両手を合わせた。
     乾いた音が、ぱぁんと鳴った。


     この一杯に誓う。



     わたしはもう、恋をしない。



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