ため息をついてしまう。
大げさに大げさに、わたしはため息をついてしまう。
とうとうこの日がやってきてしまった。
そう、それはお泊り会という、乙女の一大イベントだ。
そしてわたしにとっては、あろうことか貞操の危機だった。
とはいえ、きっとサエコの恋心は冗談のようなものだろう。
実際には、彼女がわたしに手を出してくることはないのだろう。
――とは思うのだけれど、果たして実際はどうなのだろう。
もしかして手を伸ばされては、わたしはいったいどうするだろうか。
拒否する力があるのかと自身に問うたら、それがなんともどうにも怪しい。
そして拒否ができなかったら、行き着く先まで行ってしまうのではないかと、想像をしてしまって背筋がなんだか寒くなる。
悪いのはタイミングだ。
サエコがお泊り会をしたいと言っても、タイミングがそれを許さなければそれはかなうことはない。わたしがなし崩しに立場を動かされたとしても、ゆるぎない日程というタイミングが立ちはだかれば、いずれその話は消えたのだ。
しかし、タイミングは悪かった。
偶然にも、近く両親がいない週末があったのだ。
そしてそれを、わたしは隠すことができなかったのだ。
だからこんなピンチを招いてしまい、サエコを招き入れることになってしまい――。
行き着く先まで行ってしまうことになるのではと、わたしはどうしても思ってしまうのだった。
「あら、今日は早いわね」
いつもの駅前広場で待ち合わせて、サエコは至極嬉しそうに笑った。気合の入ったおしゃれな服装で、つい最近までファッションの「フ」もなかったサエコにしては、とてもじゃないが頑張っていた。そしてそれはとても綺麗で、嬉しそうな屈託のない笑顔と相まって、わたしはどきりとするのだった。
「早いって、時間通りじゃないの」
時刻は昼の少し前である。
わたしは約束の時間にぴたりと到着して、相変わらずサエコは先に来ているのだった。
「そうね、そういえばそうよね」
うんうんと頷くようにサエコは言って、
「さ、行きましょう」
――そしてさっさとわたしの手を取って歩き出してしまう。
「ちょっと、手は放しなさいよ」
さりげなく恋人つなぎで手を握ってきたサエコをわたしはたしなめるが、
「あら、いいじゃない。今の私たちはそういう関係でしょ?」
――と、まるで取りつく島もなかった。
というか、そういう関係とはなんなのか。
そういう関係じゃないから、そういうお題目だからお泊まり会は開かれたのではないのか。
わたしにしてみればサエコはそんなではないし、絶対にそうはならないし、だけどよくわからないし――。
大体、サエコは冗談でやっているのだと思っているし――。
わたしたちは商店街をつらつらと歩く。
買い物をして、昼食をとってから、わたしの家に行くことになっている。
そして午後の時間を過ごして、二人で料理を作って夕飯にして、お風呂に入って、同じ部屋で寝るのだ。
サエコにとっては、きっとメインイベントは後半の二つだろう。それはわたしにとっては最も恐れることであり、どのように防波堤を築くかが問題であり……。
――しかしそれは、今考えても詮無いことか。
脳内にはりつくもやもやを、頭を振り回してすっ飛ばす。
とりあえずは、今は楽しむことを考えよう。
友人を招いてのお泊り会はわたしだって嫌いではないので、今は楽しいことだけを考えよう。
わたしたちはまずはパジャマを買いに行った。
サエコは寝るときになんと体操服だそうなので、せっかくだからこの機会に買うことになったのだ。
サエコたっての希望でわたしが彼女のものを選び、そしてサエコもわたしのものを選んでくれることになっているのだ。
本当にまるで恋人みたいで、とても心が躍る――じゃない、気の重たいことだ。
「これ、アケミに似合うわね」
場所は衣料品店の一画。笑顔で言って、サエコはフリルつきのパジャマを取り出し、わたしは、
「……絶対似合わないと思う」
――と、小さく言葉を失う。
うっすらと桜色のそれは思い切りフェミニンで、そのうえ子どもっぽくて、男子中学生と間違われるわたしには縁遠いものだ。そんなものをわたしが身に着けてしまえば、「いったいどこのコスプレパーティーにお出かけですか」といったもんだ。
「もっとシンプルなものにしましょうよ。それはきっと、常用に耐えないものよ」
わたしは別のものへとサエコを促す。
サエコは桜色のコスプレパジャマをわたしに着せる気が満々だったようなので、寂しそうな顔をしていたが、ちょっとキャラ似合わないものは着たくないので仕方がない。
一度きりなら我慢もするけれど、一度で捨てるわけにもいかないので仕方がない。
「あんたこれはどうよ?」
わたしは綿生地のパジャマをサエコに勧めた。どこからどう見てもパジャマだという具合の、淡いブルーのものだった。
「悪くないんじゃないの?」
実際にサエコにあてがってみて、小さく「ふむ――」とわたしは頷く。しかしサエコは不満顔で、
「いやよ。もう少し可愛いのにしましょうよ」
口をとがらせて文句を言った。
「――あんたね、どの口が言うのよ?ついこの間までファッションなんて知らなかったくせに」
「その通りだけど、でもそれはついこの間の話よ。今じゃあないわ。今のわたしはファッションにうるさいのよ」
つんと澄ましてサエコは肩をすくめる。
ああ言えばこう言うである。
「ああはいはい。わかりましたよ」
そしてサエコは頭がよく、わたしはそうではないので、いい負けるのは確実なので引き下がるしか他はない。
「アケミ、あなたはこれはどう?」
「――だから、わたしにそういうのはやめなさいっての」
まったくどうして、互いの好みは合致しない。サエコは可愛らしいものを選びたがって、わたしは機能的なものを探してしまって、延々と平行線をたどっている。
たった二人のペアなのに、ずっと一緒にいるくせに、わたしたちは見た目も好みも正反対だ。
――だから多分、二人は影響しあって、そして惹かれているのだ。
予定の昼食の時間を過ぎて悩みつくし、わたしたちは結局妥協しあい、シンプルな、手触りの優しい生地のパジャマを揃いで買った。ペアルックは避けたかったのだけれど、
「同じものにしてくれないのなら、さっきのアレを私は買うわ」
――とサエコが譲らなかったので、仕方なしにわたしは了承したのだった。
それから遅い昼食に移行する。
時間が押しているので、ファストフードさっさと済ませて、今度は食料品店に向かい、晩の食材を買いそろえることにする。
「ハンバーグがいいわね」
大人びた長身の美人のサエコが、これしかないと神妙な顔でメニューを上げたので、なんでもよかったわたしはそれに合わせることにする。
あまりにも子供っぽいメニューだったので、サエコに不似合いで、でも似合っているようで、思わず笑いそうになったけれど、それはなんとかこらえられた。
サエコの子供っぽさは、いつも本気なのか冗談なのかがわからない。なにせ、
「このお肉でどうやって作るのかしら?」
――と、ステーキ肉を片手に首を傾げる奴なのだ。
「ひき肉というものがあるのよ」
と教えてやると、
「便利な世の中ね」
――と、目を丸くして驚くようなやつなのだ。
そんなサエコなので、なにが本当でなにが嘘なのかは、わからなくって当然だ。
買い物が終わって、わたしたちは駅へと向かう。 その際、ちょっとした露店を発見し、サエコがそこにくぎ付けになってしまったので、仕方なしにちょっとしたものを買ってから駅へと向かう。
それから電車に揺られ、わたしの家の最寄駅まで移動する。
そして家まで歩いて、たどり着いて、
「かわいらしい家ね」
――というサエコの謎の褒め言葉も頂戴して、お泊り会は本格スタートした。
家にたどり着いたのは、夕方の少し前だった。
ちょっとの買い物に時間をかけすぎたので、午後の時間はちょっと、自由が少なくなってしまった。
とりあえず食材を冷蔵庫にしまって、夕食の用意をするまでの間、わたしの部屋で二人でくつろぐ。本当は狭い部屋よりも、居間で過ごした方がいいと思ったのだけれど、サエコが部屋に行きたがったのでそうする。
――まったく、わたしはどうしてこう押しに弱く、そしてサエコに弱いのか。
「かわいい部屋ね」
家の外面を見た時と、同じ褒め言葉をサエコは口にした。
嬉しそうに、楽しそうに、満足そうにそう言った。
多分本音だと思ったので、わたしは嬉しかった。
ぬいぐるみ満載の、似合わない女の子っぽい部屋なのだけれど、わたしは褒められて嬉しかった。
「この部屋に住んでるのなら、あのパジャマを許してくれてもよかったのに」
そしてちょっとだけ、サエコは不満そうに口をとがらせる。
「――あれはダメなの。服はね、着てるところを鏡で見たりするでしょ?そしたら泣きそうになるのよ、ああいうのを着てると」
わたしはため息をついて言った。
もちろん、ふりふりの女の子然とした衣服は、嫌いではないのだ。ただあまりにも似合わないので、わたしは拒否をしてしまうのだ。
そういう生活をしていたら、気が付いたら、衣服に関しては機能美を美しく思うようになっていた。
短い午後の時間を、わたしたちは取り留めのない会話をして過ごした。
互いにぬいぐるみを抱いて、クッションに座って、なんでもない会話をして過ごした。サエコはやっぱりなんにも知らなくて、常識的なことをその都度訂正しながらわたしたちは会話を続けた。
距離を近づけ、寄りかかってくるサエコを重たいなと思いながらしばらく過ごした。
「近いわよ」
――と、いつものように跳ねのけられなかったのは、二人だけの空間だからだろうか。
他の人の目がないと安心してしまったので、わたしは許してしまったのだろうか。もしかして、それを自分は求めていたのだろうか。
しばらくの休憩を経て、夕飯の支度を開始する。
ハンバーグだけでは寂しいので、ポテトサラダを添えることにしたのだが、サエコは調理にはまるで役に立たなかった。やはりというかなんというか、想像の通りだったので、結局は調味料を取り出したり、サラダにマヨネーズを入れてかき混ぜるくらいしかまともにできなかったのだった。
なにせ包丁を持てば、ニンジンに向かって思い切り振りおろすような、そんな腕前なのだった。
当然まな板の上でどがんとそれは大きな音を立て、そして支えすらしていなかったにんじんはすっ飛んで行く。
「……おかしいわね」
「……なにがおかしいのよ」
――つまりサエコはそういうやつで、冗談でなく、本気の意味でも常識がない奴なのだった。実践で調理を教える余裕なんてないわたしは、
「あんたはほら、お皿とか出して」
――とサエコをサポートに回して、調理を専任する羽目になるのだった。
それでもサエコは手伝おうとしてくれて、ハンバーグをひっくり返すのにチャレンジして、
「あ、ああー」
――そして二つのハンバーグのうち一つを真っ二つにしてしまい、形を崩してしまうのである。
「ほらほら、もういいから、サラダを盛り付けなさいよ」
わたしは笑って、サエコのミスをフォローする。
そうしてトラブルがあったものの、夕飯は完成し、夕食となる。
サエコに破壊されたハンバーグをわたしが食べることになり、サエコは、
「ほんとうにいいの?交換しましょうか?」
――と申し訳なさそうだったが、無理やりにでもわたしはサエコの崩したほうを食べた。
せっかくなんだから、サエコが少しでも手をかけたものを、わたしは食べたかったのだ。他意があるわけではなく、友人のためにそうしたかったのだ。
サエコという友人と二人だけの食卓は、なぜだか華やかでとても楽しかった。味付けはいつも通りで、そして肉汁が逃げ出しておいしさを減らしたハンバーグなのに、なぜだかとてもおいしかった。
サエコが美しいので、だからおいしいのかなとわたしは思った。
「楽しいわね」
――と言ってサエコは笑っていた。それは食事の感想としてはふさわしくなかったが、だけどとてもふさわしいとわたしは思った。
おいしいじゃなくて、楽しいでいいのだと思った。
ご飯の後の食器の片づけはサエコがすると言ったけれど、やっぱり役立たずだったので、やっぱりわたしが交替することになった。
「ごめんなさいね」
お皿を割って、しゅんとしてサエコは言った。
その姿は結構可愛くて、なんだかわたしは胸がほっとした。
夕食の後も、わたしたちは部屋で寄り添って過ごして、しばらくは会話も少なく、のんびりしていた。会話がなくても、空気が悪くならないのはいいなとわたしは思った。
お風呂はサエコがやはり、
「一緒に入りましょうよ」
――と駄々をこねたが、
「だめよ、お友達同士で一緒になんて、この歳になるとやらないもんなの」
――と、わたしはなだめすかして一人で入った。
貞操の危機の第一段階目を、わたしはなんとかかんとか潜り抜けた。
サエコは後から一人でお風呂に入り、お風呂はさすがになれているらしくトラブルもなく終わり、お風呂上がりのサエコに、シャンプーのにおいのする彼女の色香にわたしはやられそうになり、自ら危機を作り出してしまった。結局その時はどうにもならなかったけれど、「サエコならいいかな」と、わたしは一瞬間違いを犯しそうになった。
そしてイベントは最後を迎える。
布団の中にもぐりこみ、電気を消してガールズトークを繰り広げることにする。
それはお泊り会においての最後のわたしのピンチで――。
ベッドにもぐりこんだわたしの隣に、やはりサエコも入り込もうとする。
「……ダメよ」
「……どうしてよ」
静止すると、サエコは不満そうに口をとがらせた。
「決まってるでしょう?一緒になんて寝ないの」
「――嫌よ」
絨毯敷きの床に一組敷いてある布団のうえに、わたしはサエコを押し出そうとする。
――だけれどサエコはベッドの中で布団をかぶってしまい、踏ん張って出ていこうとしない。
「あのねえ、お友達は一緒に寝ないのよ」
わたしも布団にもぐりこみ、サエコを引きずり出そうとする。
「じゃあお友達じゃなくていいじゃない。ね、それならいいでしょう?」
サエコは意味の分からない言い訳をして、強い力で抵抗をした。
布団をかぶったままで、わたしたちはきゃあきゃあ言いながらもみ合う。そろいのパジャマを着て、背の高い美女と、子どもっぽいわたしは戦いを繰り広げる。
サエコは細いくせにとてもやわらかくて、気持ちよくて、いい匂いがして……。
どれくらいかもみ合って、冗談のようにじゃれあって、そしてついに、わたしは組み伏せられた。
胸がドキドキしていた。
これは多分、運動をしたせいで、そのほかの理由は本当になかった。
なんだか楽しくて、高揚していて、そのほかの気持ちは吹っ飛んでいた。
ただ、友達とじゃれて、それだけだった。
――それが多分、油断だったのだと思う。
「一人で寝るなんて、そんなのはいやよ」
上になったサエコは、ゆっくり含ませるように言って――。
そして唇が重なってきた。
わたしはびっくりして、動けなくて、そして一瞬の後にじたばたと体を動かす。
冗談はやめなさいよと言おうとして、口をふさがれているので当然言えないで……。
いつもの冗談のようなキスから、サエコの舌が入ってきて――。
こいつはなんなのだ。
どうして常識的なことを知らないのに、こんなことばかり知っているのだ。
官能的なキスは、脳のどこかを刺激しただろうか。
いつの間にやらわたしはとろんとして、体中が弛緩していくのがわかった。
ああ、やばいなと思った。
もうなんでもいいかなと思った。
恐れていた事態で、こうなるのだと思ってしまっていて、そしてそうなってしまって――。
胸に手がのばされても、わたしはもう抵抗できなかったのだった。
つまりわたしたちは、お泊り会で本当に一線を越えてしまったのだった。
それは結局、ただじゃれあいの延長だった。
わたしもサエコも、作法を知らなかったので、それ以上にはならなかった。
ただ、一線を越えたという、その実感だけがあった。
「やっぱり、女の子同士では子作りはできないのね」
改めて布団の中で、眠りに着こうという時にサエコは言った。
「あんたね、何を言ってるのよ。余韻ってものを知らないの?」
わたしは文句を言うが、その実表情はほころんでいた。
多分、嬉しさで満ちていたのだ。
もうわたしは、完全にそういうヤツになっていたのだ。
「――改造、してもらおうかしら。子づくりできるように」
サエコはいたずらっぽく言った。布団をかぶっているので、表情は見えなかったが、ぜったいに子どもみたいな笑顔になってるだろうとわたしは思った。
「そういうの、多分いらないわよ」
わたしは言って、そして自分から抱きついてやる。
思えば素質はあったのだろう。
きっとそういうやつだったのだろう、わたしも。
――だから怖かったのだ。
女同士の世界に落ちるのが怖かったのだ。
サエコとの子どもなら、欲しいかもなあと、そういう心境になってしまう自分を怖がっていたのだ。
だけど――今は幸せだ。
「もう寝ましょうよ」
「――そうね」
柔らかい彼女の感触を感じながら、わたしたちは揃いのパジャマを着て眠りにつく。しかもこっそり上着を交換してやったので、わたしはサエコのにおいに包まれている。
なんだか気持ちがよかった。
サエコが間違って、同じサイズでパジャマを買ったことを感謝していた。
床に敷いた布団を無駄にして、二人抱き合って、幸せな眠りに着く。
微睡む中でサエコの「愛しているわ」という声が聞こえた気がして、わたしも多分そうと返して……。
しっかりと手は、恋人のように繋がれている。
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