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『GODZILLA 星を喰う者』を見て考える,結局アニゴジとはなんだったのか。
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『GODZILLA 星を喰う者』を見て考える,結局アニゴジとはなんだったのか。

2018-11-09 23:59
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みなさま,アニゴジは見ましたか?僕はもちろん公開初日に見ましたよ。というかさっきです。

本日はアニゴジについて少し思考をまとめる意味でも,つらつらと書きたいと思います。

そもそもゴジラとは,何か。
それは「恐怖」そのものです。初代ゴジラは「核兵器」そのものでした。ゴジラとはもはや人間の手に負えるかどうかわからない,あらゆるものを破壊する核兵器自体です。そこに感情はなく,ただ目の前のものを破壊するだけの理解不能の存在です。

初代ゴジラを見た方はわかると思うのですが,ゴジラが何考えているかなんでわかりません。ただただ破壊するだけです。そこに感情はなく,ただ目の前のものを破壊するだけの物体です。
その中で,人はゴジラに恐怖します。ただ蹂躙されるだけとなった人間。圧倒的な力にあらがえない無力感。そして最後は「教訓」として消滅する・・・。
それを特撮という圧倒的臨場感で描き出す。それが「ゴジラ」です。

さて,ではその後ゴジラはどうなったのでしょう。

二作目以降は一気に娯楽要素が増し,初代のようなパニック怪獣映画という側面はどんどん消滅していった印象です。ゴジラの「恐怖」の側面は薄まり,アンタッチャブルな存在,最強の存在(核兵器は今でも最強の兵器です。),無敵の怪獣としての一面が前面に押し出され,まあずいぶんコメディになったりしました。最もそれによりゴジラが一般社会に普及し,反核思想の広まりや,初代ゴジラの神格化に一役買ったとも言えます。

しかし,「特撮」という存在が,進化し続けるハリウッド映画に比べて「チープ」に見えること,そして低年齢化が進んだことで,ゴジラは映画作品としてはファイナルウォーズで終わりを迎えました。(ギャレゴジ?あれは知らん。)

そんな中で,「高年齢向け」というか「全年齢向け」として息を吹き返したのが「シン・ゴジラ」です。シン・ゴジラはそれまでの低年齢向けではなく,より初代に似せた(と言っていいのか?),パニック映画としての側面と,それに立ち向かう人間という構図を面白く示し,「恐怖」としてのゴジラと「希望」としてのゴジラを描きました。新たなゴジラ像の確立といっていいのではないでしょうか・・・。



さて,アニゴジですが・・・

アニゴジは,「新たな視聴者層の開拓」「新たなゴジラ像の模索」だと思います。


ここからネタバレをしていきますのでご容赦ください。

まず大前提として,「特撮ゴジラではない」ということから理解しないといけません。というか,特撮ゴジラとしてみるとこんなに駄作はないからです。

・・・

人間はゴジラに負けました。

それが従来の視点でのこの映画の結末です。人間はゴジラを倒すことができずに,原始時代に逆戻り。

それで終わりです。

そこに至る過程の中で,アニゴジは徹底的に「特撮ゴジラ」であることを否定していきました。


まず,見せ方としては「怪獣プロレス」がないことですね。
これは,初代もないじゃん!という話もあるんですけど,アニゴジ①もゴジラだけだったですよね。問題は②③です。徹底的にゴジラは敵である怪獣,メカゴジラ,キングギドラと戦いません。いや戦っているのですけど,プロレスはしません。相手の怪獣たちは,徹底的に怪獣であることを放棄しています。

そして何よりも「アニメであること」自体が特撮であることを否定しています。
このアニゴジ,アニメとしたらそれなりに面白いんです。すごい強いクリーチャーに対してとんでも兵器ととんでも作戦で立ち向かう。勝てなかったけどそれでいいよね!というオープンエンド。悪くはありません。

そうやって「特撮ゴジラ」を否定しますが,肝心のゴジラ像については「恐怖」「最強」「無敵」「理解不能」という,今までのゴジラが確立してきた共通点はあります。これについてはアニゴジ制作陣はしっかりと理解していたと上から目線で思っています。

そう考えると新しいゴジラとして,アニゴジは完成している,とも思います。虚淵玄を起用したことについても,新しい何かを模索している,まあつまりは新しい客なんですけど,それがよくわかるものだと思います。


しかし一方で,既存のファンからしたら,アニゴジは今までのゴジラを否定していると思わせても仕方ないとんじゃないかなと思います。
なぜって,昭和,平成,ミレニアムを見た世代にとって,ゴジラとは怪獣同士の戦いと,自衛隊の抵抗が不可欠ですし,それが見たくてゴジラを見ているようなものです。特撮ではこう描いた。アニメではこうなるのか!という,素直な驚きが欲しいとも言えます。
そして,ゴジラを倒すことこそが「勝利」であったのに,それをあっさりと否定してしまったのは,可能性を感じるとともに,否定にもなります。いままで戦っていたのは何だったのか・・・。


ということで,改めて,このアニゴジというものは「新しい客を広げるためのゴジラ」ということですね。可能性を広げる,と言ってもいいのかもしれませんが,それについては疑問符です。結局,ゴジラは特撮ゴジラでしかありえない,という面を強くしてしまったようにも感じます。なんでって,特撮ゴジラのほうが面白いもん。
来年度のギャレゴジのためのつなぎのゴジラといってもいいかもしれませんね。それだけでは少し寂しいですが・・・。

そして,最後に。




真・女神転生とか言わないこと!




☆★☆余談☆★☆

不満の雑記。

ゴジラは神だったのでしょうか。ゴジラを神としての恐怖の対象にすること自体,根本的にゴジラを否定しているような気がしないわけでもありません。いや,核兵器も人間が作り出したもの,神も人間が作り出したものだとすると話がまとまったりするかもですけど,そもそもそういうものではないと思います。
そもそも,アニゴジの世界では「神は死んだ」状態です。ゴジラ教はあっても,それは終末論者の集まりでしかなく,人間勢力の代表ではありません。
それに,ビルサルドのメカゴジラ,エクシフのギドラ,フツワのモスラ,人間のゴジラ,というのは並び得ません。同列ではありません。したがって,人間の神がゴジラという線は消えます。となると,一体に人間にとって神とは何なのでしょう。
人間にとって,文明やメトフィエスの言う「勇気」こそが神だったようにも思えますが,結局それらを捨て去って,人間はフツワになりました。
それが正しいことなのか,というと疑問ですね。

この映画の結末は,結局「ポルポト」が正しかった,になるわけです。原始農耕文明こそが人間の,人類のあるべき,最も平和な姿だということになります。というのも,フツワには「憎しみ」という感情が欠如しているということもわかりました。その瞬間,「愛憎」の後者が消えたのですから,結局そこに残るのは「愛」です。
その不完全な(と言っていいのかな)存在が,果たして人類と呼べるのか。疑問です。
人類とフツワが生殖可能なことはエンディングでわかりましたが,そもそも人類はフツワではないのです。フツワは人類のその進化の先です。その時点で人類という種が消滅した,そう判断することも可能でしょう。
そうなると,人類は「勝ってすらいない」気もしてきますが,結局生殖している,「遺伝子が残せている」ということから,セーフなのかもしれません。
が,やっぱり納得はいかん!うーん,マンアフターマンを読んでいるときの気持ちになってきました。

まあ一番納得がいかないのは,メカゴジラがいなかったことです。ギドラが蛇だったことです。そしてモスラが出てこなかったことです。
裏切られたことです。

裏切り続けられたことです。。。。。。
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今となってはこんな糞な三部作は、明らかにバカ専門の洗脳動画だとしか言いようがない。
歴代のゴジラ作品どころか、今まで怪獣映画や特撮作品に情熱を注いできた人達の想いを
頭ごなしに否定し、嘲笑い物にしている要素を盛り込まれているのがこの失敗作の本性だ。
いずれにせよ、こんな失敗作は永遠に作らないで欲しいものです。ゴジラ映画を二度と穢すな
5ヶ月前
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