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ライト・ノベル『自我.com』あとがき
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ライト・ノベル『自我.com』あとがき

2017-02-18 19:32

    僕はこの『自我.com』という小説(?)を画策したのは3、4年前のことで、2016年の9月に公表するまで、形式も含めて、ともなりたかひろ史上、一番「完成」までに時間を要した作品の一つである、と言えると思います。

    なぜ、「完成」まで約4年もかかったのか、というのは、後回しにして、まず、この小説の「本質」=「結論」を先に言っておきたい、と思います。

    この『自我.com』という小説は、

    「内容的」には、「おでんツンツン男」などに代表されるような、

    「『この世界の片隅に』いて、俺(もしくは私)の人生は、この退屈な繰り返しで、誰にも注目されることなく、終わっていくのだろうか?」

    という、現代の病理、ことにも、若者が患っている「有名になりたい!」という反動から過激な事件が数々起こっている、という「2016年の現状」を風刺した「風刺小説」と言えると思います。

    また、「形式的」には、「ライト・ノベル」についての「ライト・ノベル」、つまり、「メタ・フィクション」(小説についての小説)と言えると思います。

    というか、僕の「処女作」である『太郎取扱説明書』に代表されるように、僕、ともなりたかひろは、ずっと「小説についての小説」しか書かなかった、否、書けなかった、とも言えると思うぐらい、その辺は、一貫しているスタイルだと思います。

    では、なぜこんなややこしい「ライト・ノベル」を書いたのか、という執筆に至った経緯を語ると、2つぐらい、理由がある、と思います。

    ①2014年にamazon kindleで公開した『小説・神聖かまってちゃん』を発表したとき、「著作権侵害」と「プライバシー侵害の問題」にぶち当たり、今度は失敗しないようにしよう、と、僕は考えたのだと思います。

    それでも、「大量引用」=「この世界の全ての事象はどこかで繋がっている」という考えを捨てずにいかにしてそれを押し出すか、という命題を前にしたとき、今度は、「Twitterのフォロワーたち」、つまり、「アマチュアの物書き」の「小説」の内容を「引用」する、という「手段」に出たわけです。

    簡単に言うと、「アマチュアの人の作品」ならば、いくら「引用」しようが、「訴訟問題」にならない、と思い至ったわけです。むしろ、70以上のTwitterのお仲間さんの「作品」を「引用」することで、「この世界の片隅に埋もれたる傑作」を「読むきっかけ」を作ってあげた、という賞賛すら得られる、とも画策したわけです。

    ②そして、話は飛びますが、僕は2001年に発売された『ボクと魔王』というRPGが好きで、その『ボクと魔王』というRPGは、「RPGについてのRPG」であり、いわば、「メタ・フィクション」であり、その続編を書きたい、というのが僕の念願としてあったのです。

    実際、『自我.com』という小説の「第一部」は、『ボクと魔王』そのままコピペしている、と言ってもいいほど「酷似」してますし、「第二部」は、『ボクと魔王』というRPGにおけるエンディングの「続き」があるんだったら、ということを仮定して、書き始め、ああいう「オチ」になったわけです。

    というわけで、基本的にこの小説は『ボクと魔王』の設定をそのまま利用したわけなので、この『自我.com』の〈ライト・ノベライズ王国〉という世界自体は、例によって〈分類〉によって「規定」されている世界です。

    例えば、〈立派な勇者〉と〈分類〉された人は、〈立派な勇者〉としての「言動」しか取れず、しかも、〈分類〉の存在を知らないので、それ以上もそれ以下の言動を取れないことに疑問すら抱かないのです。

    作中でも言っていますが、この〈分類〉という「力」を用いれば、

    〈単なる石コロ〉=〈お姫様〉

    と「規定する」ことも可能であり、〈分類〉の存在に気づかないうちには、その世界に住んでいる人々は、〈単なる石コロ〉を〈お姫様〉だと信じて疑わないわけです。

    いわゆる「裸の王様」の寓話と同じ理論です。

    そして、

    〈単なる石コロ〉が〈お姫様〉になる

    という〈分類〉の理論は、

    〈純文学寄りの小説〉と〈異世界系のラノベ〉が「等価」になる

    という、この、Twitter上の〈「創作クラスタ」そのもの〉の「暗喩」でもあるわけです。

    『自我.com』の「表紙絵」は、そういう〈分類〉的な「思考」全般を〈解体する〉=〈洗脳を解く〉、という「意味」で、

    「脳にペニスを挿入している」、

    というモチーフを使用しました。

    「表紙絵」で主人公が持っている道具〈リモコン〉と〈絵画の額縁〉こそが、暗躍する〈プチ魔王〉たちの〈分類外し〉=〈洗脳を解く〉ための「武器」となるわけですが、――そんなことより、真の問題は、この〈分類外し〉=〈洗脳を解く〉方法が、かの有名な「脱構築」の理論からきている、ということです。

    「脱構築」の本当の意味は知りませんけど、たぶん、

    「Aと同じことを意識的に真似てやってAに自分がやっていることを自覚させて『あー、俺、こんなことやってたのかよ…』的に『冷めさせる』方法」

    だと思ってます。…たぶん。

    簡単に言いますと、――敵に「鏡」を見させる、ということです。

    例えば、酒場で店員に怒っている男がいる、としましょう。

    この男を「脱構築」する(洗脳を解く)には、……こっちも、無関係なフリをして、男の真似をして「店員に怒ってみせればいい」わけです。

    『自我.com』の「第一部」は、大まかに言って、あるきっかけで〈分類〉から『外れて』しまって、「世界の広さ」を知ってしまい、結果、「有名になりたい!」という欲望を抱いて〈プチ魔王〉になった人を、「脱構築」していく、という話です。

    この「脱構築」という「理論」を唱えた人が、ジャック・デリタという人らしいので、まぁ、作中の〈ライト・ノベライズ王国〉の〈お姫様〉の〈デリタ姫〉という名前に「引用」させて頂きました。

    『自我.com』というラノベは、そういう「間テキスト性」、――難しく言い換えると、「スケール・フリー」的な「ネットワーク」の「理論」――、を「下敷き」にしてます。

    まぁ、「つまみ食い程度」、ですけどね。

    ゆえに作中、「価格」の「単位」を「スケール」にしてるのも、まぁ、主人公の宿屋、でしたっけ? その名前が「クラスタ亭」なのも、その、まぁ、「ネットワーク」の「理論」の「用語」から「引用」されてますね、一応。はい。

    ところで、例えば、

    「缶コーヒー」=「120円」

    という「公式」じみた「定理」が、この世には、あるでせう?(あるでせう?)

    これ、元々、昔いた学者のマルクスさんの『資本論』の「価値形態論」からきてるものなんですね、ええ。

    「缶コーヒー」を「価値」、「120円」を「使用価値」、とすると、

    誰もが疑いもせず、「缶コーヒー」は「120円」と「等価である」、と読み解く、と。

    あるいは、「缶コーヒー」を「意味するもの」、「120円」を「意味されるもの」、とすると、

    誰もが疑いもせず、「缶コーヒー」は「120円」によって「言い表すものである」、と読み解く、と。

    でもこれ、「間違い」なんですよね。

    なぜなら、最初から、超越的に「缶コーヒー」に「価値」が「存在」するわけではないから、であり、また、同じく超越的に「120円」に「使用価値」があるわけでもないから、ですよね?

    だから、正しくは、

    「缶コーヒー」は「120円」という「使用価値」によって「表示すること」に「なった」、というね。

    「である」、じゃなくて、「になる」。

    ここっ!

    ここの「恣意性」が凄く大切なわけです。

    初めから「中心」的な「基準」(価値)があるわけでなく、「価値」(基準)は、あらゆる「関係性」の「差異」(違い)の「間」(価値形態を組んだとき)にのみ「見いだされる」ものなのだ、というのが、マルクス君の考えなわけです。

    ゆえに、別に「価値」が「120円」の方でもいいし、「使用価値」が「缶コーヒー」でも良い、つまり、「取り換え可能」なのです。

    では、「缶コーヒー」が「120円」「になる」(「等価」になる)「根拠」って、なんなんだい?

    ていうのが、マルクス君の「疑問」なわけです。

    突き詰めると、

    「ある2つのものが『等価』である」、と言い切る「根拠」ってなんなの?」

    ってことですね。

    この「疑問」を抱いたもう一人の思想家が、かの、チューインガム・ニーチェさんだった、と(いや、そんな子供の駄菓子みたいな名前じゃねーわ」

    で、その、ニーチェさんは、「人間はみな平等である」という「平等主義」を、「人間はみな平等『になる』」と「言い換えた」ことで、それに「疑問」を持ち、結果、その「平等主義」に「反発」したんですねー。

    頭、イイですねー。

    なぜなら、

    「人間は平等である」という「平等主義」は、

    「アイドルを刺した中年で無職のデブのおっさん」と「可憐な顔を刺された19歳のアイドル」の「価値」は「等価」(等しい)である、ということになりますからねぇ。

    もともと「不等価」(等しくない)とも、「等価」(等しい)とも言わず、

    『等価「になる」』、とはどういうことなのか?

    という「問い」から出発した、過去の思想家たち、えーと、ニーチェ、マルクス、そして、ソシュール、この3人の考察は優れている、と。

    かつまた、菊池寛という昔の小説家の作品に、『恩讐の彼方に』というものがあり、昨今、アカデミズムではよく「死刑制度廃止論者」によって「活用」されているんですね?

    え? じゃあ、死刑反対小説なのか!? …ていうね?

    興味深いですねー、これ、実に興味深い、うん。

    まぁ、簡単に「オチ」を言うと、「人一人を殺した『瞬間』」は「だいたい21年の罪滅ぼし」と『等価「になる」』、という内容なんですよね。

    ――まぁ、これは人それぞれの価値観なので、別に、押し付けませんけどね。

    押し付けませんけど、僕はこう思います。

    いくら「長い年月の罪滅ぼしの時間」を費やそうと、その「人一人を殺した『瞬間』」には絶対に「到達しない」(等価にはならない)、と。

    ――というわけで、

    『自我.com』の第一部の第四章の「ヤケノハラの街」では、「被害者」と「加害者」、あるいは、「生」と「死」とかを、「露悪的」に「等価」にした、ということです。うん。

    そこはもう、『ガリヴァー旅行記』並みの怒涛の風刺コンボ、というね。

    あるいは、「一見似ているラノベ作品一般」とか、…ほら、〈異世界系〉とかいって、〈分類〉によって、どの作品も、大抵「『等価』(同じようなもの)にみられる」ような風潮じゃないですか、うん、うん、…だから、その点も「風刺」に含まれる、と。

    かつまた、『自我.com』の第一部の第三章の〈プチアイドル魔王〉編は、『職業としてのAV女優』(中村淳彦箸・幻冬舎文庫)の「知識」を、「引用」(サンプリング)してますね。

    〈アイドル〉も〈AV女優〉も、〈取り換え可能な存在〉というレベルでは、同じ存在なのでね。

    基本的なおさらいとして、AV女優には、3つの分類がある。

    ①『単体』=「AV界のアイドル」的存在。「AVメーカー」と「作品本数・期間」を「契約」できる。

    ②『企画単体』=『単体』との違いは、「ギャラ」が「1作品」ではなく、「1日単位である」という点と、「特定のAVメーカーに囚われずに出演できる」点。

    ③『企画』=AV界のバイト的存在。

    『自我.com』の〈プチアイドル魔王〉編では、〈アイドル〉としての「ギャラ」の話が出てきますが、AV界では、

    「2絡み(本番行為)」+「1疑似(非・本番行為)」を「ベース」として、「ギャラ」を考えるそうです。

    が、①『単体』は、例外なんです。

    「作品本数・期間」という「作品単位」での「ギャラ契約」だから、です。

    ①『単体』=1本あたりの「ギャラ」として考えて、100~250万。

    ②『企画単体』=「2絡み(本番行為)」+「1疑似(非・本番行為)」として、日当30~80万。

    ③『企画』=日当15~25万。

    しかし、AV界での「ギャラ契約」は単純なものではありません。

    「2絡み(本番行為)」+「1疑似(非・本番行為)」=『20万』をベースとすると、

    以下のように、〈モデル・プロダクション〉と〈AVメーカー〉との間で、複雑な〈交渉〉が行われます。

    『企画女優』を「1絡み(本番行為)」に減らし、『10万円』に減額し、さらに、

    「同じ条件(「1絡み(本番行為)」で『企画女優』をもう一人加える」ので、

    「10万円」+「10万円」÷「2人使った分、2人目は10万の10%値引き=8万」=「18万」となったりします。

    さらに、「スカウトバック」といって、〈スカウトマン〉が〈モデル・プロダクション〉に〈紹介〉した女の子が「売り上げたお金の15~20%」を貰える仕組みになっています。

    〈スカウトマン〉は、人気単体女優を5、6人〈スカウト〉に成功すれば、億万長者も夢ではないのです。

    そして、〈スカウトマン〉が、〈AV女優〉として〈スカウト〉する人種は、今も昔も〈田舎から上京してきた素朴な子〉と相場が決まっています。

    なぜといって、〈純朴な可愛い子が乱れる〉という〈シュチュエーション〉は、今も昔も、〈需要〉があるからです。

    しかし、今は街中で〈スカウト〉するのも、〈規制〉があって、厳しい状況下にあります。

    ゆえに、〈モデル・プロダクション〉も色々な手練手管を用います。

    1つは、ネット利用。

    そして、もう1つは、『自我.com』で描かれているように、

    「同性の女性にスカウトさせる」

    という手段です。

    あるいは、最新のニュースと絡めますとね、

    西田藍さんの「純粋な日本人ってなに?」問題とか、レンポウさんの『二重国籍問題』とか、うん、古くは、「難民問題」すら、

    『自我.com』は内包している、と思います、誇張ではなく、ね。

    この「自分がどこからやってきたのか?」という、「ルーツ」(出自)の「問題」って、

    「難民問題」と同じで、

    実は、

    僕たち「――おまえら、この国のもんじゃないだろ! どこからきたんだ!」

    難民「――キミタチコソ、ドコカラヤッテキタ?」

    ぎくっ!

    ていう「危機感」に直結しているんですよね、いとうせいこうさん曰く。

    自分の「ルーツ」(出自)を「揺らぎさせる」、

    実は僕たち自身も「どこからやってきたのか?」が「証明できない」、という「難民」の恐怖。

    結局、そういう「自分はどこからやってきたのか?」という「問い」は、『自我.com』の「第二部」とリンクしてるな、って思いましたけどね。

    誇張ではなく。

    「第二部」に出てくる「記憶消失者の謎の男(救い主)」=「難民」、ですから。ええ。

    主人公「お前は何者だ」

    記憶喪失者の男「オマエコソナニモノダ」

    ぎくっ!

    っていう。

    舞台となる〈ライト・ノベライズ王国〉は、主人公が〈分類〉を〈解体〉する前は、〈分類〉で出来ていたので、〈分類〉がなくなった以上、「自分が何者か?」が分からない+証明できない、っていうことになるわけです。

    そういう物語なんですね、簡単に言うと。

    この「自分が何者なのか?」を「証明できるのか?」という、「問い」は、〈ライト・ノベライズ王国〉という名前の通り、

    自分の「創作」が「オリジナル」なのか、「二次創作」なのか、という「寓話」として「読んで」頂いてもよろしいかな、と。

    〈追記〉

    アニメ映画『この世界の片隅に』を自腹で観たあと、この『自我.com』というライト・ノベルが、『この世界の片隅に』を「裏返した」ような内容であることに気づき、2ちゃんねるの「本スレ」と「アンチスレ」に以下のように書き込みました。

    『どうも、はじめまして。

    えー、僕は先日、2月11日、イオンシネマ海老名の片淵監督の舞台挨拶付きver.を観に行ったんですけど、

    はじめから断っておきますけど、僕は「アンチ」じゃないです。

    ふらーっと、なんの前情報もなく、白紙状態で、観に行ったので、「中立」です。

    でね?

    「映画単体」について、ではなく、「映画館体験」として、

    「中立」として感じたことは、以下の1点でしたネ。

    『この世界の片隅に』にまつわる「コミュニティー」は意外なことに「内向き」であり、「閉鎖的」である、ということ。

    分かりやすい例えを持ち出せば、なんでしょう、別に好きでもない「アイドル」のライブに放り込まれて、アイドルの「コール」に対して、その「ファンたち」が「レスポンス」してて、「あ、こういうノリじゃなきゃいけないんだ…」みたいな居心地の悪さ、というか。

    実際ね、この『この世界の片隅に』って映画は「笑いどころ」が結構あると思うんですけど、僕みたいな「初見者」にしてみたら、案外気づかない箇所だったりするんですけど、

    背後からその「笑いどころ」が来ると、ジャストミートで「あははは!」って「笑い声」が聴こえてくるんですよね。

    ちょっと間が合って、「くすくす」レベルの「笑い声」だったらまだ分かるんですけど、

    ジャストミートで、「あははは!」って笑い声をあげるっていうのは凄く不自然、要は「ファンたち」=「サクラ」の皆さんの「過剰なレスポンス」にしか見えないじゃないですか。

    これは「そういう映画だ」という「前提」を「共有しているコミュニティー」でしか成立しない現象だし、――まぁ、「閉鎖的だな」と。

    あと、片淵監督の舞台挨拶ですよね。

    彼ね、約30分間の舞台挨拶において、なんの前置きもなく、突拍子もなく、主人公のすずさんの「服装のディティール」についてその話の大半を費やしていたんですよね。

    最初、「???」と思ったんですけど、……まぁ、穿った見方をすれば、ネット上とかで「時代考証」についてアレコレつつかれたんじゃないですか、知りませんけど、うん、で、早い話、それについての「言い訳」なんですよ。

    これもね、「――ちょっと、今、時代考証について色々誤解を生んでいるようなので、一言だけ、補足させて頂きますね」

    ぐらいの「前置き」があったら、僕みたいな「初見者」も「共有」できたことなのに、そんな「前置き」もなく、逆に言えば、

    「この映画にまつわる今の現状ぐらい、皆、分かってるよね?当然」

    っていう「前提」ありきで話を進めているんですよ。

    これも、『この世界の片隅に』にまつわる「コミュニティー」内でしか「成立」しないコミュニケーションだし、やっぱり「閉鎖的なコミュニティー」の「典型」だな、って思ってね。

    せっかく、「お年寄りから若者まで世代間を繋げる」ような映画なのに、僕のような「初見者」や、ネットをやらないおじいちゃん・おばあちゃんたちに対しては、

    つまり、「コミュニティー」の「部外者」に対しては、凄く「不親切」ですよね、この態度。

    以上です。』

    『どうも。

    さっき、本スレに書き込んだ海老名の片隅に住んでいる者なんですが、

    本スレでは、「中立」として、「映画内容」について、ではなく、「映画館体験」として、トリッキーな書き込みをしてきたんですけど、

    今度は「映画内容」について、「アンチ」として、書き込んでおきたいポイントが2つありましてね。

    ①「『この世界の片隅に』ある、ちまちました日常こそが素晴らしいんだよ」っていうこの作品のメッセージ自体が「現代」に、ことにも、「現代の若者」の「現状」に合ってない、ってことです。

    あの、上の方も書いてらっしゃる通り、「昔も今も人々の暮らしは変わらないんだよ」っていうんですけど、やっぱり違和感がある。だって、現代人の多くは、この映画で描かれてあるような「生活のための生活」で「満足」できてないですから。

    ことにも「今の若者」は、

    「俺は『この世界の片隅に』いて、誰からも承認されず、こんな退屈な日々の繰り返しで、老いて死んでいくのだろうか?」

    っていう「病理」を抱えているわけじゃないですか。

    そのコンプレックスの反動から、――「有名になりたい!世界の中心にいきたい!」っていう、まぁ、僕の言葉で言えば、「有名病」にかかっているわけじゃないですか。

    まぁ、その「有名になりたい!」という「有名病」にかかった人々を〈プチ魔王〉と称して主人公がその「洗脳」を解いていく、っていう現代の病理を風刺したのが、僕の公表しているライト・ノベル『自我.com』なわけですが、いや、今更そんなことはどうでもいい、

    と・に・か・く、例のおでんツンツン男の事件とか、YouTubeでの過激動画とか、まぁ、こうやって書き込んでいる僕も含めて、現代には、「生活のための生活」では満足できない、様々な「有名病」に取りつかれた「諸相」が「世界」に溢れているので、――やっぱり、齟齬があると思いますね、僕は。

    ②『「映画単体」で評価しちゃダメなの?』派vs『「映画」にまつわる原作・参考資料・時代考証を踏まえなきゃダメに決まってるだろ!」派の問題、っていうね。

    ここまで書いて流石に息切れしてきたので、この「そもそも『この世界の片隅に』っていう映画について勉強しなきゃダメなの?」問題は、次の方へ任せます。

    ただ一つ、言えることは、

    イオンシネマ海老名の舞台挨拶で、監督さんが、主人公のすずの「服装についてのディティール」について、ぐだぐだと20分ぐらいかけて「補足説明」をしなくては、日本人である僕らにすら「伝わってない」わけですから、これが海外でかけたときに、もっと「理解されないだろう」ということです。

    以上です。』

    ライト・ノベル『自我.com』→http://p.booklog.jp/book/110466


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