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  • 【ニコメド記事投稿祭】僕が何故本家の駆け抜けメドレーを信奉するのか

    2020-04-20 00:13
    この記事は恐らく#ニコメド記事投稿祭に参加しているはずです。※遅刻した
    詳細は以下。
    https://ketoku.hatenablog.com/entry/2020/03/23/074508

    この記事への返信を書き終えた後なので脳が死んでますが、締め切りが今日なので書きます。
    https://ch.nicovideo.jp/jury/blomaga/ar1883746
    文章が破綻している。原稿〆切とか夏休みの宿題が最終日にまっすろな人間の脳内は多分こんな感じ。あばばばば。

    さて、書く内容についてはタイトルの通り。他の方々が自分のメドレーについて書く中、僕だけ人の褌で相撲を取るという。自分の原曲メドレーについて書こうかなとか思ったけど、あまりにもDTMに比べてノウハウの中身がない上に原曲メドレーに大した技術は必要ない。合いそうな曲を探して、BPMとキーを併せて、調味料に愛を振って終わり。こんな感じで30文字ちょいで終わってしまう。だから文字を見るより肝心の原曲メドレーの実物を見て独学で学んだ方がきっと早いと思うよ、うん。

    まあそんなわけで本題に入るけれど、お馴染み駆け抜けメドレーってあるよね。
    あれさ、今は色々、小説で言う「リポグラム」、美術で言う「現代アート」みたいな作品が生み出されているわけだけれど、そんな中で僕は駆け抜けメドレーの原理主義者として知られているわけ[要出典?]
    どういうことかと言えば、本家、つまり『駆け抜けるアニソンメドレー』などで「駆け抜けメドレー」の草分けとなった、界隈では説明不要のメドレー作者・成り行き氏のような駆け抜けメドレーが好きであって、それを真の駆け抜けと考えているということ。面倒でしょ。
    変にこうやってファンダメンタリズムを主張してトレンドを批判してばっかいると絶対周りから人がいなくなると思うから、現状の駆けメドの是非についてはこの記事では殆ど触れない。一応言っておくとそこまでそれに大して目くじらを立てているわけではない。けれど、それによって本家的駆けメドが減ってしまうとなあ……と言った感じなのである。

    だから、少しでも本家駆け抜けるメドレーの魅力を知ってもらいたいなあと思った訳で、今からそれを書こうと思う……のだが、まず初めにどうしてこういったものが少ないか。これについては正直はっきりとした結論が自分の中で出ている。
    つまるところ、難しすぎるのである。理由は2つ。
    第一に、駆けメドの構成が思い浮かんだらDTMに打ち込むわけだが、本家並みの高クオリティな打ち込みができないといけない。これが正直最大の壁だと思う。僕なんて抑々DTMすらできなかった。3回くらいPCにデータ吹っ飛ばされたからね。結果として仕方なく原曲で駆け抜けるメドレーを模倣するという前代未聞の妥協をやったわけだが。まあ、これは特例にしてもだ。メドレー界隈に所属しているDTMerの中で彼らぐらいのDTM力がある人間はそうそういないのではないか?と思う。「M.Iz」解散のきっかけには一人プロを目指した人がいたという理由もあるほどだ。おまけに説明はしづらいが、成り行き氏の音色は特徴があって、かつ聞きやすく、疾走感がある。ある種駆け抜けるメドレーに最適化されていると言っていい。本家なんだからそりゃそうなのかもしれないが。

    次に第二の理由を、と行きたいところなのだが、これは僕が成り行き氏のメドレーが好きな理由の一つでもあるので後述する。
    という訳で、改めて少しでも本家駆け抜けるメドレーの魅力を知ってもらいたいなあと思い、自分が好きな部分を挙げていこうと思う。

    1.多くのメドレーにおいて『君の知らない物語』の系統で終わる。
    『駆け抜けるアニソンメドレー』シリーズと言ってまず外せないのが『君の知らない物語』だろう。これ以上に美しい終わり方はないと思う。尤もこの曲で終わるものの先駆者は彼らではなく、『ニコニコ動画CMY』なのだが (その後にもあるとは言ってはいけない)。
    毎回アレンジが変えられたり工夫を凝らしつつも、殆どの場合この曲、或いはこの流れに着地する。半分このことへの賛美はsupercell側に贈るべきなのかもしれないが、兎に角様式美の最たるものと捉えている。
    kemu楽曲やカノン進行と相性がいいのも強い。

    2.守備範囲が広い
    これが2つ目の理由であると同時に、先ほど言った本家準拠のメドレーが「難しすぎる」理由の一つである。これは何も「駆けアニ」の話というよりかは「駆けごちゃ」とかの話で、兎に角ジャンルのバランスがあるのだ。
    人によって当然守備範囲・趣味範囲は違う訳で、どうしても偏った選曲になりがちなのだが、氏にあまりそう言った印象はない。勿論それなりにジャンル・作品に思い入れがあるから偏るということも忘れてはならないが、多くの視聴者にとって飽きの来させない選曲になっていると思う。
    そしてこのような選曲をしたうえでキッチリ繋いでいくのだから、最早職人技の域と言っても過言ではない。

    3.繋ぎの流麗さ
    駆けメドにおいて最も重要なのは多分、「繋ぎ」である。よく一致音だと綺麗な繋ぎになるともいうが、もう一つ忘れてはならないのが「展開」である。この2つがあるとより繋ぎがヌルっとなると思う。それをここでは「流麗」という言葉で表現している。
    「展開」についてはまあ色々解釈はあると思うが、バリエーションが豊富かつ(但しバラードはない方がいい)、スパンごとにまとまっているかが重要ではないだろうか。いわばメリハリとも言うべきか。
    上を踏まえたうえで本家駆けメドを確認すると、基本的にそのようなものが多いと思う。これを成しえると、メドレーは綺麗に繋がっていく。いわば「繋ぎ」と「展開」は曲同士を繋ぐのりしろのようなものである。これがないと、のりを貼る部分を間違えてしまったり、そもそも貼れなかったりする。
    言うまでもなく、この作業は難しい。だからありきたりな表現になるがそこのところもやっぱり本家が一番凄いのだと思う。

    以上、大まかに紹介したのはこの3つである。他にも「単純に選曲が好き」とかはあるが、大体は個人的な話になってしまったうえ、「3」を書いていた辺りで遅刻が確定したので駆け足になってしまった故以上で終わる。

    取り敢えず僕はというと、駆け抜けの構成をしたくて今、死んでいる。


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  • 涼宮ハルヒと長門有希の「人気」について非リアルタイムの未成年が語ってみる

    2020-04-17 18:4952
    まず最初に言っておくが、タイトルにある通りこれを書いているのは当時の1期『涼宮ハルヒの憂鬱』をリアルタイムで視聴していない齢18の人間だ。一応後々アニメ版の全てや文庫本もすべて視聴・読破しているが、オタク文化に触れたのは2008年ころからとなる(それでも早い方だとは思うが)。だから、当時の情報は全てかつて電子網に流れた第三者から得た記憶であり、最もらしいことを言っていても実は中身はないものかもしれない。それを心して頂きたい。

    僕がこんなタイトルでブログを書こうと思ったことの発端は、Twitterで物議を醸したあるツイートに由来する。それがこちらだ。
    何故物議を醸したかは恐らく当時を知る人ならお分かりだろう。
    最近のオタクは長門みたいな便利なだけの女に逃げるようになってきた」というような扇情的・老害的な発言だけならまだしも、まるで「当時の長門は人気がなかった」と受け取られかねない含蓄があるからだ。曲解的ではあるかもしれないが、まずこの点に関しては明らかに嘘であると僕は思う。00年代半ばから定着し始めた「○○は俺の嫁」というオタク・スラングが長門有希に象徴されるように、明らかに人気がないわけではなく、寧ろ非常にあったはずだ。加えて2010年公開の映画『涼宮ハルヒの消失』がそれを確固不動たらしめた。所謂「消失時空」の「感情がある長門有希」に衝撃を受けた人は多いだろう。

    そう言った訳で、まず「当時の長門は人気がなかった」ということは有り得ない。一応名誉保持のために氏のカバーリングも載せておくが。

    現在の萌えのトレンドについての話も散見されるが、それについては以前に書いた「至高の萌え属性「ツンデレ」は何故見かけなくなってしまったのか?」(https://ch.nicovideo.jp/jury/blomaga/ar1799053)で触れているのでここでは言わない。あまり濃い内容を書いたつもりもないが、この記事は何故か1万PVを突破していた。痛み入る。

    とまあ、これは前座である。
    問題は先程のツイートに「当時涼宮ハルヒは人気がなかった」という反論が相次いだことである。
    これに関してまず定義づけをしておきたいのが、「人気」の如何である。この反論の場合の人気のニュアンスというのは、支持を集めたというよりは、萌えとして成立していたかどうかということではないかと思う。この人気のことを便宜的に「オタク人気」と名付けるが、まずその辺を履き違えているとどうしようもないのではないか。
    その場合、オタク人気ではない涼宮ハルヒの人気がなかったとはまず考えられないと思う。これだけ深夜アニメを膾炙しオタク界隈を席巻した『涼宮ハルヒの憂鬱』の顔であるメインヒロインがキャラとしての人気がなかったわけがないだろう。実際、当時の雑誌人気投票でもトップクラスに位置していたし、キャラソンだって聴かれていたし、件のスキャンダルまでは中の人・平野綾の人気だってうなぎ上りになっていた。いわばストーリーの中枢神経であるハルヒなしでいられるわけがないのだから、その時点で通常の意味での人気はあるに決まっているのである。涼宮ハルヒがかような性格でなければ物語は成立しないのだから。

    だから、結局のところ「オタク人気」が焦点ではないのだろうか。その場合、確かに涼宮ハルヒが他キャラに比べてなかったのかもしれない。
    というのも、『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品はオタクへの影響が巨大すぎて、涼宮ハルヒ、長門有希、朝比奈みくるのヒロインのみならず、メインキャラではない朝倉涼子や鶴屋さんなどもアニメを通じて絶大な人気を誇ったわけだし、それはアニメでは未出の佐々木だったり、古泉・キョンの男子にまで至る。それぞれ突出した個性があって、更にその上に涼宮ハルヒを中心とした舞台装置が出来上がっていくから、「好きになれるキャラ」が多すぎるのだ。こういった観点から涼宮ハルヒが舞台の中心としての人気のみであって、当時の萌えを主体に置いたオタク人気がなかったのではないかと思うのである。

    そして、この「オタク人気」において欠かせない『涼宮ハルヒの憂鬱』のキャラといえば、やはり長門有希だろう。その証拠は先述した通り、ネットスラングにも表れているし、特に『消失』公開後から顕著になったと思う。
    彼女の人気の理由の一つとして、「セカイ系」に登場する「綾波系」のヒロインということが挙げられると思う。「セカイ系」という言葉は2002年にぷるにえ氏が個人ブログで運営していたものが初出なのもあって結局明確な基準は曖昧なのだが、『涼宮ハルヒの憂鬱』がそれに当たることについては異論はないだろう。同様に長門有希が「綾波系」というのも、そうそう異論はないものと思われる。「短髪」「口数が少ない無表情」という同一点はよく引き合いに出されることは周知の通り。
    「セカイ系」「綾波系」という2つの特徴は、『新世紀エヴァンゲリオン』の影響が強い。セカイ系は当初エヴァを基準にして設けられていたし、綾波系についてはネーミングの通りであるが、正直先に挙げた「短髪」「口数が少ない無表情」以外は原型から乖離していっているような気もする。が、それについて話すとまた長くなりそうなので省略。

    こうしたオタクに受けやすい2つの特徴に加え、長門有希には「主人公を守る圧倒的な強さ」がある。半ばデウスエクスマキナと言っても過言ではないほどにだ。彼女は終始一貫してキョンを守るが、こうした「長門有希に守られたい」という感情を昇華(或いは逆に凝華なのかもしれないが)したものが「萌え」となり、オタク人気が拡大した。
    そして極めつけが『消失』である。今までその何でもありの強さでキョンや周囲を守り続け、ハルヒの観測をしてきた長門有希は、その実「普通の女の子」になることを望んでいた。そして「消失時空」で見せた表情のある長門。このオキテ破りのシナリオが、更にオタクの心をギャップ萌えとして揺さぶり、オタク人気の地位を盤石にしたのではないだろうか?


    さて、かように涼宮ハルヒと長門有希について小規模ながら書いたわけだが、最後に作品愛について語りたい。僕は先述した「セカイ系」のようなボーイ・ミーツ・ガールのジュブナイルノベルが好きなのだが、なるべく中身は明るくあってほしいと思っている(勿論『イリヤの空、UFOの夏』のようなポストアポカリプスを眼前に構えるようなものも好きだが)。そのような点において、明るい涼宮ハルヒというメインヒロインを軸に、周囲が引っ張られていくという展開はまさしくジャスト・フィットと言っていい。だからこそ、余すことなくこの作品を好きでありたいのだ。そういうこともあって、今回のような内容を書いたのである。
    正直御覧のように一貫性がなく、まとめきれてもいないし、自分ではまだ語り切れてもいないので、意見や反論を歓迎する。宜しく。



  • ニコニコメドレーのためだけに曲を聴くのをやめてほしい。

    2020-04-02 20:093
    この記事は見てもらいたいけど、正面から受けてほしくない内容なので、感想は欲しいけど真には受けないでほしい。宜しく。


    メドレーのためだけに曲を聴くのをやめてほしい。


    これがどういう意味かと問われれば、字面通りに受け取ってもらうしかない。メドレーのためだけに曲を聴くのをやめてほしいのだ。

    別に「興味を持った曲でしかメドレーを作るな」という訳ではない。第一そんなことができるほどニコメドの構成は簡単ではない。僕だって曲がりなりにも作っているからよおく解る。

    僕が言いたいのは、「メドレーの構成のためにわざわざ知らない曲を探して覚えるような行為をやめてほしい」ということである。

    何故か。
    ばかみたいだと思うかもしれないが、そこに愛を感じられないからである。

    選曲範囲の広さはステータスかもしれないが、そこに愛はあるか。
    愛がなければ「仏作って魂入れず」ならぬ「メドレー作って愛を入れず」なのである。
    例えば僕はアニメが好きだからアニソンを多く入れるし、何ならこの前作った原曲メドレーは「見たアニメ」のみで構成した。
    勿論やった作品のみで構成しろなんて押しつけがましいことは言わない。問題なのは好きかどうかだ。下手の横好きだって俄だって関係なくね。
    だから、メドレーから「愛」を抜かないでほしい。これを言いたかっただけだ。


    正直滅茶苦茶に反感を買いそうである。何が悪いのかと。
    その通り、それをしたところで別に悪くはない。ただ、これは単に僕の生理的不快だ。だからここに書いている。有名人なら炎上必至の内容だろう。
    そもそもこの記事はなんとなくした胸中の靄を吐きだしただけで、普段はそんな目でメドレーを見ていないので悪しからず。ただ、意見提起の要素がないかと言われればそうではないので、感想をもらえると助かる。