創作する側の視点によるゲームの「面白さ」について考えてみる
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創作する側の視点によるゲームの「面白さ」について考えてみる

2019-10-23 17:10
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 「シンプル・イズ・ベスト」という言葉がある。意味は「単純は最良なり」だろうか。これは私の座右の銘である。25年以上昔に愛読していたパソコン雑誌のモットーだ。
 今ではウェブ上にある個人のサイトにアップロードしたり、ソフト掲載サービスのサイトに登録すればすぐに発表でき、他の人に自分の作品を遊んでもらうことができるが、インターネットが普及していなかった当時、個人が自分で作った作品を発表する場所は主にパソコン雑誌であった。パソコン雑誌の中には投稿プログラムのコーナーを設けているものがあり、読者が作ったゲームのプログラムを募集して編集部で認められた作品のみが掲載された。応募しても掲載されるとは限らず、掲載されたとしても数か月を要した。 
 そんな時代の個人レベルで制作された投稿作品のゲームはシンプルなものが多かった。グラフィックや音楽は重要視されていないか全く「ない」。グラフィックがないというのはつまり全部文字で構成されたゲームだ。文字だけのゲームも珍しくはなかった。

 ではゲームの要素であるグラフィックや音楽がない、文字だけのゲームは面白くないのか?答えは否である。厳密にいえば面白くないものもあるが面白いのもある。ではグラフィックや音楽(これらをまとめて「演出」と表現しよう)がふんだんに使われているゲームが常に面白いかといえば、こちらも否だろう。面白いものもあるが面白くないものも存在する。結局は製作者がどれだけ注力しているかによる。それも好意的な注力、言い換えれば「愛を込めて作っているか」だろうか。あとは遊ぶ側がどれだけ関心や興味を持っているか。いくら周りや世間で名作だと言われても、自分の興味のアンテナが向いていなければ遊ばないし、評価は降せないだろう。
 確かに演出があったほうが面白さは増す。しかしゲームの本質とは無関係である、と私は考える。ではゲームの本質とは何か。それは目には見えないシステムの部分にあると考える。樹木でいえば根幹の部分だ。どのようなルールでどのような判断基準でどのように進行していくのか。この部分に確固たる自信を持っているゲームは広範囲に根を張った幹の太い樹木といえる。結果として「面白さ」という樹液を大量に分泌できる。演出はどちらかと言えば枝葉だ。枝葉がいくら立派でも根幹がしっかりしていない樹木は幹ごと倒れる。では演出は全くの不要か、といえばそれも違う。演出がないのは枝葉のない根幹だけの樹木だ。にわかには倒れないだろうがあまり見栄えはしない。

 さて、演出ではない本質の部分で「面白い」と感じる点はどこにあるか。私は「自分では思いつかなかった部分」ではないかと思う。自分の持っている経験では知り得なかった部分、自分の持っている知識では気づかなかった部分、そういった部分に触れたとき「こういう方法もあるのか」と衝撃を受け、その衝撃が「面白い!」に変換されるのではないだろうか。私は他の人が作ったゲームをプレイしているときにそういった衝撃を受けることが多々あるので、未知の部分を知ったときの喜びと衝撃はよくわかる。
 衝撃を受けた時の感想は2種類あると考える。すなわち「すごいな!私には到底無理だ」と「すごいな!私もやってみようかな」である。自分にも手が出せるか出せないかによって、同じ「すごい」でも中身が変わってくる。前者の手が出せない「すごい」は、意を決して手を出し頑張れば、実現できるかもしれないがそれには多大な労力を要するだろう。後者の手が出せる「すごい」はその気があればすぐに取り組める。そして自分のものとして習得する労力は前者に比べればずっと少なくて済む。もちろん、ただ習得するだけではなく、それを応用することも大事になってくる。また、手が出せないと思っていた「すごい」も、調査や研究を続けると手が出せるレベルだったということもある。とりあえず「すごい」に対して調査や研究を行うクセを付けたほうが良いと私は考える。途中で「あ、自分の手には負えないな」と判断したらその時点で手を引いてもよい(尤もその止め時が難しい)。

 受ける衝撃は様々あるが、特に強く受ける衝撃というのは人それぞれだろう。その強く受ける衝撃が演出だという人もいれば、ゲームのジャンルだという人もいる。私は「ゲーム内のこの部分、こんな仕組みでできてるの!?」と仕組みに関して特に衝撃を受ける。その部分がシンプルだとなおさらである。
 最近受けた衝撃の実例を一つ挙げよう。ゲームで装備する武器や防具は、一般的には売っている店で選択して買う。お金の制約はあるにしろ、自由に選択できる。もしその部分、すなわち装備する武器や防具がダイスで振って出た目で決まる、というシステムを採り入れていたら…度合いは人それぞれだが、えっ!?と一回は驚くだろう。実例をもう一つ挙げよう。キャラクターを一段階ぶん強化させる条件には、敵を倒して得られる経験値が一定量に達すれば良いとしているゲームは多い。ところがあるゲームでは、95%の確率で確実に一段階ぶん強化できるシステムを採っていた。戦闘イベントの発生もしなければ、経験値稼ぎもない。すごく楽である。しかし、5%の確率で失敗し、キャラクターは最弱の状態になってしまう。このシステムに驚くかどうかは人それぞれだが、私は驚いた。ちなみに5%というのは低いように見えて存外に高い確率だ。理論値としては20回のうち1回なのだが、私は直近20回のうち3回失敗した。

 私は趣味でゲームや音楽をそれなりにたくさん作ってきた。しかし「ゲームを作ろう」「音楽を作ろう」から制作を始めたものは少ない。他のゲームをプレイして「このシステムはどうなっているんだろう」とか、あるいは「こういう処理を実現させたいけどどう記述すればいいのだろうか」などを考えて調べて、「せっかくだから今調べたものを採り入れたゲームを作るか」って感じでゲーム作成に入る。曲を作る場合は「今回はディミニッシュコードを入れた曲を作ろう」とか「転調を複数回入れてみるとどうなるだろうか」というのが出発点になる。つまり「調べたもの、採り入れたいものを組み込んだ実験作品を作る」結果としてゲームや音楽ができることが多い。
 「ゲームを作ろう」「音楽を作ろう」あるいは「イラストを描こう」「物語を作ろう」などといった漠然な構想から始めると完成もおぼつかない。なぜならスタートもゴールもはっきりしていない状態で始めているため意欲が続かない。結果として完成せずに途中で終わってしまう危険性が多分にある。より明確に「調べたこの事柄を採り入れてみよう」「実験作品を作ろう」から始めたほうが完成する可能性は高い。スタートとゴールがよりはっきりしているからだ。
 もしこれからゲームを作ろうと思うのなら、他のゲームを漫然と遊ぶだけでなく、「これはどうしているんだろう」「ここでこのシステムを入れるのか」など本質の部分に注目してみよう。「面白そうだな」「良さそうだな」と感じた部分があったら自分で調べてみて、自分ならこうするだろう、こうしてみたいと考えてみよう。そして「調べた結果や自分の考えを反映させてみたい」とゲーム作成に入ってみよう。この姿勢はゲーム以外の作品、音楽やイラストや物語などを作るときにも当てはまる。学ぶ姿勢はどんな分野においても大事である。その「学ぶ」は「真似る」と語源は同じと言われており、「創造は模倣から始まる」という言葉もある。模倣から始まり研究を重ねて、自分のものにしてしまえば、創作の引き出しは学んで研究した分だけ広がるのではないだろうか。


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なるほど、理想ではなく技術から入っていってものにしていくと…
2週間前
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