• 『ハドソン川の奇跡』

    2016-10-01 22:42
    96分が長い。理由は2つ。
    (1)全般的にショットが弱い。盟友トム・スターンの仕事も光への感度が衰えた感がある。本来の気質に加えて高齢故の早撮り体制も照明設計にかける時間を削る悪癖となっているのではないか。
    トレードマークとなった(手軽で手間取らない)ハーフシャドウが多用され、室内撮影ではありものの照明だけで撮っているパターンが多いように思われる。
    曇天の日中という事実に則したロケーションが災いして、特に機内の映像が薄暗がりというのも頂けない。脱出前のハンクスが最後部を確認して戻ってくる、という何も「見せ場」がないシーンでも、かつてのイーストウッドなら機内を闇で覆い、行って戻るだけの行動を恐怖体験として演出したのではないか。

    かと思うと、ハンクスとインタビュアーのなんでもない切り返しにわざわざトラッキングショットを使ったりして、思いつきで撮影した部分も多いのではないか(それが効果を生んだとも思えない)。

    車道を横断するハンクスの脇から現れるタクシー・機内に流れ込む水・客室に現れるハンクス等1ショットで驚きをもたらすはずの効果が弱い。つまりはケレン味に欠く。


    (2)脚本が弱い。
    70年代的な群集劇の定礎を持たないので各乗客のドラマパートが浮いてしまっている。例えば、川に身を投げた夫人がヘリで助けられるシークエンスなども「事実だけを伝える」という名目の下、フィクショナルな脚色が避けられた結果「見せ場」を作れないという悪循環に陥ってしまう。

    己のプライドでイジイジ悩み徘徊し他人に縋るハンクスの姿は正しく『真昼の決闘』の系譜であり、結局彼の心理セラピーを延々見せつけられただけ、という印象が強い。
    しかも決着の付け方がまた「見せ場」にならない、「映画的」とはお世辞にもいえないのだ。
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  • 『レッドタートル ある島の物語』

    2016-09-30 22:14

    愛と自由の映画。
    重力が愛の障壁となるが故、陸上では重い甲羅を背負った亀が主役となる。海中から女が筏を突き上げる、陸上で男が甲羅を踏みつける。女が甲羅を海へ放つ場面では男が山上から見下ろす。逆に男が筏を放つ場面では女が見下ろす。
    故に2人が愛へと解き放たれるシーンでは無重力となる。
    終盤でも2人で海面を泳ぐ姿が映し出され、その後の軽やかなダンスシーンの不意打ちが美しい。

    家を建てない、言葉を持たない、原子共産主義的。「所有」という概念がないので他人を
    「所有」することもない。序盤を除いて本人の自由意思によってのみ居場所が決定される。生殺与奪の権利は大自然のみが掌握する。

    伏線と反復の網の目。
    浜辺から藪、竹林を抜け池を横目に見やりながら禿山へと至る道は単純化され、反復される度にその差異が違う風景を生み出す。セイウチは死骸となり革となり、崖から滑り落ちた時見上げた空にいた鳥は息子が崖から落ちるきっかけとなる。

    言葉を介することなく息子を都会へ旅立たせる為に用意されたマクガフィン「ガラス瓶」。
    自然界では手に入らないモノであり、内部の水平と外部の水平線が合致した瞬間に彼の疼く旅心が可視化される。父は砂絵で他者を描き、災害の時に水没したモノから希望を拾う。
    言語ではなく映像で映画を顕わす。




  • 『ホース・マネー』

    2016-08-27 23:24
    カーネーション革命における輝かしい「赤」の歴史の影に追いやられた黒い肌の人々の記憶。
    その中の一人、主人公ヴェントゥーラは記憶の回廊を巡り時制を超えるが、なかなか妻には会えない。彼の負った傷は手の震えとして表層に現れる。故に、彼が手の機能を回復する為の闘いが主題となる。ヴィタリーナは奪われた結婚指輪の話をする彼の手を癒すように触れる。
    彼は手紙を書く。電話の受話器を握る。
    遠く離れた者へメッセージを送る、という手段は鉛の兵士のライフル銃の皮肉なイメージに繋がり、ここで彼は奪われた者としての自身の歴史を自覚する。
    友を癒す為にヴェントゥーラはスプーンを握ってスープを飲ませ、その後円環状の牢獄から抜け出す。

    銃声の音のイメージは遠方へメッセージを届ける「手紙」の主題の変奏としてより具体的に
    「書くこと」「電話すること」を経て「銃を扱うこと」に可視化され(「ナイフを握ること」がその先にある)、逆に上昇下降の運動はエレベーターによって密室化され省略される。
    荷物の落下から始り、階段を登って友人に会いに行く『コロッサル・ユース』とは違い、ここでは重力を宙吊りにする意図が明確に存在しており、その宙吊り状態が時間や空間のイメージをあやふやなものにし個人主観的なアクセスを可能にしていることに驚かされる。
    『コロッサル・ユース』から『スウィート・エクソシスト』の試行錯誤を経て『ホース・マネー』でペドロ・コスタの作家性はより凝縮されたのではないだろうか。

    ジャ・ジャンクーとペドロ・コスタの「慕情」をテーマにした新作には共に時代が閉塞・越境を越えて一回りした感がある。ともに映画の母である小津の影響から「赤」を効果的に使い、母国のナショナルカラーや革命の象徴としての「赤」に変容していく様が面白い。
    映画と政治、倫理と道徳、人間と人類。
    決してどちらかに還元されることなく、2極間で振り子のように揺れ引き裂かれている。