『ペコロスの母に会いに行く』
閉じる
閉じる

新しい記事を投稿しました。シェアして読者に伝えましょう

×

『ペコロスの母に会いに行く』

2013-11-30 21:10
    笑いながら泣く人になる映画。

    今や売れっ子の浜田毅のカメラがいい。
    回想シーンの銀残しのような質感はデジタル撮影のグレーディング処理だろうか?低予算で作られたとは思えない、低予算だからこその創意工夫が随所に窺える。


    デジタル撮影が裏目に出た、と愚痴の一つも言いたくなる青山真治の『共喰い』がこのレベルを維持できれば…。まあ、それでもダメだろう。

    長崎という坂の街の、どこを切り取っても画になりそうなあの勾配の感じは、凡人大林宣彦が撮る尾道の風景と比較すれば、才能の残酷さというものを知るよい機会になるだろう。
    馬のランタンと並んでスポンサーの広告塔が映るショットは、裏切り者山田洋次に殺されず、小津由来の松竹のお家芸が今も生きている証だ。

    バックする車のテールランプに浮かび上がる赤木春恵の顔の不気味さに笑う不思議な感覚。それが次には、岩松了が運転し前進する車のバックミラーに写る、遠ざかる母の姿として繰り返される哀しみ。


    いきなりの主観ショットに驚かされ、それが息子大和田健介の視点だと気付いた後に父岩松から語られるランタン祭りの思い出。
    そして岩松の少年の頃の父の記憶。
    それらが後に迷走する母赤木の記憶の回廊へと繋がる。


    あのクライマックス、眼鏡橋のランタンのシークエンスなどはブレッソンの『白夜』に匹敵するショットではないか。映画のマジックが画面に表出した決定的な瞬間だ。肝心のクライマックスが尻すぼみだったタナダユキの『四十九日のレシピ』とは格が違う。

    ピカドンから嫌でもあの震災を連想させておいて、死者をそのまま死者として登場させる狡猾さ。黒沢清は『リアル』において、哲学的ゾンビという観念論のバケモノを登場させた。一方の本作は、あくまで唯物論的に死者に死者の肉体を与える。失ったものを取り戻す強さこそがここでは映画の魔力になる。ここにはサヨクの思想的嫌らしさも思想家の文学的あざとさも無い。
    ここには豊かさしかない。
    それが「喪失感」というキーワードが蔓延るこの国に、笑いというカウンターを打ち込む森崎東の誠実さなのだと思う。

    「喪失感」といえば岩松の身上もかなりのものだ。不在の妻・職も失い、それでもそこそこ人生を謳歌し、寄り添うでもなく離れるでもなくほどよい距離感で母と共に歩む。そもそも息子が母を実際に介護する場面などはなから撮る気がない、というのが潔い。
    さも介護というテーマを扱っているかのように観客を信じ込ませて、実は錯覚した観客をバカにしているハネケの『愛、アムール』の低俗さなどとは志の高さが違う。
    監督は真摯な眼差しでこう言うかもしれない。
    「ハゲだって毛根の喪失だw」

    広告
    コメントを書く
    コメントをするには、
    ログインして下さい。