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「SUPER ADVENTURES 67」(2013年6月2日、ビッグパレットふくしま)で配布したサークルペーパーです。
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さて、今回のFree Talkは「格差社会論とジェンダー」について、理念的側面を突き詰めていきたいと思います。
格差社会論とジェンダーについては、2000年代半ば頃からの、通俗的な「格差」問題言説が主に「男性」(弱者男性)の「不遇」を取り扱ってきたことがあったため、どうしても女性、ないし男女間という問題は置き去りにされがちでした。また赤木智弘の『若者を見殺しにする国』(双風舎、2007年)などにも見られるとおり、1980年代の消費社会がロスジェネ世代の「男性」にとっては屈辱であったという論調もあり、「非モテ」論もそこで現れたミソジニー(女性嫌悪)呼応して成長してきたという側面があるのでしょう(ただ、「非モテ」論的なミソジニーに対抗する形での、上野千鶴子とか水無田気流=田中理恵子的なミサンドリー(男性嫌悪)とかは別な問題を抱えているので別に検討する必要があるのですがここでは割愛します)。
そのため男性の格差論客においては、あからさまな女性蔑視を前提にしている議論もいくつか見られます。代表例は三浦展でしょう。三浦は若い女性の問題に関して、『女はなぜキャバクラ嬢になりたがるのか?』『下流社会 第3章』(いずれも光文社新書、前者は柳内圭雄との共著、それぞれ2011年、2012年)がありますが、特に後者においては若い女性の「オヤジ化」を問題視しており(ただし例によって根拠がいろいろと怪しい…)、格差社会論においてジェンダーという視点の希薄さはもっと採り上げられるべきだと思っております(ただ三浦に限定して言うと、三浦は他方で若い男性もバッシングしているので、単に「若者」が嫌いなだけなんじゃないかという線もありますけど…)。
さて今回採り上げたいのは、ツイッターで主に社会学クラスタでのフォロワーが多い、甲山太郎(@kabutoyama_taro)氏の言説です。氏の詳細なプロフィールは明らかになってはいないのですが(一応兵庫在住らしいです。ただ兵庫と言っても神戸も姫路も宝塚も豊岡も小野もあるのでどこに住んでいるのかわかりませんが)、氏は私の若者論批判に対して、後藤は「底辺」の現状がわかっていない、とたびたび言ってきます。最近もそのような発言があったのですが、それに関連する発言に、格差社会論におけるジェンダーのありかたというものを考える上で貴重なものがあるので、見ていきたいと思います。
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「後藤は底辺の酷さを知らない」というのは甲山氏の若者論批判批判の要諦になっているのですが、ここからは、そもそもの甲山氏の「底辺」観(てか甲山氏、そもそもそんなに簡単に「底辺」なんて言葉使っていいのかしら…)の問題点がこれらのツイートには現れています。例えば第1ツイートに出てくる「バイク」や、あるいは第2ツイートに出てくるような「ミニ四駆」などについては、少なくとも現状においては、それらの示すジェンダーはどちらかと言えば「男性」寄りです。比して、第4ツイートについては、「底辺の女の子」という話題になっています。
ここからわかることは、甲山氏の議論というのは、甲山氏が積極的に使っている「底辺」という言葉から想起される学力の問題ではなく、むしろジェンダーの問題ではないか、ということです。甲山氏は、ジェンダーにおける文化の違いについて、「男性」的なものについては工学的なものに繋がる一方で、甲山氏が若者論批判批判の根拠としている「底辺の女の子」については《メディアを通じて入ってきた通俗的な知識しか脳内に無い》というふうに断じている。
もちろん、甲山氏が前提としている「底辺の女の子」の文化というものがどのようなものであるか明示されていませんし、またそもそも「底辺の女の子」の劣化にしたって客観的な証拠があるわけではなく、あくまでも甲山氏の主観的な価値判断に依るところが大きいでしょう(そもそも「劣化」を問題視する言説そのものが多分に価値判断を含んでいます)。ただ理念的に見て問題なのは、甲山氏が「底辺の女の子」的な文化について一方的にそれが何にも繋がらないと断じていること、そしてそれを「男性」的なジェンダーないし文化と比較させて「劣化」の原因としていることです。ここで、甲山氏の「底辺」観が、学力ではなくジェンダーに依存していると言うことがわかるわけです。
そして甲山氏にとってすれば、このような「学力の問題を語っているように見えて実際にはジェンダーの問題を語っている」ことが、若者論批判批判ということで自らの言っていることの本質に気付かないでいるということです。甲山氏は私の批判(何度も的外れな言及をしてくるのでさすがに反論しなければなと思いました)に対して《新井氏が批判しているのは「一部を普遍化するというディフォルメ」ですね。それは「一部については妥当する」ことと何ら無矛盾ですよ。》(https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/338980181668671488)と反論しています。しかし甲山氏は、「一部については妥当する」ことをいいことに(社会的な議論なら、いくら酷い議論でもどこかで「一部については妥当する」でしょう)、客観的、科学的な視点を排除し、自らの「心証」(これは甲山氏がよく使う言葉です)を絶対視して、それを客観的に検討することを放擲しているとしか思えません。甲山氏の発言として、《若い子の地理的リテラシーの壊滅って、神戸の子が「中の島って聞いたこともない」、伊丹の子が「西宮なんて行ったことも…」とかそういうレベルだからね。このあたりを程度問題まで含めて正しく認識してないと伝わらん話もあるだろうな。》(https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/339316158425620480)というのがありますが、そういう「~~な若い子がいる」という話が一気に若年層全体の「劣化」に敷衍されて若年層が語られ、そして政策まで構築されてしまうのが現代の若者論の問題ではないのでしょうか。
また最近も《底辺大学だと、「センター試験ってあるやん?」「なんか聞いたことあります」ぐらいの勢いだからなあ。》(https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/339643642690035713)ということを言っていたりしており、何回か「底辺」について語るのですけど、自分の触れる範囲以外の「底辺」について、それこそ甲山氏が莫迦にしている若者論批判の知見に基づいて、客観的に判断すべきではないでしょうか。
甲山氏は、《強いて言えば、常識と言われているものこそイデオロギー、お前も俺もみんなイデオロギー、が社会学のディシップリンですね。》(https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/338960642549628928)と言い、そして《僕が書いていることの半分以上は「自分のイデオロギー」ですね。時々あえて脱規範/脱価値判断的な分析も書きますが、何せ両者は別次元の事柄です。》(https://twitter.com/kabutoyama_taro/statuses/338962467289960448)と書いています。しかし、このような「なんでもイデオロギー」という考え方は、その「イデオロギー」とやらが成立する社会的、歴史的、経済的な背景への視座を失わせるのではないでしょうか。そしてそれこそ科学としての社会学の本義にもとるものではないか。
そしてそのような無批判で垂れ流された「イデオロギー」は、甲山氏が日常的に接している(はずの)「底辺の女の子」への視線を歪め、さらにスティグマ化を進行しないのか。「一部で妥当する」ことにこだわって自らの問題点を直視しないことの問題がここにはあるのです。
奥付
後藤和智の雑記帳 SUPER ADVENTURES 67出張版
著者:後藤 和智(Goto, Kazutomo)
発行者:後藤和智事務所OffLine
発行日:2013年6月2日
配信日:2013年6月12日
連絡先:kgoto1984@nifty.com
チャンネルURL:http://ch.nicovideo.jp/channel/kazugoto
著者ウェブサイト:http://www45.atwiki.jp/kazugoto/
Twitter:@kazugoto
Facebook…
個人:http://www.facebook.com/kazutomo.goto.5
サークル:http://www.facebook.com/kazugotooffice
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さて、今回のFree Talkは「格差社会論とジェンダー」について、理念的側面を突き詰めていきたいと思います。
格差社会論とジェンダーについては、2000年代半ば頃からの、通俗的な「格差」問題言説が主に「男性」(弱者男性)の「不遇」を取り扱ってきたことがあったため、どうしても女性、ないし男女間という問題は置き去りにされがちでした。また赤木智弘の『若者を見殺しにする国』(双風舎、2007年)などにも見られるとおり、1980年代の消費社会がロスジェネ世代の「男性」にとっては屈辱であったという論調もあり、「非モテ」論もそこで現れたミソジニー(女性嫌悪)呼応して成長してきたという側面があるのでしょう(ただ、「非モテ」論的なミソジニーに対抗する形での、上野千鶴子とか水無田気流=田中理恵子的なミサンドリー(男性嫌悪)とかは別な問題を抱えているので別に検討する必要があるのですがここでは割愛します)。
そのため男性の格差論客においては、あからさまな女性蔑視を前提にしている議論もいくつか見られます。代表例は三浦展でしょう。三浦は若い女性の問題に関して、『女はなぜキャバクラ嬢になりたがるのか?』『下流社会 第3章』(いずれも光文社新書、前者は柳内圭雄との共著、それぞれ2011年、2012年)がありますが、特に後者においては若い女性の「オヤジ化」を問題視しており(ただし例によって根拠がいろいろと怪しい…)、格差社会論においてジェンダーという視点の希薄さはもっと採り上げられるべきだと思っております(ただ三浦に限定して言うと、三浦は他方で若い男性もバッシングしているので、単に「若者」が嫌いなだけなんじゃないかという線もありますけど…)。
さて今回採り上げたいのは、ツイッターで主に社会学クラスタでのフォロワーが多い、甲山太郎(@kabutoyama_taro)氏の言説です。氏の詳細なプロフィールは明らかになってはいないのですが(一応兵庫在住らしいです。ただ兵庫と言っても神戸も姫路も宝塚も豊岡も小野もあるのでどこに住んでいるのかわかりませんが)、氏は私の若者論批判に対して、後藤は「底辺」の現状がわかっていない、とたびたび言ってきます。最近もそのような発言があったのですが、それに関連する発言に、格差社会論におけるジェンダーのありかたというものを考える上で貴重なものがあるので、見ていきたいと思います。
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セルフゆとり教育といえば、必ずしも学力に結びつかなくとも、何か趣味的なものを一生懸命にやった子はやはり「使い物になる」蓋然性が高いと思う。勉強は苦手だがバイクを弄るのは得意なんて古典的非優等生はそうだろう。むしろ昨今の問題は、そういう子さえ希少種になってきたことだと思う。―――――
https://twitter.com/kabutoyama_taro/statuses/338878284311977984
学校の物理の点は悪くても、「ミニ四駆のディファレンシャルは〜」とか「キャブレターのジェットの番手は〜」なんて話ができる子は、それだけでもすでに機械工学に関しちゃ結構なレベルに到達しているわけで。
https://twitter.com/kabutoyama_taro/statuses/338879191288279042
そういう意味じゃ、金沢工業大学みたいな学校は、仮に偏差値は低くても「教育」はずいぶんとやりやすいだろうと思う。対して文系の底辺大学は本当にとりつく島が少ない。
https://twitter.com/kabutoyama_taro/statuses/338879675235438592
2000年代に入って底辺の女の子の劣化が酷いというのも、この話と無関係ではないと思う。メディアを通じて入ってきた通俗的な知識しか脳内に無いから。それを取り除いたら何も残らん。
https://twitter.com/kabutoyama_taro/statuses/338881396053520384
「後藤は底辺の酷さを知らない」というのは甲山氏の若者論批判批判の要諦になっているのですが、ここからは、そもそもの甲山氏の「底辺」観(てか甲山氏、そもそもそんなに簡単に「底辺」なんて言葉使っていいのかしら…)の問題点がこれらのツイートには現れています。例えば第1ツイートに出てくる「バイク」や、あるいは第2ツイートに出てくるような「ミニ四駆」などについては、少なくとも現状においては、それらの示すジェンダーはどちらかと言えば「男性」寄りです。比して、第4ツイートについては、「底辺の女の子」という話題になっています。
ここからわかることは、甲山氏の議論というのは、甲山氏が積極的に使っている「底辺」という言葉から想起される学力の問題ではなく、むしろジェンダーの問題ではないか、ということです。甲山氏は、ジェンダーにおける文化の違いについて、「男性」的なものについては工学的なものに繋がる一方で、甲山氏が若者論批判批判の根拠としている「底辺の女の子」については《メディアを通じて入ってきた通俗的な知識しか脳内に無い》というふうに断じている。
もちろん、甲山氏が前提としている「底辺の女の子」の文化というものがどのようなものであるか明示されていませんし、またそもそも「底辺の女の子」の劣化にしたって客観的な証拠があるわけではなく、あくまでも甲山氏の主観的な価値判断に依るところが大きいでしょう(そもそも「劣化」を問題視する言説そのものが多分に価値判断を含んでいます)。ただ理念的に見て問題なのは、甲山氏が「底辺の女の子」的な文化について一方的にそれが何にも繋がらないと断じていること、そしてそれを「男性」的なジェンダーないし文化と比較させて「劣化」の原因としていることです。ここで、甲山氏の「底辺」観が、学力ではなくジェンダーに依存していると言うことがわかるわけです。
そして甲山氏にとってすれば、このような「学力の問題を語っているように見えて実際にはジェンダーの問題を語っている」ことが、若者論批判批判ということで自らの言っていることの本質に気付かないでいるということです。甲山氏は私の批判(何度も的外れな言及をしてくるのでさすがに反論しなければなと思いました)に対して《新井氏が批判しているのは「一部を普遍化するというディフォルメ」ですね。それは「一部については妥当する」ことと何ら無矛盾ですよ。》(https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/338980181668671488)と反論しています。しかし甲山氏は、「一部については妥当する」ことをいいことに(社会的な議論なら、いくら酷い議論でもどこかで「一部については妥当する」でしょう)、客観的、科学的な視点を排除し、自らの「心証」(これは甲山氏がよく使う言葉です)を絶対視して、それを客観的に検討することを放擲しているとしか思えません。甲山氏の発言として、《若い子の地理的リテラシーの壊滅って、神戸の子が「中の島って聞いたこともない」、伊丹の子が「西宮なんて行ったことも…」とかそういうレベルだからね。このあたりを程度問題まで含めて正しく認識してないと伝わらん話もあるだろうな。》(https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/339316158425620480)というのがありますが、そういう「~~な若い子がいる」という話が一気に若年層全体の「劣化」に敷衍されて若年層が語られ、そして政策まで構築されてしまうのが現代の若者論の問題ではないのでしょうか。
また最近も《底辺大学だと、「センター試験ってあるやん?」「なんか聞いたことあります」ぐらいの勢いだからなあ。》(https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/339643642690035713)ということを言っていたりしており、何回か「底辺」について語るのですけど、自分の触れる範囲以外の「底辺」について、それこそ甲山氏が莫迦にしている若者論批判の知見に基づいて、客観的に判断すべきではないでしょうか。
甲山氏は、《強いて言えば、常識と言われているものこそイデオロギー、お前も俺もみんなイデオロギー、が社会学のディシップリンですね。》(https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/338960642549628928)と言い、そして《僕が書いていることの半分以上は「自分のイデオロギー」ですね。時々あえて脱規範/脱価値判断的な分析も書きますが、何せ両者は別次元の事柄です。》(https://twitter.com/kabutoyama_taro/statuses/338962467289960448)と書いています。しかし、このような「なんでもイデオロギー」という考え方は、その「イデオロギー」とやらが成立する社会的、歴史的、経済的な背景への視座を失わせるのではないでしょうか。そしてそれこそ科学としての社会学の本義にもとるものではないか。
そしてそのような無批判で垂れ流された「イデオロギー」は、甲山氏が日常的に接している(はずの)「底辺の女の子」への視線を歪め、さらにスティグマ化を進行しないのか。「一部で妥当する」ことにこだわって自らの問題点を直視しないことの問題がここにはあるのです。
奥付
後藤和智の雑記帳 SUPER ADVENTURES 67出張版
著者:後藤 和智(Goto, Kazutomo)
発行者:後藤和智事務所OffLine
発行日:2013年6月2日
配信日:2013年6月12日
連絡先:kgoto1984@nifty.com
チャンネルURL:http://ch.nicovideo.jp/channel/kazugoto
著者ウェブサイト:http://www45.atwiki.jp/kazugoto/
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