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仏教哲学には「無常」という概念があるが、ボウイほど音楽の世界で無常を体現した人はいないのかもしれない。これほどまでに「通常」という概念の無い音楽家・パフォーマーなんてそうそういないからだ。
ボウイは変容を恐れなかった。彼の前ではあらゆるジャンルの音楽は平等に「音楽」でしかなく、そのすべてを彼は愛した。だから「ボウイの音楽性」と言われた時、多くの人は言葉に困ることになる。ある意味音楽性が無いこと、それこそがボウイの音楽性だと言える。「ジギー・スターダスト」で見せた異星人の姿も、「レッツ・ダンス」で見せた紳士の姿も、その他どれもすべてボウイである事に変わりはない。
パフォーマーの世界には「キャラと作品」という悩ましい2つの要素が存在する。キャラが確立し、多くに認知されれば人気は出るし作品も売れるが、その作品はキャラクターと密接に関係しており、ひとたびキャラクターから遠い作品を出せば一部のファンは「らしくない」と言ったりもする。中には「劣化」という概念で否定する人もいる。皮肉な話だが、一歩も変化・進化せずに「停滞」させた方がファンが喜び、過去の再生産をよしとせず新たなものを作った時の方が退化だと言われてしまう時がある。それが創作の世界というものだ。
この作り手と受け手の意識の格差問題は常にパフォーマー、アーティストを悩ませている。そもそも創作意欲の強いのがアーティストだというのに、時としてファンは「俺が好きな”あの頃”を再生産し続けろ」とアーティストに求めるのだ。作家にコピペしかないまとめサイトを作らせるようなものだ。そらソロ活動なり活動休止なりするってもんだ。
だが変容することが常態化し、それをファンも受け入れてしまえば、ここに幸せな関係性が生まれる事になる。作り手は作りたいものを創作意欲に従って作り続け、そしてそれを受け手は受容する。実に理想的な世界である。
だからこそ、音楽に限らず多くの創作家たちはボウイに敬意を抱くのだ。妥協せずにすべてを表現し、そして時として商業的世界のオーダーにも応える。そんな創作家は実に数少ないはずなのだ。
こうしてロックを中心とした広大な宇宙を創りだしたデビッド・ボウイは69歳で地球化から去っていった。
日本語的ゴロ合わせでしかないが、ロックミュージシャンが69(ロック)な歳に亡くなるなんて、できすぎだ。
ボウイは変容を恐れなかった。彼の前ではあらゆるジャンルの音楽は平等に「音楽」でしかなく、そのすべてを彼は愛した。だから「ボウイの音楽性」と言われた時、多くの人は言葉に困ることになる。ある意味音楽性が無いこと、それこそがボウイの音楽性だと言える。「ジギー・スターダスト」で見せた異星人の姿も、「レッツ・ダンス」で見せた紳士の姿も、その他どれもすべてボウイである事に変わりはない。
パフォーマーの世界には「キャラと作品」という悩ましい2つの要素が存在する。キャラが確立し、多くに認知されれば人気は出るし作品も売れるが、その作品はキャラクターと密接に関係しており、ひとたびキャラクターから遠い作品を出せば一部のファンは「らしくない」と言ったりもする。中には「劣化」という概念で否定する人もいる。皮肉な話だが、一歩も変化・進化せずに「停滞」させた方がファンが喜び、過去の再生産をよしとせず新たなものを作った時の方が退化だと言われてしまう時がある。それが創作の世界というものだ。
この作り手と受け手の意識の格差問題は常にパフォーマー、アーティストを悩ませている。そもそも創作意欲の強いのがアーティストだというのに、時としてファンは「俺が好きな”あの頃”を再生産し続けろ」とアーティストに求めるのだ。作家にコピペしかないまとめサイトを作らせるようなものだ。そらソロ活動なり活動休止なりするってもんだ。
だが変容することが常態化し、それをファンも受け入れてしまえば、ここに幸せな関係性が生まれる事になる。作り手は作りたいものを創作意欲に従って作り続け、そしてそれを受け手は受容する。実に理想的な世界である。
だからこそ、音楽に限らず多くの創作家たちはボウイに敬意を抱くのだ。妥協せずにすべてを表現し、そして時として商業的世界のオーダーにも応える。そんな創作家は実に数少ないはずなのだ。
こうしてロックを中心とした広大な宇宙を創りだしたデビッド・ボウイは69歳で地球化から去っていった。
日本語的ゴロ合わせでしかないが、ロックミュージシャンが69(ロック)な歳に亡くなるなんて、できすぎだ。
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